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66-1.我国に鉄器が出現したのはいつか? [66.弥生時代に製鉄はなされたか?]

私は歴史好きの仲間と年2回ほど日本全国の遺跡を巡る旅を行っている。昨年の暮れは、琵琶湖周辺の遺跡を巡る旅であったが、この旅を通じて琵琶湖周辺には製鉄遺跡が多いことを始めて知った。旅の企画をしてくれた友人の計らいで、立命館大学びわこ・くさつキヤンパスの陸上競技場の地下にある、木爪原遺跡という7~8世紀の製鉄遺跡も見学することが出来た。友人の説明では、近江は鉄鉱石が産出するため、マキノ・瀬田を中心として約60ヶ所の製鉄遺跡が在り、7世紀~8世紀における近畿地方最大の鉄生産国であったそうだ。ただ、鉱石から製鉄した鉄は脆く、砂鉄から製鉄した強靭な鉄に比較して品位が劣るため、9世紀になると砂鉄製鉄に押されて急激に衰退していったそうだ。私は学生時代に金属学を学び、長年金属に関わる仕事に従事して来たこともあって、我国の製鉄の歴史に興味を覚えた。

 

2003年5月、国立歴史民俗博物館(歴博)は日用土器に付着した”おこげ“のAMS法による炭素14年代測定を行い、日用土器の編年と照らし合わせて、弥生時代の前期の始まりは従来よりも500年遡った紀元前800年頃に、中期の始まりは200年遡った紀元前400年頃になると発表した。弥生時代開始年代が500年遡ることの衝撃はあまりにも大きく、この年代感は多くの考古学者から“あまりにも古すぎる”と受け入れられなかった。その反対意見が集中したのが鉄器の問題であった。

 

我国における鉄器の出現は、弥生早期とされる福岡県糸島市の曲り田遺跡から鉄斧が、また弥生時代初頭の熊本県玉名市の斉藤山遺跡からも鉄斧が、そして弥生前期初めの福岡県津福市の今川遺跡から鉄鏃が発見され、弥生時代の当初から鉄器が存在したと考えられていた。弥生時代の始まりが紀元前300年頃と考えられていた時代、考古学者はそれを納得していた。弥生時代が紀元前800年から始まるとすると、鉄器も紀元前800年頃に我国に存在していたことになる。中国での鉄の生産は春秋末から戦国早期、紀元前6・5世紀の頃と見られており、紀元前800年頃に我国に鉄器が存在することは有り得ない話しである。弥生開始年代は紀元前800年頃との説を主張する歴博の春成秀爾氏は、弥生早期・前期に出土したとされる鉄器の出土状況を詳細に検討し、これらの鉄器が弥生早期・前期のものである確証はないと反論している。「我国に鉄器が出現したのはいつか?」、この論議が火花を散らしている。

 

Z263.鋳造鉄斧.png春成氏は「弥生時代と鉄器」の中で、我国に始めてもたらされた鉄器は袋部に二条突帯をもつ鋳造鉄斧であるとし、これらが出土した8遺跡を取り上げ、その上限年代は中期初めとしている(前期後半・前期末は採用していない)。そして、弥生中期初め~中頃つまり戦国中期後半~後期に、主として鋳造鉄斧の破片が我国に入ってきて、弥生中期中頃つまり戦国後期頃に完全品が入ってきたという、鋳造鉄斧流入の二つの段階を設定することが出来るとしている。

   1.中伏遺跡   福岡県北九州市 中期初め
 2.比恵遺跡   福岡県福岡市  中期後半
  3.上の原遺跡  福岡県朝倉町  中期中頃
  4.下稗田遺跡  福岡県行橋市  前期後半~中期中頃
  5.庄原遺跡   福岡県添田町  中期中頃
 Z264.鋳造轍鮒の分布.png 6.大久保遺跡  愛媛県小松町  前期末~中期前葉
  7.西川津遺跡  鳥取県松江市  中期
  8.青谷上寺地遺跡 鳥取県鳥取市 中期中頃~古墳初め


二条突帯鋳造鉄斧は春秋戦国時代に中国東北部の燕国の地域で製作されたものであると考えられている。朝鮮半島から出土する鋳造鉄斧は二条突帯が無いタイプがほとんどであることから、我国の二条突帯鋳造鉄斧の起源は中国東北部の燕国の領域に求められている。Z264のは戦国時代に燕国で流通した明刀銭、は二条突帯鋳造鉄斧である。

 

広島大学の野島永氏の「研究史からみた弥生時代の鉄器文化」によれば、鉄器出現期の遺跡として、扇谷遺跡(京都府丹後市)・中山遺跡(広島県広島市)・大久保遺跡(愛媛県小松町)・綾羅木郷遺跡(山口県下関市)・山の神遺跡(山口県下関市)・下稗田遺跡(福岡県行橋市)・一ノ口遺跡(福岡県小郡市)の七つの遺跡を挙げ、最古段階の舶載鉄器(鋳造鉄斧)は前期末葉頃に出現した可能性が高い。中期前葉には戦国時代後期、中国東北地方を故地とする定型化した二条突帯斧が舶載鋳造鉄器の代表格となる。すでにこの段階の鉄器の多くが二条突帯斧などの鋳造鉄器の破片を再加工したものであるとしている。

 

私は博物館を見学すると、その博物館の年代観を知るために、必ず年表を見ることにしている。最近、弥生時代の開始を紀元前800年頃とする博物館が多くなった感じがする。その新しい年代観に従えば、我国に鉄器が出現したのは、弥生前期末葉あるいは中期の初め頃に、中国の東北部にある燕国から二条突帯鋳造鉄斧、あるいはその再加工された破片が持ち込まれたことに始まると言える。弥生時代の年代観が変わる中で、鉄の歴史も大きく変わろうとしている。


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66-2.我国の鉄器の初現は紀元前4世紀後半 [66.弥生時代に製鉄はなされたか?]

北部九州の弥生中期の甕棺墓からは、鏡・青銅器・鉄・ガラスなどの遺物が出土する。甕棺の型式別編年はなされており、その相対編年は信頼がおけるが、絶対年代(暦年:西暦)はあまり信頼が置けない。甕棺と日用土器の接点は少なく、炭素14年代測定による日用土器の編年もすんなりとはあてはまらない。私は、歴博の炭素14年代による日用土器の編年と甕棺の編年をマッチングさせることを試みた(Z265)。

 

Z265-Z267.甕棺編年.png

九州大学では型式が明確な甕棺から出土した人骨の炭素14年代測定を行っている(Z266)。歴博が調べた日本産樹木の年輪年代(較正年代:西暦)と炭素14年代のグラフを、私が定めた甕棺型式の編年で区分し、人骨の炭素14年代値をその甕棺型式の範囲の中で当てはめてみた(Z267)。6個の測定置が全て、日本産樹木の炭素14年代値と合致するところにプロット出来た。このことは、甕棺の編年が合っている証であるといえる。そして、弥生時代中期の始まりを紀元前375年と定めることが出来た。甕棺の型式の年代を明確にすることで、北部九州の弥生中期・後期の墳墓に副葬された遺物の出現期・消滅期の暦年が明確にすることが出来た(図Z268)。

 

Z268.弥生中期後期の遺物.png

我国の初期の鉄器(鋳造鉄斧)の多くは、竪穴式住居に近隣する袋状土坑(貯蔵穴)から見つかる場合が多く、甕棺墓・木棺墓などの墓から出土することは無い。北部九州で城ノ越式土器(前350~300年)と鋳造鉄斧が共伴したのは、北九州市の中伏遺跡、新吉富村の中桑野遺跡、小郡市の北松尾口遺跡、朝倉市の上ノ原遺跡などであり、須玖Ⅰ式土器(前300年~200年)との共伴は、北九州市の馬場山遺跡、小郡市の一ノ口遺跡・若山遺跡・中尾遺跡・大板井遺跡、朝倉市の東小田遺跡などである。城ノ越式土器・須玖Ⅰ式土器の時代は、細形青銅武器(剣・矛・戈)と多鈕細文鏡が甕棺墓に副葬される時代である。韓国で鋳造鉄斧が出現するのは、多鈕粗文鏡が多鈕細文鏡に変わった直後で、合松里遺跡(忠清南道扶余郡)・素素里遺跡(忠清南道唐津郡)の木棺墓から細形銅剣・多鈕細文鏡と鋳造鉄斧が共伴して出土している。韓国と我国の鋳造鉄斧の形状は異なるが、出現する年代はほぼ同じであると考えられる。

 

