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45.金印の謎を解く ブログトップ

45-1.甕棺に副葬された青銅武器 [45.金印の謎を解く]

Y10甕棺型式と副葬品.png

『考古資料大観 第10巻 弥生・古墳時代 遺跡・遺構』(寺沢薫、2004年11月)には、「弥生時代および古墳時代初期首長墓副葬品一覧」があり、主要な弥生遺跡の甕棺の型式と副葬品の関係が記載されている。甕棺型式別に出土した主要な副葬品を調べ表Y-10にまとめた。数字は“副葬品数/甕棺数”を表し、( )は甕棺以外の墳墓から出土したことを示す。武器(剣・矛・戈)は青銅器と鉄器、鏡は多鈕細文鏡・漢鏡・仿製鏡である。なお、漢鏡は岡村秀典氏の分類(漢鏡1期~7期)に従っている。

Y11青銅武器分布.png朝鮮半島から細形の青銅武器(剣・矛・戈)が我国に渡ってきたのは、金海()式甕棺(KⅠc)の時代(図11:赤枠)であり、その全てが玄界灘沿岸部(唐津市・福岡市西区・古賀市)から出土しており、その半数は福岡市西区の早良平野にある吉武高木・吉武大石遺跡のものである。吉武高木遺跡の城ノ越式(Ka)時代の木棺墓から、細形の剣・矛・戈と多鈕細文鏡・勾玉・菅玉が出土し、皇室の三種の神器と言われる「鏡・玉・剣」を有した「最古の王墓」と言われている。城ノ越式(Ka)の時代(図11:黄色枠)になると、細形の青銅武器が釈迦寺遺跡(武雄市)・東山田一本杉遺跡(大和町)・高志神社遺跡(千代田町)などの有明海沿岸部の甕棺からも出土するようになる。細形銅剣・細形銅矛の鋳型が惣座遺跡(大和町)から出土しており、中期前半の早い段階から、青銅器の鋳造が始まっていたと考えられている。

汲田式(
Kc)の時代には、わが国独自の中細形武器(剣・矛・戈)が出現する。汲田式(Kc)・須玖式(Ka)の時代(図11:緑枠)は有明海沿岸部が優位で、吉野ヶ里遺跡(三田川市)や柚比本村遺跡(鳥栖市)から細形銅剣・中細形銅剣が出土している。そして、吉野ヶ里遺跡(三田川町)・本行遺跡(鳥栖市)・姉遺跡(千代田町)からは、細形や中細形の鋳型が出土している。

唐津市の宇木汲田遺跡からは、
KcKaの甕棺から細形の青銅武器(剣・矛・戈)が出土している。宇木汲田遺跡の甕棺からは多鈕細文鏡も出土している。多鈕細文鏡は北部九州から8面が出土しているが、その内3面が佐賀県から出土している。唐津市の宇木汲田遺跡(Kc)、佐賀市の増田遺跡(Ka)、大和町の本村籠遺跡(Kb)である。唐津から有明海に向かって青銅器が伝えられたように見受けられる。

立岩
()式(Kb)・立岩()式(Kc)の時代(図11:青枠)になると、前漢鏡と共伴して中細青銅武器が出土する。春日市の須玖岡本D遺跡(Kb)と糸島市の三雲南小路遺跡1号甕棺(Kb)からは中細形の剣・矛・戈が出土し、飯塚市の立岩遺跡10号甕棺(Kc)からは中細形の矛が出土している。青銅器の製作と言えば、須玖岡本遺跡群(春日市)が有名である。遺跡群のなかで大谷遺跡からは、細形銅剣・中細形銅矛の鋳型が見つかっているが、須玖岡本遺跡群の青銅器生産が最盛期を迎えるのは、後期後半から終末期である。

中広形・広形の祭祀用青銅武器は甕棺や木棺・石棺・土壙墓などの墳墓からは、対馬を除いては一切出土していない。中広形・広形の祭祀用青銅武器は北部九州に存在していないのではなく、出雲の神庭荒神谷遺跡のように、単独で土壙から出土している。これらについては別途記載する。中広形・広形の鋳型が須玖岡本遺跡群(春日市)・比恵遺跡(福岡市博多区)安永田遺跡(鳥栖市)から出土している。



 


