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5.伊都国の謎を解く ブログトップ

5-1.景行天皇の日向巡幸 [5.伊都国の謎を解く]

纒向遺跡の大型建物跡は卑弥呼の宮殿跡ではないかと大騒ぎになったが、この纒向に都を構えたのが、崇神天皇の次の垂仁天皇(275年即位)と、その次の景行天皇(308年即位)である。(この年代は第2章の年表に依っている)。景行天皇は即位後四年目に美濃に行き、八坂入媛を娶り約10ヶ月泳(くくり)の宮に住まわれている。この泳の宮跡が岐阜県可児市にあり、万葉集にも「ももきね 美濃の国の 高北の 泳の宮に 日向かいに」と詠みこまれている。八坂入媛は七男六女を産んでいるが、その長男が成務天皇である。 

景行天皇は313年に日向も訪れている。その道筋は、周芳の婆麼(山口県防府市佐波)から、豊前国の長狭県(福岡県行橋市長尾)を通り、碩田国の速見邑(大分県速水郡・別府市)に至り、日向に向かっている。日向の国では高屋宮を建4年すごされ、襲国(鹿児島県曾於郡)を平定されている。日向では御刀媛を妃として、日向国造の先祖にあたる豊国別皇子が生れている。景行天皇の高屋宮を建てと言われる地は、私が邪馬台国の都と定めた西都市にあり、平定した襲国は、まさに邪馬台国と交戦した狗奴国の地であった。 

その後、景行天皇は「みやこ」に向かわれようとして、筑紫の国を巡幸されている。その道筋は日向国子湯県(宮崎県児湯郡・西都市)を出発し、図10景行天皇日向.jpg夷守(宮崎県小林市)から熊県(熊本県球磨郡・人吉市)に至り、葦北(熊本県芦北郡)から船に乗り、火国の八代県(熊本県八代市)を通り、高来県(長崎県南高来郡)より、阿蘇国の玉杵名邑(熊本県玉名市)に至っている。そして、筑紫後国の三毛(福岡県三池郡。大牟田市)に高田の行宮を作られ、八女県(福岡県八女郡・女女市)から的(いくは)邑(福岡県浮羽郡)に行き、その後日向に帰っている。 

景行天皇が日向灘の子湯県から八代海側の芦北に抜けた道程は、西都市から小林市・えびの市を通り、人吉市を経て芦北町佐敷に抜ける道であったと思われる。このルートこそ、魏志倭人伝において、私が伊都国から邪馬台国に向かう「水行十日、陸行一月」とした、「陸行一月」の道程の逆コースそのままである。図10は井上光貞、中央公論社、日本書紀から掲載させて頂いたので、題名を景行天皇熊襲征伐経路図と本に記載の通りとしているが、私は景行天皇の目的は先祖の地を訪ねる事にあったと思っている。         (図をクリックすると大きくなります) 

芦北町佐敷が面する湾を野坂の浦と言うが、ここは奈良時代直前の慶雲年間に長田王が景行天皇の故事をしのびこの地を訪れ、万葉集に載っている歌を詠んだと言われている。「芦北の野坂の浦ゆ船出して、水島にゆかむ波立つなゆめ」
景行天皇は芦北町佐敷から船に乗り、不知火海を北上し八代市へ、そこから宇土半島の先端を通り長崎県の島原半島に、島原湾を横断して玉名市へ、そこから有明海を海岸沿いに進み大牟田市に着いている。 

このルートが伊都国から邪馬台国に向かう「水行十日」の逆ルートだ。ただ、私は宇土半島の付け根が、卑弥呼の時代船で通れたと仮定して、海岸線を水行したとした。もしそれが不可能な場合は、「水行十日」は景行天皇のルートと同じになったかも知れない。景行天皇が目指した「みやこ」とは、「筑紫の都」であったに違いない。八女県付近にあった筑紫の都こそ、私が卑弥呼の時代の奴国の都と特定した所である。景行天皇が何故そこに行ったかというと、奴国こそ天皇家の神々、天照大神や高皇産霊尊の国であったからだ。

5-2.国・国造と県・県主 [5.伊都国の謎を解く]

景行天皇の巡幸で立寄った所は「県」が多い。長狭県、子湯県、熊県、高来県、八女県である。そして、豊前国の長狭県、日向国の子湯県とあるように、県は国の中に存在している。私は女王卑弥呼を共立した倭国の国々は、出雲・吉備以西の中国・九州の国造であるとした。大和王権が建国以来、地方をどのような方法でもって支配したかを明確にすることにより、魏志倭人伝に書かれた伊都国が、定説の糸島平野にあったとする伊都国でなく、末盧国と比定された唐津から東南の方向にある吉野ヶ里遺跡であることを証明したい。 