多くの鉄器の分析を手がけられた大澤正巳氏は、城ノ越式土器と共伴した北九州市の中伏遺跡の二条突帯鋳造鉄斧の破片を分析され、白鋳鉄の表面が脱炭処理された白心加鍛鋳鉄と判定されている。愛媛大学の村上恭通氏は、『東アジア青銅器の系譜』の「東アジアにおける鉄器の起源」の中で、「燕国では戦国時代前期から鋳造鉄器が存在した。前期は硬くて脆い白鋳鉄のみ、後期になってねずみ鋳鉄・可鍛鋳鉄など利器に適した鋳鉄が増加する。しかも、後期には鋳鉄を脱炭する技術も確立されており、強靭な刃物の鍛造が可能となっている。」と述べておられる。中国の戦国時代は、紀元前403年に晋が韓・魏・趙の3つの国に分かれてから、紀元前221年に秦による中国統一がなされるまでとされている。私の編年では城ノ越式土器は350年~300年で戦国時代前期後半である、村上氏の見解に従えば、その時期燕国では脱炭の技術は確立していない。

 

『春秋時代 燕国の考古学』を著した石川岳彦氏は、小林青樹氏との共同で「春秋戦国期の燕国における初期鉄器と東方への拡散」を発表し、燕国では遅くとも紀元前5世紀前半から鉄斧などの日用利器が出現しており、朝鮮半島における鉄器の出現は紀元前5世紀後半であるとしている。従来、燕国での鉄器の出現は戦国時代の初め、紀元前400年頃と考えられていたものが、100年遡り春秋時代、紀元前500年頃と考えられるようになった。こう考えると、燕国で脱炭の技術が確立したのも100年遡り、戦国時代の初めの紀元前400年頃と考えることが出来る。弥生中期の初めの城ノ越式土器(前350~300年)と共伴した鋳造鉄器に脱炭処理がされていても齟齬はない。

 

これらを総合して考えると、我国に燕国の鉄器(鋳造鉄斧)が流入したのは、弥生中期前葉、紀元前4世紀後半(前350年~300年)、戦国時代前期後半と考える。弥生中期になって朝鮮半島から入ってきた細形青銅武器や多鈕細文鏡は威信財として墓に副葬されたが、鋳造鉄斧は墓に埋葬されることがなかった。細形青銅武器や多鈕細文鏡は王や首長の手に渡り、鋳造鉄斧は庶民の手に渡ったことを示している。

 


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66-3.王は楽浪より鉄製武器を手に入れた [66.弥生時代に製鉄はなされたか?]

鋳造鉄斧は甕棺から出土することがなかったが、鉄製の武器(剣・矛・戈)は中期後半の甕棺から出土している。最も早いのが福岡市の吉武樋渡遺跡で61号甕棺のKⅢa(前200~前100)から剣1が、次が飯塚市の立岩遺跡で35号のKⅢb(前100~前50)から剣1・戈1である。それに続くKⅢc(前50~前1)の時代には11遺跡の20基の甕棺から、素環頭大刀2、刀1、剣11、矛3、戈7、刀子1、鉇(ヤリガンナ)3が出土している。もちろん後期の甕棺からも鉄製武器が出土している。『漢書 地理志』には、「楽浪海中倭人有り、分かれて百余国と為す。歳時を以て来り献じ見ゆ」とある。甕棺墓・木棺墓などの墓に副葬された鉄製武器は、倭国の王や首長が紀元前108年に設置された楽浪郡から鏡と一緒に手に入れたものであろう。鉄製武器が倭国に入ってきたのは、弥生中期後葉(前125~1年)以降からである。

 

Z268.弥生中期後期の遺物.png

広島大学の川越哲志氏は「弥生時代鉄器の研究」と題し、平成9年度までに刊行された発掘報告書から弥生時代鉄器資料を抽出して、1998年にその研究成果を報告している。なお、本研究は歴博がAMS法による炭素14年代測定法により、弥生時代の開始を500年遡った紀元前800年頃と発表した以前にまとめられたものであり、その後の広島大学の野島永氏の見解などを基に修正(黄色)している。

  1. 弥生時代の鉄器出土遺跡は、1800遺跡、鉄器数は約8000点以上になり、研究代表者が1970年に集成した201遺跡、542点にくらべると、大幅な増加である。

  2. とくに、3世紀(後期後半、終末期)の鉄器資料が多く、この時期に全国的に鉄器化が進展したといえる。

  3. 出土分布は北部九州が最多で、東にいくほど希薄になり、国内の鉄器やその技術の伝播が北部九州を基点に東方へ拡大したことが明らかである。

  4. 北部九州は弥生時代の開始時期(中期初頭)から鉄器が導入され、中国・四国・近畿地方は中期後葉、中部・関東以北は後期中葉に導入されるが、本州北端までは及ばなかった。

  5. 弥生時代の鉄器の大部分は鍛造品であるが、西日本では中期から中国戦国時代の燕、斉の系譜を引く舶載鋳造鉄器や、その一部分を加工した国産鉄工具があり、鋳造品は関東まで伝えられた。

  6. 生産用具の鉄器化は工具から始まり、農具の鉄器化は遅れて進行した。

  7. 鉄器化の段階には地域性があり、後期になると各地で鉄器の形態、種類、組成に地域性が生じた。

  8. 鉄製武器は中国前漢の馬弩関(馬・武器が関所外に出ることの禁止)の制約から解放された舶載品が中期後葉に北部九州に出現したが、国産の大型鉄剣、鉄刀は後期後半〜終末期に日本海沿岸部に多く、後期後半には関東でも国産小型武器が生産された。

 

我国に燕国から鋳造鉄斧が伝わったのは、弥生中期前葉の紀元前350年頃であり、その鋳造鉄斧は庶民の手に渡っている。王が洛陽から鏡と一緒に鉄製武器を手に入れたのは弥生中期後葉の紀元前100年頃である。我国で製鉄(製錬)が行われるようになったのは、古墳時代後期後半の550年頃であるというのが定説で、鉄の存在を知ってから鉄を産み出すまでに900年かかり、王が鉄器の有用性を知ってからでも、650年もかかったことになる。「弥生時代に製鉄はなされたか?」この議論も火花を散らしている。


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66-4.弥生後期後半、弁辰の鉄が輸入されていた [66.弥生時代に製鉄はなされたか?]

Z-67.3世紀末朝鮮半島.png『魏志東夷伝』弁辰条には、「国には鉄が出て、韓、濊、倭がみな、従ってこれを取っている。諸の市買ではみな、中国が銭を用いるように、鉄を用いる。また、二郡にも供給している。」とある。二郡とは楽浪・帯方のことで、帯方郡が設置されたのは204年であり、弥生時代後期後葉にあたる。図Z67に示すように、私は弁辰の地は洛東江の上流、慶尚北道の地であると解釈している。『魏志東夷伝』には「辰韓には秦の役を避けて韓国に亡命してきた人々が住んでいる。」としており、中国から亡命してきた人々が製鉄技術を伝え、洛東江の上流、慶尚北道の地で3世紀に製鉄が行われていたと推察する。

 

「65-2.国宝七支刀の鉄素材の故郷」で示したように、372年、百済の肖古王は応神天皇に七枝刀を奉り「わが国の西に河があり、水源は谷那の鉄山から出ています。その遠いことは七日間行っても行きつきません。まさにこの河の水を飲み、この山の鉄を採り、ひたすらに聖朝に奉ります」と口上している。この「谷那の鉄山」が漢江上流にある月岳山付近で、その北側にある韓国忠清北道忠州市にある弾琴台土城から4世紀の鉄製錬炉11基と鉄鋌40枚が出土している。弁辰の地は月岳山の南側である。月岳山一帯の地層は花崗岩であり、その北側で鉄鉱石が採れたならば、南側でも鉄鉱石の鉱床が存在しただろうと想像する。

 

『魏志東夷伝』弁辰条の「二郡にも供給している」とは、鉄の地金であったと思われる。辰韓(慶尚北道)や弁韓(慶尚南道)を中心に出土している斧状鉄板(板状鉄製品)が、3世紀に弁辰で造られた鉄の地金であると考える。なお、この斧状鉄板は4世紀中葉ごろの百済・新羅・伽耶の墳墓や日本の古墳から出土する鉄鋌とは似て非なるものである。大澤正巳氏の「金属組織学からみた日本列島と朝鮮半島の鉄」によれば福岡の西新町遺跡、熊本県の二子塚遺跡、島根の上野Ⅱ遺跡・板屋Ⅲ遺跡、鳥取の妻木晩田遺跡、徳島の矢野遺跡、埼玉の向山遺跡などの弥生後期の遺跡から錬鉄の板状鉄製品が出土している。この板状鉄製品は弁辰の鉄で、弥生後期後半に輸入されたものと考えられる。

 

弁辰の地(洛東江の上流)で行われた製鉄は、直接製錬で錬鉄が造られたと考えるが、残念なことに製鉄遺跡は出土していない。直接製錬とは低温(1150℃前後)で錬鉄(炭素量0.3%以下)を直接取り出す、最も原始的な製錬方法である。鉄の収率が悪いので鉄の含有率の高い鉱石・砂鉄に用いられる。我国では、この錬鉄の斧状鉄板(板状鉄製品)を輸入して、900~800℃に加熱し、鍛造して武器・利器・工具を製作したのであろう。3世紀(弥生後期後葉)に全国的に鍛造品の鉄器化が進展したのは、弁辰の錬鉄を使用して鍛冶(鍛造鍛冶)が行われたと考える。ただ輸入ばかりに頼らずに、我国で製鉄(製錬)が行われていたのではないかと疑問が残る。


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66-5.我国の鉄製錬はいつ行われたか? [66.弥生時代に製鉄はなされたか?]

