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74-18.武内宿禰は統一国家誕生の立役者 [74.「記紀」で解く「空白の世紀」の150年]

武内宿禰は景行天皇・成務天皇・仲哀天皇・神功皇后・応神天皇・仁徳天皇に仕え、『書紀』の編年の通り計算すると年齢が265歳余りとなり、伝説上の人物とされている。一方、『新撰姓氏録』は平安時代に編纂された古代氏族名鑑であり、日本古代史の研究に欠かせない史料であるが、武内宿禰あるいはその息子を始祖と仰ぐ65氏族が掲載されており、実在の可能性も伺える。

 

『書紀』で武内宿禰が最後に登場するのは、仁徳50年(413年)の記事で、「河内の人が『茨田堤に雁が子を産みました。』と奏上した。天皇は『朝廷に仕える武内宿禰よ。あなたこそこの世の長生きの人だ。あなたこそ国一番の長寿の人だ。だから尋ねるのだが、この倭の国で、雁が子を産むとあなたはお聞きですか。』と歌を詠まれており、武内宿禰が仁徳朝に存命していた表現となっている。

 

この歌謡は万葉仮名で書かれており、歌の出だしの原文は「多莽耆破屢 宇知能阿曾」で、訓下し文は「たまきはる 内の朝臣」である。「たまきはる」は「内」にかかる枕詞で、「阿曾」が「朝臣」である。「朝臣」を「阿曾」と表記する例は万葉集に3首ある。「朝臣」の文字が登場する初見は、天武13年(684年)の八色姓の詔である。『書紀』は時代考証をしていないため、本文には後世の用語を用いることが多い。しかし、歌謡は伝承そのものであり、『書紀』の述作者が後世の用語を差し挟む余地はない。後世の用語があるとしたら、その歌謡はその用語が使われた時代に詠われたものである。そう考えると、仁徳50年の歌謡は史実でなく、長寿のたとえに武内宿禰を引き合いに出したのであり、413年に武内宿禰が存命していたことにならない。

 

 神功51年に、百済の肖古王が久氐を遣わし朝貢した。皇太后は太子と武宿禰に「わが親交する百済国は、珍しいものなど時をおかず献上してくる。自分はこの誠を見て、常に喜んで用いている。私の後々までも恩恵を加えるように」と仰せられたとある。肖古王の記事は干支2廻り遡らせて挿入しているから、久氐を遣わしたのは371年となる。百済の肖古王の治世は346~375年であり、「新縮900年表」では応神天皇の治世は354~390年である。百済の肖古王が応神天皇に久氐を遣わし371年に朝貢したことは史実であろう。石上神宮の七枝刀の銘文がそれを証明している。神功皇后が存命であったかどうか疑わしい面もあるが、この時の応神天皇の年齢が25歳頃であることからすれば、武宿禰は大臣として371年頃に生存していたと考えられる。

 

武内宿禰の年齢を「縮900年表」に基づき計算してみる。成務3年の記事には、「成務天皇と武内宿禰は同じ日に生まれた」とある。成務前紀には、「成務天皇は景行天皇46年(325年)に24歳で皇太子となった。」とあることからすると、成務天皇と武内宿禰が生まれたのは302年となり、武内宿禰は371年で丁度70歳であり、年齢からして実在の人物であると言える。

 

Z501.室宮山古墳.png允恭5年(448年)の記事には、「葛城襲津彦の孫である玉田宿禰が殯(もがり)の職務を怠り葛城で酒宴をしていた。それを葛城に遣わされた尾張連吾襲に見つかり、その発覚を恐れて吾襲を殺し、武内宿禰の墓域に逃げ込んだ。」とある。この葛城の武内宿禰の墓こそ室宮山古墳と考える。室宮山古墳の古墳年代は三角板革綴短甲(350~470年)と埴輪III式(340~380年)から350~380年である。

