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20-1.鉛同位体比と産地推定 [20.青銅器の鉛同位体比の秘密]

青銅器の産地を比定するために、鉛同位体の測定が行われている。同位体とは同じ元素で質量が違うものを言う。鉛には4種(204Pb,206Pb,207Pb,208Pb)の同位体が存在する。これらの同位体の割合は、鉛鉱床が生成された時により異なるので、鉱山ごとに同位体比が異なっている。青銅器には銅・錫・鉛が含まれており、その鉛の同位体比を測定し、その同位体比が鉱山のものとピッタリあうと、青銅器や鉛製品に使用された鉛の産地が比定出来る。 

馬淵久夫氏や平尾良光氏等は、日本や中国の青銅器や鉱山の鉛鉱石(方鉛鉱)を測定され、その測定値を公表している。私もその測定値をデータベース化しているが、その収集した
測定値は2148個にもなっている。これだけ膨大な測定値があるにもかかわらず、青銅器や鉛製品の鉛同位体比と鉱山の鉛同位体比がピッタリ一致することはほとんどない。私の知る限りでは、海の中道遺跡出土の鉛錘と鉛板が、対馬の対州鉱山と一致したくらいである。 

B8鉛同位体.jpg青銅器の鉛同位体比の測定値は、時代・品種により直線の帯を作る。図B
8は、馬淵久夫氏が作られた「日本出土青銅器の鉛同位体比分布図」の模式図である。Aは前漢鏡の領域で、弥生時代の剣・矛・戈(除く細形)や銅鐸(除く菱環鈕)も入っている。Bは後漢・三国鏡の領域で、三角縁神獣鏡の舶載鏡や仿製鏡が入っている。Dの領域は朝鮮系遺物ラインで、多鈕細文鏡・細形の剣・矛や菱環鈕の銅鐸が入る。 

産地の推定に対しては、A領域,B領域,Dライン共に、特定の鉱山を比定することが出来てなく、A領域は黄河以北の鉛が、B領域は中国黄河以南の鉛が、D領域は朝鮮南部の鉛が使用されたと言う事に留まって、本来の目的を達していな  (図をクリックすると大きくなります)
いままである。


20-2.同位体比分布図に直線が現れる [20.青銅器の鉛同位体比の秘密]

青銅器の鉛同位体比分布図の朝鮮系遺物ライン、ラインDが示す産地推定について熱い議論がある。馬淵久夫氏はラインDの産地を韓国東部の慶尚北道の鉱山(第一・第二蓮花鉱山)で観測されている、直線上に長く分布する特徴を持つミシシッピ・ブァレー型の鉱床としている。ただ、その鉱山は特定されていない。 
                             (図をクリックすると大きくなります)
B9朝鮮系遺物.jpg「理系の視点からみた考古学の論争点」の著者である新井宏氏は、「朝鮮半島の南部に、ラインDに載る鉛鉱石があるという予測は、いまだ検証されていない」と反論し、ラインDに載る原料としては、現在のところ雲南省にしか該当するものがないと、その一例として長江上流の会沢鉱山を挙げている。そして、ラインDは雲南省の鉛と新規原料の稀釈の中で産まれたとしている。これに対して馬淵氏は、「鉛同位体比が近いからと言って歴史学・考古学上なんらの根拠もない遠距離地同士を結び付けるべきでないと反論している。図B9にそれらを示す。図の中にある三星堆遺物とは四川省の成都郊外の遺跡の遺物である。
 


B10魏・呉紀年鏡.jpg銅器の鉛同位体比を分布図にプロットしていると、同種・同形の場合、その測定値は小さな領域に存在するのでなく、プロットが直線あるいは直線帯を示すことが多い。図B10に、魏と呉の紀年鏡で示す。年代の違う紀年鏡がみごとに直線に載っている。
 これら直線が現れる原因は、二つの異なった鉱山の鉛を使用し、その混合比率が異なるからだとしている。この考えは、前記論争をしている馬淵氏も新井氏も同じである。 