我国で製鉄が行われるようになったのは、古墳時代後期後半、6世紀の半ばからで、広島県東部から岡山県にまたがる古代の吉備地方であるというのが現在の定説である。現在、最古の製鉄遺跡と目されているのは、岡山県総社市のカナクロ谷遺跡、岡山県津山市の大蔵池南遺跡、広島県三次市の白ヶ迫遺跡、島根県邑南町の今佐屋山遺跡で、出土した須惠器から6世紀後半と見られている。当初の製鉄原料は朝鮮半島と同様に磁鉄鉱であったが、やがて砂鉄が使われるようになった。いわゆる「たたら製鉄」の始まりである。砂鉄は日本の各地で産出するために、製鉄が日本の各地で行われるようになった。

 

Z269.たたら製鉄炉.png我国の製鉄は19世紀半ばに高炉による製鉄技術が導入されるまで「たたら製鉄」であった。出雲の砂鉄による「たたら製鉄」は有名である。たたら製鉄では箱型の炉を使い、木炭と砂鉄を交互に投入し、炉の下部の羽口にフイゴ(蹈鞴:たたら)から送風する。炉の上部では砂鉄に含まれる酸化鉄が還元され鉄となり、炉の下部では砂鉄に含まれる酸化鉄と他の酸化物(SiO2Al2O3CaOMgOTiO2)が反応して溶融しノロ(Slag)となる。ノロには酸化鉄が多く含まれるので、鉄滓(金糞)と呼ばれている。還元された鉄は木炭と反応して炭素を吸収し鋼や鋳鉄の鉄塊となる。ノロは炉底から流れ出され、半溶融の鉄塊が炉を壊して取り出される。

 

鉄の含有率が高く酸化チタンが少ない砂鉄(真砂)の場合は、「鉧(けら)押し」と呼ばれる直接製錬法(1150℃前後)で鉧を造る。鉧は「精錬鍛冶」で鍛造されて不純物が取り除かれ錬鉄や鋼(玉鋼)となる。玉鋼からは日本刀が造られた。鉄の含有率が低く酸化チタンが多い砂鉄(赤目)の場合は、「銑(ずく)押し」と呼ばれる間接製錬法(1300℃前後)で銑(銑鉄)を造る。銑は炭素量4.3%で溶融温度が1135℃と低く鋳造され白鋳鉄となる。また、銑は「精錬鍛冶」で溶解処理されて炭素量を下げ可鍛鋳鉄・鋼・錬鉄の地金を造る。

 

弥生時代に鉄製錬が成されたという考えに対して、考古学者は否定的である。それは弥生時代の鉄製錬遺跡が発見されていないことは勿論のことであるが、それ以上に、鉄の製錬には高度の技術が必要であるとか、鉄の製錬には須恵器を焼成するくらいの高温が必要で、須恵器の生産が開始される古墳中期以前には困難であるとの考えが強いように思われる。もっと原始的な方法で、鉄鉱石から鉄を取り出すことが出来たと思うのだが。


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66-6.“目から鱗”、アフリカの鉄製錬 [66.弥生時代に製鉄はなされたか?]

Z270.アフリカの鉄製錬.pngヨーロッパで鉄の歴史を研究されている学者は、アフリカの原住民の製鉄に興味を持っている。それは、原始的な製鉄方法が垣間見られるからであろう。You Tubeの「Smelting Iron in Africa」の映像がある。この映像は西アフリカのBurkinaで撮られたものであるが、この地方には紀元前にNok Cultureが栄え、製鉄(製錬)が行われていたそうだ。この映像を見ると、目から鱗、弥生人の知恵と工夫があれば、鉄の製錬は可能であったと推察できる。

 

製鉄の始まりは木炭作りから始まる。炭窯が無くとも簡単に木炭を作っている。初めに木を燃やし、周りから砂をかけて行き(1)、最終的には砂で覆ってしまうと(2)、火が消え蒸し焼きにされて木炭が出来上がる(3)

 

Z271-1.木炭造り.png

鉄鉱石の採集は手堀りで行っている(4)Burkinaの地方は磁鉄鉱(マグネタイト)と赤鉄鉱(ヘマタイト)の鉄鉱石が取れるが、デモには鉄含有量が43%から65%の磁鉄鉱が使われた。鉱石は目視で品位の高いのを撰び、大きさがこぶし大の半分くらいに揃えている(5)。次に採取したのがオークストーン(重晶石:BaSo4(6),スラグの流れを良くするフラックスと説明している。現在の製鉄で石灰石(CaCo3)を入れるのと同じ目的であろう。

 

Z271-2.鉱石の採取.png

炉を造る材料として粘土を採取し(7)、水を加えてスサ(8)を練りこむ。スサは木の葉(青い人の後ろにある)を利用している。炉の芯はヨシのような枝分かれしていな草の茎の下部の部分を、細い上部の部分で包んで作る(9)。下が大きく、上が小さい炉の形となる。

 

271-3.炉材作り.png

炉の芯を立て表面に粘土を貼り付けて行く(10)。1m程度の高さまで貼り付けたら表面をなで(11)、スサを貼り付け(12)、そして粘土をもう一層貼り付ける。炉の強度を確保するためにはスサが重要である。

 

271-4.炉体作り.png

粘土が乾燥し強度が出てきたら炉芯に使っていた茎を抜き(13)、下部に炉口を切る(14)。炉芯に使っていた茎などを燃やし、炉を乾燥させる。これで炉本体(15)の完成である。

 

271-5.炉口の製作.png

丸棒にスサ入りの粘土を巻き付け、羽口(16)・送風管(17)・フイゴ本体(18)を作る。

 

271-6.送風部品製作.png

炉に羽口・送風管・フイゴ本体を取り付け(19,20)、フイゴに革を張る(21)

 

Z271-7.送風機構の取付.png

炉に木炭を満杯に詰め、炉口より着火する(22)。木炭に火が付いたら羽口と炉口の隙間を粘土でふさぐ。木炭が燃え炉の頂上に隙間が出来ると、鉄鉱石と木炭を一籠ずつ交互に入れる(23,24)。オークストーンは木炭を入れた後に、一握りほど入れていた。

271-8.操業開始.png

 

フイゴの操作は一人が右手と左手で交互に行い(25)、人を交代させながら休みなく行われ、木炭・鉄鉱石・オークストーンの投入が行われる。所定の投入が終わると、羽口の周辺に覗きの口を開け、中の様子を伺いながら送風を行い、時期を見てノロ(鉄滓)が流し出さされる(26)。その後、もう少し送風を続け温度を上げると、鉄塊(Bloom)が半溶融状態となる(27)。操業開始から約10時間程度である。

 

271-9.スラグと鉄.png

製錬の工程が終わると鍛冶の工程にはいる。送風を止め、鉄塊を取り出す。取り出された鉄塊の表面はノロや木炭が付き凸凹している(28)。鉄塊を鉄床の上に置き、鏨を鉄鉗で挟んで鉄槌で打ち切り分ける(29)。表面は黒くなっていても中は赤く、溶岩とおなじである(30)

 

271-10.鉄塊.png

切り分けられた鉄片は鍛冶炉で加熱される(31)。鍛冶炉にも羽口・送風管・フイゴが取り付けられている。取り出された鉄は素早く連打され(32)、斧の素形が作られる(33)

 

271-11.鍛冶.png

鉄片が冷めると再び鍛冶炉で加熱し、斧のかたちに鍛造する(34)。製錬された鉄は炭素量の少ない延展性の良い錬鉄で、鍛造加工が容易である(35)。木の柄を取り付けると、鍛造鉄斧の完成である(36)

 

271-12.鉄斧.png

You Tubeの画像は、原材料の採取、炉・フイゴの製作、製錬、鍛冶と古代の製鉄の工程を垣間見ることが出来る。これらの工程の中で、現代の道具が使われていたのは、鍛冶に使用していた鉄鉗(やっとこ)である。弥生時代に鍛冶は存在していたとされているが、鍛冶に必要な道具の内、鉄床・鉄鎚は石で代用していたとしても、鉄鉗はどうしていたのだろうと考えさせられた。それに引き換え製錬までの工程は、弥生時代に全てがまかなう事が可能で、弥生時代に製鉄が行われていた可能性を伺わせるものである。


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66-7.鉄滓の成分は製鉄の道しるべ [66.弥生時代に製鉄はなされたか?]

