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74.「記紀」で解く「空白の世紀」の150年 ブログトップ

74-1.「倭の五王」の比定は完結した [74.「記紀」で解く「空白の世紀」の150年]

日本の古代史を明らかにする手がかりは、二冊の中国の歴史書に求められている。その一冊が「卑弥呼」の登場する『魏志』倭人伝であり、そしてもう一冊が、「倭の五王」が登場する『宋書』倭国伝である。邪馬台国の卑弥呼が魏と交わったのが3世紀前半であり、倭の五王が中国の南朝と好を結んだのが5世紀である。3世紀半ばから5世初めまでのあいだ、すなわち、『晋書』武帝紀記載の「泰始二年(266年)、倭人来たり方物を献ず。」の記述から、同じく『晋書』安帝紀の「義熙九年(413年)、高句麗・倭国および西南夷銅頭大師並びに方物を献ず」の記述までの約150年間、中国の史書には倭国に関する記載事項はなく、「空白の世紀」と呼ばれている。

 

『宋書』 は513年に没した沈約の撰によるもので、中国の南北朝時代の南朝に起こった宋(420~478年)の史書であり、五世紀に倭より中国に朝献した倭国王「讃・珍・済・興・武」、通称「倭の五王」について詳しく書いてある。倭の五王については、「宋書」より後に書かれた「梁書」「南斉書」「晋書」にも記載されてあるが、宋書の倭国伝の、資料的価値が一番高いと考えられている。この「倭の五王に」ついては、明治・大正・昭和の多数の学者が「魏志倭人伝」と同様「宋書倭国伝」の解釈に頭を悩まし続けてきた。

 

倭の五王の比定は江戸時代の儒学者松下見林によって扉が開かれた。松下見林は倭の五王の名と天皇の諱(いみな)とを字の意味と字の形について比較し、讚は履中天皇、珍は反正天皇、済は允恭天皇、興は安康天皇、武は雄略天皇に比定した。著名な儒学者の新井白石は字の音の類似を比較し、松下見林と同じ結論に達している。そして、国学者の本居宣長は『日本書紀』の紀年から、五王の遣使は天皇の事績ではないとして、讚・珍・済は允恭天皇の代、興と武は雄略天皇の代のことであるとした。

 

 明治時代には、那珂通世が『書紀』の神功・応神紀に記された百済王は,干支二廻り(120年)繰下げると年代が一致することを見つけた。そして自らの年代論をもとにして、讚は履中天皇、珍は反正天皇、済は允恭天皇、興は安康天皇、武は雄略天皇と江戸時代の儒学者と同じ比定を行っている。政府の修史局(歴史編纂事業)にいた星野恒は、「崇神帝以後の年代は古事記に従えば大差なきに近し」と紀年表を発表した。これを見た那珂通世は讚を履中天皇から仁徳天皇へと修正すると発表している。

また、修史局にいた菅政友は、『宋書』の「済死す。世子興遣使」の世子とは日嗣(ひつぎ)の皇子を意味するとして、興は履中天皇の第一皇子の市辺押磐皇子であるとの説を発表した。興については、修史局にいた久米邦武が、允恭天皇の長男で同母妹の軽大娘皇女と通じたとして次男の穴穂皇子(後の安康天皇)によって廃された木梨軽皇子であるという新説を出している。明治時代には、讚は仁徳天皇、珍は反正天皇、済は允恭天皇、武は雄略天皇であることは固まっている。

 

 昭和時代の戦後、東洋史学者の前田直典は『宋書』倭国伝の武の上表文にある祖禰にも注目し、讚は応神天皇という説を発表している。この説は一時定説になった感があったが、数年後には橋本増吉、近藤啓吾、丸山二郎、井上光貞などの著名な歴史学者の反論に会っている。倭の五王の比定は今にいたっても定説がないという状態である。

 

Z477.倭の五王の比定.png2021年7月の「72-.『古事記』の編年と倭の五王」で、私は『古事記』記載の仁徳・履中・反正・允恭天皇の崩御年の通説にプラス5年すると、『宋書』倭国伝・帝紀の記載と矛盾なく、讚は仁徳天皇、珍は反正天皇、済は允恭天皇、興は安康天皇、武は雄略天皇に比定できることを発見した。表Z477を見れば一目瞭然で、これは古代史解明の快挙であると自負している。


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74-2.応神天皇崩御の年が「空白150年」解明の第一歩 [74.「記紀」で解く「空白の世紀」の150年]

Z478.倭の五王.png私は、『書紀』の編年が900年延長していることを発見した。その延長の900年は、欠史8代の天皇で484年と、『書紀』に記載された『魏志倭人伝』『百済記』『百済新撰』などの引用記事を取り除いた後の、記事と記事の空白の期間が4年以上を合計した416年であった。これにより、『書紀』に記載された全ての記事を網羅する「縮900年表」を作成する事が出来た。「縮900年表」の仁徳天皇・履中天皇・反正天皇・允恭天皇の崩御年は、表Z478に示すように『古事記』崩御年プラス5年とほぼ同じ(違っても1年)で、『宋書』倭国伝とピッタリ一致している。しかし、応神天皇の崩御に関しては「縮900年表」が378年に対して、『古事記』の「甲午」の394年、あるいはプラス5年の399年と16年以上違っている。応神天皇の崩御年を明確にすることが、「空白の世紀」の150年間の編年を解明する第一歩であると考える。

 

書紀』の神功紀と応神紀にある『百済記』から引用された記事、あるいはそれらと関連する記事の年月は、干支2廻り120年繰り上げられている。これらの記事を120年繰り下げて、応神天皇の崩御年を境として振り分けた。「縮900年表」の応神崩御378年を境にすると、応神天皇側には、神功56年以前の8件の引用記事があり、仁徳側は神功62・64・65年の記事と応神3年以後の9件の引用記事がある。そこで、神功紀の引用記事は応神天皇在位中の出来ことで、応神紀の引用記事は仁徳天皇在位中の出来ことであるとの仮説を立てて編年を行った。この仮説に従えば、応神天皇の崩御・仁徳天皇の元年は、神功65年(385年)と応神3年(392年)の間になる。

 

「縮900年表」の仁徳天皇元年は381年であり、仁徳紀をもっと縮小しなければならない。「縮900年表」の編年にいおては、記事と記事の空白の期間が4年以上ある場合は、延長された期間として削除している。仁徳紀に限り、2年以上の空白の期間を延長された期間とした。こうすれば、仁徳紀にある全ての記事を削除することなく、年表が作成出来る。これによれば、応神天皇崩御が390年、仁徳元年は2年間の空位期間あり393年となり、仁徳天皇崩御は431年である。応神天皇崩御の年は『古事記』の394年と4年の違いとなった。

 

この仁徳元年の393年は、引用記事を振り分け定めた「応神天皇崩御・仁徳天皇元年は385年から392年の間」と比較すると1年オーバーしている。「2年以上の空白の期間を延長された期間」として作成した仁徳紀の年表の全体を1年繰り上げた。そうすると、応神天皇崩御が390年、仁徳元年は392年となり、仁徳天皇崩御は430年となった。

 

これで起こる問題は、応神天皇崩御と仁徳元年の間の2年間の空位期間が1年となり、仁徳天皇崩御と履中元年の間に1年間の空位が出来ることである。応神天皇が崩御したとき、皇太子の菟道稚郎子は即位することを拒み、また大山守皇子が皇太子を殺し帝位をとろうとした。このために生じた空位の期間が1年であっても、『書紀』の記す歴史は繋がっている。また、仁徳天皇が崩御したとき、皇太子の去穂別尊(履中天皇)を仲皇子が殺そうと太子の宮を焼くような争いが生じている。このために仁徳天皇が崩御し履中天皇が即位するまでに空位が1年生じたとしても、『書紀』の記す歴史は繋がっている。応神天皇崩御390年、仁徳天皇元年392年、仁徳天皇崩御430年としたものを「新縮900年表」と呼ぶ。


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74-3.阿知使主が呉から帰国の年に仁徳天皇が崩御 [74.「記紀」で解く「空白の世紀」の150年]

明治時代の歴史学者那珂通世氏は、『書紀』の神功紀と応神紀にある百済記から引用された記事の年月が、『三国史記』に記載された年月と比較すると干支2廻り、120年繰り上げられていることを発見している。私は「縮900年表」を作成の中で、干支2廻り、120年繰り上げられているのは、百済記から引用された記事だけではないことを発見した。その一例が、呉に派遣された阿知使主の記事である。

 Z479.阿知使主.png

応神37年「阿知使主を呉に遣わして縫工女を求めさせた。阿知使主は高麗国に渡ったが道がわからず、高麗王の付けた案内人よって呉にいくことが出来た。呉王は縫女の兄媛・弟媛・呉織.穴織の四人を与えた。」、応神41年「阿知使主らが呉から筑紫についた。兄媛を宗像大神に奉り、あとの三人の女を連れて津国の武庫についた時、天皇が崩御された。そこで三人を大鷦鷯尊に奉った。」。呉とは中国南北朝時代の南朝の宋である。宋の建国は420年で都は建康(南京)である。これからすると、阿知使主は420年以後に宋に遣わされたことになる。

 

阿知使主が呉に派遣された応神37年は、『書紀』の編年に従えば306年だが、干支2廻り、120年繰り下げると426年である。『宋書』倭国伝には元嘉2年(425年)に讃が司馬曹達を遣わして貢献したとあり、1年の違いがあるが『書紀』と『宋書』倭国伝は一致している。また、阿知使主が帰国した応神41年は430年にあたる。『宋書』武帝紀には「元嘉七年(430年)春正月、倭国王使いを遣わしいて方物を献ず。」とある。阿知使主が帰国する年の正月に、皇帝の朝賀の儀に参列したことを示している。

 