これらの直線は、
同じ鋳型を使った同笵のものにも現れる。同笵ということは、同じ場所で、鋳込んだ時期もほぼ同じと思われる。まして、青銅に占める鉛成分は多くても15%位までであり、二つの鉱山の鉛を常に使う必然性は全くない。直線の出現が二つの異なった鉱山の鉛を使用したとは、私には思えない。図B10で示す魏の鏡の内、青龍3年の方格規矩鏡2面、景初4年の斜縁盤龍鏡2面、正始元年の三角縁神獣鏡3面は、それぞれ同笵鏡である。 
B12荒神谷.jpg
出雲の荒神谷遺跡出土の358本の剣の中から、
同笵の剣を選び、その鉛同位対分布図を図B11に示した。同笵の剣は吉田広氏「弥生時代の武器形青銅器」を、鉛同位体は馬淵久夫・平尾良光等の「島根県荒神谷遺跡出土銅剣・銅鐸・銅矛の科学的調査」を参照した。同笵剣A(A4,C19,
C22,C69,C112
)で同笵剣B(B67,C32,C36,C40,C106)で
ある。同笵
であつても、プロットは同じところに集まる
のではなく、直線を作るのである。

20-3.直線の端に鉛鉱山がある [20.青銅器の鉛同位体比の秘密]

同種・同形の青銅器の鉛同位体比分布図に直線が現れるのは、鉛の同位体の割合が、変化しているように、私には思えてならない。鉱石の製錬・青銅器の溶解・鋳造の過程で800度以上の熱を受ける。その熱履歴が鉛の同位体の割合に変化をもたらすのだ。それが証拠に、膨大な鉛同位体比の測定の中で、遺物の鉛同位体比と鉱山の方鉛鉱の鉛同位体が一致したのは、海の中道遺跡出土の鉛錘・鉛板であり、青銅器ではない。鉛の融けるのは327度、方鉛鉱から鉛を取り出すのは、それ程温度を上げる必要がなかったのであろう。そのため、鉛の同位体の割合が変化しなかったと考える。 

同位体の割合が変わることを、同位体分別と言う。鉛の沸点は高いが蒸発し易いので、蒸発時質量の軽いものが蒸発し易く、質量の重い物が残り、同位体分別は起こりうる。しかし、青銅器の鉛同位体比が作る直線は、それをはるかに超えたものであり、現在の物理学では証明出来ないのである。
 馬淵氏も新井氏も専攻が物理学である。だから、物理学の掟破りは出来ない。私は工学部、理論より事実が先行する。私の座右の銘は「事実に即して考える。(マルクス)」である。鉛の同位体の割合が、変化すると仮定すると、「青銅器の鉛同位体比が作る直線帯の端に、鉛鉱山がある」ことになると考える。 

中国の戦国時代は、それぞれの国が独自の青銅貨幣を鋳造している。燕の刀銭、斉の刀銭・円銭、魏の円銭、秦の半両銭、楚の蟻鼻銭等である。その戦国貨幣の鉛同位体比が測定されている。その測定の狙いは、それぞれの国の青銅貨幣に含まれる鉛の同位体比を測定すれば、それは、その国にある鉛鉱山と鉛同位体比が一致するに違いないとの思惑であったと思われる。しかしながら、戦国貨幣の鉛鉱山が比定された所は、一箇所もない。
 

図B12のa~fを見て頂きたい。私の言う、「青銅器の鉛同位体比が作る直線帯の端に、鉛鉱山がある」を考えれば、戦国5ヶ国の鉛同位体比が、その国の鉛鉱山の鉛同位体比とみごと全て一致している。ちなみに、鉛鉱山の測定値はそれぞれの国で2~3ヶ所あるだけだ。それでも、5ヶ国の全が一致するのは、仮説が真実に近いと言う事になると考える。
 
