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16.黄金の国、新羅の謎を解く ブログトップ

16-1.新羅は金銀の宝の国か [16.黄金の国、新羅の謎を解く]

神功皇后が新羅征伐を決意したのは神の啓示を得たからであった。「天皇はどうして熊襲の従わないのを憂えられるのか、そこは荒れて痩せた地である。戦いをして討つに足りない。この国よりも勝って宝のある国、例えば処女の眉のように海上に見える国がある。目に眩い金・銀・彩色などが沢山ある。これを新羅の国という。もしよく自分を祀ったら、刀に血ぬらないで、その国は服従するだろう。」 

津田氏は次のように言っている。「書紀には『宝国』とも『金銀彩色多在其国』ともある。ところが外国は大抵の場合に金銀の国、宝の国として書紀には記載されているので、新羅に限ったことでも無く、またこの物語のみのことでも無い。例えば、神代紀の上巻に引いてある一書には『韓郷之島、是有金銀』とあり、・・・中略・・・海外を金銀珍宝の国とするのは、楽浪帯方に交通して支那の工芸品を輸入していたツクシ人以来の考えではあろうが、ヤマトの朝廷の外国観がそれから直接に継承せられたものかどうかは疑わしい。・・・中略・・・百済は帯方の故地を領有して、その地のシナ人を臣民とし、また或る点までその文化を継承したろうと想像せられるから、ヤマト人の目に映じた百済は、早くから珍宝の国であったかも知れないが、新羅が初めからそれと同様にみなされていたかどうかは、問題である。」
 

図44金冠圧縮.jpgそして「新羅を宝の国としてあるのも、また服従の表示として調貢を上るという話があり、それに重きが置かれているのも、新羅の文化が発達して調貢品がよくなった時代の思想であろう。そうして新羅に文化の発達しかけたのは、大体、智證王・法興王の治世(6世紀初期、継体天皇の世に当たる)ごろからのことであろうから、この話の形成せられた時代も、ほぼ推測が出来る。」と、6世紀より以前には、新羅に黄金文化がないとしている。
 

韓国の朴大統領は国家のアイデンティティ高揚のため、慶州の考古学的発掘を指示し、1973年に大陵苑古墳群にある天馬塚(円墳:高さ28m、直系47m)が皇南大塚の発掘の予備調査として行われた。この古墳は人頭大の石を積み上げて作られた積石木槨墳で、盗掘が全くされていなかったため、埋葬当時のままの約1万2千点を越える遺物が出土した。出土品を金製品に限って見ると、冠(高さ32㎝)、冠帽(高さ19㎝)、蝶形冠飾(高さ23㎝)、腰帯(長さ110㎝)、耳飾、指輪、腕輪などである。古墳は出土遺物から5世紀末から6世紀初頭に造られたとされている。1975年に発掘された皇南大塚では、金冠や銀製の冠と冠帽が、そして金・銀製の容器や金銀で飾られた武器も出土している。双円墳の皇南大塚は、南墳が先に造られていたようで5世紀中頃、北墳は5世紀後半とされている。
 

図45金帽圧縮.jpg1921年に金冠塚から、天馬塚と同等それ以上の金製冠、冠帽、蝶形冠飾、腰帯、耳飾、指輪、腕輪など発見されている。金冠塚の年代は天馬塚と同じ5世紀末から6世紀初頭に造られとされている。金冠塚の近くの瑞鳳塚(1926年発掘)からも金冠、金製装身具が出土している。瑞鳳塚から、「太歳辛卯」と読める銘文のある銀盒が出土している。「辛卯」の年は391年・451年・511年説が出たが、現在では451年説が有力となっている。金冠塚・瑞鳳塚の発掘には日本の学者も関わりを持っていたから、黄金製品が出土したことを津田氏も知っていたに違いない。瑞鳳塚の「辛卯」の年を511年の智證王の時代と理解されていたと推察する。だから「新羅に文化の発達しかけたのは、大体、智證王・法興王(6世紀初期)ごろから」としたのであろう。
 

この他にも金鈴塚、飾履塚などから黄金製品が出土している。図44は金冠塚出土の金製王冠で、図45は天馬塚出土の金製冠帽の写真である。これらの写真は「朝鮮半島の美術」吉良文男、小学館より引用した。新羅の黄金文化の高さを垣間見ることが出来る。新羅の王冠には硬玉の勾玉が付いている。硬玉は朝鮮半島では産出されず、日本の糸魚川産と考えられている。勾玉の形状からしても日本の物と同じである。

