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58.「乙巳の変」で蘇我氏が滅んだ ブログトップ

58-1.聖徳太子の息子・山背大兄王の運命 [58.「乙巳の変」で蘇我氏が滅んだ]

推古34年(626年)に蘇我馬子大臣が72歳で薨去し、息子の蘇我蝦夷が大臣を引き継いだ。推古36年(628年)推古天皇が75歳で崩御された。皇位の継承についての遺言が曖昧であったこともあって、田村皇子(敏達天皇の孫、蝦夷の妹婿)と山背大兄王(聖徳太子の長男、蝦夷の甥)の対立が起こった。山背大兄王は、父の聖徳太子が用明天皇の嫡男(正室の長男)で、推古天皇の皇太子であり、次の天皇に最も近い立場にありながら、推古29年(推古30年?)に亡くなったこともあって、皇位に就きたい気持ちが強かったのであろう。大臣の蘇我蝦夷は独断で皇嗣を決めようと思ったが、群臣が承服しないことを恐れ、夫々の意見を聞いたが、その見解は割れた。最終的には、蝦夷が肩入れをした田村皇子が即位して舒明天皇となった。山背大兄王が天皇になれなかったのは、年齢が田村皇子より若かったためと思われる。皇位を争ったことからすれば、このとき山背大兄王は、少なくとも30歳前後であったのであろう。

 

舒明天皇が崩御された舒明13年(641年)に、再び皇位継承の問題が起こった。天皇家の系譜からすれば、皇位を継承するのは舒明天皇の嫡男である中大兄皇子であったが、16歳で皇位を継げる年齢ではなかった。舒明天皇の長男である古人大兄皇子も、皇位を継げる年齢には達していなかったのだろう。山背大兄王は43歳前後となっており、皇位に付くには十分な年であった。しかしながら、舒明天皇の皇后(敏達天皇の曽孫)が即位して皇極天皇となった。『書紀』は皇極天皇が即位した経緯について記載していないが、蘇我蝦夷大臣の差し金と考えられる。山背大兄王はフラストレーションが溜まったのであろう。

 

皇極天皇のもと蘇我蝦夷は引き続き大臣となったが、息子の入鹿が国政を執り、その権勢は父以上であった。皇極2年(643年)、病気のため朝廷に出仕できない蝦夷は、勝手に紫冠を入鹿に授け、大臣の位であるかのようにさせた。入鹿は独断で古人大兄皇子(舒明天皇の息子)を天皇にしようと謀り、山背大兄王を廃しておかなければ、古人大兄皇子を天皇にすることが出来ないと、皇極2年11月に巨勢徳太臣・土師娑婆連を遣わして、斑鳩の山背大兄王を襲わせた。山背大兄王は妃や子弟を連れ、一旦生駒山に逃れたが、斑鳩寺に帰り自害した。蝦夷は山背大兄王とその一族がすべて滅ぼされたことを聞いて、「入鹿はなんと馬鹿なことをしたのだ。お前の命も危うい。」と怒り罵った。


58-2.「乙巳の変」で滅んだのは蘇我氏本宗家 [58.「乙巳の変」で蘇我氏が滅んだ]

皇極3年(644年)、中臣鎌子連(中臣鎌足)は蘇我臣入鹿が君臣長幼の序をわきまえず、国家を我がものにする野望を抱いていることを憤り、王家の人々と接触し、企てを成し遂げることの出来る英知の人を求めた。そして中大兄皇子に心を寄せたが、心中を打ち明ける機会がなかった。たまたま中大兄が法興寺(飛鳥寺)の槻の木の下で蹴鞠をした時、その仲間に加わった。中臣鎌足は中大兄の皮鞋が鞠とともに脱げ落ちたのを拾い、跪いて差し出した。これより二人は親密になって、互いに隠し立てすることなく、心中を語りあった。また、頻繁に接するのを他人に疑われるのを恐れて、周公・孔子の教えを南淵先生の所で学び、その往還に計画を立てた。そこで鎌足は、中大兄が蘇我倉山田麻呂(入鹿の従兄弟)の娘・遠智娘を妃とすることで、倉山田麻呂臣を助力者としようと提案した。中大兄は大変喜び、それに従った。鎌足は佐伯連小麻呂・葛城稚犬養連網田を中大兄に推挙した。

