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47.女王・卑弥呼の誕生前夜 ブログトップ

47-1.甕棺の実年代が倭国の歴史を紐解く [47.女王・卑弥呼の誕生前夜]

古代の我が国は中国から倭国と呼ばれていた。しかし、「倭国」=「日本」ではなく、時代と共に国の形や領域が変遷して来ている。大和王権が全国(除く北海道・北東北・沖縄)を支配下に治めた古墳時代の中頃までは、倭国は連合国であり、その盟主国は奴国・邪馬台国・大和国と変遷していると考える。奴国は福岡平野にあり、大和国は奈良盆地にあったことに異議を唱える人はいないであろう。邪馬台国が何処にあったかは、まだ決着がついていないと思われる。「倭国の誕生と変遷」について、過去の記事を整理して述べて見たい。過去に書いた記事の補強版であるので、重複するところはご容赦願う。また、過去の記事、特に「6.実在した神代の世界」とは違う所・矛盾する所があるが、今後の記事を正解としたい。

「倭国の誕生と変遷」の歴史を紐解くには、中国の史書と考古学的な遺跡・遺物との関わりを明らかにしなければならない。そのためには、弥生時代中期・後期の遺跡・遺物の正確な実年代(暦年代)が必要である。1996年までは考古学者が描いた弥生中期の我が国の歴史は、中期の始まりを紀元前100年頃としていた。1996年に年輪年代法で中期の始まりが紀元前200年頃とされ、2003年の
AMSによる炭素14年代測定法では紀元前400年頃とされた。弥生中期の始まりを紀元前400年頃として、我が国の歴史を考えている考古学者はまだ少ないようだ。我が国の歴史を間違った年代観で紐解いたのでは、邪馬台国の場所を比定することは出来ないと思う。

国立歴史民俗博物館は、日用土器に付着した炭化物を
AMSによる炭素14年代測定を行い、その測定値から導きだした較正年代を、考古学者が長年に渡って積み上げて来た、相対的な序列では正確な土器編年でもって補正して、実年代を伴う弥生時代の土器編年を2009年頃に完成している。この日用土器の編年は、今後測定値の増加により微調整はあるであろうが、信じるに足るものであると私は思っている。しかし、この日用土器の型式編年の実年代だけでは弥生中期・後期の歴史は解明出来ない。

弥生中期・後期の指標となるのは青銅器や鉄器であるが、これらの内、中国や朝鮮と関わりのある剣・矛・戈の武器や鏡は、北部九州の甕棺から多く出土している。甕棺の実年代が明確になれば、弥生中期・後期の倭国の歴史を紐解けるが、日用土器と甕棺の接点は少なく、日用土器の型式編年と甕棺の型式編年の実年代のマッチングは意外となされていない。また、甕棺には炭化物の付着もないことから、甕棺から出土した人骨の
AMSによる炭素14年代測定が数例行われているが、まだ甕棺の実年代を編年するまでには至っていない。甕棺の型式による編年は多くの学者により行われ、相対的な序列は明確になっている。そこで、歴博の炭素14年代測定による日用土器の編年と甕棺の編年を組み合わせ、25年単位の甕棺の実年代の編年表を作成した。

z1.甕棺編年1.png表Z1には中国の史書、『漢書』地理史、『後漢書』倭国伝・王莽伝、『三国志』魏志倭人伝に書かれた倭国の様子と、甕棺に副葬された青銅武器・鉄製武器・鏡の年代を示している。ただし、網掛け表記は甕棺以外に副葬されたもので、斜線は土壙に埋納、横線は石棺墓・土壙墓に副葬されたものである。細形青銅器武器(剣・矛・戈)は中国の戦国時代の初めには我国に伝わり、弥生時代中期が始まっている。中細形青銅武器は我国独自の形式で、我国での青銅器の鋳造開始時期を明確に示すものであるが、それが戦国時代末となっている。紀元前108年に楽浪郡が設置されると、倭人の国々はすぐ接触を試み、漢鏡3期の鏡や鉄製武器が我国へ流入している。紀元前後には殺傷の能力のある細形・中細形の青銅武器は鉄製武器に変わり、青銅武器は中広形・広形の祭祀用に変わって弥生後期が始まっている。これらは考古学者の予想を超える早い年代であり、歴博が導き出した実年代の土器編年については、考古学会では賛否両論のバトルが続いている。