16-2.味鄒王陵と竹の葉の耳飾り [16.黄金の国、新羅の謎を解く]

図46慶州盆地.jpg「韓国の古代遺跡・新羅篇」森浩一監修をみると、黄金の製品が出土する古墳(積石木槨墳)は4世紀の末から6世紀の初めの間に編年されている。私の年表では神功皇后が、新羅には金・銀・彩色が沢山あるとの神託を得たのが352年であり、黄金の製品が出土する古墳の編年が50年遡らなければ、神功皇后の新羅征伐が史実でなくなってしまう。

図46に「韓国の古代遺跡・新羅篇」にある慶州盆地の地図を示す。王京の外にある王陵と古墳群は、その多くが横穴式石室墳である。黄金の製品が出土する積石木槨墳は、王京と書かれた枠内の左上4分の1の地区に多く在る。この地区で唯一被葬者がわかっている古墳が味鄒王陵(竹長陵)である。三国史記によると、第13代味鄒王は262年~284年の在位で、金氏では初代の国王である。                                                                  

味鄒王陵(竹長陵)については、三国史記の第14代儒礼王に次の説話が載っている。「伊西国が侵略して来て金城を攻めた。わが国は総動員して防いだが、撃退することが出来なかった。突然異様な姿の兵隊がやってきた。その数は数えきれないほどで、彼らはみな竹の葉を耳飾りにしており、わが軍とともに賊軍を攻撃し、これを打ち破った。その後、彼らの行き先がわからなかった。人々竹葉数万枚が竹長陵に積み上げてあるのを見て、これが彼らの耳飾りの竹葉でないかとうたがった。このことによって、人々は先王が陰兵をもって、この戦いを援助したのだと思った」。

図47金製耳飾り.jpg図47は慶州から出土した金製の耳飾りである。真ん中に竹の葉の形をした耳飾りがある。味鄒王陵には金製の竹の葉の形をした耳飾りが多数副葬されているのではないかと想像する。残念ながら味鄒王陵はまだ発掘されていない。
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16-3.新羅は金銀を産出したか [16.黄金の国、新羅の謎を解く]

奈良国立博物館は2004年に「黄金の国・新羅―王稜の至宝」と題して、新羅の古墳から出土した副葬品の展示を行っている。そのコメントには「新羅の王朝は黄金製の冠や耳飾りなどの装飾具を製造させた。しかしこの時代の新羅には大きな金鉱は存在しなかったと見られており、これらの黄金は北方の騎馬民族との交易などで得られたのではないかと見られている」とある。 

図48白亜紀金鉱床.jpg新羅が金銀を産出した可能性があるかを調べてみた。古代人が金銀を入手出来るのは、まずは川床から取れる砂金か、もしくは鉱床が地表に出た露頭でしかない。
現代では地下数百メートルの深さの金の鉱床から金の採掘を行っている。古代人が金銀を手にするためには、金銀の鉱床が地上近くに無ければならない。図48は韓国の金鉱床と、鉱床の深度の関係図である。この表をみると、地球年代でみた白亜紀以降の鉱床でなければ、古代人は金銀を手にする事が出来ない事が分る。図48と次の図49は「韓国の金属鉱床の近況について」、石原舜三、地質ニュース407号、1988年より参照・加筆した。 
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図49韓国金鉱床.jpg図49は韓国の金鉱床の分布図である。この金鉱床の内、白亜紀に生成した金鉱床は◆である。これらから、白亜紀の金鉱床は慶州盆地の周辺に多いことが分る。◎印は金銀の遺物が出土した所で、◆の近くにあることが分る。これらより、古代の新羅の人が、砂金を手に入れたのは明らかである。星洲・陜川・高霊・昌寧は伽耶の地であるが、新羅の領域と接近している。

16-4.新羅に黄金文化が花開いた時代 [16.黄金の国、新羅の謎を解く]

幾ら川床に砂金が眠っていても、それを採ろうとするモチベーションがなければ、金の採取には結び付かない。三国志東夷伝の馬韓の条には「不以金銀錦繍為珍」とあり、金や銀、錦や繍は珍重されないとある。新羅の前身の辰韓も同じであつたと推察する。新羅人はいつ金銀を知ったのであろうか。 