B11a戦国7雄.jpgB11b燕.jpgB11c済.jpg







 

B11d魏.jpgB11e秦.jpgB11f楚.jpg









9月末、光より速い素粒子、ニュートロンが見つけられたとの報道があった。物理学はこの事実を検証するとともに、もしそうであったら、アインシュタインの相対性理論を越える理論を打ち建てねばならない。物理学というのは、そもそも現象が先行し、理論が後追いする学問だと思う。物理学上認められないといっても、現象がそれを証明している場合、理論が後追いしてくるものだと考える。
 


20-4.弥生の故郷は山東半島 [20.青銅器の鉛同位体比の秘密]

福岡市西区の飯盛山の裾野に吉武遺跡群と呼ばれる遺跡がある。この遺跡群の中心は吉武高木遺跡・吉武大石遺跡・吉武樋渡遺跡で弥生中期の初頭から後葉の遺跡である。これらの遺跡の甕棺墓・木棺墓からは、多鈕細文鏡・細形剣・細形矛・細形戈、いわゆるラインDを形成する朝鮮系青銅器が出土している。 

この吉武遺跡群から出土した青銅器の鉛同位体比について測定がなされている。これら測定データには出土地と遺構名が記載されており、吉武遺跡群の発掘当事者である常松幹雄氏の著書「最古の王墓・吉武高木遺跡」に記載された遺構名・甕棺型式と照らし合わせると、鉛同位体比と甕棺型式を対応させることが出来る。
 

B12吉武遺跡.jpg北部九州の甕棺の変遷は明解になされており、古い順から弥生中期初頭の金海式、中期前半の城ノ越式、そして中期中頃の須玖式、中期後半の立岩式である。なお、木棺墓は副葬されている小壺の様式から甕棺の編年と対応させることが出来ている。吉武遺跡群から出土した青銅器の鉛同位体比を甕棺型式で層別して、図B12に表した。
 

このラインをラインDと呼ぶ。図B8の模式図に示したラインDとの違いは、ラインDがA領域まで延びていることで、その他は全く同じである。金海式はd1~d4まであり、城ノ越式はd1~d3まで、須玖式はd1~d2まで、全ての甕棺型式のものがd1を起点としている。           (図をクリックすると大きくなります)


甕棺の編年が新しくなる程プロットが描く直線は短くなっている。金海式甕棺出土の朝鮮系青銅器が、ラインDの端から端(d1~d4)まであるのは、方鉛鉱の精錬が銅鉱石の精錬と同時に行われ、鉛が高温に長時間さらされ、鉛の減損が激しく起こったためと考える。 

吉武遺跡群出土の青銅器が、甕棺編年の全ての時代において、d1近傍の鉛同位体比を示す青銅器があることから、原料である方鉛鉱の鉛同位体比がd1近傍あるいはその延長線上にあると予測することが出来る。この条件を満足する方鉛鉱は、中国山東省の香奇鉱山の方鉛鉱と銅鉱石がラインDの端でd1の近傍にあった。香奇鉱山は、戦国時代の済国の貨幣に用いられた鉱山である。
弥生中期の画期が、多鈕細文鏡・細形剣・細形矛・細形戈の青銅器の出現である。その青銅器が中国山東半島の原料を使用していたことは、今まで考えられていなかった事である。

朝鮮半島の青銅器文化の源流は、中国の遼西地区(遼寧省西部)に生まれ、朝鮮北部に伝わった遼寧式銅剣である。
その後、朝鮮半島では遼寧式青銅器の色彩が薄れ、細形銅剣・銅矛・銅戈・銅鐸の朝鮮独自の青銅器文化が生れている。この青銅器文化が日本に伝わったのだ。この頃、朝鮮半島に中国の金属器文化の波が押し寄せている。中国式銅剣が韓国全羅北道の上林里から26本出土している。この中国式銅剣5本(韓国3本、日本2本)の鉛同位体比が測定されているが、その全てがラインDに載っている。朝鮮系青銅器の鉛産地が、中国の山東省であった証拠の一つであると考える。