 


47-2.ナ国はイト国に滅ぼされた [47.女王・卑弥呼の誕生前夜]

Z2.甕棺編年2.png

表Z2には中国の史書に書かれた倭国の様子と、その時代の北部九州の主要な遺跡を掲載した。ピンク色は福岡平野とその周辺の遺跡、黄色は糸島平野の遺跡、緑色は唐津湾周辺の遺跡、水色は佐賀平野東部の遺跡である。ピンク色の春日市の須玖岡本遺跡D地点からは30数面の前漢鏡が出土しており、須玖岡本遺跡は「奴国」の王墓と考えられている。黄色の糸島市の三雲南小路1号甕棺からは35面の前漢鏡が、2号甕棺からは22面の前漢鏡が出土しており、三雲南小路遺跡は「伊都国」の王墓と考えられている。魏志倭人伝に書かれた「伊都国」・「奴国」について、邪馬台国の研究者の99%が伊都国は糸島平野(糸島市)、奴国は福岡平野(福岡市・春日市とその周辺)としている。

しかし、これらの遺跡の年代は、倭の国々が楽浪郡に献見した紀元前100年~前50年の頃のことで、卑弥呼の登場より250年以前のことである。奴国の領域とされる福岡平野とその周辺には、西暦57年に「奴国」が後漢の光武帝より印綬を賜って以降、ピンク色の王墓・首長墓の遺跡は存在していない。卑弥呼の時代の「伊都国」・「奴国」を三雲南小路遺跡や須玖岡本遺跡で代表させる訳にはいかない。そのため、魏志倭人伝に書かれた「伊都国」・「奴国」が誕生するまでは、「伊都国」と呼ばれている国は
Z3.志賀島金印出土地.jpg「イト国」、「奴国」は「ナ国」と表記する。

弥生時代の倭国の歴史を解明するキーポイントは、江戸時代に志賀島の小さな石囲いから出土した「漢委奴国王」金印である(図Z3)。志賀島から出土した「漢委奴国王」金印は、『後漢書』東夷伝に「建武中元二年(西暦57年)、倭奴国、奉貢朝賀す。使人自ら大夫と称す。倭国の極南界なり。光武賜うに印綬を以てす。」とあることから、光武帝より賜った金印であることは明白で、問題は金印の出土地、その埋納の仕方が異常であることだ。

Z4.井原鑓溝鏡拓本.png方格規矩鏡が21面以上出土した井原鑓溝遺跡(糸島市:イト国)は江戸時代に発見された遺跡だが、幸いなことに福岡藩の国学者青柳種信が鏡の拓本を採っていた。その拓本からは方格規矩鏡に「漢有善」・「新」・「武順陰陽」・「桼言之」の銘があることが読み取れた(図Z4)。漢鏡研究の第一人者である京都大学教授の岡村秀典氏は、著書『三角縁神獣鏡の時代』で、「漢」は前漢王朝、「新」は王莽の新王朝を指し、「桼」は王莽代に用いられた「七」の別表記であるとして、井原鑓溝遺跡の鏡は紀元前後から王莽の新代にかけての漢鏡4期(紀元前25~後25年)に位置づけられ、『後漢書』王莽伝にある「東夷の王、大海を渡りて、国珍を奉ず」の時代のものとしている。

Y19.漢有善銅.jpg私が台湾の故宮博物館で購入した『中華五千年文物集刊 銅鏡篇上』には、浙江省紹興縣出土の「漢有善銅博局紋鏡」が東漢(後漢)早期の鏡と記載されている。「博局紋鏡」とは方格規矩鏡のことである。この鏡の銘文は「漢有善銅出丹陽・・・左龍右虎備旁 朱爵玄武順陰陽・・・」であり、井原鑓溝遺跡出土の鏡と同じ銘文である。鏡の銘文を写真(図Z5)で見ると「四」の字は「亖」の字であった。「亖」の字は「桼」と同じように、王莽代に用いられた「四」の別表記である。

