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10-1.魏はなぜ丹を欲しがったか [10.三角縁神獣鏡の故郷は莱州]

中国人が最も好む赤色の最高級顔料が丹()であり、これらは丹砂(朱砂・辰砂)と呼ばれている。前漢の『淮南萬華術子』には「丹砂は鴻(汞:水銀)を為す」とあるように、丹砂から水銀を取り出すことは前漢の時代以前から知られていた。水銀は金属の中でも特異な存在で、液体であって金や銀を溶かし込みアマルガムを作る性質がある。金のアマルガムを青銅器塗り、それを焼けば水銀が蒸気となって抜け、青銅器が金メッキされる。前漢時代の金メッキされた青銅器が多数出土している。 

このように有用な丹は、前漢時代に神仙思想の道教と結び付き、錬金・錬丹術が方士により行われるようになった。錬金術とは丹で金銀などの貴金属を造りだすことであり、この黄金を食器とすれば寿命を延ばすことが出来ると信じられていた。錬丹術とは丹で不老不死の薬・仙丹を作ることである。この神仙思想を背景とする道教は、後漢を滅ぼす原因ともなった黄巾党の乱に関わりがあったにもかかわらず、魏の曹操が優れた術を持つ多くの方士を都に呼び寄せている。魏は方士を使って、錬金術で丹から金を作り出そうと考えたと思う。それ程、魏は金に飢えていたのである。

図25先秦の産金地.jpg図25は先秦時代(戦国時代とそれ以前)の砂金の産金地を示す。この図は地質ニュース333号、「
春秋以前の中国の金属鉱業」、岸本文男を参照・加筆した。これら産金地は、全て三国時代の魏の領域にあった。砂金鉱床は河川の表土のみであり、鉱床の寿命は短い。先秦時代(殷・周・春秋・戦国)で約1200年間、そして秦・前漢・新・後漢の450年間、砂金を採り続けていたならば、三国時代には魏の領域では、砂金の採れる河川はなかったと思われる。魏志明帝紀の青龍三年に、都洛陽から1500㎞離れた張掖郡(甘粛省:図25左上)の金山で、彫物のある大きな青石が出たとの記事がある。魏は金    (図をクリックすると大きくなります)
を探していたのであろう。図25の産金地以外で砂金の取れる
河川は、湖南省沅江、四川省の嘉陵江、雲南省の金沙江で、
いずれも呉と蜀の領域である。 

10-2.丹砂を化して黄金となす [10.三角縁神獣鏡の故郷は莱州]

古代には金の採集は砂金のみで、中世に行われた「鉱石を砕き、水銀を加えてアマルガムを作り、それを焼いて水銀を飛ばして金を得る」、金鉱石の製錬は行われていなかった。しかし、この技術は古代の金メッキと同じであり、金が含まれた鉱石の存在を知ったならば、金鉱石の製錬が十分可能だったと考える。ヨーロッパの錬金術は、銅・鉄・錫などを金に変えることを目的としたが、中国の錬金術は鉱石から金を取り出す事にあったと思われる。ただ、それらは道教の方士により、秘密の技とされていたであろう。 

この金を作り出した人物が、前漢で最も権勢をふるった武帝(前140~前87)に登用された方士欒大だ。彼は「丹沙を化して黄金とし、黄河の水をふさぎ、不死の薬を手に入れ、仙人を降ろす事が出来る」と言って、1ヶ月の間に4個の金印を作った。これを喜んだ武帝は、欒大に4つの将軍職を与え、自分の娘を娶らせている。
 