古代の製鉄遺構は、製鉄炉本体が残存していたことは殆どなく、土坑・焼土・羽口・鉄滓などで、その存在を確認している。もし弥生時代に製鉄がなされていたとしても、製鉄炉が繰り返し使用されたものでなければ、土坑・焼土が遺構として残存することもなく、また羽口が粘土で作られておれば、粘土で作られた製鉄炉本体が残存していないのと同じように、羽口は残存していないであろう。これらを考えると、弥生時代に製鉄が行われた証拠は、鉄滓に求めるしかないと言っても過言ではない。しかし、鉄滓が出るのは製錬の工程ばかりでなく、製錬で取り出された鉄塊を鉄の地金にする精錬鍛冶の工程でも、鉄の地金から利器・武器を作る鍛錬鍛冶の工程でも、鍛冶炉の中に鉄滓が出来る。出土した鉄滓が製錬滓か、精錬鍛冶滓か、鍛錬鍛冶滓かの見分けが科学的になされる必要がある。

 

Z272.Slog鉄量とTiO2.png鉄滓の分析の分野では第一人者であられる大澤正巳氏は、鉄滓が製錬滓・精錬鍛冶滓・鍛錬鍛冶滓の判定において,図Z272を基準にしておられる。この図は、2005年に「出土鉄滓の化学成分評価による製鉄工程の分類」で天辰正義氏が提示した図に準じている。図をみると、重なった部分が多く、鉄滓を明確に見分けることが難しいのではないかと思えた。そこで両氏が鉄滓の判定に関わった分析データを集め、その判定と、図Z272の判定基準との関係を調べた。砂鉄系製錬滓と判定されたもの162点、鉱石系製錬滓が58点、精錬鍛冶滓42点、鍛錬鍛冶滓93点である。

 

Z273.判定基準外.png砂鉄系製錬滓・鉱石系製錬滓・精錬鍛冶滓・鍛錬鍛冶滓の判定基準の範囲外であっても、比定されていた比率を表Z273に示した。表の黄色の部分は、判定基準の範囲を広げなければ、データの信頼性が95%(2シグマ)を下回ってしまう項目で、図Z274の点線がその広げた範囲である。これをみれば重なった範囲が大きくなり、鉄滓が製錬滓か、精錬鍛冶滓か、鍛錬鍛冶滓か、鉄滓の素性を明確に見分けることが出来ないということが分かる。専門の方々は、鉄滓のガラス質成分比率や組織観察でその曖昧さを克服しているようである。しかし、鉄滓の判定の信頼性は高くなく、製錬滓の判定でもって我国の製鉄(製錬)開始年代を比定するまでには至ってないようである。

Z274.鉄滓判定基準と分布.png

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66-8.製錬滓・精錬滓・鍛錬滓の判定基準を発見 [66.弥生時代に製鉄はなされたか?]

鉄滓(スラグ)が、砂鉄や鉱石を製錬する工程で出来た製錬滓か、製錬で取り出された鉄塊を鉄の地金にする精錬鍛冶の工程で出来た精錬鍛冶滓か、それとも鉄の地金から利器・武器を作る鍛造鍛冶の工程で出来た鍛錬鍛冶滓か見分ける指標としては、鉄滓に含まれる鉄の成分%(T・Fe)が有効である。また、酸化チタン(Ti2)は炉壁の粘土や木炭の灰分に含まれてなく、原料に含まれていた酸化チタンの大部分が、鉄滓により排出されるため、鉄滓の分類の重要な指標の一つである。酸化チタンは砂鉄に多く含まれており、砂鉄を原料とした鉄滓の見分けには有効であるが、その含有量が少ない磁鉄鉱では、磁鉄鉱由来の製錬滓の酸化チタン量と、砂鉄由来の精錬滓・鍛錬滓の酸化チタン量が良く似た値となり、鉄滓の素性を明確に分類することが出来ていない。

 

Z275.TiO2とMnO.png酸化チタンと同じように、炉壁の粘土や木炭の灰分に含まれてなく、原料に含まれて、そして鉄滓として排出され地金に残らない成分に酸化マンガンがある。ただ、酸化マンガンの含有量は酸化チタンの含有量に比較して一桁少ない。そこで、酸化マンガンの含有量を10倍し、原料の砂鉄・磁鉄鉱と鉄塊に含まれる酸化チタン(Ti2)と酸化マンガン(MnOx10)の量を図Z275に示した。なお、図を見やすくするために値は平方根(SQRT)としている。図を見ると両者共2個の異常値を除くとほぼ等価であることが分かる。酸化マンガンは磁鉄鉱に多く含まれており、酸化チタンを補って、鉄滓の素性を明確に分類するための指標となり得ることが分かる。

 

前章で用いた鉄滓の分析データ、砂鉄系製錬滓と判定されたもの162件、鉱石系製錬滓が58件、精錬鍛冶滓42件、鍛錬鍛冶滓93件について、横軸を鉄の成分%(T・Fe)とし、縦軸を(Ti2/5+MnO/0.)の平方根(以後「TiMn指数」と呼ぶ)とした。図Z276 にその結果を示す。製錬滓は直線y=0.04X-0.8(以後「製錬/鍛冶直線」と呼ぶ)の上の領域にあり、鍛冶滓は直線の下の領域にある。鍛冶滓の領域で、横線y=0.7(以後「精錬/鍛錬直線」と呼ぶ)の上の領域が精錬鍛冶滓、下の領域が鍛錬鍛冶滓である。大澤氏・天辰氏の判定とは製錬滓で93%と合致し、精錬鍛冶滓は72%、鍛錬鍛冶滓は85%が合致している(0.1以内の差は無視)。両氏の判定と合致しなかった41点について、私の判定をもとに両氏の判定基準にプロットした。図Z277で右下の精錬鍛冶滓2点を除いて、私の判定に矛盾が無いことを示している。私の判定基準は、鉄滓の素性を明確に分類することが出来ると確信する。

Z276.鉄滓の素性判定.pngZ277.判定基準の検証.png

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66-9.椀形滓の分別は判定基準の登竜門 [66.弥生時代に製鉄はなされたか?]

椀形滓と呼ばれる鉄滓がある。すり鉢型に掘った鍛冶炉の底に溜まった鉄滓で、上面はフラットで下部にはアールがついており、横からみるとお椀の形をしており椀形鍛冶滓とも呼ばれている。椀形滓は精錬鍛冶滓か鍛錬鍛冶滓で、製錬滓はないと考えられており、私の鉄滓の判定基準が通用するかどうかを見極めるための登竜門である。判定基準は横軸を鉄の成分%(T・Fe)とし、縦軸をTiMn指数として、製錬/鍛冶直線の上の領域にあれば製錬滓、直線の下の領域にあれば鍛冶滓で、精錬/鍛錬直線の上の領域にあれば精錬鍛冶滓、横線の下の領域にあれば鍛錬鍛冶滓である。

 

Z278.椀形滓の分別.pngこの判定基準で139個の椀形滓を検証してみた。図Z278に見られるように、明確に製錬滓の領域にプロットされたのが10点(境界線近くは省く)の7%で、実に92%が鍛冶滓の領域にプロットされている。これからしても、私の判定基準の信頼性が高いことが分かっていただけたかと思う。なお、私の判定基準では精錬鍛冶滓と鍛錬鍛冶滓を明確に別けることが出来るが、この信頼性がどれくらいあるかは不明である。

 

製錬滓の領域に入った10点の椀形滓の詳細内容を調べると、10点全てが精錬鍛冶滓と判定されていたが、「製錬滓に匹敵する。」「製錬滓の可能性を否定出来ない。」「製錬滓との分離が悪い鍛冶原料が搬入されており、更なる除滓作業(精錬鍛冶)が必要であったと推察される。」「荒鉄(製錬生成鉄で、表皮スラグや捲き込みスラグ、更には炉材粘土などの不純物を含む原料鉄)の不純物除去の精錬鍛冶滓に分類される。」などの意見が添えられていた。要は、製錬滓の領域に入った10点の椀形滓は製錬滓と精錬鍛冶滓が交じり合って出来た椀形精錬鍛冶滓であったのである。

 

「たたら製鉄」では、製錬で造られた鉧(けら)や銑(ずく)の塊は多量のノロ(鉄滓)が付着している。この塊を大鍛冶場で割り、鉧・玉鋼や銑を取り出す。このときに出るノロ(鉄滓)はあくまでも製錬滓である。精錬滓とは鉧や銑を再加熱し鍛造・脱炭するときに出来る鉄滓である。しかし、精錬の原料となる鉧や銑に、まだ製錬滓であるノロが多量に付着していたら、製錬滓が混じった椀形精錬鍛冶滓が出来上がる。これは「たたら製鉄」以外の製鉄でも同じである。

 

前章では鉄滓の生い立ちが何であるか、専門家が判定した鉄滓(製錬滓214点、精錬鍛冶滓42点、鍛錬鍛冶滓93点)と、私の判定を比較した。専門家と私の判定は、製錬滓で93%と合致し、精錬鍛冶滓は72%、鍛錬鍛冶滓は85%が合致していた。精錬鍛冶滓の合致率が低かったのは、精錬鍛冶滓の原料に製錬滓が混じることがあるためであり、私の判定基準に問題があるためではなかった。図Z276-1.に示すように、直線y=0.04x-0.8とy=0.04x-0.3の間の製錬滓の範囲(以後「精錬混入域」と呼ぶ)には精錬鍛冶滓が紛れ込んでいることを留意しておく必要がある。

Z276-1.鉄滓の素性判定.png

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66-10.鉄滓の始発原料(砂鉄・鉱石)の見分け方 [66.弥生時代に製鉄はなされたか?]