 

皇極4年(乙巳、645年)6月8日、中大兄は倉山田麻呂臣に密かに「三韓が調(みつぎ)をする日に、その上表文を読み上げてもらいたい。」と語り、入鹿(43歳)惨殺の謀略を打ち明け、麻呂臣は承諾した。6月12日、天皇は大極殿にお出ましになり、古人大兄がその傍らに控えた。鎌足は俳優を使って、入鹿が剣をはずして座すように仕向けた。麻呂臣は進み出て三韓の上表文を読み上げた。その時、中大兄は衛門府に十二の通門を閉めさせ、衛門府に賞禄を与える振りをして、彼らを一箇所に集めた。そして、中大兄は長槍を取って大極殿のわきに隠れ、鎌足は弓矢を持って警護した。

 

Z137.乙巳の変.png中大兄は小麻呂と網田に剣を授け、「一気に切れ」と指示した。倉山田麻呂は上表文が終わろうとしているのに、小麻呂が現れないので不安になり、声を乱し手が震えた。入鹿はそれを不審に思い「どうして震えるのか」と尋ねた。中大兄は小麻呂らが入鹿の威勢に萎縮して、たじろいでいるのを見て「ヤア」と掛声もろとも小麻呂らとともに、剣で入鹿の頭から肩にかけて斬りつけた。入鹿は転がって玉座にたどりつき、「皇位に座すべきは天の御子です。私は何も罪を犯していません。」と申し上げた。天皇は驚き、「何事があってのことか」と尋ねられ、中大兄は「鞍作り(入鹿)は、天の御子をことごとく滅ぼして、皇位を傾けようとした。どうして天孫をもって、鞍作りに代えられましょうか。」と答えた。

 

天皇は立って殿中にお入りになった。皇極天皇の傍にいた古人大兄皇子は私邸に帰り、「韓人が鞍作臣(入鹿)を殺した。」と、人に語り外には出なかった。小麻呂と網田は入鹿を斬り殺した。中大兄は法興寺に入って蝦夷を討つべく準備した。諸々の皇子・王・大夫・臣・連・伴造・国造がこれに従った。中大兄は鞍作臣の屍を蝦夷大人に引き渡した。漢直らが大臣を助けるべく、甲を着け武器を持ち軍陣を設営しようとしたが、高向臣に説得され逃げ去った。蝦夷は誅殺されるにあたり、天皇記・国記・珍宝を焼いたが、船史恵尺が国記を取り中大兄に奉った。中大兄は蝦夷と鞍作の屍を葬ることを許した。14日、皇極天皇は軽皇子(皇極天皇の弟)に譲位した。軽皇子は即位して孝徳天皇となり、中大兄皇子を皇太子に、安部内麻呂臣を左大臣に、蘇我倉山田石川麻呂臣を右大臣に、中臣鎌子連(鎌足)を内臣とした。皇極4年を改め大化元年(乙巳:645年)とした。


58-3.「乙巳の変」の舞台裏、中臣鎌足の策謀 [58.「乙巳の変」で蘇我氏が滅んだ]

「乙巳の変」は、その2年前の皇極2年(643年)に、蘇我入鹿が聖徳太子の息子・山背大兄王とその一族を滅ぼしたことに端を発している。蘇我入鹿に遣わされて、山背大兄王を襲い死に至らしめた巨勢徳太臣は、「乙巳の変」の後に蘇我氏に組した者として、断罪されてもおかしくない人物である。しかし、巨勢徳太臣は大化5年(649年)に、大紫(十九階冠位の第五)を授けられ左大臣に出世している。これには何か陰謀が隠されている気がする。

