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61-2.シシヨツカ古墳は大伴狭手彦の墓 [61.後期古墳・終末期古墳の被葬者を比定する]

Z174.シシヨツカ古墳推定図.png葛城山西麓にある平石谷の下流より上流へかけて築造された平石古墳群にシシヨツカ古墳・アカハゲ古墳・ツカマリ古墳がある。三基とも3段築成の大型方墳で埋葬施設は花崗岩の切石で造られた横口式石槨であり、いずれの古墳も天皇陵に匹敵する規模である。古墳の築造順位はシシヨツカ古墳→アカハゲ古墳→ツカマリ古墳である。3基の古墳から出土した漆塗籠棺片の漆片から加速度質量分析法(AMS法)によって放射性炭素年代測定が行われた結果からシシヨツカ古墳の築造年代は600年、アカハゲ古墳は625年、ツカマリ古墳は650年と定めることが出来た。

 

大阪府教育委員会の上林四郎氏は、『加納古墳群・平石古墳群』(2012年)の中に「平石古墳群の被葬者像」を掲載している。上林氏は欽明朝から孝徳朝にかけてのおよそ百年間(6世紀中葉~7世紀中葉)を中心として、この地に関連すると思われる4氏族(蘇我氏、波多氏、河辺氏、大伴氏)を抽出し、それぞれの氏族について検討を行い、平石古墳群の被葬者の候補として大伴金村の子であった磐・狭手彦・糠手子・咋子と咋子の長子長徳を挙げている。

 

上林氏は、平石古墳群のある大阪府南河内郡河南町と大伴氏との関係については、『書紀』敏達12年(583年)の記事を挙げている。その要約は「火葦北国造の子であった日羅が百済で高官になり、敏達大王に請われて日本に来るのだが、百済人の随伴者に暗殺される。その時、大伴糠手子連が日羅の妻子や水夫を石川百済村(富田林市新堂・緑ヶ丘付近か)と石川大伴村(富田林市北・南大伴)に置いて、捕縛した百済人らを下百済河田村(富田林市甲田か)に置いた。」という内容であり、三ヶ所の村が大伴氏の勢力範囲であることを如実に示しているとしている。富田林市は平石古墳群のある河南町に隣接する市である。

 

平石古墳群のシシヨツカ古墳・アカハゲ古墳・ツカマリ古墳が大伴金村の子孫の墓であるか検証してみる。大伴氏の系図を見ると、大伴金村の息子は磐・狭手彦・糠手子・咋子の4名としているものと、磐・狭手彦・糠手・阿被布古・宇遅古の5名で、咋子は阿被布古の息子としているもがある。後者の阿被布古・宇遅古は『書紀』には登場しないので、検証のしようがなく、大伴金村の息子は磐・狭手彦・糠手子・咋子の4名として検証する。なお、検証にあたっては、「55-3.武内宿禰7人の息子の検証」で仮定した条件、男性に子供が生まれる時の年齢は18歳から53歳まで、孫が生まれる時の年齢は38歳から100歳まで、職務に携わる年齢は、国政を担うのは23歳から63歳まで、海外(朝鮮半島)への派遣は23歳から57歳まで、女性が皇后・妃となるのは18歳か30歳までを採用した。

 

Z175.大伴金村の生年.png仁賢11年(505年)に仁賢天皇が崩御されたとき、大臣の平群真鳥が国政をほしいままにして日本の王になろうとしたので、大伴金村は真鳥を討伐し武烈天皇を即位させた。金村はその功績で大連となっており、その時の年齢を23歳から40歳と仮定した。金村は武烈・継体・安閑・宣化・欽明天皇に大連として仕えている。最後に大連に就任したのは、宣化4年(539年)である。仁賢11年に28歳で大連になったとすると、宣化4年には63歳である。これらより表Z175に示すように、金村の生年は478年~483年であることが分かる。

 

Z176.金村の息子と孫.png表Z176は、金村の息子、磐・狭手彦・糠手子・咋子が初めて『書紀』に登場する年(初出)に、年齢が23歳から50歳であると仮定すると、息子達の生年が分かる。息子達の誕生の年(生年)に父・金村(生年は478年~483年)が何歳であったかを調べたものである。表176に見るように、磐と狭手彦は金村の息子で、糠手子と咋子は孫であることが分かる。大伴氏の系図では、大伴氏本宗家は大伴金村→咋子→長徳となっている。しかし、咋子は金村の孫であることが明らかで、大伴金村→○→咋子→長徳が本宗家と考えられ、○は磐か狭手彦となる。

 

Z177-Z178.狭手彦.png宣化2年(537年)に磐は筑紫に、狭手彦は任那に派遣されている。磐はそれ以降『書紀』には登場しないが、狭手彦は欽明23年(562年)に数万の兵を率いて高麗(高句麗)を撃破し、勝ちに乗じて宮殿に入って珍宝・財貨などを奪い帰還し、七織帳を天皇に献上し、甲・金飾刀・銅鏤鐘・五色幡と美女媛・従女吾太子を蘇我稲目大臣に送っている。表Z177に示すように、大伴狭手彦の生年は507年~515年であることが分かる。狭手彦と糠手子・咋子・長徳(馬飼)の関係を調べZ178に示した。糠手子と咋子は狭手彦の息子であり、長徳(馬飼)は狭手彦の孫であることが分かる。これらより、大伴金村の子孫、4代の系図(Z179)を作成した。

 

Z179.大供氏系図.png築造年代を600年としたシシヨツカ古墳の被葬者は、大伴狭手彦の墓に比定する。狭手彦の生年は508年~515年であるので、埋葬されるまでに2年かかったとするならば、83歳~90歳で亡くなったことになり、可能性があることが分る。狭手彦は高麗(高句麗)の美女媛と従女吾太子を蘇我稲目大臣に送っている。大伴狭手彦の墓は、570年頃に築造された蘇我稲目の墓、方形階段式の都塚古墳を真似て造られたのであろう。シシヨツカ古墳の横口式石槨は、山背国に住んでいた高麗人・頭霧唎耶陛から花崗岩の切石加工技術、石灰岩を焼いて漆喰を作る方法を習得し造られたと考える。

 

Z180.大伴咋子.png築造年代を625年としたアカハゲ古墳は、大伴狭手彦の息子咋子の墓に比定する。表180にあるように、咋子の生年は549年~565年であり、咋子は58歳~73歳の間でなくなったことになる。築造年代を650年としたツカマリ古墳は、大伴咋子の息子長徳(馬飼)に比定する。長徳が『書紀』に登場する最後は、右大臣に就任した大化5年(649年)であり、歴代朝廷の高官の名を列挙した職員録である『公卿補任』には、白雉2年(651年)に薨去したとある。長徳が亡くなった時期と、古墳の築造時期とピッタリ一致する。平石古墳群のシシヨツカ古墳・アカハゲ古墳・ツカマリ古墳は大伴金村の子孫、狭手彦・咋子・長徳も3代の墓である。


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道臣命

大伴狭手彦の古墳の件、拝見いたしました。大変参考になりました。
さて、文中の「大友氏の系図では、大友氏本宗家は」 大友ではなく大伴ですよね。
確認です。
by 道臣命 (2018-08-19 12:04) 

t-tomu

ご指摘ありがとうございます。早速訂正いたしました。
by t-tomu (2018-08-21 06:31) 

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