Z480.仁徳陵古墳.png私は『古事記』記載の仁徳・履中・反正・允恭天皇の崩御年の通説にプラス5年すると、『宋書』倭国伝・帝紀の記載と矛盾なく、讚は仁徳天皇、珍は反正天皇、済は允恭天皇、興は安康天皇、武は雄略天皇に比定できることを発見した。これらからすると、宋に阿知使主を派遣した天皇は仁徳天皇となる。『書紀』応神41年の記事では「阿知使主が帰国し津国(摂津国)の武庫に着いた時、天皇(応神天皇)が亡くなり、呉王より賜った3人の縫女を大鷦鷯尊(仁徳天皇)に奉った。」とあるが、亡くなったのは仁徳天皇であったのである。阿知使主が呉から帰国した430年に仁徳天皇が崩御した。「新縮900年表」では仁徳天皇の崩御を430年とした。両者はピッタリ一致している。


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74-4.仁徳天皇は好太王と百済・新羅の覇権を争った  [74.「記紀」で解く「空白の世紀」の150年]

Z481.好太王碑.png中国の歴史に倭国の名が登場しない、空白の150年間(267年~412年)の間で、古代朝鮮の好太王碑に倭国の名が登場してくる。好太王碑は現在の中国の吉林省集安県の鴨緑江中流域の江畔、およそ1キロメートルの所にある。碑は好太王のものと言われる将軍塚と大王陵の中間にあり、その昔高句麗の王都、丸都城のあった地域である。好太王の諡号を省略した「広開土王」という称号が、朝鮮の史書『三国史記』には用いられている。この碑は1880年この地の農民が発見し、1884年(明治17年)に日本陸軍の酒勾景信大尉が、日清戦争の諜報活動の最中に見つけ、この碑文の拓本を得て日本に持ち帰り、参謀本部で読解が行われた。

 

中国の史書は歴史資料として価値が高いが、現在まで伝わっているのは原本でなく写本である。この写本には脱字・脱行・あるいは別の字との置き換わりがなされた可能性がある。この点から考えると、好太王の碑文は古代に刻まれたそのままが残っており、歴史資料としては、一級のものといえる。しかしながら、碑文の倭国に関する事項が、明治から昭和にかけて日本の覇権主義者にとって、都合の良い内容であり、まして、最初の関係者が軍人であったことなどから、改ざんが行われたのではないかと言う説もある。

 

この碑は高句麗の好太王の業績を讃えるため、没後2年に息子の長寿王により、414年に建てられたものである。好太王碑は高さ6.m、幅1.4~1.m。碑には約12cm四方の大きさで、深さ6mm程度の文字が、四面に渡って約1800字刻まれている。碑文は三段からなり、第一段は高句麗の開国伝承と建碑の事情、第二段は王の功績、第三段は墓守(はかもり)りに関するものである。

 

倭国に関する記述があるのは第二段で、好太王が四方に領土を拡大した業績を讃美した部分の中にある。一番初めは「百済と新羅とは、元来(高句麗の)属民であって、もとより朝貢していた。ところが、倭は辛卯の年(391年)に、海を渡って来て百済を破り、東方では新羅を□し、臣民にした。」である。「以辛卯年来渡海」については、従来「辛卯の年に海を渡って来て」と解釈されていたが、「辛卯の年よりこのかた海をわたり」との解釈が西嶋定生氏によりとなえられた。

碑文では好太王が即位した年は明記されていない。ただ好太王の元号「永楽〇年」と干支が記載しており、永楽元年が391年(辛卯)である。『三国史記』では、好太王の元年は392年であるが、碑文の元号から推察できる391年が正しいのであろう。これからすると、「以辛卯年来渡海」については、「辛卯の年よりこのかた海をわたり」との解釈が正しいと思われる。

 

『宋書』倭国伝では、讃(仁徳天皇)が亡くなり438年に朝献した珍(反正天皇)は、「使持節・都督・倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国の諸軍事安東大将軍倭国王」の称号を求め、宋からは「安東大将軍倭国王」のみの称号を与えられている。反正天皇が朝鮮半島の五国に軍事的支配権を求めていることは、仁徳天皇の時代に、朝鮮半島に進出・侵出した実態があったからであろう。

 

仁徳天皇の在位は392年から430年である。高句麗の好太王の在位は392(391)年から413年である。好太王と仁徳天皇は、ほぼ同じ年に即位し、百済と新羅の覇権をめぐって、対峙してきたのであろう。好太王碑文と『書紀』の記事がそれを示している。

「好太王碑」
396年、王は軍を率いて百済国軍を討滅した。・・・百済王は跪き「今より以後、永く奴客と為らん」と誓う。

399年 、百済は誓いを破って倭と和通、高句麗王は平壌に出いた。
新羅の使いが、倭が新羅を壊滅させたと救援を請願した。

400年 、歩騎5万を遣わして新羅を救援。倭はあたり一帯に満ちていたが、官軍が到着する時には退却した。

『書紀』「新縮900年表」

397年、阿花王が立ち倭国に無礼をした。それで東韓の地を奪われた。そのため王子・直支を天朝に遣わして先王の好を修好した。

398年、新羅人の朝貢があった。そこで茨田の堤の役に使われた。

404年、新羅の朝貢なかった。砥田宿禰と賢遣臣を新羅に派遣し詰問。新羅人は恐れ入って貢ぎ物を届けた。貢物は80艘あった。


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74-5.百済の肖古王は応神天皇に良馬2匹を献上 [74.「記紀」で解く「空白の世紀」の150年]

「新縮900年表」で、応神天皇崩御が390年、仁徳天皇の元年は392年、仁徳天皇崩御は430年に比定した。それでは、応神元年は西暦何年かに迫ってみよう。『古事記』応神記には「百済の国主照古王、牡馬壱疋・牝馬壱疋を阿知吉師に付けて貢上りき。また横刀と大鏡とを貢上りき。また百済国に『若し賢しき人あらば貢上れ』とおほせたまひき。かれ、命を受けて貢上りひと、名は和邇吉師、すなはち論語十巻・千字文一巻、并せて十一巻をこの人に付けてすなはち貢進りき。また手人韓鍛名は卓素、また呉服の西素を貢上りき。」とある。

 

一方、『書紀』応神15年には「百済王は阿直岐(あちき)を遣わして良馬二匹を奉った。・・・天皇は上毛野君の先祖の荒田別・巫別を百済に遣わして王仁を召された。」とある。『古事記』と『書紀』の記事は、百済国主=百済王、牡馬壱疋・牝馬壱疋=良馬二匹、阿知吉=阿直岐、和邇=王仁であり、両者は全く同じ話である。『書紀』には百済国王の名がないが、『古事記』は百済王を照古王としている。百済の肖古王が牡馬と牝馬の二匹を応神天皇に献上したことが分かる。

 

「新縮900年表」では、百済の肖古王が良馬良馬2匹を献上した応神15年は368年にあたる。『三国史記』によると、368年に百済は新羅に良馬2匹を献上したとある。『書紀』には「367年(神功47年)、百済王は久氐を倭国に遣す。貢物を新羅が奪う。」とあり、「369年(神功49年)、倭国は新羅を破り七ヶ国平定。躭羅を百済に与える。」とある。百済の肖古王は新羅には懐柔策を取り、倭国には後ろ盾となって、新羅と戦うことを願ったのであろう。その作戦はみごと的中した。百済の肖古王が良馬2匹を献上した応神15年は368年で間違いはないであろう。

 

『書紀』応神紀では、応神元年から応神15年までは、記事が書かれていない空白の年は、応神4年・8年・10年・12年である。これらからすると、応神15年を368年ならば、応神元年は354年となり、「縮900年」と同じである。仁徳天皇の元年の見直しで、仁徳紀の在位期間を「縮900年表」より12年間短くした。「新縮900年表」では、この12年間を応神15年から応神崩御の間で、4年以上の空白の期間で削除していた、応神21年から応神31年の間と、応神31年から応神40年にそれぞれ6年間の空白を設けることで吸収した。

 

Z482.応神天皇陵と鞍金具.png

応神天皇陵(誉田御廟山古墳)の前方部の近くに陪塚の誉田丸山古墳(円墳:墳径50m)がある。この古墳から江戸時代に金銅透彫鞍金具が前輪・後輪の対で2具分出土し、誉田八幡宮に納められ国宝となっている。両具共に龍をアレンジした唐草模様の透かし彫りで、朝鮮半島や中国東北地域との関わりが推定されている。私は丸山古墳から出土した鞍は、『書紀』応神15年に百済の肖古王から応神天皇に奉った牡馬と牝馬の二匹に装着していた鞍で、いかり肩のような角ばった1号鞍が牡馬用、なで肩のように丸みをおびた2号鞍が牝馬用のものであったと想像している。


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74-6.百済の肖古王は倭国に新しい文化をもたらせた [74.「記紀」で解く「空白の世紀」の150年]

Z483.国宝七支刀.png奈良県天理市にある石上神宮には、左右に段違いに三つずつの枝剣があり、剣身を入れると七つの枝に分かれる特異な形をした、国宝の七支刀がある。この七支刀には、表と裏に60余文字の金象嵌がある。一般的には次のように読み下している。
表「泰和四年五月十六日、丙午正陽に百練鋼の七支刀を造る。百兵を避け、侯王に供する宣し。口口口作」。

裏「先の世以来、未だこの刀は有らず。百済(滋)王の世子貴須(奇生)聖音は倭王旨の為に造る。後世に伝え示せ。」


神功52年に、次のような文章がある。「久氐らは千熊長彦に従ってやってきた。そして七枝刀一口、七子鏡一面、および種々の重宝を奉った。そして、『わが国の西に河があり、水源は谷那の鉄山から出ています。その遠いことは七日間行っても行きつきません。まさにこの河の水を飲み、この山の鉄を採り、ひたすらに聖朝に奉ります。』と申し上げた。そして、孫の枕流王に語って、『今わが通うところの海の東の貴い国は、天の啓かれた国である。だから天恩を垂れて、海の西の地を割いてわが国に賜った。これにより国の基は固くなった。お前もまたよく好を修め、産物を集めて献上することを絶やさなかったら、死んでも何の悔いもない』といった。それ以後毎年相ついで朝貢した。」