45-2.須玖岡本遺跡はナ国の王墓 [45.金印の謎を解く]

魏志倭人伝に書かれた「伊都国」・「奴国」について、邪馬台国の研究者の99%が伊都国は糸島市、奴国は福岡市・春日市とその周辺としている。私は伊都国・奴国の都は、これらの地ではなかったと考えている。そのため、魏志倭人伝に書かれた「伊都国」・「奴国」が誕生するまでは、「伊都国」と呼ばれている国は「イト国」、「奴国」は「ナ国」と表記する。

Y12甕棺副葬品の年代.pngY-12に甕棺の編年表に、主要な副葬品が埋納された年代(甕棺型式)を記した。表Y-12を見て一番に気付くことは、前漢鏡(漢鏡3期)の鏡が紀元前100年~50年の立岩()式(KⅢb)の甕棺に副葬されていることだ。前漢の武帝は、紀元前108年に朝鮮を平定し、楽浪郡を設置している。そして、『前漢書』地理史に「楽浪海中倭人あり、分かれて百余国となる。歳時を以って来たり、献じ見ゆ」と書かれており、倭国の国々は楽浪郡の設置後すぐに、接触を試みたと思われる。この時に手に入れたのが漢鏡3期(前1世紀前半から中ごろ)の鏡であったと思われる。楽浪郡を訪れた国々の王墓は、須玖岡本D遺跡(春日市)、三雲南小路1号甕棺(糸島市)がKb(前100~前50年)の時代で、三雲南小路2号甕棺(糸島市)、立岩
10号甕棺(飯塚市)が
Kc(前50年~前1年)の時代である。

春日市にある須玖岡本
D遺跡(Kb)は、1899年(明治32年)に土地の所有者が大石(3.x.x.m)を動かしたところ、多くの副葬品を伴う甕棺が出土した。これらの遺物はその近くに埋め戻されたが散逸してしまった。その後、九州大学の中山平次郎氏や京都大学等の調査により、遺物は前漢鏡30数面、中細形銅剣・多樋剣・細形矛・中細形矛・中細戈の計8本以上、ガラス壁・ガラス勾玉・菅玉であることが分った。須玖岡本D遺跡の大石を持つ甕棺墓は「ナ国」の王墓と考えられている。

岡村秀典氏は復元された29面の鏡を、漢鏡2期(前2世紀後半)が3面、漢鏡3期(前1世紀前半から中ごろ)が26面としている。須玖岡本
D遺跡の甕棺型式は立岩()式(Kb)で、年代は紀元前100年~50年である。これらからすると、漢鏡3期の鏡が前漢で盛況であった時期に倭国の甕棺に埋納されていたことになる。鏡の入手から甕棺に埋納するまでのタイムラグ(時間のずれ)を考えると、漢鏡3期の鏡は立岩()式(Kb)の後半、紀元前75年~50年に甕棺に副葬されたと考えられる。私の編年表の年代は、楽浪郡設置・『前漢書』地理史・前漢鏡年代と何の齟齬もない。倭の国々は中国で盛況である鏡を楽浪経由で手に入れ、伝世することなく墓に埋納していることは注目に値する。


45-3.三雲南小路遺跡はイト国の王墓 [45.金印の謎を解く]

Y13.三雲南小路雷文鏡.jpg

糸島市にある三雲南小路1号甕棺は、1822年(文政5年)に採土中に発見された。筑前藩の国学者青柳種信は『柳園古器略考』と『筑前国怡土郡三雲村古器図説』を著し、主要遺物の詳細な記録を残している。遺物は前漢鏡35面、有柄銅剣1本・銅矛2本・銅戈1本、ガラス壁8個・ガラス勾玉3個・ガラス管玉100個以上、金銅四葉座飾金具8個および朱がつまった小壺であった。1975年(昭和50年)に福岡県教育員会の発掘調査でその甕棺遺構を再確認している。その調査で発見された鏡片は、図13に見られるように、青柳種信の記録とピッタリ一致していた。岡村秀典氏によれば、1号甕棺の前漢鏡は31面が復元され、それらは漢鏡2期(前2世紀後半)が2面、漢鏡3期(前1世紀前半から中ごろ)が29面で、鏡径は18~16㎝であるそうだ。