 9月29日投稿の「B2.国立歴史民俗博物館の年代観」で、歴博の「水田稲作の広がり 中国から日本列島へ」のコピーを図B2に掲載した。それを見ると中国の長江下流域で始まった水田稲作が、山東半島から、朝鮮を経由して北九州に伝わっている。青銅器も稲作と同様に、山東半島をから、朝鮮を経由して北九州に伝わっている。山東半島が弥生の故郷なのであろうか。


20-5.事実は物理学より奇なり [20.青銅器の鉛同位体比の秘密]

-12「弥生の故郷は山東半島」で取り上げた吉武遺跡群の朝鮮系青銅器の多鈕細文鏡・細形(剣・矛・戈)は、鉛同位体比分布図でラインDを形成していた。このラインDには、多鈕細文鏡・細形(剣・矛・戈)の他に、中細形(剣・矛・戈)と銅鐸(菱環鈕・外縁1式)が載っている。ただし、中細形剣である荒神谷遺跡出土の358本の剣は、ラインDには載らない。吉武遺跡群以外の、ラインDに載る青銅器について分布図を図B13描いた。データ140個で、異常値で省いたのは4個であった。 
B13朝鮮系.jpg
図B8の馬淵氏が作成された「古代青銅器の鉛同位体分布図」の模式図では、208Pb/206PBの値が2.15以上は領域Aだけである。しかし、吉武遺跡群のデータと同じように、2.15を越え、ラインDに載る、細形・中細形剣(剣・矛・戈)と銅鐸(菱環鈕・外縁1式)は36個あり、朝鮮系青銅器の26%を占める。36個の内、細形・菱環鈕が6個、中細形と外縁1式が30個になっている。     
            (図をクリックするとおおきくなります)
細形・中細形剣(剣・矛・戈)と初期銅鐸(菱環鈕・外縁1式)の青銅器は、山東省の香奇鉱山の鉛を使用して作られ、製錬や製品の鋳造時に、鉛の同位体比が変化してラインDを形成した。香奇鉱山の近くのプロットに、中細形(剣・矛・戈)と銅鐸外縁1式が多いのは、時代が新しいほど技術が進歩し、過熱が減少し、同位体比の変化が少なくなったからと考える。
 

B14三星堆.jpg直線距離で1850kmも離れた、雲南省の会沢鉱山の方鉛鉱と山東省の香奇鉱山の鉛同位体比は、両者ともにラインDの延長線
に載っている。時代が1千年以上も違う、四川省の三星堆遺跡出土の青銅器(紀元前12世紀頃)と日本出土の朝鮮系青銅器(含むと初期銅鐸)の鉛同位体比は、両者共にラインDの延長線に載っている。両者の鉛同位体比を図B14に示す。馬淵久夫氏や新井宏氏の言われる、ミシシッピ・ブァレー型の鉱床や、二つの鉱山の方鉛鉱の混合とかでは説明出来ない分布である。 

この分布は何を意味するのであろうか。1850kmの距離、1千年以上の年月を同じに考えるためには、地球規模で考えなくてはならない。「地球内部(閉じた系)で生成した方鉛鉱は、同じ年代に生成したかぎり、場所が異なっても、それらの鉛同位体比の値は、同位体比分布図に直線(アイソクロン)として現れる。」これは、地球物理学ではよく知られている。雲南省の会沢鉱山の方鉛鉱と山東省の香奇鉱山の鉛同位体比が、同じ年代(百万~5百万年前の間)に生成されたと考える。
 