神武天皇が橿原の地に建国した翌年、論功行賞が行われ「国造」「県主」という言葉が出て来る。また垂仁天皇の時代に「屯倉」があり、景行天皇の世では「諸国に令して田部と屯倉を設けた」とある。そして成務天皇の時代には「国郡には造長を立て、県邑に稲置をおき、それぞれ盾矛を賜って印とした」と書かれている。国に国造、県に県主、屯倉に田部、これらが国を治める組織であった。 

これら組織のそれぞれの役割は、江戸時代の大名・旗本・御家人と比較するとわかりやすい。大名は江戸幕府の支配下にあり、軍役を負担するがそれぞれ独立した領地と組織を持っていた。それを藩あるいは、国といったりしている。大名が幕府の意にそわないと改易(領地没収)・天封(国替え)が行われた。大名には、徳川氏一族の親藩、徳川一門の譜代、そして関ヶ原の合戦以後徳川の配下に入った外様大名がある。外様大名の中には、戦国時代以前からその国を支配して来た大名もいる。 旗本は江戸幕府の将軍直属の家臣である直参で、一万石未満の禄高であるが、直接将軍に謁見する資格を持つ。俸禄には領地が与えられる知行取りと、米を支給される蔵米取りがあった。旗本は江戸に住み幕府の統制を受けていた。御家人は旗本と同じく直参で、直接将軍に謁見する資格のないものをいう。御家人の最高禄高は260石であった。これらの俸禄は将軍の直轄領・天領から収納された蔵米から賄われた。 

私は国造・県主・田部を次のように解釈する。国造は大和王権の支配下にあり、軍役を負担するが、それぞれ独立した領地を持つ国の長である。国造は江戸時代の大名にあたり、親藩・譜代にあたる大和王権設立以前から、同盟を結んでいた国造もいたであろうし、また外様大名のように、大和王権設立以後その支配下に入った国造もいたであろう。国造が大和王権に背くとその領地は没収され、王権の直轄領・屯倉になったり、分割して王権の家臣に与え、新たな国造に任命したりしている。 国造はその領地の一部を大和王権に差し出さねばならなかった。それを県と称し、その長が県主であった。県主は天皇直属の家臣で、国造より大和王権に割譲された土地()を与えられた。県から取れる米や特産物の一部を天皇に収める義務を持つと共に、国造を監視する役目を持っていたと思われる。県主は江戸時代でいうと旗本であろう。田部は朝廷の直轄領・屯倉を管理・運営する人であろう。田部は俸禄を貰うだけで領地を与えられることはない。田部は江戸時代でいう御家人にあたる。 

大和王権が諸国を統一し中央集権国家を作った組織が、国と国造、県と県主、屯倉と田部であったことが分かって頂けたと思う。こう考えると、景行天皇の巡幸に際し、県や県主が良く出て来る事が理解出来る。 

5-3.筑紫の伊都の県主 [5.伊都国の謎を解く]

 魏志倭人伝に出て来る伊都国が、糸島平野に比定する事を研究者の誰も疑わなかったのは、糸島平野には三雲遺跡・井原鑓溝遺跡・平原遺跡の遺跡があるばかりでなく、この地域が奈良時代から「怡土・イト」と呼ばれていたことも大きく影響していると思われる。糸島平野がいつ頃から「伊都・怡土」と呼ばれるようになったのだろうか、日本書紀仲哀8年の記事に、筑紫の伊都県主の先祖の五十迹手(いとて)が船で天皇をお迎えに行き、「天皇は五十迹手を褒められて『伊蘇志』とおっしゃつた。時の人は五十迹手の本国を名付けて伊蘇国といった。いま伊都というのはなまったものである」とある。この伊都が糸島平野の伊都である事に間違いはあるまい。 

「筑紫の伊都県主の先祖の五十迹手」の文章から、五十迹手も伊都県主であると考える。前節で書いたように、県主の領地は、国造より大和王権に割譲された土地()である。「筑紫の伊都県主」とあるように、伊都県主の領地は、もともと筑紫国、元の奴国の領地であった。邪馬台国が東遷し大和に国を建国したとき、奴国は国造として生き残り、糸島平野の領域を県として大和王権に差し出した。大和王権は、王権設立に最大の役割を果たした伊都国王(吉野ヶ里)の一族に、県を与え伊都県主を任じ論功行賞に報いると同時に、九州最大の筑紫の国造の監視を頼んだと考える。吉野ヶ里遺跡から背振山地の三瀬峠・糸島峠を越えると糸島平野に出る。糸島平野には前方後円墳が多数あるのも納得出来る。

5-4.邪馬台は国のまほろば [5.伊都国の謎を解く]

春三月、景行天皇は子湯県におでかけになり、丹裳小野に遊ばれた。このとき東方を望まれて、お側のものに、「この国は真直に日の出る方に向いているなあ」と仰せられた。それでその国を名づけて日向という。この日、野中の大石に登られて、京都を憶い歌を詠まれた。 