中国の甘粛省酒泉にある居延烽燧遺跡から発見された前漢代・後漢代の木簡「居延漢簡」には、光武帝建武7年を示す「建武年六月」の紀年銘が書かれた木簡がある。また、中国社会科学院歴史研究所の「謝桂華先生木簡学成就」という
Webサイトを見ると「“亖”とか“桼”の字は、王莽時代に使用が開始され、東漢(後漢)の光武帝建武年間まで継続使用された。」と書かれ、その証拠として「建武五年月」という木簡が存在していると書いてある。これらより、「漢有善銅」銘文の方格規矩鏡は、後漢の光武帝建武年間(西暦25~55年)に製作された鏡であると言える。岡村氏が「紀元前25~後25年」とされる漢鏡4期の鏡は「紀元前25~後50年(正確には55年)」である。イト国王の墓とされる井原鑓溝遺跡の方格規矩鏡は、ナ国が建武中元2年(西暦57年)光武帝より金印と一緒に賜った鏡であると結論付けることが出来る。

Y20.光武帝金印と鏡.png後漢の光武帝よりナ国が下賜された金印が志賀島から出土し、鏡がイト国の王墓・井原鑓溝遺跡から出土する。この謎を私は次のように考える。イト国王はナ国王が後漢の光武帝に使いを遣わしたと知ると、先を越されたと脅威を感じたのであろう。ナ国の使いは光武帝に自らを「大夫」と名乗ったようにナ国の重臣であった。ナ国の重臣が後漢の都・洛陽に行っている隙をついて、イト国王はナ国を滅ぼし、イト国とナ国を合わせた「奴国」が誕生したと考える。ナ国の滅びたことを知らず帰国した重臣は、イト国に船を接収されて鏡を奪われた。重臣は金印のみを持って脱出し志賀島に隠匿した。ナ国王は金印を手にすることが無かったのである。

こう考えると、金印の出土地が志賀島の狭隘な場所で、金印のみが石で囲われて埋納されてあったことも、ナ国の領域においては後漢の光武帝に朝貢した57年以降に王墓に相当する墳墓がないことも、そして、ナ国の領域に光武帝から賜ったであろう漢鏡4期の鏡が出土しないことも、イト国の井原鑓溝遺跡から光武帝建武年間に作られた方格規矩鏡が21面以上も出土することなど全ての説明が付く。

z1.甕棺編年1.png表Z1で注目すべきことは、57年に奴国が後漢に朝貢したあと、卑弥呼が倭王に共立され倭国大乱(147~188年)が終わるまでの間、墳墓に鏡を副葬しても鉄製武器は副葬していないことである。武器や鏡を墳墓に副葬することは、長年行われてきた風習であるが、戦いに備えて武器を温存したと考えられる。これは57年頃にイト国がナ国を滅ぼし、各国に緊張が走った証拠である。


47-3.倭国誕生、倭国王帥升は三代目 [47.女王・卑弥呼の誕生前夜]

Z7 糸島平野の王墓.png

『後漢書』東夷伝には「建武中元二年、倭奴国、奉貢朝賀す。・・・光武賜うに印綬を以てす。」とあり、また「安帝の永初元年、倭国王帥升等、生口百六十人を献じ、請見を願ふ」とある。光武帝の建武中元二年(57年)に朝貢したのは倭奴国王で、安帝の永初元年(107年)の朝貢したのは倭国王である。これらより、倭国が57年から107年の間に誕生したことが分る。私は57年頃にイト国がナ国を統合し「奴国」が誕生したと考えている。その後、奴国は倭国連合の盟主国となり、奴国王が初代の倭国王となった。初代の倭国王の墓は方格規矩鏡が21面以上出土した井原鑓溝遺跡である。107年安帝に朝貢した倭国王帥升は、井原鑓溝遺跡に葬られた初代倭国王の孫にあたり、その墓は糸島平野にある平原遺跡1号墳と考える。この比定が正しければ、平原遺跡1号墳墓の年代は125年前後になる。

Z8.平原遺跡.jpg平原遺跡1号墳(糸島市)は昭和40年(1965年)に発見され、銅鏡39面、ガラス勾玉3個、メノウ菅玉12個、ガラス菅玉30個程度、ガラス連玉・小玉多数、ガラス耳璫2個、鉄素環頭大刀1本が出土している。平原遺跡1号墳の鏡の内訳は、内行花文鏡7面、方格規矩鏡32面、虺竜文鏡1面である。この内の内行花文鏡4面は、径が46㎝と超大型で、弥生時代としては比類ない大きさである。このような大きな鏡は中国からは出土していないこともあって、仿製(国産)鏡とされている。岡村氏は虺竜文鏡1面と方格規矩鏡1面が漢鏡4期、方格規矩鏡31面と内行花文鏡1面が漢鏡5期としている。

