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55-3.武内宿禰七人の息子の検証 [55.武内宿禰は実在した]

武内宿禰の宿禰が実在し、その誕生は302年であった。大臣として景行天皇・成務天皇・仲哀天皇・神功皇后・応神天皇に仕えて活躍した。武内宿禰の子供については、『日本書紀』には平群木菟宿禰のみの記載しかないが、『古事記』には「建宿禰の子は、男七人・女二人の九名。波多八代宿禰、次に許勢小柄宿禰、次に蘇賀石河宿禰、次に平群都久宿禰者、次に木角宿禰、次に久米能摩伊刀比賣、次に怒能伊呂比賣、次に葛城長江曾都毘古、又若子宿禰。」とある。『新撰姓氏録』には、武内宿禰あるいはその息子を始祖と仰ぐ65の氏族があり、全体の5.5%を占めている。

『古事記』の武内宿禰の息子達の記事が正しいか「縮900年表」でもって検証してみる。その手掛かりは、男性に子供が生まれる時の年齢は18歳から53歳まで、孫が生まれる時の年齢は38歳から100歳まで、職務に携わる年齢は、国政を担うのは23歳から63歳まで、海外(朝鮮半島)への派遣は23歳から57歳まで、女性が皇后・妃となるのは18歳か30歳までと仮定した。『日本書紀』に記載された年号は、最後部に示している
「縮900年表による日本書紀年号の西暦変換表」(表Z83)により西暦に変換している。

Z97.武内宿禰息子.png『古事記』で武内宿禰の息子としてある七人のうち、『日本書紀』に登場するのは、羽田矢代宿禰(波多八代宿禰)、石川宿禰(蘇賀石河宿禰)、平群木菟宿禰(平群都久宿禰者)、紀角宿禰(木角宿禰)、葛城襲津彦(葛城長江曾都毘古)の五人である。この五人が『日本書紀』に登場する年代を表 Z97に示す。〇は本人の活躍を示し、*は名前のみの記載を示す。応神3年の記事には「百濟の辰斯王が立って、貴国の天皇に対して礼を失した。そこで紀角宿禰・羽田矢代宿禰・石川宿禰・平群木菟宿禰を遣わして、その礼のないことを叱責した。それによって、百濟国は辰斯王を殺して謝罪した。紀角宿禰らは、阿花を王に立て帰国した。」とある。五人のうち四人が392年(応神3年)に百済に派遣されている。

『三国史記』百済本紀の392年には、「辰斯王は狗原で田猟していたが十日経っても帰ってこなかった。王が狗原の行宮で薨去した。辰斯王が薨去したので阿華王(阿花王)が即位した。」とある。応神3年は『日本書紀』の編年では272年になるが、干支2廻り120年戻すと392年となり、『日本書紀』の記事と『三国史記』の記事が一致する。二つの記事を合わせれば、辰斯王は狗原で殺害されたことが読み取れる。紀角宿禰・羽田矢代宿禰・石川宿禰・平群木菟宿禰の四人が、392年に百済に派遣された時の年齢を23歳から57歳として誕生の年を求め、そのとき武内宿禰(誕生302年)が何歳であるかを表98に示した。表Z98からは、四人が百済に派遣された時の年齢が40歳以上であれば、武内宿禰の息子であると言えることが読み取れる。

Z98.百済派遣4人.png葛城襲津彦は、351年(神功5年)に新羅に派遣されている。『日本書紀』神功5年の記事は、「新羅王(波沙寐錦)は三人の使者を遣わして朝貢して来た。そして、人質の微叱許智旱岐の一時帰国を願い出た。神功皇后はそれを許し葛城襲津彦を付き添わせ遣わした。新羅の使者は対馬で襲津彦を欺き、微叱許智を奪還して、配していた船で新羅に逃れさせた。襲津彦は新羅に行き蹈鞴津(多大浦)に泊り、草羅城を攻め落として帰還した。この時の捕虜は桑原・佐糜・高宮・忍海などの四っの邑の漢人らの始祖である。」とある。

『日本書紀』は、仲哀9年(346年)に神功皇后が攻め込んだ新羅の王の名を「波沙寐錦」と書いている。「寐錦」が新羅王を表すということを歴史学者(日本・韓国・中国)が知ったのは、1978年に韓国の忠清北道忠州市で発見された中原高句麗碑からである。あの有名な好太王碑にも永楽十年
(400年)の記事に「新羅寐錦」の刻字があったが、日中韓の歴史学者は「新羅安錦」と読んでいた。日本書紀は歴史学者より「寐錦」の言葉を正確に伝えており、神功皇后の新羅征伐が史実であった証拠であると考える。それゆえ、神功5年(351年)の記事も史実であると考える

武内宿禰の六男である
葛城襲津彦が351年に23歳で新羅に派遣されたとすると、兄の紀角宿禰・羽田矢代宿禰・石川宿禰・平群木菟宿禰の四人が百済に派遣された392年には、葛城襲津彦は64歳である。当然、兄の四人も64歳以上となる。そうなると、四人と武内宿禰の親子関係は成り立つが、百済・加羅・新羅に派遣されるのは57歳までとする仮定に反する。もちろん例外はあるだろうが、四人全員となると『古事記』の記述を疑いたくなる。羽田矢代宿禰・石川宿禰・平群木菟宿禰・紀角宿禰・葛城襲津彦が、武内宿禰の息子ならば兄弟関係(長男から七男)の順序が違うとか、五人の中には武内宿禰の息子でなく孫が入っているとか、『古事記』の記述に間違いがあるのであろう。

Z83.縮年表西暦変換表.png

 


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明日語郎

葛城襲津彦の支援を受けた、息長足姫の新羅遠征が、いつ終わり、いつ佐紀へ凱旋したのかを調べていたら、貴殿のサイトを拝見しました。貴国の有無とその場所もわからず、右往左往を何年も繰り返しています。本題は、平群王国と倭の五王国の九州において起きたであろう、対決を調べているのですが、少し気が付いたので、メールしました。武内宿禰が長い年月登場するのですが、富士林雅樹さんによると、武内宿禰は武内大田彦で、物部活目と卑弥呼(=宇佐の豊玉姫)の連合国が240年頃、吉備・出雲・東鯷国へ東侵する直前まで、この連合国の臣下であった、としています。このあと活目から暗殺指令が出て、大田彦は出雲の富家を頼って逃げて没したとしています。さぼ@青人草さんは、葛城襲津彦はその三代後の武内宿禰で、移住をした日向王としています。したがって、武内宿禰が302年生まれは、間違いではないかと思います。
by 明日語郎 (2023-12-05 16:23) 

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