 

平安時代初期に書かれた『上宮聖徳太子伝補闕記』には、「宗我大臣并びに林臣入鹿、致奴王子の兒・名は軽王、巨勢德太古臣、大臣大伴馬甘連公、中臣鹽屋枚夫等六人、悪逆を発し太子が子孫を計るに至る。男女廿三王、罪無くして害さる。」とある。『上宮聖徳太子伝補闕記』が史料として信頼できるかどうかは別として、少なくとも平安時代初期に、山背大兄王の殺害に、直接的・間接的に関わった人物として、蘇我蝦夷・入鹿以外に、軽皇子・巨勢德太・大伴馬甘(馬飼)・中臣鹽屋枚夫に疑いの目を向けていたことは事実である。軽皇子は後の孝徳天皇であり、大伴馬甘は大伴馬飼(長徳)で、巨勢徳太臣と同様大化5年に小紫を授けられ右大臣となっている。平安時代の人も、蘇我入鹿が山背大兄王を殺し、上宮一族が滅んだ事件には、裏があると感じたのであろう。

 

山背大兄王が蘇我入鹿に滅ぼされた3ヶ月後で、中臣鎌足が中大兄皇子と親密になる以前の皇極3年1月の記事に、「中臣鎌足と軽皇子は以前から親交があった。鎌足が皇子の宮に参上して宿直したとき、妃から丁重なもてなしを受け、舎人に『皇子が天下の王となるのに、いったい誰が逆らえましょうか』と言い、それを聞いた軽皇子は、たいそう喜ばれた。」とある。中臣鎌足は軽皇子(孝徳天皇)を天皇にして、自分自身が蘇我氏に代わり政権の中枢に座そうと考えた。そのための策略の第一が、巨勢德太臣を使って入鹿をそそのかし、入鹿に山背大兄王を殺させることであった。次の天皇を目指している山背大兄王を消し、蘇我入鹿・蝦夷を滅ぼす大義名分を得る、一挙両得の策略であった。蘇我入鹿はまんまと、その策略にはまった。入鹿が山背大兄王を殺したことを聞いて、蝦夷が「入鹿はなんと馬鹿なことをしたのだ。お前の命も危うい。」と怒り罵ったのは、その策略を感じていたのであろう。

 

中臣鎌足の策略の第二は、中大兄皇子を隠れ蓑として、蘇我入鹿・蝦夷を殺害することであった。その振る舞いが横暴な蘇我氏を滅ぼすことで、その主役となる中大兄皇子が、群臣の信を得たとしても、年齢が二十歳前であり天皇になるには程遠い。また、蘇我氏滅亡で古人大兄皇子は後ろ盾を無くすることになり、これもまた一挙両得の策略であった。中臣鎌足は中大兄皇子に近づき親密となり、蘇我氏打倒の計画を打ち明けた。まず初めに行ったのが、蘇我倉山田麻呂を見方に引き入れ、蘇我氏を分断させるために、中大兄皇子が蘇我倉山田麻呂の娘・遠智女を嬪として娶ることであった。蘇我倉山田麻呂は「乙巳の変」において、上表文を読み上げる役目を果たした。

 

また、中臣鎌足は古人大兄皇子を蘇我氏から離反させるために、中大兄皇子に古人大兄皇子の娘・倭姫を娶ることを勧めている。中皇極4年(645年)6月、中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我入鹿を斬殺したとき、皇極天皇の傍にいた古人大兄皇子が私邸に帰り、「韓人が鞍作臣(入鹿)を殺した。」と人に語ったのは、娘婿・中大兄皇子への配慮であった。しかし、大化元年9月に古人大兄皇子は謀反の疑いをかけられて中大兄皇子に殺された。古人大兄皇子の娘・倭姫は天智天皇(中大兄皇子)の皇后となっている。

 