平原遺跡の1号墓の築造年代については、弥生時代後期の中頃(西暦100年前後)とする説と、弥生時代後期後半から終末(西暦200年前後)とする説の二つの説があった。その後の平原遺跡周辺の調査で、1号墓の南側で周溝を共有する2号墓が発見され、2号墓は1号墓とほぼ同時期に造られたと推定された。そして2号墓の南側から庄内併行期と見られる土器破片が見つかり、1号墓の造られた年代は弥生時代終末(200年~250年前後)と考えられるようになった。

Z9.平原1号墳全体図.jpg私はこの結論に疑問を持っている。平原遺跡1号墓の周溝からは、弥生後期前半と終末期の土器片が出土している。また、周溝には埋没後に掘られたと考えられている数基の土壙墓が発掘され、これらからは鉄鏃・鉄鉇(ヤリガンナ)・鉄刀子・ノミ状鉄器が出土している。これらからすると、周溝の弥生後期前半の土器片は1号墓が造られた直後のものであり、終末期の土器片は土壙墓が造られた頃のものと考えるのが、事実に即していると思える。しかし、周溝の土器片は無視されている。

年代の決め手になった2号墓南側から土器片は前原
(糸島)市教育委員会の資料によると、「南側の周溝を壊しているみかんの木を植えるための溝から土器片が出土」とある。2号墓の周溝には1号墓の周溝と同じような土壙墓が存在しており、この周溝に存在する弥生終末期の土器片が混入した可能性がある。倭国の歴史解明に重要な役割を果たすであろう平原遺跡1号墓の築造年代を、この土器片に託すわけにはいかない。

z1.甕棺編年1.png弥生時代中期の墳墓に副葬された鏡の型式(表Z1)をみると、漢鏡3期(紀元前100~前25年)の鏡は、紀元前100年から後25年の甕棺に副葬され、漢鏡4期(紀元前25年~後50年)の鏡は、紀元1年から100年の甕棺に副葬されている。中国で盛況な鏡を入手してから墳墓に副葬するまではいずれも50年以内で、3世代以上に渡って伝世することはしていない。平原遺跡1号墓から出土した漢鏡5期(50年~100年)の鏡からすると、築造年代は西暦50年から150年頃と比定することが出来る。平原遺跡1号墓に眠っていたのは、107年に後漢の安帝に朝貢した倭国王帥升と考え、125年頃の墳墓に副葬されたとしても、墳墓から出土した方格規矩鏡の年代、周溝から出土した土器の年代と齟齬はない。

平原遺跡1号墓の西側30mに平原遺跡5号墓がある。墳丘墓や周濠の規模は1号墓の2分の1程度で、墓壙の中央に木棺が据えられていた。主体部からの出土品はなかったが、同地から漢鏡4期(前25~後50年)の異体字銘帯および方格規矩鏡が出土している。5号墓の築造年代は、周溝から出土した土器や追葬された甕棺の型式が桜馬場式であることから、中期末から後期初頭と考えられており、私の編年表では西暦1~75年にあたる。平原遺跡5号墓の築造年代は、井原鑓溝遺跡と平原遺跡1号墓の中間である。

魏志倭人伝には「其の国(倭国)、もとまた男子を以って王となす。住まること七八十年、倭国乱れ、相攻伐すること年を歴たり、すなわち一女子を共立して王となし、名づけて卑弥呼という。」とある。七八十年続いた倭国の男子王は、井原鑓溝遺跡・平原遺跡5号墓・平原遺跡1号墓に葬られた3代の倭国王であろう。平原遺跡1号墓に眠っていたのは、107年に後漢の安帝に朝貢した三代目倭国王の帥升である。


47-4.倭国大乱を解く [47.女王・卑弥呼の誕生前夜]