武内宿禰は371〜380年に葬られたと思われ、最高に長生きされても79歳である。武内宿禰は実在し、空白の150年の半分を生きぬき、景行天皇・成務天皇・仲哀天皇・神功皇后・応神天皇に仕え、大臣として大和王権を支え、統一国家を作り上げた立役者であったと考える。明治22年(1889)5月1日から昭和33年(1958)10月1日まで、日本銀行発行の壱圓(一円)札に武内宿禰の肖像が使われていた。歴史上の人物として、武内宿禰の肖像は一番長く使われた紙幣だそうだ。武内宿禰を伝説上の人物としてではなく、歴史上の人物として再評価される日がいつか来ると思っている。


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74-19.天皇陵とその年代を探求する [74.「記紀」で解く「空白の世紀」の150年]


「空白の世紀」を解き明かすには、『日本書紀』『古事記』の記述から史実を導き出さねばならない。そのためには、各天皇の時代を明確にしなければならない。天皇陵の所在地は『日本書紀』『古事記』に記載されており、その所在地は両者がほとんど一致している。これらからすると、帝紀・旧辞が作られたであろう欽明朝に、伝承に基づいて陵墓の治定がなされたと考えられる。記紀記載の天皇陵の所在地は大まかにみると、大和・柳本古墳群から佐紀古墳群へ、そして古市・百舌鳥古墳群と移行しているが、それらは考古学の古墳群の変遷と一致しており、記紀が伝承に基づいて陵墓の地を記載している証拠でもある。現在の天皇陵の治定は、その多くが江戸時代になされたもので、現在の考古学からすると、その治定に問題のある天皇陵もある。天皇の崩御の年は「新縮900年表」を採用し、古墳年代は「箸墓250編年」を採用して、天皇崩御年と古墳年代が大きくかけ離れているものは、記紀の記述と大きくかけ離れない地域で天皇陵比定の古墳を見直した。

 

Z502.天皇の没年と陵墓年代.png

「新縮900年表」による天皇と皇后の没年をと御陵の古墳年代(中央値)の関係を上図に示した。赤線はPython(パイソン)というAI(人工知能)などを作るプログラムで計算した回帰直線(中心的な分布傾向を表す直線)である。黒線は天皇と皇后の没年と古墳年代が全く同じであった時の線である。なお、右表の治定の○×は、宮内庁の御陵の治定と古墳が一致しているかどうかを示している。図では、黒線と赤線がほぼ一致している。これは、御陵が生前から造られた寿陵であることを示すばかりか、『書紀』の編年を900年短縮して作成した「新縮900年表」と、9092基の古墳の資料から152種の遺構・遺物の編年を作成した「箸墓260編年2003」が整合性が取れていることを示している。『書紀』は史実を基に書かれたものであり、「新縮900年表」は、史実の年代を示している証拠ではなかろうか。これ以降、各天皇の御陵と古墳の治定・比定、古墳年代の根拠について、神武天皇から欽明天皇までの全ての天皇について記載した。

 

神武天皇陵は畝傍山東北陵とされているが、『書紀』の天武紀にある壬申の乱(672年)の記述に、吹負軍が金綱井に集結したとき、高市県主許梅が神がかりして、「神日本磐余彦天皇の陵に、馬や種々の武器を奉るがよい」と言い、許梅を参拝させ御陵に馬と武器を奉納したとある。金綱井の所在は未詳であるが、私は伊勢街道と上道が出会った桜井市金屋付近と考えている。金屋の南2.Kmの磐余の地に前方後円墳のメスリ山古墳(墳長240m)がある。このメスリ山古墳が神武天皇陵と考えるが、神武天皇は壱与(崇神天皇)に譲位したので、崩御年は不明で陵墓年代比定に採用していない。なお、メスリ山古墳の年代は円筒埴輪式(280~340年)の年代である。

 