 

『書紀』に記載された七枝刀は、間違いなく石上神宮所蔵の七支刀である。この七支刀が製作され倭王に供された年は、金象嵌はその年を「泰和4年」と示している。中国の年代で「泰和」という年号はなく、東晋の太和4年(369年)であろうと言われている。一方、神功52年は、『書紀』の編年に120年プラスした372年で、「新縮900年表」で応神19年にあたる。七枝刀は、百済の肖古王が369年に造って、372年に応神天皇に献上したものであることが分かる。『三国史記』によると肖古王の薨去375年となっており、七支刀の献上は死の3年前である。『書紀』に記載された、肖古王が孫の枕流王に「死んでも何の悔いもない」と語ったのは遺言で、史実であると考える。

 

話しは変わるが、私は古墳3294基(前方後円墳1922基)のデータを集め、130種の古墳の遺構・遺物の編年を行い、古墳の年代を決定した。そのなかで、古墳時代中期の始まりを380年としている。380年を境に、円筒埴輪は埴輪の焼成が野焼きから窖窯(あながま)に変り、須恵器・馬具・鋲留短冑が登場する。そして、「73.日本の製鉄(製錬)の始まりは何時か?」では、製鉄の開始は古墳時代中期の始まりであることを証明した。肖古王は346年から375年、応神天皇が354年から390年である。倭国と百済の交流が始まった366年から肖古王が薨去した9年間に、応神天皇は窖窯・須恵器は伽耶から、馬具・鋲留短冑・製鉄は百済の 肖古王から、新しい技術を導入し、そして、三角縁神獣鏡、石製装飾品(石釧・鍬形石・車輪石)、筒形・巴形銅器の古来の文化を捨て去ったのである。


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74-7.神功皇后は実在し、新羅に攻め込んだのは史実 [74.「記紀」で解く「空白の世紀」の150年]

『古事記』『日本書紀』の歴史学としての研究は、江戸時代の新井白石・本居宣長に始まり明治から昭和の多くの学者によりなされた。なかでも、大正時代早稲田大学教授の津田左右吉氏は、記紀の緻密な分析を行い、神話は大和朝廷の役人が天皇の地位を正当化するために創作したものであり、伝承されてきた歴史ではない。神武天皇から応神天皇までは史実かどうか疑わしいととなえた。満州事変が起こり自由主義的な言論が弾圧されると、津田氏の著書に対しても皇室の権威を冒涜するものと圧迫が加えられた。第二次大戦後、津田氏の説は華々しく蘇り、多くの学者の支持を受け史学会の常識となり、さらに「推古朝以前は歴史の対象ではない」と、記紀の記載した歴史は葬りさられてしまった。

 

『書紀』には、神功皇后が新羅の国に攻め込んで、新羅が降伏した時の様子を「新羅王波沙寐錦(はさむきん)、微叱己知波珍干岐(みしこちはとりかんき)を人質とし、金・銀・彩色・綾・絹を沢山の船にのせて、軍船に従わせた」と書いている。津田氏は『書紀』の「新羅王波沙寐錦」について、「新羅王波沙寐錦は、王として三国史記などに見えない名である。『波沙寐』は多分新羅の爵位の第4級『波珍』の転訛で、『錦』は尊称ではなかろうか。もしそうとすれば、これは後人の付会であって、本来王の名として聞こえていたのでは無い。この名およびこの名によって語られている人質の派遣と朝貢との話は後に加えられたものであることが、文章の上から、明らかに知られるようである」と述べており、神功皇后の新羅征伐はもちろんのこと、神功皇后の実在を否定している。

 

4世紀末から5世紀の朝鮮半島の高句麗・百済・新羅の三国ならびに倭との関係を記した有名な広開土王碑(好太王碑)がある。この石碑の第3面の2行目には「新羅寐錦」の刻字がある。ただ、「新羅寐錦」と読まれたのは近年のことで、それまでは、中国・韓国・日本の歴史学者は「新羅安錦」と読んでいた。

 

Z484.中原高句麗碑.png「寐錦」が新羅王を表すということを中国・韓国・日本の歴史学者が知ったのは、1978年に韓国の忠清北道忠州市(ソウル南東100km)で発見された中原高句麗碑からである。 碑は、高さ2m、幅0.55mの石柱の四面に刻字があり、5世紀前半の高句麗の碑石であることが判明した。この碑文の中に「新羅寐錦」の文字がある。「高句麗太王」と「新羅寐錦」の関係は「如兄如弟」とあり、新羅寐錦は新羅王を指していることが分る。また、1988年に慶尚北道蔚珍郡竹辺面で石碑が発見され、蔚珍鳳坪碑と名付けられ国宝となった。この碑は新羅の法興王11年(523年)に建立されたもので、新羅が高句麗から奪回した領地に「寐錦」の視察があったことが刻字されている。 

 

『日本書紀』の神功紀には「新羅王波沙寐錦」とあり、広開土王碑・中原高句麗碑・蔚珍鳳坪碑に刻字された「寐錦」という文字が、新羅王を表わす君主号であることと一致している。「寐錦」と言う言葉は、史実の伝承として後世に残らなかった言葉であり、決して後世の人が付け加え出来る言葉ではない。『書紀』は津田氏や歴史学者より、「寐錦」の言葉を正確に伝えており、神功皇后が実在し、新羅征伐が史実であった証拠であると考える。

 

「新縮900年表」で、神功皇后が新羅に攻め込んだのは、仲哀天皇が崩御された年の346年である。『三国史記』新羅本紀346年、「倭軍が突然風島を襲い、辺境地帯を掠め犯した。さらに進んで金城を包囲し激しく攻めた。・・・門を閉じて兵を出さなかった。賊軍は食料が亡くなり退却しようとしたので、追撃し敗走させた。」とある。戦いの勝敗は『書紀』と『三国史記』では反対であるが、倭軍が新羅の王都・金城に攻め込んだというのは同じである。、神功皇后が新羅に攻め込だのは史実である。


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74-8.田道間守は新羅に国使として遣わされた [74.「記紀」で解く「空白の世紀」の150年]

『書紀』は、神功皇后が金・銀・彩色などの宝が沢山ある新羅を服従させようと決意したのは、神の啓示によるとしている。しかし、これは物語化されもので、実際はそれまでに新羅との接触があり、新羅の情報が伝わっていたのであろう。『書紀』で「新羅」の国名が初めて登場(神代を除いて)するのは、垂仁2年(275年)に「任那国の人蘇那曷叱智が帰国の際に、任那王に賜った赤絹百匹を新羅が奪った。両国の争いはこのとき始まった。」である。また、垂仁3年(276年)には「新羅の王子・天日槍が来た。持つて来た珠・槍・刀子・大刀・鏡を但馬国の神宝とした。」とある。(以後『書紀』の暦年は全て「新縮900年表」で表示する。)

 

275年に新羅は国として存在いたのであろうか?。『三国史記』の新羅本紀は「辰韓の斯蘆国」の時代(紀元前57年~)から含めて一貫した新羅の歴史としているが、史実性があるのは4世紀の第17代奈勿王(356~402年)以後であり、それ以前の個々の記事は伝説的なものであって史実性は低いとされる。中国の史書で「新羅」の国名が初めて登場するのは、『資治通鑑』の晋・孝武帝太元2年(377年)に「 高句麗、新羅、西南夷は皆な遣使して秦に入貢す。」とある。『資治通鑑』は中国北宋の司馬光が、1065年編纂したものであるが、豊富な資料に基づいて考証を加えており、有力な史料と目されている。好太王碑にも「新羅」の国名が出てくるが、それは391年以降のことである。

 

一方、高句麗について『三国史記』では、初代王の朱蒙(東明聖王)が紀元前37年に高句麗を建てたとされるが、文献史学的にも考古学的にも高句麗の登場はこれよりもやや古いと見られている。『三国史記』の高句麗紀は史実に基づいて書かれているとして、「新羅」が初めて登場する年代を調べた。高句麗東川王19年(245年)に「軍隊を派遣し、新羅の北部の辺境を侵した」とあり、東川王22年(248年)に「新羅が使者を派遣して国交をひらいた」とある。3世紀の半ばには、新羅は存在していたと考えられる。因みに、百済が高句麗紀に初めて登場するのは、高句麗故国原王39年(369年)「王は2万の軍隊を引きて、南進して、百済と雉壌で戦ったが破れた。」とある。高句麗と百済の間には、中国の出先機関である楽浪郡。帯方郡があった。この両郡が高句麗に滅ぼされたのは313年であった。高句麗と百済の接触が、新羅に比べて1世紀以上も後であるのはこのためであろう。245年ころ新羅国が存在したのは史実と考える。

 

『書紀』垂仁90年(302年)には、天皇は田道間守に命じて常世国に遣わして非時の香果を求められた。いま橘というのはこれである。垂仁99年(303年)天皇は纏向宮で崩御になり、菅原の伏見陵に葬った。翌年、田道間守が帰国し、垂仁天皇が崩御されているのを知り、非時の香果を持ち帰るののに10年経ってしまったと、天皇の陵の前で泣き叫び死んだ」とある。『三国史記』新羅本紀基臨王3年(300年)には、「倭国と国使いを交換した。」とある。垂仁2年(275年)記事には、新羅の王子・天日槍の玄孫(やしゃご)が田道間守であるとしている。田道間守が遣わされた常世国は新羅国であったと考える。田道間守は新羅に国使として遣わされた。当時としては非常に珍しい橘(みかん)を土産に持ち帰ったのに、天皇が亡くなっておられたことで、遠くはるかな常世国に10年かけて行って来たという物語が出来たのであろう。

 