欒大は山東半島にある膠東国の尚方であった。この「尚方」について唐の学者の顔師古は「方薬をつかさどる官」と注釈している。彼が仕えた康王は、武帝とは異母兄弟で、武帝も皇太子の時には膠東王であった。膠東国は宮廷と強く結びついた国であり、宮廷の方薬を作る出先機関の「尚方」があったと考える。欒大の妻は彼の住んでいる邑の名を取り当利公主と呼ばれた。当利は膠東国の西北端(莱州市沙河鎮南王家村)にあった。この近くの東莱山では、武帝が探し求めた、仙薬に使う最高の薬草、芝草(霊芝)が採れたと史記に記載されている。東莱山は莱州市から東5mの大基山(莱州市)、または南20kmの大澤山(平度市)と言われている。
 

方士は丹砂に色々な鉱物を入れて、仙薬の金丹を作っていた。欒大は偶然に金鉱石を用いて、「丹沙を化して黄金とする」ことが出来たのであろう。しかし「黄河の水をふさぐ」とか「仙人を降ろす」などは大ボラで、これらがバレて武帝に殺されている。後漢の中頃に班固が書いた漢書には、史記と同じように欒大のことを書いてある。これを見た魏の官吏は、東莱山付近に尚方を置き、方士に錬金・錬丹の術で黄金と仙薬を造り出すことを命じたと考える。そのためには、丹砂が必要であった。
 

図26平度金鉱山.jpg大澤山の東10kmに明の時代に開坑せられていた平度金鉱山がある。この鉱山の校区には砂金地もあるそうで、鉱脈は地表近くにあると推定出来る。日本は大一次世界大戦後、山東省の権益をドイツから継承した。その時鉱山の調査もなされ、平度金鉱山のことは、それらの資料に載っている。図26は山東省の招遠から掖県(莱洲)における金鉱床(
◐)を示す。これらは地質ニュース436号、「中国の鉱物資源」、岸本文男を参照・加筆したものである。この地区は金の鉱床が多く、現在では山東省が中国一の金の産地になっている。

10-3.東莱山の尚方で9寸の鏡を作る [10.三角縁神獣鏡の故郷は莱州]

晋の葛洪(283~343年)は「抱朴子」に神仙の術や錬丹の術を書いている。その抱朴子の巻十五雑応には「明鏡の九寸以上を用いて自ら照らし思在する」とあり、巻十七登渉には「古の入山の道士は、皆明鏡の径九寸以上なるものを以て、背後に懸る」とある。方士が金丹を造り出すためには、直系九寸(21.cm)以上の鏡で身を守る必要があった。尚方で九寸の鏡を作るために、洛陽から鏡の師を呼び、近くの徐州から銅を取り寄せた。鉛と錫は入手出来たのが僅かであった。  

黄金を造るためには丹砂が必要不可欠である。そこで丹砂の情報を集めるために、手みやげ品の鏡を青龍三年(235年)に作った。師が洛陽より持って来た方格規矩鏡を参考にして、見た通りの模様を鋳型に刻んだ。そのため、鏡ではHVLのLの字が反対を向いてしまった。鈕孔は丸よりも長方形にすると鋳型が傷まなかった。

図27渤海航路.jpgこれらの鏡は幽州の丹砂情報を得るため、東莱郡治所の黄県の港(竜口市)から船で碣石(秦皇島市)に持ち込まれた。黄県と碣石間の航路は戦国時代から開けていたようで、前漢の武帝もこの航路を通っている。図27の古代渤海航路概念図は「渤海紀行 古代中国の港を求めて」、髙見玄一郎、ぎょうせい、より参照・加筆した。福永伸哉氏の「三角縁神獣鏡の研究」によると、前漢や新の方格規矩鏡とは逆の正L字文を持ち、鈕孔が長方形の鏡が、幽州の秦皇島市撫寧県から2枚、北京市順義県と保定市易県から各1枚出土している。こららの地は、いずれも碣石(秦皇島市)の近くである。また、公孫氏の本拠地の遼寧省の遼陽からも1枚出土している。橿原考古学研究所所長  (図をクリックすると大きくなります)
の菅谷文則氏は山東省の691面の銅鏡の調査を行い、その中
に長方形の鈕孔を持つ鏡を見つけている。
 