崇神天皇陵は山辺道上陵とあり、天理市柳本町の行燈山古墳(墳長242m)に治定されているが、「74-11.吉備に何故、前期前方後円墳が多いのか」で述べたように、崇神天皇は壱与で御間城姫で吉備王の娘であることから、崇神天皇の御陵は天理市の山辺道沿いにある吉備の特殊器台が出土した西殿塚古墳と考えている。西殿塚古墳(墳長234m)の年代は、埴輪I式(260~280年)と都月式埴輪(250~270年)から260~270年で、崇神天皇の崩御は273年である。宮内庁が崇神天皇陵と比定している行燈山古墳は御間城入彦の墓であろう。

 

垂仁天皇陵は菅原伏見陵とあり、奈良市の西南端にある宝来山古墳(墳長234m)に治定されている。宝来山古墳の年代は盾形埴輪(260~600年)と後円部が高い墳形(250~380年)より、260~380年と見られるが年代幅が100年以上あり、陵墓年代比定に採用していない。垂仁天皇の崩御は303年である。『書紀』垂仁32年(291年)の記事には、垂仁天皇の皇后日葉酢媛命が亡くなられたとき、野見宿禰が出雲国の土部百人をよんで、埴土で人や馬や色々の物の形を造って、日葉酢媛命の墓に立て殉死者の替りとした。この土物を名付けて埴輪といったとある。

 

宮内庁は奈良市の佐紀古墳群にある佐紀陵山古墳(墳長234m)を日葉酢媛命の陵に治定している。佐紀陵山古墳の年代は円筒埴輪式から280~340年と言える。『書紀』は、垂仁32年(291年)に日葉酢媛命の墓に立てられた土物を埴輪が起源の起源としているが、円筒埴輪(式)は260年から造られ、埴輪の起源とされる吉備の特殊器台は250年頃から造られている。また、佐紀陵山古墳から出土した形象埴輪(蓋形埴輪・盾形埴輪・家形埴輪)も260年から造られている。『書紀』垂仁32年に記載された日葉酢媛命の墓に立てられた埴輪が起源というのは考古学の観点から違っている。一方、人形や馬形の埴輪の登場は古墳中期の始まりの380年以降であり、埴輪の起源に人や馬の形の形がするものを造

ったというのも考古学の観点から違っている。

 

佐紀陵山古墳は正年間に大掛かりな盗掘事件が発生し復旧工事が行われため、出土遺物の調査・記録が残っている。佐紀陵山古墳の後円部墳頂にある方形壇を取り囲んでひれ付円筒埴輪立てられいる。ひれ付円筒埴輪は人垣を連想させ、『書紀』が記す、殉死者の替りに埴輪を立てたとの伝承が生まれたと想像できる。「新縮900年表」では、日葉酢媛命が亡くなったのは291年で、私の遺構・遺物の編年ではひれ付円筒埴輪の登場は円筒埴輪式と同じ280年である。佐紀陵山古墳がひれ付円筒埴輪の始まりとして、その登場を290年としても、たぶん齟齬をきたすことはないだろう。

 

景行天皇陵は山辺道上陵で、天理市の山辺道にある渋谷向山古墳(墳長300m)に治定されている。渋谷向山古墳の年代は円筒埴輪式の300〜360年で、景行天皇の崩御は334年である。成務天皇陵は狭城盾列陵とあり、奈良市の佐紀古墳群にある佐紀石塚山古墳(墳長218m)に治定されている。佐紀石塚山古墳の年代は、後円部が高い墳形から250~380年と見られるが年代幅が100年以上あり、陵墓年代比定に採用していない。

 

仲哀天皇陵は河内国の長野陵とあり、大阪府藤井寺市の岡ミサンザイ古墳(墳長242m)に治定されている。古墳からは埴輪Ⅴ式が出土しており、埴輪Ⅳ式が出土した応神天皇陵・仁徳天皇陵よりも新しい古墳といえ齟齬がある。古市古墳群の最古の大型前方後円墳である津堂城山古墳(墳長208m)が相応しいという見解が多い。古墳年代は埴輪Ⅱ式(280~340年)と三角板革綴短甲(350~470年)から340~350年と考えられる。仲哀天皇の崩御は346年に筑紫の香椎宮でなくなり、神功皇后が天皇を長野陵に葬ったのは348年で、ピッタリ合っている。神功皇后陵は狭城盾列陵とあり、奈良市の佐紀古墳群の西端の五神神古墳(墳長276m)に治定されている。古墳の年代はひれ付円筒埴輪から280~420年で年代幅が100年以上あり、また、『書紀』の記す神功皇后崩御の年は、摂政を辞めた年の可能性もあり陵墓年代比定に採用していない。