1975年の発掘調査で甕棺(1号)のすぐ西北に並列する、新たな甕棺(2号)が現れた。2号甕棺からは前漢鏡22面以上、ヒスイ勾玉1個、ガラス勾玉12個、ガラスペンダント(壁片)1個と朱が多量副葬されていた。2号甕棺の22面は全て漢鏡3期の鏡で、鏡径は11~6㎝と1号甕棺より小ぶりの鏡であるそうだ。

Y14.三雲南小路2号甕棺.png三雲南小路1号甕棺の型式は立岩()式(Kb)で、甕棺の型式も、副葬された遺物の種類も、前漢鏡の型式も、王権の象徴の壁も「ナ国の王墓」と考えられた須玖岡本D遺跡と全く同じで、三雲南小路1号甕棺は「イト国の王墓」と考えられている。2号甕棺の型式は立岩()式(Kc)であり、1号甕棺より1段階新しい甕棺型式となっている。1号甕棺には青銅武器と壁があるが、2号甕棺にはそれらが無いこと、2号甕棺の鏡の径が1号甕棺の鏡に比べて小さいこと等から、2号甕棺の被葬者は1号甕棺のイト国王の后の墓と考えられている。イト国王は紀元前50年の少し前に、后は紀元前50年の少し後に埋葬されたと考える。須玖岡本D遺跡の「ナ国の王墓」も、三雲南小路1号甕棺の「イト国の王墓」も、卑弥呼の時代より250年以上も前の王墓である。魏志倭人伝に書かれた「奴国」・「伊都国」の説明に、須玖岡本D遺跡・三雲南小路1号甕棺を引き合いに出すには、余りにもかけ離れている。


45-4.金印はなぜ志賀島から出土したか [45.金印の謎を解く]

Y15志賀島金印出土地.jpg

『後漢書』東夷伝には「建武中元二年、倭奴国、奉貢朝賀す。使人自ら大夫と称す。倭国の極南界なり。光武賜うに印綬を以てす。」とあり、西暦57年(建武中元二年)に「倭奴国」が使いを遣わし、後漢の光武帝より印章を下賜されたと書かれている。江戸時代の天明4年(1784年)に博多湾の出口にある志賀島から「漢委奴国王」の銘のある金印が出土した。金印が出土した状況は、発見者の甚兵衛の口上書に「叶の崎という所の私の田地、田の境の溝の水の流れが悪く、先月23日に溝の形を仕直そうと岸を切り落としていたところ、小さな石がだんだん出てきて、その内二人持ちほどの石が有り、金梃子で堀り除いたところ、石の間に光るものが在るので、取り上げ水にすすいだところ、金の印判のような物でした」とある。甚兵衛の口上書からは、金印は単独で出たのであって、その他の遺物は無かったなかったことが分る。

Y16 志賀島金印.jpg金印が出土した「叶の崎」という地名は現在ないが、その推定地が金印公園になっている。当時、福岡藩校の館長であった亀井南冥は、金印発見直後に金印を鑑定し、後漢の光武帝が授与した印と看破している。この南冥が書いた絵図(Y 15 )にある金印発見の場所(点線の丸囲みの部分)が金印公園の地である。この地は狭隘な土地であるので金印を埋納するにはふさわしくないと、この地から500m離れた”叶の浜”ではないかとの異説もある。

亀井南冥は『金印弁』の中で「唐土の書に本朝を倭奴国とある。
の字はの字を略したもの」としている。そして、「の字は華音ではと読める」として、金印の「委奴国王」を「倭の国王」と呼んでいる。金印の「委奴国王」を「委奴(イト)国王」と読む学者も少なくないが、光武帝より印綬を賜ったのが「倭奴国」であり、「倭の奴()国王」と読むのが通説である。この「奴国王」こそ、「ナ国の王墓」とされる玖岡本D遺跡に眠る王の末裔であろう。

「漢委奴国王」金印については、「委奴国王」の読み方だけでなく、なぜ辺鄙な志賀島から異例な状態で出土したのかについて、江戸時代から現在まで百家争鳴である。金印が志賀島から出土した理由について種々の説がある。そのひとつが墳墓副葬説であるが、これは金印以外のものが出土していないことから否定的である。有力視されているのは、中山平次郎氏がとなえた奴国の没落による金印隠匿説、水野祐氏の志賀海神社の祭祀施設とした磐座説、森貞次郎氏の朝鮮と本土の航海安全を祈願した祭祀施設である。金印が発見されて200年経つが、まだ人々を納得させるだけの説がなく、その謎はまだ解かれていない。