「乙巳の変」の後、皇極天皇は中大兄皇子に譲位しようとしたが、中大兄皇子は中臣鎌足の助言により、叔父(皇極天皇の弟)の軽皇子を推した。軽皇子は「古人大兄皇子は先の天皇の皇子であり、年長である。」と言って固辞したが、古人大兄皇子は「私は出家して吉野に入り、仏道を修めて、天皇をお助けします。」と辞退した。結局、軽皇子が即位して孝徳天皇となり、年号を大化元年(645年)とした。中臣鎌足のもくろみ通りであった。蘇我氏滅亡の全てを中臣鎌足が策謀した。

 

新政権で中大兄皇子は皇太子となり、中臣鎌足は内大臣となっている。蘇我倉山田麻呂は右大臣となったが、大化4年に謀反の疑いをかけられ殺されている。中臣鎌足は、孝徳天皇・斉明天皇(皇極天皇)・天智天皇の三代に内大臣として仕え、政権の中枢にいて権力を行使した。鎌足は蘇我氏に取って代わることができたのである。天智8年(669年)10月に天皇は鎌足の病気を見舞い、大織の冠(冠位二十六階の最高階)と「藤原」の姓を授けられた。その翌日に鎌足は薨去した。中臣鎌足の次男、藤原不比等は元明天皇の和銅元年(708年)に大臣に就任し、藤原氏の黄金時代を築いた。

 

ここで「乙巳の変」の登場人物の年齢を明らかにしておく。「57-2.蘇我蝦夷は炊屋姫尊(推古天皇)の子供」の表Z133で示したように、蝦夷は「乙巳の変」で殺された時は56歳であり、入鹿は36歳前後であったと考えられる。中大兄皇子については、舒明13年(641年)に舒明天皇が崩御されたとき、殯宮で中大兄皇子が16歳で誄を読んだと、『書紀』は記載してあり、これらから「乙巳の変」(645年)を起したとき、中大兄皇子の年齢は20歳であることが分る。

 

一方、中臣鎌足の年齢については、天智8年(669年)の記事には、「藤原内大臣(中臣鎌足)が薨じた。日本世記には『五十歳で私邸にて薨じた。碑は五十六歳で薨じたという。』」とある。鎌足が50歳で薨去したとすれば生年は620年である。鎌足の長男・定恵は白雉4年(653年)に遣唐使の学問僧として中国に渡っており、この時の年齢を18歳以上であったとすると、定恵は鎌足が17歳以下の時に生まれたことになり無理がある。鎌足の享年は56歳で、生誕は614年であったと考える。「乙巳の変」を起したとき、鎌足は32歳で、中大兄皇子より12歳年上である。「乙巳の変」は中臣鎌足が仕切っていたことが明らかである。


58-4.蘇我氏は石川氏に改姓し生き残った [58.「乙巳の変」で蘇我氏が滅んだ]

「乙巳の変」で蘇我本宗家が滅び、蘇我氏で生き残ったのは、中大兄皇子・中臣鎌子らに味方した蘇我倉山田石川麻呂とその兄弟(蘇我倉麻呂の息子)だけである。蘇我倉山田石川麻呂は大化元年(645年)右大臣となるが、大化5年(649年)に異母弟の蘇我日向に謀反を企てていると密告され、天皇の軍に追われて長男・興志のいた山田寺に逃げ込み、息子ともども自殺した。後に蘇我倉山田石川麻呂は冤罪だったことが判明し、蘇我日向は筑紫に左遷された。そして、蘇我倉山田石川麻呂の弟の蘇我連子は、天智天皇のもとで大紫の冠位を賜り、右大臣を務めたが、天智3年5月に亡くなっている。

 