但馬国、兵庫県豊岡市三宅に、田道間守を祭神とする中嶋神社がある。橘を持ち帰った田道間守をお菓子の神様「菓祖神」として、全国の菓子業の人々が崇拝している。平安時代に撰述された『国司文書』には、中嶋神社は推古天皇15年(606年)、田道間守命の7世の子孫である三宅吉士が、祖神として田道間守命を祀ったのに創まるといい、「中嶋」という社名は、田道間守命の墓が垂仁天皇陵の池の中に島のように浮かんでいるからという。垂仁天皇陵の周濠にある小島が田道間守の墓であるということは、史実かどうか分からないが、平安時代にその説話が出来ていたようだ。

Z485.田道間守.png

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74-9.「空白の世紀」の始まる頃に箸墓古墳が築造された [74.「記紀」で解く「空白の世紀」の150年]

「空白の世紀」の150年(270年~420年)について、これまで、倭国の高句麗・百済・新羅など朝鮮半島との関わりを「倭の五王」の登場から時代を遡って見て来た。それでは、この「空白の世紀」の150年に大和王権(ヤマト王権)が全国に勢力をどのように拡大して行ったかを、「空白の世紀」の始まりから時代を下りながら見て行く。『書紀』神功66年の記事に『晋書』起居注の引用文として、「武帝の泰始二年(266年)十月に倭の女王が貢献した」とある。『晋書』起居注は現存していないが、『晋書』武帝紀の泰始2年には、「十一月己卯、倭人が来たり、方物を献ずる」とあり、266年に倭の女王・壱与が晋の武帝に朝貢したのは確かであろう。この266年が「空白の世紀」の始まりである。

 

Z486.箸墓古墳.png2009年に国立民俗歴史博物館が桜井市箸中にある箸墓古墳(墳長276m)周辺から出土した土器に附着した炭化物をAMS法による炭素14年代測定し、土器の編年とマッチングさせ、箸墓古墳の築造年代を240年から260年であると確定した。古墳時代最初の大型古墳である箸墓古墳の築造年代が、「空白の世紀」の始まりの前夜であったのである。一方、『書紀』は崇神天皇10年に「倭迹迹日百襲姫を箸墓に葬った、その墓は、昼は人が造り、夜は神が造った。大阪山の石を運んで造った。」と記載している。箸墓古墳の後円部頂上に使われている石は二上山(大坂山)の山麓にある芝山(大阪府柏原市)の石が使用されており、『書紀』は史実を伝えているように思われる。「新縮900年表」では、箸墓が造られた崇神天皇10年は260年となる。崇神紀の箸墓築造と、炭素14年代測定の箸墓古墳築造年代と一致している。これらより、古墳時代が崇神天皇の時代から始まり、崇神天皇=御間城姫=壱与とする私の説が成り立ってくる。(この節以後も『書紀』の暦年は全て「新縮900年表」で表示する。)


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74-10.大和王権は古墳時代前期に全国に勢力を拡大 [74.「記紀」で解く「空白の世紀」の150年]

 

大和王権の権威の象徴は、考古学からみると前方後円墳(前方後方墳含む)である。私は、古墳時代中期の始まりを380年としている。380年を境に、円筒埴輪は埴輪の焼成が野焼きから窖窯に変り、須恵器・馬具・鋲留短冑などの新しい技術が導入されている。古墳時代前期(250~280年)は、「空白の世紀」(270年~420年)の3分の2を網羅している。

 

Z487.前期前方後円墳.png古墳時代前期のみに出土する遺物(数点の例外を除き)は、三角縁神獣鏡、石製装飾品(石釧・鍬形石・車輪石・合子・琴柱)、筒形・巴形銅器、割竹形石棺、特殊器台・器形埴輪・底部穿孔壺・二重口縁壺、方形板・竪矧板革綴短甲、銅鏃である。これらの指標を基に、全国の前期前方後円墳の分布を規模別にZ387に示した。大和王権のシンボル的な遺物と言えば、前方後円墳と三角縁神獣鏡・三種の神器ががあげられる。三角縁神獣鏡は日本全国から約500面(舶載375面、仿製128面)も出土しているが、古墳から出土したことが確認されているもののほとんどが前期古墳からであり、前期古墳の指標の一つとなっている。三角縁神獣鏡が出土した古墳・遺跡の分布を図Z388左に示している。分布の中心が奈良県にあること、また、奈良県天理市の黒塚古墳からは33面、京都府山科町の椿井大塚山古墳からは32面の三角縁神獣鏡が出土し、その同型鏡が関東から九州まで全国各地から出土していることを
考えると、大和王権が三角縁神獣鏡を配布したことは間違いないと思われる。

Z488.三角縁鏡と三種神器.png

 

景行12年(308年)の記事には、景行天皇が熊襲を征伐するため筑紫に向かったとき、周防の娑麼(山口県佐波)で、その国の首長が船の舳に立てた賢木に八握剣・八咫鏡・八坂瓊勾玉を飾り天皇に参じている。同様のことが、仲哀8年(345年)、仲哀天皇が筑紫を巡幸されたとき、岡県主の先祖の熊鰐と伊都県主の先祖の五十迹手は、船の舳に立てた賢木に白銅鏡・十握剣・八坂瓊勾玉を飾り、天皇をお迎えしている。三種の神器は大和王権への忠誠を示す印であったのであろう。図Z388右は三種の神器(鏡・剣・勾玉)が出土した前期古墳の分布図である。三角縁神獣鏡と三種の神器の分布は全く同じで、大和王権に忠誠を誓う象徴として地方の豪族に配布されたのであろう。前方後円墳(規模・数)、三角縁神獣鏡、三種の神器の3要素から見ると、大和王権の勢力の中心は、奈良盆地と大阪府及びその周辺であったことが分る。そして、西日本では岡山県、東日本では群馬県がこれに続く。

 


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74-11.吉備に何故、前期前方後円墳が多いのか [74.「記紀」で解く「空白の世紀」の150年]

最も古い大型前方後円墳である箸墓古墳の築造年代が240~260年と歴博により比定された。『書紀』には箸墓は崇神9年に造られたとあり、「新縮900年表」では259年にあたる。『晋書』起居注には、266年に倭の女王・壱与が晋の武帝に朝貢したとある。これらより、崇神天皇=御間城姫=壱与という私の説が証明されたと考えている。それでは、壱与の出自について考えてみる。

『魏志倭人伝』には「卑弥呼が死んだので、続いて男王が立ったが国中が承服せず戦が起こり、千人余の人が亡くなった。そこで卑弥呼の宗女、十三歳の壱与(台与)を王に立てて国中が治まった」とある。このことを私は次のように解釈している。神武天皇が東征に成功し、241年に大和国を建国した。247年頃に卑弥呼が亡くなった後、神武天皇が倭国王として立つたが、大和国が強国になることを恐れた倭国連合の国々は承服せず戦が起こった。そこで神武天皇は、卑弥呼の宗女である13歳の壱与に大和国の王位を譲り、倭国連合の女王(崇神天皇)として立てることにより国中を収めた。なお、神武天皇は大彦命として、崇神天皇の後ろ盾となって活躍したと考えている。

 

壱与は、卑弥呼(玉依姫)の宗女(長男の娘)で、五瀬命の娘ということになる。五瀬命は弟の磐余彦尊と一緒に、日向より東征に出発して、その途中235年から3年間吉備に滞在した。その間に、吉備国王の娘との間に出来た子が壱与であると考える。崇神天皇の即位は251年であり、五瀬命が吉備を離れて14年目のことであり、壱与の年齢13歳と合っている。『書紀』では崇神天皇は御間城入彦五十瓊殖天皇と呼ばれ、皇后は御間城姫で天皇も皇后も同じ「御間城」の名が付いている。「御間城入彦」は「御間城姫」の入り婿であることを示している。251年に即位した崇神天皇(御間城姫)は女天皇であった。『書紀』は、神武天皇を「始駆天下之天皇」と称し、崇神天皇を「御肇国天皇」と称している。神武天皇が大和国を建国し、崇神天皇の代になって大和国が倭国の盟主国となったのである。

 

Z489.浦間茶臼山古墳.png崇神天皇の出自の吉備が初期の大和王権(ヤマト王権)に大きく大き影響を与えたのであろう。前方後円墳(規模・数)、三角縁神獣鏡、三種の神器の3要素から見て、奈良盆地と大阪府及びその周辺に次いで吉備が多いこと、また大和に存在する初期の前方後円墳には吉備発祥の特殊器台・特殊壺が据えられているのがその証拠である。吉備の最古の大型前方後円墳は岡山市の浦間茶臼山古墳(墳長138m)で、都月型埴輪(250~270年)と三種神器(260~570年)から260~270年に築造されたと考えられる。


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74-12.群馬に何故、前期前方後円墳が多いのか [74.「記紀」で解く「空白の世紀」の150年]

Z490.前橋八幡山古墳.png『書紀』崇神48年(264年)には、「豊城命(崇神天皇の皇子)に東国を治めさせた。これが上毛野君・下毛野君の先祖である。」とある。「上毛野」は後の上野国で群馬県、「下毛野」は後の下野国で栃木県に相当する。前期古墳の分布を見ると群馬県に前期の大型の前方後円墳が多数あり、最も早い年代は前橋市の前橋八幡山古墳(前方後方墳、墳長130m)で、粘土槨(270~470年)と特殊器台(250~300年)から年代は270〜300年である。この前方後方墳が豊城命の墓であると考えると、年代的に合っている。『書紀』崇神48年の豊城命の話は史実であったと思われる。

 

景行55年(329年)、「豊城命の孫の彦狭島王は東山道十五国の都督に任じられたが、春日の穴咋邑に至って病で亡くなった。東国の人民は王の来られなことを悲しみ、密かに王の屍を盗み出し上野国に葬った。」とある。「春日の穴咋邑」は、奈良市横井にある穴栗神社の地であるとの説もあるが、この地では彦狭島王は東国の任地に旅立っていないことになり、奈良と群馬では、「東国の人民が王の屍を盗み出し上野国に葬った」というのは作り話になる。

 