 

応神天皇陵について『書紀』は記載が無い。『古事記』に河内の恵賀の裳伏崗にあるとあり、羽曳野市の誉田御廟山古墳(墳長415m)に治定されている。古墳の年代は埴輪IV式(380~470年)と草摺形埴輪(280~460年)から380~460年とみられるが、外堤外側の溝からTK73型式の須恵器が見つかっていることから、TK73型式(390〜410年)の年代とする。応神天皇崩御の年は390年である。

 

仁徳天皇陵は百舌鳥野陵とあり、堺市の大仙古墳(墳長476m)に治定されている。平成10年には仁徳陵古墳の東側造出から須恵器の大甕(ON46型式)が採取され、年代決定の決め手となり430年〜450年と判定している。仁徳天皇の崩御は430年である。『書紀』仁徳37年(410年)に、皇后磐之媛命を奈良山に葬ったとあり、佐紀古墳群のヒシアゲ古墳(219m)に治定している。古墳年代は埴輪Ⅳ式(380~470年)と草摺形埴輪(280~460年)から380〜460年となる。

 

履中天皇陵は百舌鳥耳原陵とあり、百舌鳥陵山古墳(墳長365m)に治定されている。百舌鳥陵山古墳から円筒埴輪Ⅲ式(340~380年)が出土した。仁徳天皇陵に治定されている大仙古墳の埴輪型式がⅣ式(380~470年)であることから、履中天皇陵を百舌鳥陵山古墳に治定することが考古学的に否定された。私は、履中天皇陵を百舌鳥古墳群のニサンザイ古墳(墳長288m)に比定する。反正天皇陵は耳原陵とあり、百舌鳥古墳群東端の田出井山古墳に治定されている。允恭天皇陵は河内の長野原陵とあり、藤井寺市の市野山古墳(墳長230m)に治定されている。ニサンザイ古墳・田出井山古墳・市野山古墳からはTK208が出土しており、古墳年代は440~460年である。崩御の年は、履中天皇は437年、反正天皇は442年、允恭天皇は460年である。安康天皇陵は菅原伏見陵とされ、奈良市宝来町の方形壇が治定されているが、資料がなく陵墓年代比定に採用していない。

 

雄略天皇陵は河内の丹比高鷲とあり、宮内庁は明治18年に羽曳野市高鷲に円墳の高鷲丸山古墳と方墳の平塚古墳と合わせて前方後円形に修復され雄略天皇陵と治定している。高鷲地区には全国第5位の規模の河内大塚古墳(335m)があり、宮内庁が陵墓参考地として管理している。雄略天皇の治世と、陵墓の所在地、古墳規模から河内大塚古墳が雄略陵と考えることが出来る。河内大塚古墳は後円部の盛土がほぼ出来上がり前方後円墳の形も整っているにも関わらず、前方部の盛り土がなく周濠も浅いことから、未完成の前方後円墳であるという説が出てきた。

 

未完成の河内大塚古墳が雄略天皇の陵墓として造られたことを証明する記事が『書紀』『古事記』に記載されている。『書紀』によると、雄略天皇の後に即位した清寧天皇は、雄略天皇に謀殺された従兄弟の市辺押磐皇子の子供の億計と弘計を発見し宮中に引取った。清寧5年、清寧天皇が亡くなると、弟の弘計は兄の皇太子であった億計(後の仁賢天皇)から天皇の座を譲られ顕宗天皇に即位した。顕宗2年、顕宗天皇は億計皇太子に「わが父王は罪なくして雄略天皇に殺され、屍を野良に捨てられた。仕返しに雄略天皇の墓を壊し、遺骨を砕いて投げ散らしたい。」と言われた。皇太子は「私たち兄弟は清寧天皇から厚い寵愛と深い恩を受けた。雄略天皇は清寧天皇の父である。陵を壊したりすれば、祖霊に仕えることも出来ないし、天下に臨み人民を子とすることも出来ない」と諫めた。そこで、民を使役することをやめられたとある。

