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74-12.群馬に何故、前期前方後円墳が多いのか [74.「記紀」で解く「空白の世紀」の150年]

Z490.前橋八幡山古墳.png『書紀』崇神48年(264年)には、「豊城命(崇神天皇の皇子)に東国を治めさせた。これが上毛野君・下毛野君の先祖である。」とある。「上毛野」は後の上野国で群馬県、「下毛野」は後の下野国で栃木県に相当する。前期古墳の分布を見ると群馬県に前期の大型の前方後円墳が多数あり、最も早い年代は前橋市の前橋八幡山古墳(前方後方墳、墳長130m)で、粘土槨(270~470年)と特殊器台(250~300年)から年代は270〜300年である。この前方後方墳が豊城命の墓であると考えると、年代的に合っている。『書紀』崇神48年の豊城命の話は史実であったと思われる。

 

景行55年(329年)、「豊城命の孫の彦狭島王は東山道十五国の都督に任じられたが、春日の穴咋邑に至って病で亡くなった。東国の人民は王の来られなことを悲しみ、密かに王の屍を盗み出し上野国に葬った。」とある。「春日の穴咋邑」は、奈良市横井にある穴栗神社の地であるとの説もあるが、この地では彦狭島王は東国の任地に旅立っていないことになり、奈良と群馬では、「東国の人民が王の屍を盗み出し上野国に葬った」というのは作り話になる。

 

長野県佐久市春日には、彦狭島王が亡くなった「春日の穴咋邑」ではないかとの伝承がある。佐久市春日は昔は軽井沢町と同じ北佐久郡に属する春日村であった。律令制度が整備 される以前の原初的な東山道は「古東山道」と呼ばれている。春日村は古東山道のルート上にあり、軽井沢町の入山峠を経て群馬県高崎市に向かう。彦狭島王が佐久市春日で亡くなったのであれば、「東国の人民が王の屍を盗み出し上野国に葬った」というのは真実味を帯びてくる。

 

Z491.元島名将軍塚古墳.png群馬県高崎市元島名町に島名神社がある。この神社は墳丘全長95メートルの前方後方墳の将軍塚古墳の前方部頂上に鎮座している。この神社の創立年月は不詳であるが、祭神は彦狭島王である。将軍塚古墳からは石釧(270~370年)と底部穿孔壺(270~360年)が出土しており、年代は270~360年である。年代的には将軍塚古墳が彦狭島王の墓という可能性を残すばかりか、祖父豊城命の墓と考えられる前橋八幡山古墳と同じ前方後方墳であることに興味が沸く。『書紀』景行55年の彦狭島王の話も史実と思われる。


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74-13.出雲・薩摩に何故、前期前方後円墳が無いのか [74.「記紀」で解く「空白の世紀」の150年]

Z487.前期前方後円墳.png卑弥呼・壱与を共立した倭国連合の国々は、吉備・出雲以西の中国・九州(除く大隅)であった。吉備(備前・備中・備後)は壱与の出自の国で、初期の大和王権に大きな影響を及ぼし、また多くの前期前方後円墳を築造し、大和王権の象徴である三角縁神獣鏡・三種の神器も出土している。一方、出雲は神武天皇の皇后の姫蹈鞴五十鈴姫命の出自は出雲であるばかりか、大和王権と深く関わりがあったとされる大神神社は、三輪山を御神体として、主祭神を大物主大神とし、大己貴命と小彦名命を配祀する。これらの神は出雲系である。

 

それなのに、出雲には前期前方後円墳が一基も存在していない。出雲の前期の古墳から三角縁神獣鏡は3面出土出土しているが、何れの古墳も方墳である。中でも雲南市の神原神社古墳出土の三角縁神獣鏡には卑弥呼が魏に貢献した年の「景初三年」の銘があり超一級品である。一方、大和王権に中世を誓う三種の神器が出土した前期古墳は無い。これらからすると、大和王権は出雲に敬意を払っていたが、出雲はそっぽを向いていたのであろう。それは、吉備が出雲に代わって大和王権に大きな影響力を持ったことへの“やっかみ”であったのであろう。

 

Z492.神原神社古墳鏡.png

崇神60年(265年)、天皇が出雲大社に納めている神宝を見たいと言われ使いを出雲に遣わされた。神宝を管理していた出雲臣の先祖の出雲振根は筑紫に行って留守であった。弟の飯入根が皇命を承り奉った。振根は筑紫から帰り、「何を恐れて神宝をたやすく朝廷に差し出したのか」と弟を責めた。この恨みもあって、兄の振根は弟を殺した。朝廷はこの事を知り、吉備津彦と武渟河別を遣わせて振根を殺した。出雲臣はこのことを恐れて出雲大神を祭らなかったが、「出雲の人が祈り祭る鏡が水底に沈んでいる」と子供が歌っているのを神の啓示であると皇太子が天皇に進言し、天皇は鏡(神宝)を出雲大社に祭らせた。この鏡が雲南市の神原神社古墳出土の「景初三年」銘の三角縁神獣鏡であったのかも知れない。古墳中期には出雲でも前方後円墳が築造されている。

 

薩摩の話しに変わるが、『書紀』の神代では、兄の火闌降命と、弟の彦火火出見尊が海と山の幸の争いをして、弟は海神の援助を得て弟を降参させ、兄は弟に「今後、私はお前の俳優(古事記:昼夜の守護人)の民となる」と約束をしている。彦火火出見尊の建国したのが日向の邪馬台国で、火闌降命は阿田君小橋(古事記:隼人阿多君)の祖とあり、火闌降命が建国したのが薩摩の投馬国と考える。卑弥呼の時代の薩摩は投馬国で五万戸の大国であったが、倭国連合の盟主国である邪馬台国には頭が上がらなかった。

 

まして、卑弥呼の息子の磐余彦尊が東征し大和国を建国し、その大和国が崇神天皇(壱与)に代わり倭国の盟主国になると、投馬国(薩摩)にとっては面白くない。薩摩に大和王権の象徴である前方後円墳が古墳時代を通じて築造されなかったのはこのためである。なお、景行13年(309年)に、景行天皇は蘇の国(狗奴国)を平定している、狗奴国のあった大隅には前期の前方後円墳は無いが、中期以降の前方後円墳はあり、大和王権に服従したのであろう。景行天皇は大和王権に服従しない親戚筋の投馬国は、刃向かうことが無い以上、平定することはしなかったのである。


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