方格規矩鏡の一部は船で黄県より遼東半島・帯方郡を経由して倭国へと運ばれた。帯方郡は公孫氏の管轄下にあったが、商売ベースの物の取引には問題はなかった。魏の使者はこれらの鏡を倭国の伊都国に届け、丹砂・鉛(方鉛鉱)・錫(錫石)、および真珠を集めておくように、それを帝に献上すれば何倍ものお返しが貰える事を伝えた。錫も魏の国では手に入らない資源であった。使者が倭国を訪れた事は、中華思想のため公式記録には載らなかった。
 

我国では、青龍三年銘を持つ正L字文・長方形鈕孔の方格規矩鏡が高槻市の安満宮山古墳、京丹後市の大田南5号墳から各1面が出土している。正L字文・長方形鈕孔の方格規矩鏡は、京都府の椿井大塚山古墳、福岡県津古生掛古墳、熊本県向野田古墳、鳥取県馬山4号墳から各1面が出土している。
 

10-4.三角縁神獣鏡は劉夏のデザイン [10.三角縁神獣鏡の故郷は莱州]

景初二年、帯方郡が魏の直轄地になると、献上品を持って直ちに朝貢しなさいという情報が倭国に入った。景初二年六月、邪馬台国の卑弥呼の使者難升米と都市牛利は、生口男4人・女6人を連れて、真珠・丹・鉛各50斤と班布2匹2丈の献上品を携え、帯方太守劉夏のもとを訪れ、天子に朝献する事を求めた。そして、「邪馬台国の後ろ楯に魏の国があることを、国中の人に伝えるために、大きな鏡がたくさん欲しい」と難升米は劉夏に訴えた。劉夏は東莱郡掖県の出身であった(晋書巻45に侯史光の経歴中に記載あり)ので、尚方で九寸の鏡が作られているのを知っており、「倭国に与える鏡は、洛陽の尚方で製作した皇帝や皇族用の立派な鏡よりも、東莱山の尚方で作る方士向けの九寸の鏡を多く与える方が良い」との上申書を、難升米に同行した吏将に託づけた。 なお、帯方郡から都・洛陽に向かうには、遼東半島の大連から山東半島の竜口まで船で渡り、陸路済南まで行き、黄河を船で遡っる行程であった。

景初二年秋になって、都より帯方太守劉夏に命令書が届いた。それには「邪馬台国の女王卑弥呼に百枚の鏡を与えることが決まったこと、その鏡は東莱山の尚方で作る九寸の鏡にすること、劉夏は東莱山の尚方の責任者になること、帯方太守は弓遵にすること」であった。劉夏は早速故郷の東莱郡掖県(莱州)に帰り、尚方の監督にあたった。邪馬台国の女王に与える鏡は、方士の用いる直系9寸とし、鏡のデザインとしては、三角縁画像鏡と画文帯神獣鏡を組合わせ、見栄えのする三角縁神獣鏡を考案した。
 

翌々年には帯方太守弓遵が使者を倭国に派遣して、倭王に詔書・印綬と鏡百枚を授ける事が決まっていたので、鏡百枚の製作期間は1年程かなく、納期に間に合わす事に必死であった。鈕孔を長方形にする方法を採用したので、鋳型が傷む事が少なく、一つの鏡笵から5面程度の鏡が製作出来た。最初に景初三年銘の画文帯神獣鏡を作ってから、新しいデザインの三角縁神獣鏡に取り組み、景初三年銘を刻んだ鏡を作った。景初三年正月に明帝が亡くなっていたので、翌年は年号が変わるはずであった。年が明けて、倭王に授ける年号を刻んだ鏡を作りたいと考えたが、正月が明けても新しい年号が分からず、景初四年の銘を小さな斜縁盤龍鏡に刻んだ。納期ぎりぎりなって、年号が分かったので、三角縁神獣鏡に正始元年の銘を刻む事が出来きた。出来上がった鏡百枚は、ただちに洛陽に届けられた。