長野県佐久市春日には、彦狭島王が亡くなった「春日の穴咋邑」ではないかとの伝承がある。佐久市春日は昔は軽井沢町と同じ北佐久郡に属する春日村であった。律令制度が整備 される以前の原初的な東山道は「古東山道」と呼ばれている。春日村は古東山道のルート上にあり、軽井沢町の入山峠を経て群馬県高崎市に向かう。彦狭島王が佐久市春日で亡くなったのであれば、「東国の人民が王の屍を盗み出し上野国に葬った」というのは真実味を帯びてくる。

 

Z491.元島名将軍塚古墳.png群馬県高崎市元島名町に島名神社がある。この神社は墳丘全長95メートルの前方後方墳の将軍塚古墳の前方部頂上に鎮座している。この神社の創立年月は不詳であるが、祭神は彦狭島王である。将軍塚古墳からは石釧(270~370年)と底部穿孔壺(270~360年)が出土しており、年代は270~360年である。年代的には将軍塚古墳が彦狭島王の墓という可能性を残すばかりか、祖父豊城命の墓と考えられる前橋八幡山古墳と同じ前方後方墳であることに興味が沸く。『書紀』景行55年の彦狭島王の話も史実と思われる。


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74-13.出雲・薩摩に何故、前期前方後円墳が無いのか [74.「記紀」で解く「空白の世紀」の150年]

Z487.前期前方後円墳.png卑弥呼・壱与を共立した倭国連合の国々は、吉備・出雲以西の中国・九州(除く大隅)であった。吉備(備前・備中・備後)は壱与の出自の国で、初期の大和王権に大きな影響を及ぼし、また多くの前期前方後円墳を築造し、大和王権の象徴である三角縁神獣鏡・三種の神器も出土している。一方、出雲は神武天皇の皇后の姫蹈鞴五十鈴姫命の出自は出雲であるばかりか、大和王権と深く関わりがあったとされる大神神社は、三輪山を御神体として、主祭神を大物主大神とし、大己貴命と小彦名命を配祀する。これらの神は出雲系である。

 

それなのに、出雲には前期前方後円墳が一基も存在していない。出雲の前期の古墳から三角縁神獣鏡は3面出土出土しているが、何れの古墳も方墳である。中でも雲南市の神原神社古墳出土の三角縁神獣鏡には卑弥呼が魏に貢献した年の「景初三年」の銘があり超一級品である。一方、大和王権に中世を誓う三種の神器が出土した前期古墳は無い。これらからすると、大和王権は出雲に敬意を払っていたが、出雲はそっぽを向いていたのであろう。それは、吉備が出雲に代わって大和王権に大きな影響力を持ったことへの“やっかみ”であったのであろう。

 

Z492.神原神社古墳鏡.png

崇神60年(265年)、天皇が出雲大社に納めている神宝を見たいと言われ使いを出雲に遣わされた。神宝を管理していた出雲臣の先祖の出雲振根は筑紫に行って留守であった。弟の飯入根が皇命を承り奉った。振根は筑紫から帰り、「何を恐れて神宝をたやすく朝廷に差し出したのか」と弟を責めた。この恨みもあって、兄の振根は弟を殺した。朝廷はこの事を知り、吉備津彦と武渟河別を遣わせて振根を殺した。出雲臣はこのことを恐れて出雲大神を祭らなかったが、「出雲の人が祈り祭る鏡が水底に沈んでいる」と子供が歌っているのを神の啓示であると皇太子が天皇に進言し、天皇は鏡(神宝)を出雲大社に祭らせた。この鏡が雲南市の神原神社古墳出土の「景初三年」銘の三角縁神獣鏡であったのかも知れない。古墳中期には出雲でも前方後円墳が築造されている。

 

薩摩の話しに変わるが、『書紀』の神代では、兄の火闌降命と、弟の彦火火出見尊が海と山の幸の争いをして、弟は海神の援助を得て弟を降参させ、兄は弟に「今後、私はお前の俳優(古事記:昼夜の守護人)の民となる」と約束をしている。彦火火出見尊の建国したのが日向の邪馬台国で、火闌降命は阿田君小橋(古事記:隼人阿多君)の祖とあり、火闌降命が建国したのが薩摩の投馬国と考える。卑弥呼の時代の薩摩は投馬国で五万戸の大国であったが、倭国連合の盟主国である邪馬台国には頭が上がらなかった。

 

まして、卑弥呼の息子の磐余彦尊が東征し大和国を建国し、その大和国が崇神天皇(壱与)に代わり倭国の盟主国になると、投馬国(薩摩)にとっては面白くない。薩摩に大和王権の象徴である前方後円墳が古墳時代を通じて築造されなかったのはこのためである。なお、景行13年(309年)に、景行天皇は蘇の国(狗奴国)を平定している、狗奴国のあった大隅には前期の前方後円墳は無いが、中期以降の前方後円墳はあり、大和王権に服従したのであろう。景行天皇は大和王権に服従しない親戚筋の投馬国は、刃向かうことが無い以上、平定することはしなかったのである。


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74-14.古墳の年代決定に「データサイエンス」 [74.「記紀」で解く「空白の世紀」の150年]

「空白の世紀」を解き明かすには、考古学的には古墳の年代決定の精度を上げなければならない。考古学の編年は、遺構・遺物の型式と地層累重の法則(地層の下のもほど古い)より、その年代の前後関係が決められている。それは緻密で精緻ではあるが暦年代(絶対年代)には弱いという欠点を持つ。近年、その編年に年輪年代測定、炭素14年代測定を取り入れ、暦年代も精緻となってきている。因みに、2006年3月に宇治教育委員会と奈良文化財研究所は、宇治市街遺跡から出土した須恵器が最も古い型式の「大庭寺式」で、一緒に出土した板材の年輪年代測定、炭素14年代測定で389年と導かれたと発表し、須恵器の登場を5世紀前半としてきた定説を覆している。また、2009年5月には国立民俗歴史博物館が、最初の大型前方後円墳とされている箸墓古墳周辺から出土した土器に附着した炭化物をAMS法による炭素14年代測定し、土器の編年とマッチングさせ、箸墓古墳の築造年代を240年から260年であると確定し、古墳時代の始まりは4世紀の初めとされていた通説を覆した。年輪年代測定、炭素14年代測定は古墳の年代決定に有用な手段であるが、古墳出土の遺物においては、直接測定できる資料が少ないのが難点である。

 

古墳の年代は遺構・遺物の編年より決められる。遺構・遺物の編年は○○年以後~△△年以前と、登場する時期と消滅する時期が分からなければならない。遺構・遺物が始めて登場する時期は、2~3個の同じ資料があればよく、年輪年代測定、炭素14年代測定はその年代を精緻に示してくれる。しかし、その遺構・遺物が消滅する時期を求めるのは簡単ではない。「ある事実・現象が全くない」ということを証明することは、非常に困難で「悪魔の証明」と呼ばれている。消滅する時期を決めることは多くのデータから紐解くしか無いのである。

 

今年2月3日の日本経済新聞によると、今春の大学では「データサイエンス」系学部・学科の新設ラッシュであるそうだ。「データサイエンス」とは、数学や統計学、機械学習、プログラミングなどの理論を活用して、莫大なデータの分析や解析を行い、有益な洞察を導き出す学問のことことだそうだ。私はアマチュアであるがゆえに、古墳の年代を決める遺構・遺物(古墳形態・埋葬施設・副葬品)の編年を行おうとすれば、入手出来るのはデータしかない。私は10年前頃から「データサイエンス」的概念で、古墳の編年に取り組んでいる。

 

古墳編年の最初の取り組みは、2014年11月の「42.古墳時代の編年」に掲載したが、データベース化した1739基の古墳について39要素(遺構・遺物)の有無でコード化した。また、円筒埴輪型式・須恵器型式を基に要素の共伴関係を調べることにより、10年単位で遺構・遺物の編年表を作成して、それをコード化した。そして、古墳のコードと遺構・遺物の編年コードから、パソコンで瞬時に年代が決められるソフトを作り上げた。古墳の年代をパソコンソフトで決めて行く過程で、編年表の39要素の間に矛盾があれば、年代が決定出来ない(年代幅がマイナス)古墳が出て来る。そのたびに編年表を修正して、やり直すという作業を繰り返し、編年表の精度を高めていった。2018年2月の「63.古墳年代をエクセルで決める」では、パソコンのエクセルソフトを使い、古墳出土の遺構・遺物の編年表から古墳年代を決めるソフトを公開した。この時、対象とした古墳は3294基、遺構・遺物は143要素であった。そして、「74.記紀で解く空白の世紀の150年」を記載している資料は、古墳9092基(前方後円()墳:6243基)、遺構・遺物は152要素である。

 

9092基の古墳データーで、遺構・遺物の編年が矛盾し年代が決定出来ない(年代幅がマイナス)古墳はたったの25基(舶載異常1基、異物混入6基、新古混合1基、同名別種8基、伝世3基、型式判定?6基)であり、152種の遺構・遺物の編年に整合性が取れていることを示している。なお、横穴式石室には追葬の須恵器が置かれている場合が多く、その場合は一番古い型式の須恵器を年代判定に用いている。この遺構・遺物は、古墳時代最初の大型前方後円墳が箸墓古墳で、その年代が240~260年であることをベースにしており、「箸墓250編年2003」と名付けている。本節末尾にその編年表を示す。

 

古墳研究の第一人者であられる近つ飛鳥博物館館長の白石太一郎氏は「畿内における大型古墳の編年」を作成されている。その最新版(左図は平成30年2月の講演会で配布されたもの)に掲載された古墳のなかで、「箸墓250編年」で編年した年代幅30年以内に比定出来た前方後円墳について、「箸墓250編年」で編年した古墳年代を軸に、白石氏の古墳年代をY軸にプロットし、両者の年代を比較したのが右図である。白石氏の年代は前方後円墳のくびれ部の年代とし、私の編年の年代は年代幅の中央値としている。赤線は白石氏の古墳年代をPython(パイソン)というAI(人工知能)などを作るプログラムで計算した回帰直線(中心的な分布傾向を表す直線)であり、白石氏の古墳年代観である。黒線は私の古墳年代観と一致したことを示す45度の線である。

