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74-4.仁徳天皇は好太王と百済・新羅の覇権を争った  [74.「記紀」で解く「空白の世紀」の150年]

Z481.好太王碑.png中国の歴史に倭国の名が登場しない、空白の150年間(267年~412年)の間で、古代朝鮮の好太王碑に倭国の名が登場してくる。好太王碑は現在の中国の吉林省集安県の鴨緑江中流域の江畔、およそ1キロメートルの所にある。碑は好太王のものと言われる将軍塚と大王陵の中間にあり、その昔高句麗の王都、丸都城のあった地域である。好太王の諡号を省略した「広開土王」という称号が、朝鮮の史書『三国史記』には用いられている。この碑は1880年この地の農民が発見し、1884年(明治17年)に日本陸軍の酒勾景信大尉が、日清戦争の諜報活動の最中に見つけ、この碑文の拓本を得て日本に持ち帰り、参謀本部で読解が行われた。

 

中国の史書は歴史資料として価値が高いが、現在まで伝わっているのは原本でなく写本である。この写本には脱字・脱行・あるいは別の字との置き換わりがなされた可能性がある。この点から考えると、好太王の碑文は古代に刻まれたそのままが残っており、歴史資料としては、一級のものといえる。しかしながら、碑文の倭国に関する事項が、明治から昭和にかけて日本の覇権主義者にとって、都合の良い内容であり、まして、最初の関係者が軍人であったことなどから、改ざんが行われたのではないかと言う説もある。

 

この碑は高句麗の好太王の業績を讃えるため、没後2年に息子の長寿王により、414年に建てられたものである。好太王碑は高さ6.m、幅1.4~1.m。碑には約12cm四方の大きさで、深さ6mm程度の文字が、四面に渡って約1800字刻まれている。碑文は三段からなり、第一段は高句麗の開国伝承と建碑の事情、第二段は王の功績、第三段は墓守(はかもり)りに関するものである。

 

倭国に関する記述があるのは第二段で、好太王が四方に領土を拡大した業績を讃美した部分の中にある。一番初めは「百済と新羅とは、元来(高句麗の)属民であって、もとより朝貢していた。ところが、倭は辛卯の年(391年)に、海を渡って来て百済を破り、東方では新羅を□し、臣民にした。」である。「以辛卯年来渡海」については、従来「辛卯の年に海を渡って来て」と解釈されていたが、「辛卯の年よりこのかた海をわたり」との解釈が西嶋定生氏によりとなえられた。

碑文では好太王が即位した年は明記されていない。ただ好太王の元号「永楽〇年」と干支が記載しており、永楽元年が391年(辛卯)である。『三国史記』では、好太王の元年は392年であるが、碑文の元号から推察できる391年が正しいのであろう。これからすると、「以辛卯年来渡海」については、「辛卯の年よりこのかた海をわたり」との解釈が正しいと思われる。

 

『宋書』倭国伝では、讃(仁徳天皇)が亡くなり438年に朝献した珍(反正天皇)は、「使持節・都督・倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国の諸軍事安東大将軍倭国王」の称号を求め、宋からは「安東大将軍倭国王」のみの称号を与えられている。反正天皇が朝鮮半島の五国に軍事的支配権を求めていることは、仁徳天皇の時代に、朝鮮半島に進出・侵出した実態があったからであろう。

 

仁徳天皇の在位は392年から430年である。高句麗の好太王の在位は392(391)年から413年である。好太王と仁徳天皇は、ほぼ同じ年に即位し、百済と新羅の覇権をめぐって、対峙してきたのであろう。好太王碑文と『書紀』の記事がそれを示している。

「好太王碑」
396年、王は軍を率いて百済国軍を討滅した。・・・百済王は跪き「今より以後、永く奴客と為らん」と誓う。

399年 、百済は誓いを破って倭と和通、高句麗王は平壌に出いた。
新羅の使いが、倭が新羅を壊滅させたと救援を請願した。

400年 、歩騎5万を遣わして新羅を救援。倭はあたり一帯に満ちていたが、官軍が到着する時には退却した。

『書紀』「新縮900年表」

397年、阿花王が立ち倭国に無礼をした。それで東韓の地を奪われた。そのため王子・直支を天朝に遣わして先王の好を修好した。

398年、新羅人の朝貢があった。そこで茨田の堤の役に使われた。

404年、新羅の朝貢なかった。砥田宿禰と賢遣臣を新羅に派遣し詰問。新羅人は恐れ入って貢ぎ物を届けた。貢物は80艘あった。


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