ここからが、地球物理学でも考えられたことのない、私の仮説である。
「同じ年代に生成された方鉛鉱は、製錬や鋳造の加熱により、鉛同位体比が変化する場合、鉛が生成した時の直線(アイソクロン)上に変化する」である。こう考えると、四川省の三星堆遺跡出土の青銅器と日本出土の朝鮮系青銅器(含むと初期銅鐸)の鉛同位体比が、共にラインDに載っているのが理解できる。また、同種・同形の青銅器の鉛同位体比が直線を示すことも、そして、その直線の端に鉛の産地の鉱山があることも理解出来る。「事実は物理学より奇なり」である。

20-6.祭祀に使われた青銅器の鉛産地 [20.青銅器の鉛同位体比の秘密]

B15青銅祭器.jpg剣・矛・戈は青銅武器として用いられ、その型式は細形・中細形青銅武器であった。また、銅鐸においては鳴らす鐘として、菱環鈕・外縁1式銅鐸が存在した。その後、剣・矛・戈は中広形・広形へと、銅鐸は外縁鈕2式・扁平鈕・突線鈕へと、祭祀に使われる青銅器として大型化していった。荒神谷出土の358本の銅剣は中細形であるが、この分野に属している。図B15に、これらの鉛同位体比分布を示す。データは766個あったが、その内異常値として省いたのは5個のみであった。 

青銅祭器の分布は、朝鮮系青銅器の鉛同位体比分布図が示す、ラインDより上にあった。なお、プロットの右上にはラインDに載ったものもあるが、青銅祭器の分布が広がったものであることが、荒神谷鉄剣の同笵剣のデータより確認出来た。鉛の原料産地の鉱山は、分布が作る直線帯の端にあるとの仮説より、韓国忠清北道の月岳鉱山が最適であることを見つけた。
 

魏志東夷伝の弁辰には「国、鉄を出し韓・濊・倭みなこれを取る」とある。この弁辰が何処にあったか明確でないが、洛東江流域にあったことは間違いないことである。月岳鉱山は洛東江の上流にある。青銅器の原料であった鉛の産地が、中国の山東半島から朝鮮半島の洛東江の上流域に変わったのは、倭が洛東江流域から鉄を入手しだした時代かも知れない。
 

20-7.青銅器の型式と編年 [20.青銅器の鉛同位体比の秘密]

B16平型剣.jpg
瀬戸内地方には、他の地域に見られない型式の青銅器が分布している。それらは、平型剣(Ⅰ式とⅡ式)であり、大阪湾形(近畿形)戈である。これらの鉛同位体比を図B16に示す。図から明らかなように、平型剣Ⅰ式・平型剣Ⅱ式と近畿形(大阪湾形)戈は、いずれも朝鮮系青銅器と同じ、山東半島の香奇鉱山の鉛を使用している。
 

                (図をクリックすると大きくなります)

青銅武器研究の第一人者であられる岩永省三氏の型式分類と編年を参考にして、鉛の産地を主眼として、図B17に私なりの青銅器の編年を行ってみた。岩永省三氏の編年と、平型Ⅱ式の扱いが違っている。多分それは、鉛同位体比分布図において、領域Aに入った朝鮮系青銅器についての見解の相違に端を発していると思う。
B17青銅器編年.jpg

 


20-8.三角縁神獣鏡の鉛は将軍鉱山 [20.青銅器の鉛同位体比の秘密]

B18三角縁同位体.jpg魏紀年銘鏡9面と三角縁神獣鏡68面の鉛同位体比を図B18にプロットした。なお、「-7.仿製三角縁神獣鏡の見分け方」で示した「舶載→仿製鏡」と判定した獣紋帯三神三獣鏡で、同笵番号(114、115、117、118)のものは省いている。また、異常値を示す2面も省いた。 魏紀年銘鏡と三角縁神獣鏡は同じ直線帯にある。この直線帯の端にある鉱山を魏の領域・朝鮮半島・日本の鉱山で探した。適合する鉱山は韓国慶尚北道奉化郡の将軍鉱山であった。将軍鉱山の鉱石3点の鉛同位体比が測定されているが、魏紀年銘鏡が作る直線と全く一致している。 