『続日本紀』天平元年(729年)八月に「左大弁従三位石川朝臣石足薨。淡海朝大臣大紫連子之孫。少納言小花下安麻呂之子也。」とある。蘇我連子の息子の安麻呂は「少納言小花下」である。「小花下」の冠位は、大化5年(649年)2月の冠位19階の制で、以前の冠位「小錦」を「小花」として、上・下に2分割したうちの一つである。天智天皇3年(664年)2月の冠位26階の制では「小花」という呼び方を「小錦」に戻した上で、上・中・下に3分割している。安麻呂の官位が「小花下」と後世に残っていることは、天智天皇3年の冠位26階の制では「小花下」より格下になったからであろう。大紫の冠位を賜り、右大臣を務めた父・蘇我連子が亡くなり、息子の安麻呂は冷や飯を食わされたのかもしれない。

 

天智10年(671年)1月、蘇我連子の兄弟の蘇我赤兄臣が左大臣に、蘇我果安が御史大夫(大納言)に就任している。天智10年10月に天智天皇が病に伏し大海人皇子を召したとき、天智天皇に仕えていた蘇我連子の息子の蘇我臣安麻呂は、大海人皇子に「用心してお話しなさいませ」と耳打ちした。大海人皇子は陰謀を察知して、天皇が皇位を授けようとされたのを辞退し、出家して吉野に入った。天智天皇に仕えていた蘇我臣安麻呂が、大海人皇子に見方したのは、処遇に不満を持っていたからであろう。

 

天智10年12月に近江宮で天智天皇が亡くなり、大友皇子が跡を継ぐと、大海人皇子は吉野を出て挙兵して壬申の乱を起こし、大友皇子率いる朝廷軍を破り、大海人皇子は飛鳥浄御原宮で即位して天武天皇となった。大友皇子の側についた蘇我果安は戦に敗れ自殺し、蘇我赤兄は流罪となった。壬申の乱で勝利した大海人皇子(天武天皇)は、武勲のあったものに冠位の加増している。大海人皇子の窮地を救った蘇我臣安麻呂の冠位が「小花下」と後世に残っていることは、安麻呂は壬申の乱の最中、あるいは直後に亡くなっていて、冠位の加増に預からなかったのであろう。

 

『続日本紀』天平元年(729年)八月に「左大弁従三位石川朝臣石足薨。淡海朝大臣大紫連子之孫。少納言小花下安麻呂之子也。」とあり、蘇我安麻呂の息子の石足が、石川氏と改姓したことが窺がえる。天武13年(684年)11月に52氏が朝臣の姓を賜ったとき、52氏の中には蘇我臣の名は無く、石川臣が朝臣を賜与されている。これらより、蘇我氏から石川氏に改姓したのは、天武13年(684年)以前であったことが分る。天武2年(673年) 2月、天武天皇は飛鳥浄御原宮で即位し、正妃・鸕野讃良皇女(持統天皇)を皇后とした。鸕野讃良皇女は天智天皇の第二女で、母の遠智娘は蘇我倉山田石川麻呂の娘である。皇后の支援を得て、蘇我氏から石川氏に改姓し、朝臣の姓を賜ったのであろう。

 

『懐風藻』に石川朝臣石足の漢詩「春苑応詔」が収められており、「従三位左大弁石川朝臣石足 一首 年六十三」とある。「年六十三」は享年と考えられており、天平元年(729年)に63歳で薨去したことから、生年は天智天皇6年(667年)になる。石川臣が朝臣を賜与された天武13年(684年)に、石川石足は18歳であったことが分る。蘇我連子の娘である蘇我娼子が藤原不比等の正妻となっていたこともあり、石川朝臣石足は不比等政権において、和銅元年(708年)正五位上・河内守に叙任され、和銅7年(714年)従四位下、養老3年(719年)従四位上と昇進している。大阪府高槻市真上町の酒垂山より発見された国宝の「金銅石川年足墓誌」には、石川年足は石足の長子で、天平宝字六年(762)9月1日に75歳で薨去したとある。年足の最終官位は御史大夫正三位で、曽祖父・蘇我連子の賜った大紫の冠位と同等の地位まで上り詰めている。蘇我氏本宗家は滅び、生き残ったのは石川氏のみであった。


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