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8.朱は武器なしで国を平定 ブログトップ

8-1.磐余彦尊は何故熊野を目指したか [8.朱は武器なしで国を平定]

磐余彦尊が熊野を目指したのは、背中に太陽を背負い、日の神の威光を借りて、敵を攻めるためと、書紀は記している。それならば紀の川を遡上して、吉野から大和に攻め行ったら良いことで、熊野にまで足を踏み入れる必要はない。磐余彦には熊野の地に行かなければならない、特別の理由があったはずである。 

236年(丙辰)に魏の使いが、青龍三年銘等の鏡を持って倭国の伊都国を訪れ、丹砂(朱)・鉛・錫・真珠を献上すれば、そのお返に倭国の欲する鏡を与えると伝えて来た。この事は面子を重んじる中華思想のため、魏の公式記録には載っていないが、青龍三年銘(235年)銘の方格規矩鏡が、大阪府高槻市の安満宮山古墳や、京都府京丹後市の大田南5号墳から出土していることから想像出来る。  (この話は後記する)
 

伊都国の王は直ちに、東征途中で
吉備国の高島宮にいる磐余彦尊に使者を派遣し、丹砂を探索するよう伝えた。この時、伊都国王は伊都国の嬉野川上流の丹生川で、丹砂の採取に携わってきた工人を、磐余彦尊のお供に加えたと考える。磐余彦尊は吉備の国王から、丹砂に関する情報を得たのであろう。その情報は、「紀伊国の熊野には、出雲国の住人が移り住んでおり、丹砂でもって青銅器の祭器(銅鐸)と交換している。紀伊の北部(和歌山・有田)から始まり、その後紀伊の南部、熊野地方(御坊・南部・田辺)で盛んに行われている」という内容であったと想像する。 

8-2.丹砂の探索、熊野から吉野へ [8.朱は武器なしで国を平定]

当初、磐余彦尊は大和を攻め落としてから、紀伊に丹砂を探索に行こうと考えていた。しかし、大和の敵は強く、兄の五瀬命が傷つき退却を余儀なくされたので、紀伊南部の丹砂を探索してから大和に攻め込んでも、日神の威光をかりて、敵を攻めることが出来ると考えた。 

238(戊午)年6月23日、磐余彦尊は
名草邑で女賊の名草戸畔を誅している。名草邑名草山周辺と定説通りと考える。その後、遂に狭野を越えて、熊野神邑に至り天磐盾に登っている。佐野は該当する地名がないが、「遂に」の表現から、佐野は熊野の境界に当たり、のあ有田市宮崎町あたりと考える。熊野の神邑は須佐神社のあたり、有田・湯浅・吉備・金屋の地域を指すと考 える。須佐神社は、「新抄格勅符抄」では10戸与えられた古い神社で、素盞鳴尊を祭神としており、この周辺を神邑と呼ぶに相応しい。図21白山.jpg

磐余彦尊が神邑で登った天磐盾は、吉備の田殿丹生神社の裏山にある白山に比定する。白山はみごとな形の神奈備山で巨大な磐座がそそり立っており、天磐盾と言える。
 田殿丹生神社から5キロ東に白岩丹生神社があり、その中間に丹生の地名がある。田殿丹生神社の祭神は丹生都比売神、白岩丹生神社は罔象女神である。罔象女神は水神だが丹生の神でもある。丹生都比売神より罔象女神の方が古いと言える。 松田寿男氏の『丹生の研究』により、「丹生」と付く地名は、丹砂(朱砂・辰砂・水銀朱・朱)が取れる地とされている。有田市からは4個の銅鐸と6個の銅戈が出土しているが、これらはこの地で取れた丹砂が関係すると考える。 

磐余彦尊は軍を勧め、海を渡るとき急に暴風に遇い、兄の稲飯命と三毛入野命を亡くした。暴風にあった海は、有田から紀伊水道を通り、日ノ御崎を廻って太平洋に出てからの事だった。そして避難した所が御坊市であったと考える。
御坊市の近くの日高川町和佐には丹生神社があり、和佐の山中には古くからの和佐水銀鉱山がある。和佐の近くの江川にも、丹生大明神告門出て来る丹生神社があり、江川上流の真妻山の南山麓の印南町には、丹生という地名がある。御坊市からは4個の銅鐸が、南部などの日高郡からは14個の銅鐸が出土している。 