 

Z492.白石古墳年代.png

白石氏の回帰直線(赤線)の勾配と私の年代観を示す45度の勾配はよく似ている。これは、白石氏も私も、箸墓古墳の年代が240~260年であることを認めていることと、私の遺構・遺物の編年表のベースになる円筒埴輪型式・須恵器型式の編年は、近つ飛鳥博物館が作成した表を参考にして作成しているからであろう。ただ、古墳時代の始まり250年近辺で30年、古墳時代の終末の600年近辺で15年、私の方が古墳を古い時代に考えている。これは、円筒埴輪Ⅰ式の年代幅を近つ飛鳥博物館は83年間に対し私は20年間、円筒埴輪Ⅱ式の年代幅を近つ飛鳥博物館が33年間に対し私は60年間としていることから生じたものである。どちらが正確であるかは、何時の日か年輪年代測定、炭素14年代測定が答えを出してくれるであろう。

 

Z492.箸墓250編年2023.png

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74-15.景行天皇の時代に統一国家の基盤が出来上がる [74.「記紀」で解く「空白の世紀」の150年]

景行天皇は景行4年(307年)に美濃に行幸し、景行12年(308年)に熊襲が背いた筑紫とに向かった。襲の国を平らげると筑紫の国を巡行し 、景行19年(315年)に都に帰っている。そして、景行25年(317年)に武内宿禰を遣わして、北陸・東方の地形、人民の様子を視察させている。武内宿禰は2年後に帰り東国の蝦夷について報告し、土地は肥えており広大であると攻略することを勧めている。景行27年(319年)に熊襲が背き辺境を侵したので次男の日本武尊を筑紫に遣わし、熊襲を討たせている。翌年、日本武尊は熊襲を平らげたことを奏上した。


Z493.日本武尊東征経路.png景行40年(321年)、東国の蝦夷が背いて辺境が動揺したので、日本武尊は征夷の将軍に任じられた。纏向の日代宮を出発した日本武尊は寄り道をして伊勢神宮を参拝し、倭媛命から天叢雲剣を授かった。駿河では賊の火攻めにあったが、天叢雲剣で草を薙ぎ払い、迎え火をつくって難を逃れた。相模から上総へ海を渡るとき、暴風が起こり船は進まなかったが、皇子につき従ってきた弟橘姫が海に身を投じ、嵐はおさまり無事に着いた。上総から大きな鏡を船に掲げて、海路から葦浦に回り、玉浦を回って蝦夷の支配地である陸奥国に入っている。蝦夷の首領は竹水門で防ごうとしたが、王船を見てその威勢に恐れ服従した。日本武尊はその首領を手下にして蝦夷を平らげている。


奥国は福島県・宮城県・岩手県・青森県を指すが、日本武尊が何処まで北上したか葦浦・玉浦・竹水門の比定には諸説あり定かではない。『日本書紀』井上光貞編纂(1987年)では、図293に示す「日本武尊東征経路図」では宮城県石巻市に流れ込む旧北上川の支流の江合川までが経路として描かれている。日本武尊は陸奥で蝦夷を平定した後、常陸・甲斐・武蔵・上野・信濃・美濃・尾張を通り帰国の途についたが、景行43年(324年)に伊勢能煩野で病死している。


宮城県の大崎市には墳長100mの前方後円墳、青塚古墳がある。また、仙台市には墳長110mの前方後円墳、遠見塚古墳があり、南に隣接する名取市には墳長168mの前方後円墳、雷神山古墳がある。これらの古墳からは、底部穿孔(270~360年)の二重口縁壺(270~370年)が出土しており、古墳年代は270~360年である。前方後円墳は大和王権の象徴であり、4世紀の中葉には陸前までその覇権がおよんでいる。これは日本武尊の東征が物語化された面はあるが、史実であることをしめしている。

 

 

Z494.入の沢遺跡.png2014年に江合川の北側で岩手県との県境に近い宮城県栗原市の入の沢遺跡で、総長330mにおよぶ大溝と竪穴建物跡39棟が出土した。竪穴住居の大半が焼かれていたが、住居跡からは小型の高杯・鉢や大型の二重口縁壷などの土師器、珠文鏡・重圏文鏡・内行花文鏡片などの鏡、刀剣・鏃・斧・鋤などの鉄製品、ガラス製の小玉、碧玉製や滑石製の勾玉・菅玉、水晶製の棗玉、琴柱形石製品、水銀朱などの、近畿文化の影響を受けた古墳前期の遺物が出土している。入の沢遺跡の年代は出土土器が上総の布留2式併行期で4世紀後半と見られている。私の編年でも、珠文鏡(310~570年)と二重口縁壷(270~370年)から入の沢遺跡の年代を310年〜370年と割り出した。入の沢遺跡は蝦夷に対峙する最前線の砦であったと思われる。入の沢遺跡が焼き討ちにあっているのは、蝦夷の反撃にあったのであろう。

 

 



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74-16.富雄丸山古墳の盾形銅鏡は統一国家の象徴 [74.「記紀」で解く「空白の世紀」の150年]

 

Z496.盾形鏡.png 2023年1月25日奈良市教育委員会と県立橿原考古学研究所は奈良市にある日本最大の円墳・富雄丸山古墳(直径約109m)の造り出し部にある粘土槨(埋葬施設)から、盾形銅鏡(長さ60cm、幅30cm)と、蛇のように曲がった蛇行剣(長さ2.3m、幅6cm)が出土したと発表した。盾形銅鏡はと過去に例のない形で、出土した鏡の中では最大である。、蛇行剣は今まで出土した85個の中で、最も古くかつ最大であるという。富雄丸山古墳の古墳年代は古墳時代前期、4世紀後半であるとされている。しかし、1年前に奈良市が制作した動画「日本最大の円墳 富雄丸山古墳」では、富雄丸山古墳の古墳年代は佐紀古墳群にある佐紀陵山古墳と同じ年代の4世紀中頃としている。また、奈良市教育委員会が2021年3月に出版した「富雄丸山古墳調査 第1次~3次」では、富雄丸山古墳の年代は、埴輪編年Ⅱ期の4世紀中頃~後半とある。富雄丸山古墳の築造年代は、いったいいつ頃なのであろうか?


Z499.古墳時代区分.png円筒埴輪の編年を確立した川西宏幸氏は、1988年に著書『古墳時代政治史序説』に「円筒埴輪総論」の論文を掲載している。この論文の円筒埴輪編年において、畿内大和の円筒埴輪Ⅱ式のトップが富雄丸山古墳、二番目に日葉酢媛陵(佐紀陵山古墳)が掲載されている。そして、川西宏幸氏は円筒埴輪Ⅱ期の年代をほぼ4世紀後葉としている。この年代が決められた頃は、箸墓古墳の年代は320年頃と考えられていた。近つ飛鳥博物館2013年発行の「考古学からみた 日本の古代国家と古代文化」では、箸墓古墳を含む最古の前方後円墳の出現時期を3世紀中葉すぎとみる考え方が主流になりつつある記載している。そして、円筒埴輪の編年の解説では、円筒埴輪Ⅱ期は4世紀中葉としている。図499は、私が9092基の古墳の遺構・遺物から導き出した、埴輪と須惠器の型式編年表である。私は埴輪Ⅱ式()を280年から340年と捉えている。


山口県柳井市にある柳井茶臼山古墳は墳長90mの前方後円墳である。この古墳から直径44.cm(面積1575㎠)のダ龍鏡が出土している。古墳の年代は4世紀末とされているが、倭製鏡(280~600年)と器台型埴輪(250~320年)から、私は、柳井茶臼山古墳の年代は280~320年と判定している。富雄丸山古墳と柳井茶臼山古墳は、年代を決定した要素は違うが、築造年代は同じ頃である。富雄丸山古墳の盾形銅鏡の面積は1800㎠で柳井茶臼山古墳のダ龍鏡の1.14倍に過ぎない。両者は同じ技術で、同じ時期に造られた鏡と考えられっる。富雄丸山古墳の年代も280~320年頃であると考える。富雄丸山古墳の年代を300年頃とすると、「新縮900年表」でみると垂仁天皇が崩御し景行天皇が即位する頃の古墳であることが分かる。


盾形鏡のデザインは何から発想されたものであろうか。古墳の棺の外側あるいは内側におかれる鏡は、悪霊から被葬者を守るものと言われている。奈良県天理市の黒塚古墳は33面の三角縁神獣鏡を出土した前期古墳であるが、三角縁神獣鏡の全てが棺の外側に被葬者を守るように立てかけられている。古墳前期の前半から鏡が盾であるという概念があったように思われる。私が特に注目するのは、盾形の周濠が登場するのが300年頃から登場することである。盾形の周濠は悪霊から古墳を守るものと言う意味合いがあるように思える。盾形の周濠は古墳年代を決める遺構・遺物の152の要素に入れていなかったが、今回調べてその重要性を初めて認識した。盾形鏡が出土した富雄丸山古墳の築造年代と重なることが興味深い。


Z495.矛と盾の配布.png景行天皇のあとを継いだのが第四子の成務天皇(335~341年)である。成務5年(339年)には「諸国に令して国郡に造長を立て、県村に稲置をおき、それぞれ盾矛を賜って印とした。」とある。9092基の古墳の資料の中で、鉄矛が出土した古墳は246基ある。鉄矛が出土した古墳の中で時代区分が明らかでを選び出し、その中で盾と鏡が出土した古墳数を調べたのが右表である。盾は木製枠に革を張り漆を塗って作られており、有機質のものであるので残存することが低いこともあろうが、表からは、矛と盾を配布されたようには見受けられない。古墳前期においては、矛が出土した古墳の90%から鏡が出土している。鏡が盾であるという概念があり、成務天皇が地方の首長に配布したのは矛と盾ではなく、矛と鏡であったと思われる。歴史学者の間では、成務天皇の存在すら比定する方が多いが、成務天皇は実在し、成務朝には統一国家の基盤が出来上がっていたように思われる。富雄丸山古墳の盾形鏡は統一国家の象徴である。