古代の鉄の生産を知るためには、遺跡から出土した鉄滓(スラグ)が、砂鉄や鉱石を製錬する工程で出来た製錬滓か、製錬で取り出された鉄塊を地金にする精錬鍛冶の工程で出来た精錬鍛冶滓か、それとも地金から利器・武器を作る鍛錬鍛冶の工程で出来た鍛錬鍛冶滓かを見分けることが必要である。鉄滓の分析においてもう一つ重要なことがある。それは、鉄滓の始発原料が砂鉄に由来するものなのか、鉱石に由来するものなのかを見分けることである。砂鉄には酸化チタン(i2)と酸化バナジュウム()が磁鉄鉱に比較して多く含まれていることから、これらの成分で鉄滓の始発原料の判定が行われている。しかし、酸化チタン含有量が少ない真土と呼ばれる砂鉄などの場合、精錬鍛冶滓や鍛錬鍛冶滓になってくると、磁鉄鉱由来の鉄滓との差が小さくなり、その判定は専門家でも困難になって来る。

 

製錬滓・精錬鍛冶滓・鍛錬鍛冶滓の判定には酸化チタン(i2)の含有量が通常用いられていたが、私は酸化マンガン(n)にも注目した。これら両成分は炉壁の粘土や木炭の灰分に含まれておらず、原料の砂鉄・鉱石のみに含まれており、製錬・精錬・鍛錬と工程が進むに従って、それぞれの工程で排出される鉄滓(スラグ)に含まれる両成分が減少していくからであった。鉄滓の分析データを整理している中で、原料・製錬滓・精錬鍛冶滓・鍛錬鍛冶滓に含まれる酸化チタン(i2)と酸化マンガン(n)の両者の比率はそれほど変わらないことに気がついた。砂鉄と磁鉄鉱にTi2/MnOの差があれば、製錬滓・精錬鍛冶滓・鍛錬鍛冶滓にも同じ程度の差があり、鉄滓の始発原料が何であるかを見分けることが出来ることを発見したのである。

 

Z279.始発原料の見分け方.png収拾した鉄滓の分析データの中で、その始発原料が専門家により比定されている鉄滓や、砂鉄や鉱石が製錬されたことが明白な遺跡から出土した鉄滓を選び出し、横軸にT・Fe値を、縦軸にTi2/MnO値(グラフを見易くするために平方根)として図Z279に示した。○は始発原料が砂鉄、△は鉱石で、赤は製錬滓、青は精錬鍛冶滓、緑は鍛錬鍛冶滓、黒は原料(砂鉄・磁鉄鉱)である。なお、錬滓・精錬鍛冶滓・鍛錬鍛冶滓の分類は私の指標で行っている。Ti2/MnO値が2.25(目盛1.)を境として、ものの見事に上が砂鉄、下が鉱石に分かれている。

 

Z280.イギリスの始発原料.png話は変わるが、イギリスでは古代、褐鉄鉱の一種の湖沼鉄(Bog Iron)で製鉄を行っており、その鉄滓の分析データが多く報告されている。私は20点の鉱石と192点の鉄滓のデータからTi2/MnO値を計算し図Z280に示した。驚くことに、これら湖沼鉄の鉱石・鉄滓の値は、日本の磁鉄鉱の鉱石・鉄滓と同じようにTi2/MnO値が2.25(目盛1.)を境として下側にあった。鉱石のTi2/MnO値が2.25の下側にあり、砂鉄のTi2/MnO値が上側にあるということは、何か自然科学的な意味のある普遍的な指標かも知れない。この指標は鉄滓の始発原料が砂鉄か、鉱石かを簡単明瞭に判定でき、古代の鉄の生産を知るための大きな武器になると確信する。


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66-11.我国の製鉄開始は6世紀半ばの定説に挑戦 [66.弥生時代に製鉄はなされたか?]

我国で製鉄が行われるようになったのは、古墳後期後半、6世紀の半ばからで、広島県東部から岡山県にまたがる古代の吉備地方であるというのが現在の定説である。この定説に挑戦すべく、古墳時代の中期末、5世紀末までの遺跡から出土した鉄滓、18遺跡32点について調べZ281に示した。ちなみに、32点の鉄滓の内、始発原料が砂鉄のものが18点、鉱石のものが14点であった。

Z281.古墳時代中期鉄滓.png
①が福岡県北九州市小倉南区の潤崎遺跡、なお赤②〜⑥の5点は潤崎遺跡の鉄滓の値であるが、これら鉄滓のMnOの分析値を知らないので、MnO/Ti2は①と同じとして計算している。鉄滓分析の第一人者である大澤氏は、1986年に古墳時代中期後半の潤崎遺跡の鉄滓の分析(①〜④)から、我国では古墳時代中期中葉(5世紀中頃)、北部九州などの一部で鉄製錬が開始されたと唱えた。佐々木稔氏は、④の鉄滓の組織写真にウスタイト(e)が多いことに疑問をもち、椀形滓が多くあることから、潤崎の鉄滓は精錬滓であるとの見解を示した。④の鉄滓については、大澤氏も精錬鍛冶滓と認め変更している。佐々木氏はこの問題に食い下がり、新たに2点(椀形滓の⑤、流状滓の⑥)を分析し、金属系研究者5名にその判定を仰いでいる。その結果は、2名が「製錬滓の可能性が極めて高い」、3名が「製錬滓、精錬滓のいずれとも判定できない」であった。

 

Z282.ヨーロッパ古代製鉄炉.png私は、6点の鉄滓は全て始発原料が砂鉄で、④は精錬鍛冶滓、それ以外は製錬滓と判定した。⑤の椀形滓が製錬滓だとすると、椀形滓は精錬鍛冶滓・鍛錬鍛冶滓だとする常識を覆すことになる。金属系研究者の2名が「製錬滓、精錬滓のいずれとも判定できない」と躊躇したのは、この為であろう。写真Z282はヨーロッパの代表的な古代製鉄炉であるが、このような円筒縦型炉(シャフト炉)であれば製錬滓の椀形滓は存在することになる。また、製錬で生じた流状滓を椀形土坑に流し込めば椀形滓となる。いずれにしても、潤崎の鉄滓は製錬滓があることには間違いない。

 

潤崎遺跡は曽根古墳群中に所存する埴輪窯跡で、窯跡に残る焼土の磁気年代測定の結果はAD410年±15年であり、炭化物の炭素14年代測定では測定値は1640±75BPで、歴博の日本産樹木年輪による較正年代の値でみると410±75年の範囲にある。多数の鉄滓は窯跡近くの土坑の直上を覆う土層から出土している。土坑は窯跡と同じ年代であるそうだが、鉄滓が同じ時代のものであるかどうかは定かでない。鉄滓に製錬滓が存在したことは、潤崎遺跡の窯跡の近くで鉄の製錬が行われたことを示しているが、その時期が古墳時代中期中葉(5世紀中頃)という確証はないらしい。

 

ピンクが島根県松江市美保関町の関谷遺跡出土の鉄滓で、潤崎遺跡と同じ砂鉄の製錬滓である。遺跡は焼土を伴う製鉄遺跡で、炭素14年代測定で440±90年という年代が出ている。オレンジが岡山県津山市の押入西遺跡の鉄滓で、Ti2の成分が10%でMnOが4%と、MnOの成分が高い特徴のある砂鉄の製錬滓である。鉄滓は墳丘直径12.5m、高さ1.5mの円墳(1号墳)の周湟(周溝)から須恵器の破片と伴に出土している。円墳の内部主体は木棺直葬で、副葬品は素環頭太刀(310-599)・鹿角装刀子・帯金具(400-549)・鉄斧・鉄鎌・ノミ・鉄釘(390- )である。 ( )の数字は、私の古墳遺物の編年表による。古墳の年代は須恵器から5世紀後半と見られている。古墳時代中期後半、5世紀後半には我国で砂鉄の製錬が行われていたと推察できる。