磐余彦尊と皇子の手研耳命は軍を率いて進み、熊野の荒坂の津(丹敷浦)に着き、女賊の丹敷戸畔を討っている。女賊の邑とは、男が航海に出ている海人の邑の事であろう。荒坂の津を田辺湾に比定する。
 そのとき神が毒気を吐いて、人々は病み伏してしまい、皇軍は起き上がる事が出来なかったとある。神の毒気とは温泉のことで、人々が病み伏し起き上がれなかったのは、温泉に入った後に眠り込んでしまったことを表わしていると考える。田辺湾の端には白浜温泉がある。飛鳥時代には天皇が行幸していることからして、3世紀には近隣の人に知られていたであろう。 

この時、高倉下が韴霊
(ふつみたま)という剣を磐余彦尊に献上している。この剣は武甕雷神が出雲で国譲りに携えたものであった。この高倉下については、書紀はこれ以後、全く記載していない。一方、神武天皇が即位後に橿原宮で行なった論功行賞では、それまで全く記載のない剣根が葛城国造に任じられている。高倉下と剣根は同一人物で、熊野の岬に来たという少彦名命の子孫、御坊市堅田遺跡に住んでいたと考える。少彦名命は高皇産霊尊の子であり、高倉下(剣根)は高皇産霊尊の子孫となる。新撰姓氏録の大和の神別には、葛城忌寸は高御魂命(高皇産霊尊)の五世孫、剣根命の子孫であると記載があり、つじつまが合う。 

丹敷戸畔というからには丹生と関係があるはずであるが、田辺湾周辺には丹生神社がない。しかし、田辺市からは6個の銅鐸が、白浜町・上富田町からは4個の銅鐸が出土している。必ずや丹生が存在するはずだ。
日高川上流の温泉で有名な田辺市龍神には、丹生神社があり丹生川が流れ、龍神鉱山からは朱砂が採れている。田辺から龍神までの道は、標高634メートルの虎ヶ峰峠を越えるとすぐである。軍は道臣命(日臣命・大伴氏の先祖)を監督者として、八咫烏の案内で龍神に向かった。八咫烏は高倉下の家臣で、朱砂の探訪で紀州の山の情報に長けていたと考える。 

図22神武東征ルート.jpg龍神から丹生川を遡り、奈良県側の上湯川を下り、熊野本宮大社より約15km上流の十津川温泉に出る。近くの玉置山(1077m)には、神武天皇が石の上に玉を置いて武運を祈願したとの伝承がある。山頂近くの玉置神社は、熊野三山の奥の院と言われ、天照大神や神武天皇を祀り、古には皇室の尊崇が厚かった。
 十津川を北上し、吉野郡大塔村坂本から天辻峠を越えて西吉野郡永谷に出て、宗川から丹生川に出て遡り、丹生川上神社下社近くの吉野郡下市町丹生に進んだ。そこから山を下り、吉野川を渡って、宇陀の下県穿邑に着いた。宇陀の穿邑は、宇陀市莬田野区宇賀志に比定されている。

 

                                                    (図をクリックすると大きくなります)

 


8-3.丹砂の探索、吉野巡幸 [8.朱は武器なしで国を平定]

8月2日に宇陀の県の頭目である兄猾と弟猾を軍門に呼んでいる。弟猾はやって来たが、兄猾は叛いたので殺された。その血で染まった地を宇陀の血原という。宇陀市莬田野区大沢には日本第2位の大和水銀鉱山がある。宇陀には丹砂を含む赤地土があり、それが血原と呼ばれたと思う。 

その後、磐余彦尊は軽装の兵を連れて吉野を巡幸している。吉野では井戸の中から、体が光って尻尾のある人が出て来て、井光(吉野の首部の先祖)と名乗った。さらに進むと人が岩をおしわけて出て来て、石押分(吉野の国栖の先祖)と名乗った。川に沿って西に行き、苟苴担の子(阿太の養鸕部の先祖)に出会っている。
 

吉野郡川上村の丹生川上神社上社から、7km上流の井光川を遡ると井光の集落がある。井光神社の奥の院には井氷鹿の井戸と言われる窪地がある。松田寿男氏は「丹生の研究」で「井戸の中から人が出て来て、体が光って尻尾があり」とは、腰に尻当を紐でぶらさげた水銀採掘者が竪坑から出て来た様子としている
 

山を越え尾根を下ると自然銅を産出する三尾銅山がある。松田氏も「岩を押し分け」は
横穴式の坑道から出て来た様子で、三尾銅山としている。三尾から2km下流は丹生川上神社中社、高見川を10km下ると国栖、さらに吉野川を西に20km下ると阿田がある。 

書紀に記載された吉野巡幸のルート、宇陀→井光→国栖→阿太(阿田)→宇陀は、多くの研究者は不可解な行動としている。大和を攻めることだけを考えると不可解な行動だが、丹砂の探索と考えれば十分納得が出来る行動である。

8-4.宇陀の河原で水銀精製 [8.朱は武器なしで国を平定]