奈良国立博物館では、わが国出土の黄金製の装身具も陳列し「日本のものは新羅のものに比べて細工の精度などで数段劣る」とコメントしている。それほど新羅の黄金製品の細工の技術レベルは高いのである。「これらの黄金は北方の騎馬民族との交易などで得られたのではないかと見られている」と、その細工技術も北方の騎馬民族から来ているものと考えられている。三国志東夷伝の高句麗の条には「衣服は皆、錦繍金銀で以って飾る」とあり、また、夫余の条には「以金銀で以て帽子を飾る」とある。高句麗は扶余の別種で、その他多くの点で夫余と同じでと記してあり、高句麗も帽子を金銀で飾っていたであろうと推察する。高句麗では金工人の技術レベルは高かったと思われる。
 
図50母丘倹.jpg
騎馬民族の国・扶余の系統である高句麗の歴史を見ると、三国志よると景初3年に魏の司馬宣王が遼東の公孫淵を討伐した時、高句麗は兵数千人で魏に加勢している。しかし、正始3年には高句麗が魏に反逆して鴨緑江河口付近に侵攻したため、毌丘倹は正始5年(244年)とその翌年に、高句麗の討伐を行っている。図50に毌丘倹の侵略要路を示す。図は『古代朝鮮』、井上秀雄、NHKブックスを参照した。三国史記によると、246年に高句麗は大敗し死者1万8千を出したが、東川王は九死一生を得て帰国し、都を王険に移している。
 毌丘倹が高句麗の都・丸都城を陥落させた245年、都で金細工をしていた工人が兵士共々黄草嶺を通り濊に入り、南下して辰韓との境、現在の蔚珍郡まで逃げて来て住み着いたと推察する。

三国史記に、245年高句麗が新羅北部国境を侵したので、于老が軍隊を率いて出撃したが勝てず、馬頭柵まで退却したとある。馬頭柵の注釈には京畿道抱川郡抱川面(ソウル北北東50㎞)とあるが、新羅北部国境であり得ない。245年の高句麗と新羅の初めての接触は、毌丘倹に追われた蔚珍郡まで逃げ込んだ高句麗兵との接触の事であると考える。
 

蔚珍郡に住みついた高句麗人は、すぐに平海で砂金を見つけたと推察する。図49には慶州の北90㎞にある平海の海岸近くに、白亜紀の金鉱床が存在していることが図示されている。そして、高句麗人は金の細工物で新羅の王族に取り入り、そのリーダーであった金氏一族の味鄒が王族の昔氏の娘を娶り、262年には新羅の王まで上りつめたと想像する。味鄒王は金氏の初めての王であるが、始祖は閼智といって、鶏林(味鄒王陵のある地域)の木の枝にあった金の小箱から出て来たとされている。金氏とは金に関係する氏族であり、味鄒王が金氏の始祖でないかと考える。
 

味鄒王が亡くなる頃には、平海で採れる砂金の量も減り金氏の力は低下し、王位は昔氏に引き継がれた。4世紀になって金氏は洛東江の東岸部で砂金を発見して、勢力を盛り返し、356年に味鄒王の甥である奈勿が王となった。奈勿王(356年~402年)は洛東江の東岸部までを支配下に治め、新羅東部地域で多くの砂金を採る事が出来るようになり、新羅の黄金文化が花開いたと考える。そして新羅の領土拡大で、大伽耶の陜川・高霊にも黄金文化が芽生えた。慶州の黄金文化の最盛期は、5世紀初めから6世紀半ばまでの150年間とされているが、その最盛期は50年遡り、4世紀の半ばから6世紀の初めと考える。新羅で金が採れた事が認知されれば、黄金文化の編年も変わってくるだろう。 

慶州からは日本の土師器と石(くしろ)(4世紀末~5世紀初め)も出土しており、4世紀中頃には新羅と倭国には交易があったと考えられる。味鄒王(262年~284年)の時代に新羅では黄金文化が芽生え、奈勿王(356年~402年)の時代に黄金文化が花開いたとするならば、4世紀半ばに新羅が「宝の国」「金銀が多く在る国」であるという話は、倭国まで伝わっていたであろう。金・銀・彩色を求めた神功皇后の新羅征伐(353年)は史実として成り立つ。