 

図Z281において、製錬滓の精錬混入域にある青の3点は、大阪府堺市土師町の土師遺跡の鉄滓である。精錬滓の領域にある青の4点が、土師遺跡と隣町の百舌鳥陵南町の陵南北遺跡から出土していることからすると、製錬滓の精錬混入域にある3点は、荒鉄(製錬滓が付着した鍛冶原料)を精錬した時に出来る精錬鍛冶滓と判断できる。これらの6点の始発原料はTi2/MnOの値が0.7〜1.7で鉱石由来であった。土師遺跡の精錬に用いた地金はどこから入手したのであろうか。

 

5世紀の古墳から「鉄鋌」と呼ばれる両端がバチ形に広がる鉄板が、西は福岡・大分から、東は群馬・千葉までの地域から出土している。圧倒的に多いのは近畿地方で、奈良県奈良市のウワナベ古墳の培冢の大和6号墳からは872枚、大阪府羽曳野市の墓山古墳の培冢の野中古墳からは130枚、兵庫県加古川市の行者塚古墳から40枚が出土している。同じ形状を持つ鉄鋌は朝鮮半島東南部の伽耶や新羅の地域から出土し、新羅の皇南大塚南墳からは1300枚を越える数の鉄鋌が出土している。沖ノ島の4遺跡からも出土していることからして、朝鮮半島東南部の伽耶で生産されたものが、我国にもたらされたと考えられている。

 

大和6号墳の鉄鋌8枚が分析され、その炭素含有量からすると7枚が錬鉄(0.3%以下)で1枚が鋼(0.7%)であった。大和6号墳以外の鉄鋌4枚(韓国出土1枚含む)の炭素含有量は鋼(0.4〜0.9%)である。5世紀の鉄器生産の素材が鉄鋌であったとするならば、その鍛冶で出る鉄滓は鍛錬鍛冶滓であって、塊錬鉄(鉧)や銑鉄(銑)から鉄地金を作る時に出来る精錬鍛冶滓ではあり得ないことになる。土師遺跡の鉄滓は荒鉄を精錬した時に出来る精錬鍛冶滓である。荒鉄が伽耶の地から輸入されたという証拠はなく、これらの素材は我国で製錬されたものと考えざるを得ない。

 

土師町・陵南町は5世紀に築造された百舌鳥古墳群の大仙陵古墳(仁徳天皇陵古墳)、上石津ミサンザイ古墳(履中天皇陵古墳)、土師ニサンザイ古墳の近くにあり、背後には5世紀に生産された初期の須恵器の窖窯がある高蔵寺(TK)地区を控えた地である。伽耶からの渡来人は須恵器の生産技術を伝え、また製鉄の技術をも伝えたと考えられる。土師町・陵南町の精錬鍛冶滓は鉱石由来の鉄滓であることからすると、製鉄(製錬)が行われた場所は、滋賀の琵琶湖周辺、あるいは岡山かも知れない。福岡の潤崎遺跡・島根の関谷遺跡・岡山の押入西遺跡・大阪の土師遺跡の鉄滓は、弥生中期後半、5世紀の後半には我国で砂鉄・鉱石の製錬を行い、鉄を生産していたことを示している。


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66-12.イギリスでは紀元前から湖沼鉄を製錬した [66.弥生時代に製鉄はなされたか?]

Z283.イギリス湖沼鉄製錬滓.png古代日本で製錬された原料は砂鉄か磁鉄鉱で、褐鉄鉱の製錬滓のデータは皆無である。ヨーロッパでは褐鉄鉱の一種の湖沼鉄(Bog Iron)が広く分布し、製鉄の原料として用いられている。18世紀に産業革命を起したイギリスは、紀元前から製鉄が行われていて、各所から古代の鉄滓が出土しており、Dr.T.P.Young氏らによって分析がなされている。私が集めた鉄滓の分析データは湖沼鉄の製錬滓で、生産年代はBC3C~4C)、AD1C~4C、AD9C~14Cのものである。私の製錬滓の判別が通用するか、製錬滓の分析データから横軸を鉄の成分%(T・Fe)とし、横軸をTiMn指数として分布図を作成した。Z283に見られるように、紀元後の製錬滓のデータは、ほぼ製錬/鍛冶直線の上の領域にあり、私が定めた製錬滓の領域と同じである。しかし、紀元前の製錬滓データの多くは精錬滓の領域にあった。

 

Z284.日本とイギリスっ製錬滓.pngイギリスと日本の製錬滓の大きな違いは、日本の砂鉄・磁鉄鉱の製錬滓の鉄の成分(T・Fe)は、そのほとんどが50%以下であるのに対して、イギリスの湖沼鉄の製錬滓は、紀元前・紀元後共に50%以上のものが多いということだ。私は製錬滓に含まれる(CaO+MgO)の値に注目し、日本の砂鉄・磁鉄鉱の製錬滓とイギリスの湖沼鉄の製錬滓とを比較しZ284に示した。グラフを見やすくするために(CaO+MgO)の値は平方根にしている。イギリスの湖沼鉄の製錬滓で鉄含有量(T・Fe)が50%以上では、(CaO+MgO)の含有量が少ないことが分かる。

 

Z285.FeO-SiO2.png鉄の製錬における反応は複雑であるが、その根本はFeOとSi2の反応であり、その状態図をZ285に示す。鉄滓には必ず含まれている物質が、1205℃で溶融するファイヤライト(Fe2i4)で、2eO・Si2とも表記され、T・Feは55%である。鉄の製錬におけるFeOとSi2の反応は、状態図において""(T・Fe:48%)と、""(T・Fe:60%)のAC間で行われている。イギリスの製錬滓でT・Feが50%から60%ものが多いということは、古代の湖沼鉄の製錬ではファイヤライトが溶融し、スラグとして排出されたからである。

 

日本の砂鉄・磁鉄鉱の製錬滓のT・Feは、ほぼ48%以下である。これは状態図Z285の""より左側で反応が行われたのでなく、Si2がFeO以外の酸化物と反応して、スラグが出来たということになる。CaOとMgOはFeOとSi2の反応を阻害する働きがあり、これらの多い原料は鉄成分(T・Fe)の少ないスラグが生成されると考える。現在の高炉による製錬で石灰を入れるのは、この性質を利用して鉄がスラグの中に含まれないようにして、鉄の収率を上げているのであろう。

 

Z286.精錬滓領域の製錬滓.pngイギリスの紀元前の湖沼鉄の製錬では、経験からMnO・Ti2・CaO・MgOの少ない原料が選定され、低温で直接製錬が行われ塊錬鉄(iron bloom)が作られた。製錬滓はファイヤライトが中心で、MnO・Ti2が少ないことから精錬滓の領域に入っている。イギリスの紀元前の湖沼鉄の製錬滓と、日本の精錬滓(砂鉄、磁鉄鉱■)を比較した。Z286に示すように、MnO・Ti2・CaO・MgOの合計が2.0%(目盛1.4)以下であれば、例え精錬滓の領域にあっても製錬滓といえることが判った。


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66-13.阿蘇リモナイトは弥生時代に製錬されたか [66.弥生時代に製鉄はなされたか?]

2012年の日本考古学協会福岡大会の第1分科会「弥生時代後半期の鉄器生産と流通」の報告書の最後に、「弥生時代の鉄製錬に関しても熊本県阿蘇周辺の弥生時代後期に鉄器を大量に出土する遺跡が、リモナイトの分布地域と一致することなどは事実として指摘できるが、直接両者を結びつけることのできる遺跡はまだ確認できていないなど、今後の研究の方行性はある程度絞ることのできたシンポジウムではなかったかと考えられる。」とある。

 

Z287.阿蘇谷の弥生鉄器.png阿蘇の外輪山に囲まれた阿蘇カルデラは中央の火口丘により2分され、その北半分は阿蘇谷と呼ばれる旧湖底平野である。この阿蘇谷の狩尾地区からは阿蘇リモナイトと呼ばれる褐鉄鉱の一種の湖沼鉄が産出する。戦時中はこの阿蘇リモナイトが八幡製鉄に送られ、製鉄の原料にされたそうだ。現在でも露天掘りの鉱床があり、阿蘇リモナイトを採っている。阿蘇リモナイトを焼けばベンガラになり、狩尾地区にある弥生の湯口遺跡・下扇遺跡からは多量のベンガラが出土している。岡山大学の辻広美氏の「古代遺跡出土ベンガラの材料化学的研究」によると、湯口遺跡・下扇遺跡から出土した鮮やかな赤黄色の色調のベンガラを得るためには、阿蘇リモナイトを900℃で加熱し、水簸処理をしなければならないそうで、阿蘇谷に住んでいた弥生人の技術力を窺がわせる。