 


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74-17.富雄丸山古墳の被葬者は田道間守命 [74.「記紀」で解く「空白の世紀」の150年]

 

Z485-1.田道間守墓.png『書紀』垂仁90年には、天皇は田道間守に命じて常世国に遣わして非時の香果を求められた。いま橘というのはこれである。垂仁99年天皇は纏向宮で崩御になり、菅原の伏見陵に葬った。翌年、田道間守が帰国し、垂仁天皇が崩御されているのを知り、非時の香果を持ち帰るののに10年経ってしまったと、天皇の陵の前で泣き叫び死んだ」とある。垂仁天皇陵(宝来山古墳)の周濠内にある小さな小島が田道間守の墓であるとの言い伝えがあり、濠の傍には「田道間守命御塚拝所」の石碑が立っている。「新縮900年表」では、垂仁90年は302年、垂仁99年は303年である。田道間守が遣わされたのは2年で行き帰りした近くの国である。垂仁紀は69年延長されており、遠くはるかな常世国に10年かけて行って来たという物語が出来たのであろう。


垂仁3年(276年)には「新羅の王子・天日槍が来た。持つて来た珠・槍・刀子・大刀・鏡を但馬国の神宝とした。一説によれば、天日槍は但馬国の出石の人、太耳の娘を娶って、但馬諸助を生んだ。諸助は但馬日楢杵を生んだ。日楢杵は清彦を生んだ。清彦は田道間守を生んだという。」とあり、田道間守は天日槍の玄孫(やしゃご)としている。しかし、渡来してきたのが垂仁3年(276年)で、田道間守が常世国に遣わされたのが垂仁90年(302年)とすると、天日槍が出石の太耳の娘を娶り生まれた子供が田道間守と考えられる。それならば、田道間守が遣わされた常世国は新羅国であったと考える。『三国史記』新羅本紀基臨王3年(300年)には、「倭国と国使いを交換した。」とあることと、ほぼ一致している。Z485-2.中嶋神社.png


田道間(タジマ)守は新羅の王子・天日槍の子孫であり、但馬(タジマ)国が本拠地である。但馬国、兵庫県豊岡市三宅に、田道間守を祭神とする中嶋神社がある。橘を持ち帰った田道間守をお菓子の神様「菓祖神」として、全国の菓子業の人々が崇拝している。平安時代に撰述された『国司文書』には、中嶋神社は推古天皇15年(606年)、田道間守命の7世の子孫である三宅吉士が、祖神として田道間守命を祀ったのに創まるといい、「中嶋」という社名は、田道間守命の墓が垂仁天皇陵の池の中に島のように浮かんでいるからという。


Z485-3.茶すり山古墳.png中嶋神社の南に直線距離で5㎞に出石神社があり、祭神は新羅より渡来した王子の天日槍である。出石神社の南に直線距離で15㎞の所に茶すり山古墳がある。兵庫県朝来市和田山町の茶すり山古墳は直径90mの円墳で、近畿地方では富雄丸山古墳に次ぐ規模の円墳である。茶すり山古墳の第一主体部からは7点の盾(鋸歯文アリ)、3面の鏡(盤龍鏡・神獣鏡・連弧文鏡)、2本の蛇行剣が出土している。茶すり山古墳は但馬国にあり、田道間守命の子孫と関係があると思われる。茶すり山古墳の築造年代5世紀前葉とされている。茶すり山古墳からは三角板革綴短甲・長方板革綴短甲が出土しており350~470年の範疇にある。茶すり山古墳からは円筒埴輪が出土しているが、その型式が何であるかの報告書は手にいれていない。円筒埴輪の写真みられる黒斑とスカシ孔からⅡ式かⅢ式の280~380年の範疇であることが分かる。これらより、茶すり山古墳の築造年代は350~380年に絞ることが出来る。


富雄丸山古墳から出土した盾形銅鏡の出土はないが、茶すり山古墳からは盾が7点も出土しており、盾形銅鏡にある鋸歯文の文様がある。盾形銅鏡の文様にあるダ龍鏡はないが、龍をモチーフとした倭製の盤龍鏡が出土している。そして、富雄丸山古墳の蛇行剣ほど大きくはないが2本の蛇行剣も出土している。大型の円墳、鋸歯文のある盾、龍を龍をモチーフとした倭製の鏡、出土例が全国で85本しかない珍しい蛇行剣など共通点が多く、富雄丸山古墳の年代が280~320年頃、茶すり山古墳の年代が350~380年と築造年代は2~3世代異なるが、富雄丸山古墳と茶すり山古墳の間に、何らかの関係性があるように思える。


私は、富雄丸山古墳の被葬者を田道間守と想定している。富雄丸山古墳は垂仁天皇陵(宝来山古墳)の西南西4㎞にあり、田道間守が亡くなったのは垂仁天皇の崩御とそれほど変わらない時期であったことから「天皇の陵の前で泣き叫び死んだ」という故事が生まれたのかもしれない。また、富雄丸山古墳の出土品と但馬国にある茶すり山古墳の出土品に類似点があるのも納得できるし、両者が大型の円墳であることは、新羅の王子・天日槍の子孫で4世紀代の新羅の墳形を意識してのことかも知れない。「新縮900年表」では垂仁天皇の崩御は303年、富雄丸山古墳の築造年代は280~320年頃とピッタリ一致している。


 


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74-18.武内宿禰は統一国家誕生の立役者 [74.「記紀」で解く「空白の世紀」の150年]

武内宿禰は景行天皇・成務天皇・仲哀天皇・神功皇后・応神天皇・仁徳天皇に仕え、『書紀』の編年の通り計算すると年齢が265歳余りとなり、伝説上の人物とされている。一方、『新撰姓氏録』は平安時代に編纂された古代氏族名鑑であり、日本古代史の研究に欠かせない史料であるが、武内宿禰あるいはその息子を始祖と仰ぐ65氏族が掲載されており、実在の可能性も伺える。

 

『書紀』で武内宿禰が最後に登場するのは、仁徳50年(413年)の記事で、「河内の人が『茨田堤に雁が子を産みました。』と奏上した。天皇は『朝廷に仕える武内宿禰よ。あなたこそこの世の長生きの人だ。あなたこそ国一番の長寿の人だ。だから尋ねるのだが、この倭の国で、雁が子を産むとあなたはお聞きですか。』と歌を詠まれており、武内宿禰が仁徳朝に存命していた表現となっている。

 

この歌謡は万葉仮名で書かれており、歌の出だしの原文は「多莽耆破屢 宇知能阿曾」で、訓下し文は「たまきはる 内の朝臣」である。「たまきはる」は「内」にかかる枕詞で、「阿曾」が「朝臣」である。「朝臣」を「阿曾」と表記する例は万葉集に3首ある。「朝臣」の文字が登場する初見は、天武13年(684年)の八色姓の詔である。『書紀』は時代考証をしていないため、本文には後世の用語を用いることが多い。しかし、歌謡は伝承そのものであり、『書紀』の述作者が後世の用語を差し挟む余地はない。後世の用語があるとしたら、その歌謡はその用語が使われた時代に詠われたものである。そう考えると、仁徳50年の歌謡は史実でなく、長寿のたとえに武内宿禰を引き合いに出したのであり、413年に武内宿禰が存命していたことにならない。

 

 神功51年に、百済の肖古王が久氐を遣わし朝貢した。皇太后は太子と武宿禰に「わが親交する百済国は、珍しいものなど時をおかず献上してくる。自分はこの誠を見て、常に喜んで用いている。私の後々までも恩恵を加えるように」と仰せられたとある。肖古王の記事は干支2廻り遡らせて挿入しているから、久氐を遣わしたのは371年となる。百済の肖古王の治世は346~375年であり、「新縮900年表」では応神天皇の治世は354~390年である。百済の肖古王が応神天皇に久氐を遣わし371年に朝貢したことは史実であろう。石上神宮の七枝刀の銘文がそれを証明している。神功皇后が存命であったかどうか疑わしい面もあるが、この時の応神天皇の年齢が25歳頃であることからすれば、武宿禰は大臣として371年頃に生存していたと考えられる。

 

武内宿禰の年齢を「縮900年表」に基づき計算してみる。成務3年の記事には、「成務天皇と武内宿禰は同じ日に生まれた」とある。成務前紀には、「成務天皇は景行天皇46年(325年)に24歳で皇太子となった。」とあることからすると、成務天皇と武内宿禰が生まれたのは302年となり、武内宿禰は371年で丁度70歳であり、年齢からして実在の人物であると言える。

 

Z501.室宮山古墳.png允恭5年(448年)の記事には、「葛城襲津彦の孫である玉田宿禰が殯(もがり)の職務を怠り葛城で酒宴をしていた。それを葛城に遣わされた尾張連吾襲に見つかり、その発覚を恐れて吾襲を殺し、武内宿禰の墓域に逃げ込んだ。」とある。この葛城の武内宿禰の墓こそ室宮山古墳と考える。室宮山古墳の古墳年代は三角板革綴短甲(350~470年)と埴輪III式(340~380年)から350~380年である。

武内宿禰は371〜380年に葬られたと思われ、最高に長生きされても79歳である。武内宿禰は実在し、空白の150年の半分を生きぬき、景行天皇・成務天皇・仲哀天皇・神功皇后・応神天皇に仕え、大臣として大和王権を支え、統一国家を作り上げた立役者であったと考える。明治22年(1889)5月1日から昭和33年(1958)10月1日まで、日本銀行発行の壱圓(一円)札に武内宿禰の肖像が使われていた。歴史上の人物として、武内宿禰の肖像は一番長く使われた紙幣だそうだ。武内宿禰を伝説上の人物としてではなく、歴史上の人物として再評価される日がいつか来ると思っている。


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74-19.天皇陵とその年代を探求する [74.「記紀」で解く「空白の世紀」の150年]