 

私は河内大塚古墳が486年に崩御した雄略天皇陵と考える。しかし、古墳の後円部にある「ごぼ石」が横穴式石室の天井石と考えられ、埴輪が無いことからから見瀬丸山古墳と同じ古墳後期後半の年代と見解も出ている。私の編年では、横穴式石室の登場は470年からであり時期的には合っている。未完ならば円筒埴輪が無いことと整合性がとれる。ただ、その他の考古学的資料は乏しく、古墳の年代決定には至らず、陵墓年代比定に採用していない。

 

清寧天皇陵は河内の坂戸原陵と記載され、羽曳野市の白髪山古墳に治定されている。仁賢天皇は埴生坂本陵と記載され、藤井寺市のボケ山古墳に治定されている。両者の年代の決めては埴輪V式(470~600年)と造出(280~550年)で470~550年であり、崩御は清寧天皇は491年で、仁賢天皇が505年である。なお、武烈天皇と顕宗天皇の陵墓は資料に乏しく陵墓年代比定に採用していない。

 

継体天皇陵は藍野陵とされ、茨木市にある大田茶臼山古墳(墳長226m)に治定されているが、須恵器のON46(430〜450年)が出土している。継体天皇の崩御は531年であり、大田茶臼山古墳の年代とかけ離れており、多くの研究者により高槻市にある今城塚古墳(墳長186m)であるとされている。今城塚古墳の年代の決め手は須恵器のTK10から520〜550年である。安閑天皇は古市高屋丘陵とあり、高屋築山古墳に治定されている。古墳年代の決め手は埴輪Ⅴ式(470~600年)とテルテル坊主形墳形(350~580年)で470~580年であり、年代幅100年以上で陵墓年代比定に採用していない。

 

宣化天皇は『書紀』に身狭桃花鳥坂上陵と記され、「身狭」とは現在の奈良県橿原市の畝傍山の南および南東一帯をさす古代地名であり、欽明天皇の陵墓とされている平田梅山古墳(墳長140m)に比定する。欽明天皇陵は檜隈坂合陵と記され、推古20年(612年)の記事には「皇太夫人堅塩媛を檜隈大陵に改葬した。この日、軽の往来で誄の儀式を行った。」とある。この「軽」の地は、見瀬丸山古墳の北側の橿原市大軽町とされ、町内には飛鳥時代の軽寺跡がある。欽明天皇陵については、見瀬丸山古墳(墳長310m)と考える研究者が多い。平田梅山古墳と見瀬丸山古墳からは須恵器TK43が出土しており、古墳年代は550〜579年である。宣化天皇崩御は539年(在位4年)、欽明天皇崩御は571年(在位32年)である。

 

Z502.天皇の没年と陵墓年代.png

再度、天皇・皇后の没年(新縮900年表)と御陵の古墳年代(箸墓250編年2003)を掲げた。両者の関係は45度の直線に近く、『日本書紀』の年代と考古学(古墳の遺構・遺物)の年代が一致していることを示している。本節末尾に掲載した「新縮900年表」と『日本書紀』の対照表は、『日本書紀』の全ての記事の年代を示している。この対象表に従って『日本書紀』の記事を読めば、「記紀」で「空白の世紀」の150年を解明できるばかりか、我が国の古墳時代の歴史を明らかにすることが出来る。

Z502-1.新縮900年表と日本書紀1.png

 

新縮900年表と日本書紀2.png
Z502-3.新縮900年表と日本書紀3.png

 


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