磐余彦尊は夢に現れた天神の教えに従い、天の香具山の赤土で平瓦・厳瓮・手抉を作り、丹生の川上に登って天神地祗を祭っている。書紀は次のように書いている。「宇陀川の朝原で水の泡がかたまりつく所があった。」「沢山の平瓦で水なしに飴を作ろう、もし飴が出来ればきっと武器を使わないで天下を平定することが出来る。」「厳瓮を丹生の川に沈めよう。もし魚が浮いて流れたら、この国を平定出来る。」「丹生の川上の榊を根こそぎ抜いて、諸々の神をお祀りされた。」 

「沢山の平瓦で水なしに飴を作ろう」
が意味するところの手掛かりは飴にある。古代の飴は水飴であるが、その水飴に例えた物は「水銀」と考える。水銀は銀白色の液体で、土製の器(手抉)に入れるとドロドロとして丸みをおび、水飴に見えたのであろう。丹生の川上で丹砂から水銀を造り出したと思われる。

「宇陀川の朝原」
「丹生の川上」は何処にあたるのだろうか。神武天皇聖蹟調査では、丹生川上丹生川上神社中社に比定している。しかし、この地は吉野巡幸に通った所で、丹生の川上に該当する地ではない。丹生の川上は宇陀に在るはずだ。宇陀郡資料に「丹生神社、宇賀志村大字入谷鎮座。入谷、元は丹生谷と書かせり、神武天皇の丹生川上に祭り給うは、この地ならんかと云えり。」とあるが、入谷川は芳野川の支流であり、宇陀川の朝原との関連性がない。 

「水の泡がかたまりつく所」とは、川の流れが淀み、比重の重い丹砂が堆積している所と理解する。「宇陀川の朝原」で、平瓦に丹砂の混じった砂をのせ、水中でゆすって丹砂を採取したのであろう。宇陀川の支流の丹生川に、丹砂の鉱脈や露頭があったと考える。ただ、宇陀川の支流で、丹生と名の付く川は現在ない。 榛原区雨師字朝原にある丹生神社が、その地であるとの説がある。ただ、丹生神社は山の中腹にあり、宇陀川の支流の笠間川とは、1kmも離れている。また、笠間川の上流には水銀鉱山や鉱床の露頭はなく、笠間川が丹生川には成りえない。

私は「宇陀川の朝原」は、宇陀川の川沿いにある大宇陀区の迫間・中庄であると考える。この地は古来、阿騎野と呼ばれ、万葉集にも出て来る朝廷直轄の狩猟場である。阿騎野から2km宇陀川を遡ると大東水銀鉱山がある。阿騎野では黒木川・本郷川が宇陀川に流れ込み、それらの支流の上流には黒木水銀鉱山・神戸水銀鉱山がある。阿騎野の地は、丹砂が川の淀みに堆積した可能性が高い所である。 

「厳瓮を丹生の川に沈めよう。もし魚が浮いて流れたら」。丹砂を厳瓮(御神酒瓮)に入れて400度程度に加熱すると、水銀蒸気と亜硫酸ガスが発生する。このガスを水中に入れると、水銀蒸気から球状の水銀が取れる。また、亜硫酸ガスは毒性がり、水に溶けるので魚が死んで浮かんでくることになる。厳瓮を沈めた丹生川は、黒木川だと考える。「丹生の川上の榊を根こそぎ抜いて、諸々の神をお祀りされた。」とは榊を根こそぎ抜いて水銀鉱床の露頭を見つけ、そして厳瓮を飾って神々に感謝したことを意味しており、その場所は黒木川の川床に水銀露頭が見つかった八王子神社あたりと考える。阿騎野にある阿紀神社の古文書には、神武天皇が当地において御祖の神を敬祀ったと書いてあるそうだ。 

なお、弥生時代・古墳時代に使用された赤色の顔料は、真っ赤な朱(丹砂・朱砂・辰砂)と黒ずんだ赤色のベンガラの両者がある。総称して丹と言っているが、前者を「真赭・まそほ」、後者が「そほ・赭」と呼んだ。朱は硫化水銀で色も鮮やかで高価なもの、ベンガラは酸化第二鉄で安物であるが、両者の区別は難しい。磐余彦尊が行った水銀の精製は、丹砂が間違いないと確認する方法だったと思われる。その方法は朱を献上せよと言って来た魏の役人が、伊都国の丹砂の工人に伝授したものだろう。

8-5.朱の産地を探る科学のメス [8.朱は武器なしで国を平定]

前期前方後円墳である、桜井茶臼山古墳からは81面の銅鏡片が出土、石室は約200kgの朱で塗られていた。大和天神山古墳からは20面の銅鏡と41kgの朱が出土、椿井大塚山古墳からは37面の鏡と10kgを超える朱が出土、黒塚古墳からは34面の鏡が出土し、木棺内や粘土床には朱が使われていた。 