 

一方、狩尾地区にある7ヶ所の弥生遺跡からは多量の鉄器が出土している。下扇原229点、小野原A22点、池田・古園82点、前田3点、方無田17点、湯ノ口101点、下西山84点の総計538点である(鉄片・塊を除く)。1998年に「弥生時代鉄器の研究」を発表した川越哲志氏は、弥生時代の鉄器出土遺跡は、1,800遺跡、鉄器数は約8,000点としている。阿蘇谷狩尾地区の北東―南西8km、北西―南東2kmの狭い範囲から、弥生時代に全国から出土した鉄器の6.7%が出土している。これは異常であり、製鉄(製錬)が行われていたと考えなければ理解できない。しかし、考古学会は証拠が無いとそれを認めていない。また、下西山遺跡の鉄器片を分析した大澤氏は、鉄器は非金属介在物の少ない鍛造品で、素材原料はチタン・ジルコニウムが含まれていない鉱石系で、素材産地は大陸の可能性が強いとしている。

 

阿蘇リモナイトの成分(日鉄リサーチ、岡山大学、リモナイト工業の平均値)と前章「イギリスの鉄滓分析」で鉄滓と同伴した湖沼鉄の鉱石(6ヶ所15点の平均)の成分を比較した。

            TFe  SiO2  Al2O3  CaO   MgO  P2O5  MnO   TiO2

   阿蘇リモナイト 62.47  8.08  4.38  1.93  0.46  0.72  0.06  0.05

   イギリス湖沼鉄 41.08 19.64  4.67  1.26  0.47  1.04  0.68  0.28

阿蘇リモナイトの方のT・Fe成分が高く、その分Si2成分が低いという結果で、後の成分は良く似ている。阿蘇リモナイトを原料として、製錬が行われていてもおかしくない。もし製錬が行われていたとすれば、(CaO+MgO)はイギリス湖沼鉄より少し大きいが、(MnO+Ti2)の値が少し小さいため、その鉄滓はイギリスの紀元前の製錬滓と同じように、精錬鉄滓の領域に入って来るかもしれない。

 

狩尾地区にある3ヶ所の弥生遺跡からは鉄滓が出土している。湯ノ口148点、池田・古園1点、下扇原1点である。しかし、その成分の分析結果が報告されているものは何故だか1点もない。分析されているが報告されていないのか、分析されていないのかわからないが、弥生時代の製鉄を証明するには、阿蘇谷から出土する鉄滓だと思っていただけに残念なことだ。


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66-14.景行天皇は阿蘇地域の製鉄を知っていた [66.弥生時代に製鉄はなされたか?]

Z-41.景行天皇九州遠征.png『日本書紀』景行12年に、景行天皇は「熊襲がそむいて貢ぎ物を奉じなかった」と九州遠征をしている。その行程は図Z41に示すように、周芳の婆麼(山口県防府市佐波)から、豊前国の長狭県に渡り行宮を建て、その地を京(福岡県京都郡・行橋市)と呼んでいる。それから碩田国の速見邑(大分県速水郡・別府市)に至り、禰疑野(竹田市菅生)にいる土蜘蛛を討伐しようと、直入県の来田見邑(大分県直入郡・竹田市)に向かっている。稲葉の川上(稲葉川:竹田市)で、海石榴(つばき)の木で作った椎(つち)で土蜘蛛を討った。椎を作った所を海石榴市、血の流れた所を血田という。『豊後風土記』では、海石榴市も血田も大野郡(大野川中流域)にあるとしている。その後、景行天皇は日向国の高屋宮(西都市)の行宮に入られた。

 

景行天皇は日向で大隅半島の襲国(鹿児島県曾於郡)を平定したあと、九州巡幸を行っている。その道中で玉杵名邑(熊本県玉名市)で土蜘蛛を殺し、阿蘇国(熊本県阿蘇町)を巡り、御木(福岡県三池郡高田町)の高田の行宮に着かれている。熊本県玉名市から阿蘇町に行くには菊池川を遡り、鹿本町から支流の合志川を遡上し、大津町に出て阿蘇外輪山が途切れる立野より阿蘇谷(阿蘇盆地北部)の阿蘇町に入るルートと考えられる。

 

Z-42.九州武器鉄器.png景行天皇の九州遠征経路図を見て、不思議に思うことがある。それは、大分県側と熊本県側から阿蘇山に向かって内陸部に行っていることだ。表Z42は『邪馬台国と玖奴国と鉄』菊池秀夫(2010)に記載された、弥生時代の九州の武器類鉄器の遺跡ベスト20を示したものである。⑤の徳永川の上遺跡は福岡県京都郡豊津町に在る。大分県では、⑫の守岡遺跡と⑬の下郡遺跡は大分市を流れる大分川下流の川沿いにある。⑰の小園遺跡と⑱の上菅生B遺跡は竹田市の大野川上流域近くにある。⑲の二本木遺跡、⑥の高添遺跡と⑮の高松遺跡は大野川中流域にある。そして、宮崎県では②の川床遺跡は西都市に隣接する新富町にある。熊本県では、⑦の方保田東原遺跡は菊池川沿いにあり、①の西弥護免遺跡は大津町にある。③の狩尾湯ノ口遺跡、④の池田・古園遺跡と⑧の下山遺跡は阿蘇町にある。図Z41にある赤丸はこれらの遺跡である。景行天皇の行程は武器類鉄器の主要な遺跡がある地域を巡っている。弥生時代の九州の武器類鉄器の遺跡ベスト20のうち14遺跡が、景行天皇の九州遠征経路に入っている。

 

話は変わるが『魏志東夷伝』弁辰条には、「国には鉄が出て、韓、濊、倭がみな、従ってこれを取っている。諸の市買ではみな、中国が銭を用いるように、鉄を用いる。また、二郡にも供給している。」とある。この弁辰の鉄が、弥生時代の後期後半、3世紀にわが国に入って来た鉄素材の斧状鉄板(板状鉄製品)である。4世紀に入り西晋(280~316年)が弱体化すると、朝鮮半島の勢力図は一変する。北部にあった高句麗は南下政策を取り、313年に楽浪郡を、その翌年には帯方郡を滅ぼした。また、4世紀初め頃には馬韓から百済が興り、辰韓から新羅が興っている。4世紀初め頃には、弁辰の鉄の我国への供給はストップしたと考えられる。

 

私の編年した「縮900年表」によれば、景行12年は308年となる。弁辰の鉄の供給がストップしたことは、大和王権にとっては重大なことであり、阿蘇地域で製鉄が行われていたことを伝え聞いていた景行天皇は、鉄の素材を求めて九州遠征を行ったと考える。景行天皇が九州遠征を行ったこと、弥生時代に阿蘇地域で製鉄が行われていたことは史実であると考える。


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66-15.弥生時代に製鉄はなされたか? [66.弥生時代に製鉄はなされたか?]

Z288.弥生遺跡の鉄滓.png弥生時代に製鉄が行われていたとすれば、その最も有力な地は熊本県の阿蘇谷であると思っていたが、阿蘇谷にある鉄器遺跡から出土した鉄滓の成分を知ることが出来ず、その証拠を掴むことが出来なかった。そこで、全国の弥生遺跡(縄文晩期?含む)から出土した鉄滓、11遺跡16点について、横軸を鉄の成分%(T・Fe)とし、縦軸をTiMn指数としてZ288を作成した。製錬/鍛冶直線の上の領域にあれば製錬滓、直線の下の領域にあれば鍛冶滓で、精錬/鍛錬直線の上の領域にあれば精錬鍛冶滓、下の領域にあれば鍛錬鍛冶滓である。なお、一点鎖線の精錬混入域には、荒鉄(製錬滓が付着した鍛冶原料)を精錬した時に出来る精錬鍛冶滓が紛れ込んでくる。

 

の鉄滓は石川県加賀市の豊町A遺跡出土のもので、製錬滓の領域にあった。豊町Aの鉄滓のT・Feは34%と低く、またTi2が11%と高いことから、高温で間接製錬が行われたことを伺われる。もし、縄文晩期に精錬があったとすれば、もっと原始的な低温で直接製錬がなされたことが予想される。時代が縄文晩期?とされているが、鉄滓の出土状況を知ることが出来なかった。我国に鉄器が入ってきたのは、弥生中期の初め頃と考えられており、縄文晩期の精錬は考えられない。加賀市豊町には中世の製鉄跡が多数あり、この鉄滓は中世のものの混入と考えられる。

 