カテゴリー「10.三角縁神獣鏡の故郷は莱州」で述べたように、三角縁神獣鏡は中国の山東省の莱州市の近くにあった東莱山の尚方で作られたと考えている。魏の国は青銅器の原料である錫・鉛には飢えていたので、鉛を朝鮮半島に求めた。三角縁神獣鏡の鉛の産地、将軍鉱山は南漢江の源流付近にある。将軍鉱山の鉱脈から出た方鉛鉱が、南漢江の川筋に滞留していて、それを採取したものと思われる。
 

20-9.日本で出土する呉の鏡 [20.青銅器の鉛同位体比の秘密]

呉の紀年銘鏡が2面日本で出土している。山梨県取居原古墳出土の赤烏元年銘鏡と、兵庫県安倉古墳出土の赤烏七年銘鏡の対置式神獣鏡である。日本で出土したものではないが、呉の紀年鏡が日本で保有されている。黄武元年銘神獣鏡(五島美術館蔵)と黄武二年銘の神獣鏡(個人蔵)である。 

中国社会科学院考古研究所の前所長の王仲殊氏は、「三角縁神獣鏡は魏王朝から賜与されたものではなくて、当時日本に渡来した呉の工人によって、日本で製作されたものである。」と講演し、日本の考古学会に大きな衝撃を与えた。この王仲殊氏は「三角縁神獣鏡」という本を出版されている。この本に「日本出土の呉鏡」という論文がある。
 その中で、「日本で出土する大量の中国の銅鏡の中で、確かに呉鏡であると認められるものは、神獣鏡、画像鏡、仏像夔鳳鏡の三類に大別できる。」として、具体的な鏡について言及している。その中に大阪府和泉市黄金塚古墳東槨より出土の画文帯環状乳神獣鏡がある。 
B19呉鏡鉛.jpg
三角縁神獣鏡の鉛同位体比の208Pb/206Pb の値は、その全てが2.11以上であるが、2.11以下の画文帯環状乳神獣鏡は、呉の紀年銘鏡の鉛同位体比が示す直線に載っている。これらを図B19にプロットした。もちろん黄金塚古墳の画文帯環状乳神獣鏡の2面も入っている。これら呉の鏡の鉛同位体の産地鉱山は、中国湖南省桂陽県の宝山鉱山が最適であった。桂陽は唐・宋代には鉱山管理の桂陽監が設置され、古代から鉱山の開けた場所である。
 

呉の紀年銘鏡の赤烏元年は238年で、魏の年号では景初2年に当たる。赤烏七年は244年で、魏の年号では正始5年に当たる。卑弥呼が魏に使いを遣わしている前後の、呉の紀年銘鏡が日本から出土しているのである。呉の孫権は遼東の公孫氏に使いを再三遣わし、魏を牽制している。倭国対しても、呉は使いを遣わして来たのであろうか。黄金塚古墳の中央槨から景初三年銘の魏の画文帯神獣鏡が出土し、東槨より呉の画文帯環状乳神獣鏡2面が出土している。中国の書物に書かれていない歴史があるのかも知れない。

20-10.三角縁仿製鏡は呉の材料を使用 [20.青銅器の鉛同位体比の秘密]

三角縁仿製鏡の鉛同位体比を図B20に示した。これらのプロットは、呉の紀年鏡や、日本で出土した呉の鏡が作る直線の延長線上にB20三角縁仿製鏡.jpg集中している。三角縁仿製鏡は、中国湖南省桂陽県の宝山鉱山の鉛を使った青銅合金のインゴットにより作られたものと考える。インゴットの鋳造、鏡の鋳造と二度の加熱がなされ、鉛の同位体分別がより進んだのであろう。 

王仲殊氏の言葉を借りれば、「三角縁仿製鏡は、当時日本に渡来した呉の工人が、彼らが持ち込んだ青銅インゴットを使って、日本で製作されたものである。」と言う事が出来る。

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