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66-3.王は楽浪より鉄製武器を手に入れた [66.弥生時代に製鉄はなされたか?]

鋳造鉄斧は甕棺から出土することがなかったが、鉄製の武器(剣・矛・戈)は中期後半の甕棺から出土している。最も早いのが福岡市の吉武樋渡遺跡で61号甕棺のKⅢa(前200~前100)から剣1が、次が飯塚市の立岩遺跡で35号のKⅢb(前100~前50)から剣1・戈1である。それに続くKⅢc(前50~前1)の時代には11遺跡の20基の甕棺から、素環頭大刀2、刀1、剣11、矛3、戈7、刀子1、鉇(ヤリガンナ)3が出土している。もちろん後期の甕棺からも鉄製武器が出土している。『漢書 地理志』には、「楽浪海中倭人有り、分かれて百余国と為す。歳時を以て来り献じ見ゆ」とある。甕棺墓・木棺墓などの墓に副葬された鉄製武器は、倭国の王や首長が紀元前108年に設置された楽浪郡から鏡と一緒に手に入れたものであろう。鉄製武器が倭国に入ってきたのは、弥生中期後葉(前125~1年)以降からである。

 

Z268.弥生中期後期の遺物.png

広島大学の川越哲志氏は「弥生時代鉄器の研究」と題し、平成9年度までに刊行された発掘報告書から弥生時代鉄器資料を抽出して、1998年にその研究成果を報告している。なお、本研究は歴博がAMS法による炭素14年代測定法により、弥生時代の開始を500年遡った紀元前800年頃と発表した以前にまとめられたものであり、その後の広島大学の野島永氏の見解などを基に修正(黄色)している。

  1. 弥生時代の鉄器出土遺跡は、1800遺跡、鉄器数は約8000点以上になり、研究代表者が1970年に集成した201遺跡、542点にくらべると、大幅な増加である。

  2. とくに、3世紀(後期後半、終末期)の鉄器資料が多く、この時期に全国的に鉄器化が進展したといえる。

  3. 出土分布は北部九州が最多で、東にいくほど希薄になり、国内の鉄器やその技術の伝播が北部九州を基点に東方へ拡大したことが明らかである。

  4. 北部九州は弥生時代の開始時期(中期初頭)から鉄器が導入され、中国・四国・近畿地方は中期後葉、中部・関東以北は後期中葉に導入されるが、本州北端までは及ばなかった。

  5. 弥生時代の鉄器の大部分は鍛造品であるが、西日本では中期から中国戦国時代の燕、斉の系譜を引く舶載鋳造鉄器や、その一部分を加工した国産鉄工具があり、鋳造品は関東まで伝えられた。

  6. 生産用具の鉄器化は工具から始まり、農具の鉄器化は遅れて進行した。

  7. 鉄器化の段階には地域性があり、後期になると各地で鉄器の形態、種類、組成に地域性が生じた。

  8. 鉄製武器は中国前漢の馬弩関(馬・武器が関所外に出ることの禁止)の制約から解放された舶載品が中期後葉に北部九州に出現したが、国産の大型鉄剣、鉄刀は後期後半〜終末期に日本海沿岸部に多く、後期後半には関東でも国産小型武器が生産された。

 

我国に燕国から鋳造鉄斧が伝わったのは、弥生中期前葉の紀元前350年頃であり、その鋳造鉄斧は庶民の手に渡っている。王が洛陽から鏡と一緒に鉄製武器を手に入れたのは弥生中期後葉の紀元前100年頃である。我国で製鉄(製錬)が行われるようになったのは、古墳時代後期後半の550年頃であるというのが定説で、鉄の存在を知ってから鉄を産み出すまでに900年かかり、王が鉄器の有用性を知ってからでも、650年もかかったことになる。「弥生時代に製鉄はなされたか?」この議論も火花を散らしている。


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