近年、水銀朱(HgS)の産地をイオウ同位体分析により同定しようという、科学的手法が取り入れられた。イオウの同位体の32Sと34Sの比が、標準値からどの位離れているかを測定して産地の推定を行っている。中国の主要な水銀鉱山の朱のイオウ同位体比(δ34S)は、プラスの値を示すが、日本の水銀鉱山(除く北海道)では、プラスは測定18鉱山中3ヶ所のみで、残りはマイナスである。
 

大和の前期前方後円墳から出土した朱の、イオウ同位体比は何れもマイナスの値を示す。ホケノ山古墳は-5.4、大和天神山古墳は-6.1、中山大塚古墳は-5.2である。古墳から出土する朱は、魏志倭人伝の記述から中国から持ち込まれた物と考えられていたが、それが科学的に否定され、国内で産出した水銀朱だとされるようになった。朱は倭国が魏に献上したとする私の考えは、間違いではなかった。
 

三重県丹生鉱山が-8.88±2.69、奈良県宇陀の大和水銀鉱山が-3.13±3.47で、ホケノ山・大和天神山・中山大塚古墳の値は両者の中間である。纒向遺跡出土の外来系土器は、東海系土器が非常に多い事は良く知られている。最近の研究では、東海系土器は尾張地方でなく、伊勢地方だそうだ。大和王権時代の朱は、三重県伊勢と奈良県宇陀の両方の朱が使われていたのかも知れない。

8-6.神武天皇は辛酉の年に建国 [8.朱は武器なしで国を平定]

11月7日、磐余彦尊は皇軍を忍坂と墨坂の二軍に分け、弟磯城を味方につけ、兄磯城を挟み打ちし、12月4日、ついに長脛彦を討つこととなり、戦いを重ねたがなかなか勝つことが出来なかった。その時、金色の不思議な鵄が飛んできて天皇の弓の先にとまった。その鵄は光輝き、長脛彦の軍勢は、皆幻惑されて力戦できなかった。時の人はその地を鵄の邑と名づけ、なまって鳥見となった。 

長脛彦は磐余彦尊に使いを送り「昔、天神の御子の饒速日命が天磐船に乗って天降りされ、我が妹を娶り可美真手命が生れた。私は饒速日命に仕えているが、天神は二人いるのか」と問い、饒速日命の天の羽々矢を磐余彦尊に示した。磐余彦尊は自らの天の羽々矢を示したが、長脛彦は反抗を止めなかった。饒速日命は義兄が改心の気持ちがないのを見て、長脛彦を殺害し部下を引き連れ帰順した。饒速日命は物部氏の先祖である。
 

239年(己未)諸将に命じて士卒を選び、まだ帰順しない者を誅された。葛城とか磐余の地名が生れた。畝傍山の東南の橿原の地で都造りに着手された。240年(庚申)天皇は正妃を立てようと思われた。ある人が「事代主神が、三島溝橛耳神の娘、玉櫛姫と結婚されて、生れた子を名付けて姫蹈鞴五十鈴媛といい容色すぐれた人です」と云い、姫蹈鞴五十鈴媛を召して正妃とされた。241年(辛酉)に磐余彦尊(神武天皇)が橿原の宮で即位した。
 

二年には、天皇は論功行賞を行っている。軍の監督者であった道臣命は築坂邑に宅地を賜り、特に目をかけられた。その家来の大来目には畝傍山の西、川辺(来目邑)の地を与えられ、船の水先案内をした椎根津彦は倭国造となった。宇陀の弟猾は猛田邑を与えられ、猛田の県主と言われ、宇陀の主水部の先祖である。弟磯城は磯城の県主とされ、剣根を葛城国造とした。剣根は高倉下であると、私は考えている。八咫烏も賞を受けた、その子孫が葛野主殿県主である。
 

四年には榛原の鳥見山に神々の祀りの場を設け、皇祖の高皇産霊を祀った。私の年表では、翌年の五年に腋上の嗛間の丘に登られて国見をされ、「なんと素晴らしい国を得たことだ。狭い国であるけれども、山々が連なり囲んでいる国だ」といわれた。
 

磐余彦尊は朱砂の探索に成功し、そして大和の橿原に宮を建て建国した。その後、大和王権は朱(丹砂)を魏に献上して、三角縁神獣鏡を得た。その鏡を倭国の国々に配布することにより、国を平定することが出来たのである。「飴(水銀)が出来ればきっと武器を使わないで天下を平定することが出来る」。まさに、日本書紀に記載された通りの歴史である。神武東征は史実であった。

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