「愛しきよし 我家の方ゆ 雲居立ち来も 倭は 国のまほろば 畳づく青垣 山籠れる 倭し麗し 命の 全けむ人は 畳薦 平群の山の 白橿の枝を髻華に挿せ この子」 

景行天皇が憶われた「京都」は、大和の纒向を指し、歌の中に出てくる「平群」は、奈良盆地西部の竜田川の川沿いにある平群、現在の三郷町・平群町を指していると考えられている。これらより、この歌は大和をなつかしむ歌、「国思歌(くにしのびのうた)」と解釈されている。古事記においては、この「国思歌」が日本武尊の辞世の歌になっている。古事記のなかで熊曾征伐、出雲討伐、東国平定をなしとげた日本武尊は、東国平定の帰路の途中、三重の能煩野で亡くなり、白鳥となって大和に帰っている。 この悲劇の英雄の辞世の歌とするならば、遠くの国を思いなつかしむ歌、「国偲(くにしのびうた)」とするのが似合っている。しかし、この歌は古事記に書かれた日本武尊の辞世の歌としては、暗さがなく明るいのである。日本書紀に書かれたように、野中の大石に登られて、我が家の方を眺めて詠んだ歌とする方が似合っている。 

日向は奈良時代、臼杵・児湯・那珂・宮崎・諸県の五郡に分かれていた。各郡はいくつかの郷に分けられ、児湯郡には八郷がおかれていた。西都原周辺には、三納・穂北・三宅・覩唹・平群の五郷があった。邪馬台国があったとした西都市付近に「平群」が存在していたのである。西都原古墳群の北側には穂北があり、南側には三宅がある。この三宅には日向の国府跡があり、景行天皇と御刀媛の息子、豊国別皇子の子が日向国造として居住していたとされる。この三宅より百塚原という丘陵を一つ越えた所に平郡という地名がある。 

この平郡は平安時代には「平群」であった。平郡の北五キロメートルには三納があり、南五キロメートルに都於郡がある。都於郡が覩唹(とお)である。都於郡は海抜百メートルの広大な台地にあり、水が豊富で水田もあり、平地と見間違える程である。この台地の西端には高さ百メートルの小山があり、そこには都於郡城跡がある。都於郡城は南北朝時代、1337年に伊東氏により城が築かれたが、この城は七つの入り口を有し八千人の城兵を持つ、大規模なものであった。この城からの眺めは良く、「春は花、秋は紅葉に帆をあげて、霧や霞の浮舟の城」と、読まれている。城の西方の三財川へは急崖が連なり、眼下に広大な平郡の平地が見渡せる。 

都於郡城跡の南二キロメートルの所に黒貫寺があり、その広大な境内には景行天皇の高屋宮跡と言い伝えられている旧跡もある。黒貫寺の所在地は古くは児湯郡高屋村であり、近くには高屋神社もある。高屋という地名は、都於郡城跡のある小山の近くに現在でも残っている。神武東征を成し遂げた磐余彦尊の祖父であり、邪馬台国の女王卑弥呼の義父とした彦火火出見尊は、日向の高屋山上陵に葬られている。この高屋山上陵こそ、都於郡城跡のある小山にあったのではないかと思われる。 

話は変わるが、私は20数年前の3月頃に初めて西都市を訪れた時、貴重な経験をした。前日に宮崎市に宿泊し、朝一番のバスで西都市に向かった時のことだ。天気は良く晴れていたのに、バスが西都市に入る頃、バスの進行方向の左の山の方から急に雲海のような霧が流れてきて、バスの前方が見えなくなるくらいになった。後で地図を見ると、左の山の方に景行天皇の高屋宮跡のあるという黒貫寺があり、その向こうに都於郡城跡のある小山があった。「我が家の方ゆ 雲居立ち来も」、景行天皇がこの歌を詠まれたのは史実であったと確信している。 

景行天皇が遊ばれた丹裳小野こそ、西都原古墳群一帯であり、平群が平郡で、野中の大石こそ都於郡城跡のある小山である。邪馬台国は都於郡城跡から眺められる所に存在していたと空想出来る。さて舞台はそろった。登場人物は景行天皇と妻の御刀媛、そして子供達である。もう一度、「国思歌」を味わっていただきたい。

「ああ、すばらしい眺めだ、わが家の方から、雲がわいて流れてくることよ。わが先祖の故郷、邪馬台国は最もすぐれ国だなあ。青々とした山が重なり、垣のように包んでいる。邪馬台はすばらしく美しい。生命力の溢れた子供達よ、この平群の山の白橿の枝を、髪飾りとして髪に挿せ。わが子よ。」 

景行天皇が野中の大石に登られ、「国のまほろば」と褒め讃えたのは、磐余彦尊の故郷、邪馬台国の都であった。邪馬台国は日向に存在した。そして、卑弥呼の息子、磐余彦尊は東征した。
                       (神武東征については後で記載する)                                    
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