45-5.ナ国王は光武帝から鏡を授かったか [45.金印の謎を解く]

西暦57年に後漢の都・洛陽に使いを遣わしたナ国王は、何を目的として朝貢したのであろうか。ひとつは、倭国王となるために後漢の後ろ盾を願ったと思われる。光武帝は「漢委奴国王」の金印を下賜することで、その願いをかなえたのであろう。ナ国王のもうひとつの願いは、威信財としての鏡を賜ることであったと考える。光武帝が鏡を授けたとするならば、その鏡は岡村氏の分類で漢鏡4期(前25~後25年)、あるいは漢鏡5期(後25~100年)の鏡と考えられる。

Y17 糸島平野の王墓.pngしかし、ナ国の領域にある地域では、光武帝朝貢以後の桜馬場式(Kb:後50~75年)と三津永田式(Kc:75~100年)の時代の甕棺からは、漢鏡4期の鏡は1面も出土していない。ただ、漢鏡5期の内向花文鏡が飯氏馬場遺跡(福岡市)7号甕棺(Kc
から1面出土しているだけである。ナ国の領域から出土していない
漢鏡4期の鏡が、「イト国の王墓」とされる三雲南小路1号甕棺の
すぐ近くにある井原鑓溝遺跡から方格規矩鏡が21面以上出土して
いる。井原鑓溝遺跡の鏡は、光武帝より賜った鏡ではないかと、
私は考えている。

1822年(文政5年)に三雲南小路1号甕棺が発見された時、筑前藩の国学者青柳種信は現場に駆けつけ、聞き取り調査を行っている。その中で、40年前に三雲南小路からほど近い井原鑓溝(糸島市)で、甕棺から多量の鏡と刀剣・巴形銅器が出土していたことを聞き出した。幸い漢鏡と巴形銅器は残っていたため、それらの拓本を採り、発見の経緯を著書『柳園古器略考』・『筑前国怡土郡三雲村古器図説』に記載している。それらによると、鏡は21面以上、巴形銅器は3点以上になる。

Y18 井原鑓溝鏡拓本.png京都大学の梅原末治氏は1931年に、掲載されている35個の鏡の拓本から18面の鏡を複元している。これらの鏡は全て方格規矩鏡である。この拓本からは、「玉英飲澧泉」・「桼言之」・「漢有善」・「新」・「武順陰陽」の銘文が読み取れる。岡村秀典氏は『三角縁神獣鏡の時代』の中で、「漢有善銅」の「漢」は前漢王朝、「新有善銅」の「新」は王莽の新王朝を指し、また「桼言之紀」の「桼」は王莽代に用いられた「七」の別表記であることから、井原鑓溝遺跡の鏡は紀元前後から王莽の新代にかけての時期(漢鏡4期)に位置づけられる。この鏡群には後漢代に下るものがふくまれず、型式にまとまりがあるため、王莽の新代に楽浪郡から一括の状態で贈与され、その人物の死とともに副葬されたものと考えられる。その時期は1世紀第1四半期(紀元1~25年)であると述べている。

『後漢書』王莽伝には、王莽が実権を握っていた前漢末の元始5年(西暦5年)に「東夷の王、大海を渡って、国珍を奉ず」とある。「大海を渡る」とすることから、東夷の王は倭国の王とされている。この時、鏡を貰ったとすると、それは漢鏡3期(前100~前25年)、あるいは漢鏡4期(前25~後25年)の鏡であろう。岡村氏は「東夷の王」を井原鑓溝遺跡に葬られたイト国の王と考えておられるのであろうか。そうなると、ナ国王は光武帝より鏡を授からなかったことになり、井原鑓溝遺跡の21面以上の鏡は光武帝より賜った鏡とする、私の考えは否定されてしまう。


45-6.ナ国王は金印を手にしていない [45.金印の謎を解く]