ピンクの二つの鉄滓は長崎県島原市有明町の下原下遺跡のもので、一つが製錬滓の領域の精錬混入域にあるが、もう一つが精錬滓あることから、荒鉄の精錬滓であると考えられる。下原下遺跡では、鉄滓が出土したⅢ層の下のⅣ層に縄文後期・晩期の遺物があり、縄文晩期の製鉄跡の可能性があると、1966年に有明町の教育委員会が報告している。その後の県教委の調査で年代測定を行った結果、738年という数値が出ているそうだ。下原下遺跡の鉄滓が出土した頃は、考古学会では弥生時代の初めから鉄器が使用されていたと考えられており、時流に乗った報告がなされたのであろう。

 

私は分析の詳細を知らないのでグラフには載せてないが、弥生時代の製鉄を伺わせる鉄滓がある。広島県三原市の小丸遺跡から二つの製錬炉が見つかり、それぞれ3世紀と7世紀に比定されている。3世紀と判定された1号炉は、直径50cm、深さ25cmの円筒土坑の両側に鉄滓の詰まった2基の排滓坑を備えた製錬炉である。製錬滓と判定された鉄滓は、鉄成分が15.8〜38.2%であった。炉の下層と両側の土坑の木炭をC14年代測定が行われ、7世紀と3世紀の結果が出た。遺跡群の南側斜面には滓・鉱石片・弥生土器の小破片が散乱していることから、3世紀の製錬と比定されている。鉄滓のT・Feが15.8〜38.2%と低く、高温で製錬が行われたことを伺わせる。1号炉も2号炉と同じ、7世紀のものではないかと思える。

 

は福岡市の西新町遺跡、辻田遺跡の3点は精錬鍛冶滓の領域にあるが、3点とも鍛錬鍛冶滓に近いことからすると鍛錬鍛冶滓であると考える。熊本県の諏訪原遺跡(玉名郡菊水町)・西弥護免遺跡(菊池郡大津町)・二子塚遺跡(上益城郡嘉島町)の4遺跡7点の鉄滓は、鍛錬鍛冶滓と判定できる。現在のところ、弥生時代の製鉄(製錬)を証明する鉄滓は存在していないというのが現状である。


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66-16.弥生時代の鉄滓の始発原料は砂鉄 [66.弥生時代に製鉄はなされたか?]

弥生時代の鉄滓の分析値を見ていて、気になったことがある。それは9遺跡13点の鉄滓(福岡:西新町2・辻田1、熊本:西弥護免1・諏訪原1・二子塚4、長崎:金比羅1、島根:柳1、京都:扇谷1・王子1)の始発原料が西新町遺跡の1点を除いて全て砂鉄になっていることだ。弥生時代の鉄素材は朝鮮半島から入ってきており、その始発原料は磁鉄鉱であるというのが通説である。弥生時代の鉄滓の始発原料が砂鉄であると唱えた学者はいない。

 

Z289.弥生鉄滓の始発原料.pngZ289に横軸を鉄成分(T・Fe)とし、縦軸をTi2/MnOの平方根として、我国の弥生時代の鉄滓を、韓国を北緯36度で二分し、北の鉄滓を、原料をとし、南の鉄滓を、原料をとしてプロットした。韓国南部の鉄滓の始発原料は慶州市の隍城洞遺跡、慶尚南道の沙村遺跡では磁鉄鉱であり、韓国北部の京畿道の旗安里遺跡・渼沙里遺跡、忠清北道の石帳里遺跡・槐山雙谷里遺跡では始発原料は磁鉄鉱と砂鉄の両者があった。我国の弥生遺跡から出土した鉄滓の始発原料が砂鉄に由来することは、鉄の素材は韓国北部から来ていたことになる。

 

韓国の製鉄の開始は、現在のところ韓国北部の忠清北道石帳里遺跡で3世紀末とされている。石帳里遺跡では製鉄炉をはじめとして、鉄鉱石の焙焼炉、鋳鉄溶解炉、鍛冶炉が発見されており、鉄滓、製品、原料の鉱石・鉱石粉末が出土している。青洲博物館はこの鉱石粉末を「沙鉄(鉄鉱石粉?)」と明記して、大澤氏に分析を依頼している。大澤氏は顆粒状の磁鉄鉱と判定ていしているが、私はTi2/MnOの値が7.25〜9.0で、判定基準の2.25をはるかに上まわっており砂鉄と判定した。村上恭通氏は『倭人と鉄の考古学』の中で「石帳里遺跡では砂鉄が多量に発見されたため、砂鉄製錬が行われた可能性も示唆されているが、鉄鉱石もあるため砂鉄精錬と断定するのは時期尚早である。」と述べており、私の判定が間違っているわけではない。

 

石帳里遺跡の鉱石2点、鉄滓4点が分析されているが、私の判定では、鉱石・鉄滓とも半分が鉱石由来、半分が砂鉄由来であり、磁鉄鉱・砂鉄両者の製錬が行われたと思える。そもそも、「磁鉄鉱」の言葉には、鉱物(一定の化学組成の結晶)としての磁鉄鉱と、鉱石(鉱物+母岩)としての磁鉄鉱の両方の意味が含まれている。砂鉄は鉱石(磁鉄鉱+母岩)の母岩が風化され、鉱物の磁鉄鉱が単独で存在するようになったものである。石帳里遺跡の原料を供給した鉱山は風化が進んでいて、鉱石としての磁鉄鉱も、鉱物としての磁鉄鉱(砂鉄)も採れていたのであろう。朝鮮半島北部にある石帳里遺跡では3世紀末頃に砂鉄の製錬が行われていたことは確かであると思う。

 

弥生時代の後期後半、わが国に入って来た鉄素材は斧状鉄板(板状鉄製品)である。福岡市早良区の西新町遺跡の古墳時代前期前半(4世紀初)のかまど付き竪穴住居跡から、また、福岡県宗像市の久原瀧ヶ下遺跡の古墳時代初期(3世紀後半)頃の住居跡から庄内式土器と共に、大型板状鉄製品が出土している。板状鉄製品の分析値を見ると、Ti2/MnOの値は西新町が3.5(0.07/0.02)、久原瀧ヶ下が6.(0.24/0.06)と始発原料が砂鉄(2.25以上)であった。弥生時代の後期後半、わが国に入って来た斧状鉄板(板状鉄製品)の始発原料は砂鉄であった。

 

『魏志東夷伝』弁辰条には、「国には鉄が出て、韓、濊、倭がみな、従ってこれを取っている。諸の市買ではみな、中国が銭を用いるように、鉄を用いる。また、二郡にも供給している。」とある。二郡とは楽浪・帯方のことで、帯方郡が設置されたのは204年であり、弥生時代後期後葉にあたる。「66-4.弥生後期後半、弁辰の鉄が輸入されていた」に示したように、弁辰の地は洛東江の上流の慶尚北道北西部の地で、3世紀に中国から亡命してきた人々が製鉄技術を伝え、斧状鉄板(板状鉄製品)が作られたと考えた。慶尚北道北西部の地は月岳を中心とする山塊が忠清北道と境を成し、地質は花崗岩体で磁鉄鉱の鉱床も存在している。忠清北道側には石帳里遺跡と同じ時代の槐山雙谷里遺跡(石帳里遺跡から40Km)があり、鉱石由来と砂鉄由来の鉄滓が出土している。

 

3世紀になって、北緯36度以北の韓国北部、洛東江の上流の慶尚北道北西部の弁辰の地で、中国から亡命してきた人々が製鉄技術を伝え、砂鉄を原料として斧状鉄板(板状鉄製品)が作られた。これらの素材は楽浪郡・帯方郡に供給されるとともに、倭国にももたらされた。弥生後期後葉、倭国ではこれらの鉄素材で鍛冶が行われ鉄製品が製作され、炉の底には砂鉄由来の鍛錬鍛冶滓が溜まった。一方朝鮮半島では、3世紀末になって製鉄技術が弁辰の地から山を越えて西に伝わり、忠清北道鎮川郡の石帳里遺跡で砂鉄・磁鉄鉱の製錬が始まった。こう考えると全てのことが繋がって来る。

 

私の座右の銘は経済学者のマルクスの「事実に即して考える」であり、文化人類学者の川喜多二郎の「事実をして語らしめる者は勇者となる」である。これらを実践するために、川喜多二郎が考案したKJ法(収拾した情報をカード化し同じ系統のものでグループ化すること)を用いている。実際はパソコンのエクセルにデータを取り込み、フィルター・並べ替えの機能を使いグループ化している。KJ法を用いることによって、多種多様な情報を効率よく整理し、その過程を通じて新たなアイディアの創出や本質的問題の特定ができるからである。「66.弥生時代に製鉄はなされたか?」の設問に取り組んで集めた「事実」は、鉄滓の分析値であった。そして、ただの数字に過ぎない分析値が、製錬滓・精錬鍛冶滓・鍛錬鍛冶滓の見分け方を、始発原料が砂鉄か鉱石かの見分け方を、私に語ってくれた。それは、その道の専門家と同レベル、あるいは専門家を凌ぐ(一貫性があるという意味で)ものであった。

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