16-5、万葉集に詠われた神功皇后 [16.黄金の国、新羅の謎を解く]

津田氏への反論から離れて、神功皇后存在の可能性を探って見たい。万葉集5-813番に神功皇后を詠った山上憶良の歌がある。

「かけまくは あやに畏し 足日女 神の命 韓国を 向け平らげて 御心を 鎮めたまうと い取らして 齋ひたまいし ま玉なす 二つの石を 世の人に 示したまひて 万代に 言ひ継ぐがねと 海の底 沖つ深江の 海上の 子負の原に 御手づから 置かしたまひて 神ながら 神さびいます 奇御魂 今の現に 貴きろかも」 

口に出して申し上げるのも憚られる。神功皇后様が、新羅の国を平らげて、御心をお鎮めになりたいと、手に取られ、祈願なさった、宝玉のような二つの石を、人々にお示しになり、万代まで語り継ぐようにと、深江の里の、海のほとりの子負の原に、ご自身の手でお置きになって以来、神として神々しく鎮座なさる、この不思議な霊威を持つ御魂の石は、今も目の前にあって、なんとも尊いことよ。
 

この歌には前書きがある。「鎮懐石を詠む歌一首、筑前国怡土郡深江子負原、海に臨ひたる丘の上に二つの石あり。大きなるは長さ1尺2寸6分、小さきは長さ1尺1寸、ともに楕円にして、鶏の子の如し。その美好きこと、勝へ論ふべからず。いはゆる径尺の壁これなり。深江の駅家を去ること二十里ばかり、路頭に近くあり。公私の往来、馬より下りて跪拝まざるは莫し。古老相伝へて曰く、いにしえ息長足日女の命、新羅の国を征討たまひし時、この両つの石を用いて御袖の中に挿著みたまひて、以て鎮懐と為したまふと。所以行人此の石を敬拝すといへり。」
 

書紀には「時がたまたま皇后の臨月になっていた。皇后は石をとって腰にはさみ、お祈りしていわれるのに、『事が終わって還る日に、ここで産まれて欲しい』。その石は筑前怡土郡の道のほとりにある。」と書かれてある。山上憶良の歌は何時詠まれたのだろうか。製作年月は記載がないが、山上憶良は726年に筑前守に任命され、天平2年(730年)に松浦(唐津市)で神功皇后が立ったという魚釣の石を歌に詠んでいる。怡土郡深江は松浦に行く途中にあり、鎮懐石の歌も天平2年に詠まれたのであろう。
 

津田氏は神武天皇から仲哀天皇までの記紀の記載について、「記紀の上代の部分の根拠となっている最初の帝紀旧辞は、6世紀の中頃の我が国の政治形態に基づき、当時の朝廷の思想を以て、皇室の由来とその権威の発展の状態とを語ろうとしたものである。そうしてそれは、少なくとも一世紀以上の長い間に、幾様の考えを以て幾度も潤色せられ或いは変改せられ、記紀の記載となったのである。だから、其の種々の物語なども歴史的事実の記録として認める事は出来ない」と総括を行っている。
 

山上憶良が730年に鎮懐石を見ているのは史実であろう。古事記(712年)は鎮懐石が「筑紫国伊斗村にあり」と記載、書紀(720年)は「筑前怡土郡の道のほとりにある」と記載されており、鎮懐石は記紀が書かれる以前からあったに違いない。神功皇后が創作された人物で、神功皇后の新羅征伐が創作された物語ならば、その創作は大和でなされたと考える。口伝えが主であった時代、大和で創作された物語が九州に伝わり、誰かが創作の物語を史実に見せかけるために伊斗(怡土)に鎮懐石を置き、そして、そのことが大和に伝わって、鎮懐石が伊斗(怡土)にあると記紀に記載される。そんな過程を津田氏は考えておられるのだろうか。それはあまりにも出来すぎた話である。
 

鎮懐石そのものが史実かどうかわからないが、神攻皇后が新羅から還られて、筑紫で応神天皇を産まれたのは史実であると思われる。風土記(肥前・播磨・常陸)にも、神功皇后の名が多数出て来る。また、書紀の神功紀に書かれてある神社(筑紫大三輪・長門住吉・広田・生田・長田)は現存する。神功皇后は実在したのであり、日本書紀の描く古代史は史実を反映していると考える。

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