Y18 井原鑓溝鏡拓本.png

井原鑓溝遺跡の鏡には写真18のように、「漢有善銅」の銘が読み取れる方格規矩鏡がある。岡村秀典氏は「漢有善銅」の「漢」は前漢王朝のこととしている。私が台湾の故宮博物館で購入した『中華五千年文物集刊 銅鏡篇上』には、浙江省紹興縣出土の「漢有善銅博局紋鏡」が東漢(後漢)早期の鏡と記載されている。「博局紋鏡」とは方格規矩鏡のことである。この鏡の銘文は「漢有善銅出丹陽・・・左龍右虎備旁 朱爵玄武順陰陽・・・」である。「漢有善銅」・「武順陰陽」の銘は井原鑓溝遺跡から出土の鏡にあったものである。鏡の銘文を写真で見ると「四」の字は「亖」の字であった。「亖」の字は「桼」と同じように、王莽代に用いられた「四」の別表記である。


Y19.漢有善銅.jpg中国の甘粛省酒泉にある居延烽燧遺跡から発見された前漢代・後漢代の木簡「居延漢簡」には、光武帝建武7年を示す「建武年6月」の紀年銘が書かれた木簡がある。中国社会科学院歴史研究所の「謝桂華先生木簡学成就」というWebサイトを見ると「とかの字は、王莽時代に使用が開始され、東漢(後漢)の光武帝建武年間まで継続使用された。」と書かれてある。その証拠として「建武五年月」という木簡が存在していると書いてある。これらより井原鑓溝遺跡の方格規矩鏡の中にある「漢有善銅」銘文の鏡は、後漢の光武帝建武年間(西暦25~55年)に製作されたものである鏡と言える。岡村氏の漢鏡4期(紀元前25~後25年)は(前25~後50年)であり、漢鏡5期(後25~100年)は(後50~100年)である。

 『
考古資料大観 第10巻』の「考古資料から見た弥生時代の暦年代」で寺沢薫氏は、井原鑓溝遺跡の甕棺はKb(後50~75年)と推定されている。これは「末盧国の王墓」と言われている桜馬場遺跡(唐津市)1号甕棺(Ka)から出土した、漢鏡4期の方格規矩鏡2面よりも、井原鑓溝遺跡出土の方格規矩鏡の方が新しい形式と見ているからだ。桜馬場遺跡1号甕棺出土の方格規矩鏡は、王莽が実権を握っていた前漢末の元始5年(西暦5年)に入手した鏡であろう。井原鑓溝遺跡の鏡は、ナ国が建武中元2年(西暦57年)光武帝より金印と一緒に賜った鏡であると結論付けることが出来る。

金印に刻まれた「委奴国王」を「委奴
(イト)国王」と読む学者も多い。イト国と読めば、井原鑓溝遺跡の鏡が光武帝より賜った鏡であることの説明がつく。しかし、イト国からは井原鑓溝遺跡に続いて、王墓クラスの墳墓が平原5号墳、平原1号墳と続く。金印がイト国に下賜されたものならば、これらどれかの王墓から金印が出土したはずであり、志賀島から出土した説明がつかない。志賀島から出土した金印と井原鑓溝遺跡から出土した鏡は、ナ国に下賜されたものに違いない。そうであれば、光武帝より下賜された鏡は、イト国がナ国より奪ったという結論になる。

Y20.光武帝金印と鏡.pngイト国王は、ナ国王が後漢の光武帝に使いを遣わしたと知ると、先を越されたと脅威を感じたであろう。ナ国の使いは光武帝に自らを「大夫」と名乗ったようにナ国の重臣であった。ナ国の重臣が後漢の都・洛陽に行っている間をついて、イト国王はナ国を滅ぼし「奴国」が誕生したと考える。ナ国の滅びたことを知らず帰国した重臣は、イト国に船を接収されて鏡を奪われた。重臣は金印のみを持って脱出し、志賀島に隠匿したと推理する。ナ国王は金印を手にすることが無かったのである。

こう考えると、金印の出土地が志賀島の狭隘な場所で、金印のみが石で囲われてあったことも、井原鑓溝遺跡から光武帝建武年間の鏡が出土することも、そして、ナ国の領域においては桜馬場式甕棺(
Kb:後50~75年)の時代の王墓相当する墓がなく、漢鏡4期(前25~後50年)の鏡が出土しないことなど全ての説明が付く。


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