三角縁神獣鏡には「尚方」と刻まれた文字を含む銘文を持つ鏡が3面ある。尚方とは、漢代の宮廷機関の一つで、宮中で使用する器物(武器・装飾品・青銅器)を製作する官営工房で、都である洛陽に存在していた。三角縁神獣鏡は模様の仕上りが粗雑で、銘文には誤字や脱字が多く、尚方の製作品ではないと疑われていたが、その理由は東莱山の尚方で作ったからであった。また、直径が明確な三角縁神獣鏡490枚は、最小17.0cm、最大25.9cm、平均22.2cmである。三角縁神獣鏡は方士が使う九寸(21.7cm)を意識して作られている。黒塚古墳に見られるように、三角縁神獣鏡が棺の外に立て掛けられるのは、「径九寸以上の鏡を背後に懸ける」という、方士の神仙思想が伝わったものであると考えられる。中国で三角縁神獣鏡が1面も出土しないのは、倭国のための特注品であったことも一因であるが、9寸の鏡は方士が使ったもので、王族・皇族などの墓には副葬されることがなかったからであろう。

景初2年6月に帯方郡に到り、12月に洛陽で魏王に謁見した難升米と都市牛利は、翌々年の正始元年に帯方郡太守弓遵の使者と共に帰国している。正始元年に卑弥呼が受け取った鏡に、倭国への特注品である景初三年銘と正始元年銘の三角縁神獣鏡があり、また正式には存在しな景初四年銘の鏡が含まれている。これらを満足出来る製作地は少ない。都・洛陽の近くでは景初四年銘の鏡はあり得ない。帯方郡では方士の使う9寸の鏡の発想が出てこないであろし、また出来上がった鏡を洛陽に届け、回賜の品として包装封泥するのには、日程上困難であると思う。山東半島は前漢の時代から鏡作りが盛んであり、神仙の方士が活躍した地でもある。また、交通の便は、済南から洛陽まで黄河を船で遡上でき、それほどの日程を要しない。三角縁神獣鏡の製作地としての条件を満足している。


10-5.紀年銘鏡が地方の古墳から出土 [10.三角縁神獣鏡の故郷は莱州]

図28錫鉱床.jpg正始4年以後も、倭国は大和の宇陀の丹砂が採れるようになったので、頻繁に丹砂を持って朝貢し、倭国内で人気の高い三角縁神獣鏡と交換した。263年に魏が蜀を滅ぼし、魏は金・錫が手に入るようになったので、東莱山の尚方での三角縁神獣鏡の製作は、266年の壱与の朝貢が最後となった。図28は中国の主な錫鉱床の分布である。地質ニュース435号、「中国の鉱物資源」、岸本文男を参照・加筆した。錫は呉領域に集中、蜀の領域にもあるが、魏の領域には全くない。魏にとって錫も輸入しなければならない、貴重な材料であった。 
                             (図をクリックすると大きくなります)

卑弥呼が初めての朝貢で手に入れた魏の紀年鏡が、本来権力者に渡ったはずと思われるが、あに図らんや地方の小さな古墳から出土している。景初四年鏡が出土した広峯15号墳がある福知山市には、由良川が流れており、上流には錫石が出る鐘打鉱山がある。正始元年鏡が出土した森尾古墳がある豊岡市には円山川が流れており、その上流には錫石が出る明延鉱山がある。同じ鏡が出土した竹島古墳(周南市)は、錫を産出する喜和田・玖珂鉱山から約30kmの地にある。また群馬県高崎市の蟹沢古墳近くには、その支流に丹生川のある鏑川が流れ込んでいる。卑弥呼が初めて貰った百枚の鏡は、錫石や丹砂の入手のため大和王権の崇神天皇(壱与)によって配られたと思われる。

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