魏志倭人伝には、「其の國、もとまた男子を以て王と為し、住まること七・八十年。倭國乱れ、相攻伐すること歴年」とある。「其の國」とは倭国のことである。倭国の誕生した57年から、三代目倭国王帥升が亡くなった125年頃までが、倭国王3代で65~70年間となり、魏志倭人伝と概ね合っている。107年に後漢の安帝に朝貢した倭国王帥升は、後漢からも倭国王と認められたことから、倭国連合の範囲を広げるとともに、筑後平野に向かって領土の拡大をはかった。125年頃に倭国王帥升が亡くなり、平原遺跡1号墓に葬られると、倭国の同盟の箍(たが)が外れ、「倭国大乱」が始まったと考える。

『後漢書』東夷伝には、「桓霊の間、倭国大いに乱れ、更相攻伐し、歴年主なし」とある。「桓霊の間」とは147年から188年である。「歴年主なし」は倭国王がいないことを指している。倭国の盟主である奴国が領土の拡大をはかり、倭国大乱が始まると倭国連合は解消され、倭国の盟主であった倭国王は、ただの奴国王に成り下がったのである。

奴国が領土の拡大の野望を持ち、狙いを定めたのは筑後川下流域南岸である。九州の弥生式土器の中心が紀元前後を境に、福岡平野の那珂川流域の須玖式土器から、筑後平野の筑後川下流域南岸の高三潴
(たかみずま)式土器に移っている。このことは、奴国の領域である那珂川流域より、筑後川流域のほうが、稲作が盛んに行われ豊かな実りがあることを示している。奴国はこの豊穣な地域に領土を拡大しようと目論んだのである。

Z10.奴国の筑後侵出.pngイト国がナ国を滅ぼして誕生した奴国の領域は、糸島市・福岡市・春日市とその周辺で、都は糸島平野(糸島市)にあった。倭国王帥升が亡くなった後、筑後川流域に領土を拡大するため、奴国はナ国の都のあった春日丘陵(春日市)の須玖の地に都を移した。そして、春日丘陵(須玖永田・坂本・五反田遺跡)にある青銅器・鉄器・ガラス等の製造所を官営工房とした。なかでも、祭祀用いられる中広形・広形銅矛の生産は、九州のみならず中国・四国地方や対馬さらには朝鮮半島まで交易品として搬出し、奴国の経済を潤した。

しかし、青銅器・鉄器・ガラス等の工業製品は、国家を潤すことは出来るが、国家を経営するまでは至らない。コメが食料となった弥生時代の国の経済は稲作が根本である。奴国は筑後川流域への侵攻を続けた。そして、筑後平野を領土に組み込むと、奴国の都は稲作の中心地である筑後平野(八女市)に置かれた。この地は、佐賀平野東部(吉野ヶ里遺跡)や肥後菊池川流域(方保田東原遺跡)を牽制する場所でもあった。

Z11.広形矛の分布.png弥生後期後半の遺跡では、漢鏡を複数面副葬した墳墓は無い。奴国の都を示す考古学的な手掛かりとして、祭祀に用いたと思われる中広形・広形銅矛に注目する。北部九州においては中広形・広形銅矛は墳墓から出土することはない。出雲の神庭荒神谷遺跡のように、集落から離れたところに土壙を掘って、1本あるいは複数本が埋納されている。中広形・広形銅矛の出土地と本数を調べると、福岡平野山側(春日市・那珂川町)が45本、筑後川下流南側(八女市・広川町)が35本、佐賀平野東部(北茂安町・三田川町)が17本で際立っている。奴国誕生の地で倭国王3代の墳墓がある糸島平野からは、1本の中広形・広形銅矛も出土していない。春日市近辺・八女市近辺に奴国の都があった証拠になると考える。

奴国は筑後平野を領土に組み込み、都を春日丘陵から筑後平野(八女市・その近郊)に遷した。奴国の支配地は福岡平野と筑後平野におよび豊穣を手に入れ、春日丘陵での広形銅矛・鉄器・ガラスの製作で発展し、近隣諸国の中では突出して大きな国となったが、元の倭国連合国の国々の信頼を取り戻すことは出来ず、再び倭国の盟主国に返り咲くことは出来なかった。戦いに辟易とした国々が倭国王に共立したのは、邪馬台国の女王・卑弥呼であった。


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