「空白の世紀」を解き明かすには、『日本書紀』『古事記』の記述から史実を導き出さねばならない。そのためには、各天皇の時代を明確にしなければならない。天皇陵の所在地は『日本書紀』『古事記』に記載されており、その所在地は両者がほとんど一致している。これらからすると、帝紀・旧辞が作られたであろう欽明朝に、伝承に基づいて陵墓の治定がなされたと考えられる。記紀記載の天皇陵の所在地は大まかにみると、大和・柳本古墳群から佐紀古墳群へ、そして古市・百舌鳥古墳群と移行しているが、それらは考古学の古墳群の変遷と一致しており、記紀が伝承に基づいて陵墓の地を記載している証拠でもある。現在の天皇陵の治定は、その多くが江戸時代になされたもので、現在の考古学からすると、その治定に問題のある天皇陵もある。天皇の崩御の年は「新縮900年表」を採用し、古墳年代は「箸墓250編年」を採用して、天皇崩御年と古墳年代が大きくかけ離れているものは、記紀の記述と大きくかけ離れない地域で天皇陵比定の古墳を見直した。

 

Z502.天皇の没年と陵墓年代.png

「新縮900年表」による天皇と皇后の没年をと御陵の古墳年代(中央値)の関係を上図に示した。赤線はPython(パイソン)というAI(人工知能)などを作るプログラムで計算した回帰直線(中心的な分布傾向を表す直線)である。黒線は天皇と皇后の没年と古墳年代が全く同じであった時の線である。なお、右表の治定の○×は、宮内庁の御陵の治定と古墳が一致しているかどうかを示している。図では、黒線と赤線がほぼ一致している。これは、御陵が生前から造られた寿陵であることを示すばかりか、『書紀』の編年を900年短縮して作成した「新縮900年表」と、9092基の古墳の資料から152種の遺構・遺物の編年を作成した「箸墓260編年2003」が整合性が取れていることを示している。『書紀』は史実を基に書かれたものであり、「新縮900年表」は、史実の年代を示している証拠ではなかろうか。これ以降、各天皇の御陵と古墳の治定・比定、古墳年代の根拠について、神武天皇から欽明天皇までの全ての天皇について記載した。

 

神武天皇陵は畝傍山東北陵とされているが、『書紀』の天武紀にある壬申の乱(672年)の記述に、吹負軍が金綱井に集結したとき、高市県主許梅が神がかりして、「神日本磐余彦天皇の陵に、馬や種々の武器を奉るがよい」と言い、許梅を参拝させ御陵に馬と武器を奉納したとある。金綱井の所在は未詳であるが、私は伊勢街道と上道が出会った桜井市金屋付近と考えている。金屋の南2.Kmの磐余の地に前方後円墳のメスリ山古墳(墳長240m)がある。このメスリ山古墳が神武天皇陵と考えるが、神武天皇は壱与(崇神天皇)に譲位したので、崩御年は不明で陵墓年代比定に採用していない。なお、メスリ山古墳の年代は円筒埴輪式(280~340年)の年代である。

 

崇神天皇陵は山辺道上陵とあり、天理市柳本町の行燈山古墳(墳長242m)に治定されているが、「74-11.吉備に何故、前期前方後円墳が多いのか」で述べたように、崇神天皇は壱与で御間城姫で吉備王の娘であることから、崇神天皇の御陵は天理市の山辺道沿いにある吉備の特殊器台が出土した西殿塚古墳と考えている。西殿塚古墳(墳長234m)の年代は、埴輪I式(260~280年)と都月式埴輪(250~270年)から260~270年で、崇神天皇の崩御は273年である。宮内庁が崇神天皇陵と比定している行燈山古墳は御間城入彦の墓であろう。

 

垂仁天皇陵は菅原伏見陵とあり、奈良市の西南端にある宝来山古墳(墳長234m)に治定されている。宝来山古墳の年代は盾形埴輪(260~600年)と後円部が高い墳形(250~380年)より、260~380年と見られるが年代幅が100年以上あり、陵墓年代比定に採用していない。垂仁天皇の崩御は303年である。『書紀』垂仁32年(291年)の記事には、垂仁天皇の皇后日葉酢媛命が亡くなられたとき、野見宿禰が出雲国の土部百人をよんで、埴土で人や馬や色々の物の形を造って、日葉酢媛命の墓に立て殉死者の替りとした。この土物を名付けて埴輪といったとある。

 

宮内庁は奈良市の佐紀古墳群にある佐紀陵山古墳(墳長234m)を日葉酢媛命の陵に治定している。佐紀陵山古墳の年代は円筒埴輪式から280~340年と言える。『書紀』は、垂仁32年(291年)に日葉酢媛命の墓に立てられた土物を埴輪が起源の起源としているが、円筒埴輪(式)は260年から造られ、埴輪の起源とされる吉備の特殊器台は250年頃から造られている。また、佐紀陵山古墳から出土した形象埴輪(蓋形埴輪・盾形埴輪・家形埴輪)も260年から造られている。『書紀』垂仁32年に記載された日葉酢媛命の墓に立てられた埴輪が起源というのは考古学の観点から違っている。一方、人形や馬形の埴輪の登場は古墳中期の始まりの380年以降であり、埴輪の起源に人や馬の形の形がするものを造

ったというのも考古学の観点から違っている。

 

佐紀陵山古墳は正年間に大掛かりな盗掘事件が発生し復旧工事が行われため、出土遺物の調査・記録が残っている。佐紀陵山古墳の後円部墳頂にある方形壇を取り囲んでひれ付円筒埴輪立てられいる。ひれ付円筒埴輪は人垣を連想させ、『書紀』が記す、殉死者の替りに埴輪を立てたとの伝承が生まれたと想像できる。「新縮900年表」では、日葉酢媛命が亡くなったのは291年で、私の遺構・遺物の編年ではひれ付円筒埴輪の登場は円筒埴輪式と同じ280年である。佐紀陵山古墳がひれ付円筒埴輪の始まりとして、その登場を290年としても、たぶん齟齬をきたすことはないだろう。

 

景行天皇陵は山辺道上陵で、天理市の山辺道にある渋谷向山古墳(墳長300m)に治定されている。渋谷向山古墳の年代は円筒埴輪式の300〜360年で、景行天皇の崩御は334年である。成務天皇陵は狭城盾列陵とあり、奈良市の佐紀古墳群にある佐紀石塚山古墳(墳長218m)に治定されている。佐紀石塚山古墳の年代は、後円部が高い墳形から250~380年と見られるが年代幅が100年以上あり、陵墓年代比定に採用していない。

 

仲哀天皇陵は河内国の長野陵とあり、大阪府藤井寺市の岡ミサンザイ古墳(墳長242m)に治定されている。古墳からは埴輪Ⅴ式が出土しており、埴輪Ⅳ式が出土した応神天皇陵・仁徳天皇陵よりも新しい古墳といえ齟齬がある。古市古墳群の最古の大型前方後円墳である津堂城山古墳(墳長208m)が相応しいという見解が多い。古墳年代は埴輪Ⅱ式(280~340年)と三角板革綴短甲(350~470年)から340~350年と考えられる。仲哀天皇の崩御は346年に筑紫の香椎宮でなくなり、神功皇后が天皇を長野陵に葬ったのは348年で、ピッタリ合っている。神功皇后陵は狭城盾列陵とあり、奈良市の佐紀古墳群の西端の五神神古墳(墳長276m)に治定されている。古墳の年代はひれ付円筒埴輪から280~420年で年代幅が100年以上あり、また、『書紀』の記す神功皇后崩御の年は、摂政を辞めた年の可能性もあり陵墓年代比定に採用していない。

 

応神天皇陵について『書紀』は記載が無い。『古事記』に河内の恵賀の裳伏崗にあるとあり、羽曳野市の誉田御廟山古墳(墳長415m)に治定されている。古墳の年代は埴輪IV式(380~470年)と草摺形埴輪(280~460年)から380~460年とみられるが、外堤外側の溝からTK73型式の須恵器が見つかっていることから、TK73型式(390〜410年)の年代とする。応神天皇崩御の年は390年である。

 

仁徳天皇陵は百舌鳥野陵とあり、堺市の大仙古墳(墳長476m)に治定されている。平成10年には仁徳陵古墳の東側造出から須恵器の大甕(ON46型式)が採取され、年代決定の決め手となり430年〜450年と判定している。仁徳天皇の崩御は430年である。『書紀』仁徳37年(410年)に、皇后磐之媛命を奈良山に葬ったとあり、佐紀古墳群のヒシアゲ古墳(219m)に治定している。古墳年代は埴輪Ⅳ式(380~470年)と草摺形埴輪(280~460年)から380〜460年となる。

 

履中天皇陵は百舌鳥耳原陵とあり、百舌鳥陵山古墳(墳長365m)に治定されている。百舌鳥陵山古墳から円筒埴輪Ⅲ式(340~380年)が出土した。仁徳天皇陵に治定されている大仙古墳の埴輪型式がⅣ式(380~470年)であることから、履中天皇陵を百舌鳥陵山古墳に治定することが考古学的に否定された。私は、履中天皇陵を百舌鳥古墳群のニサンザイ古墳(墳長288m)に比定する。反正天皇陵は耳原陵とあり、百舌鳥古墳群東端の田出井山古墳に治定されている。允恭天皇陵は河内の長野原陵とあり、藤井寺市の市野山古墳(墳長230m)に治定されている。ニサンザイ古墳・田出井山古墳・市野山古墳からはTK208が出土しており、古墳年代は440~460年である。崩御の年は、履中天皇は437年、反正天皇は442年、允恭天皇は460年である。安康天皇陵は菅原伏見陵とされ、奈良市宝来町の方形壇が治定されているが、資料がなく陵墓年代比定に採用していない。

 

雄略天皇陵は河内の丹比高鷲とあり、宮内庁は明治18年に羽曳野市高鷲に円墳の高鷲丸山古墳と方墳の平塚古墳と合わせて前方後円形に修復され雄略天皇陵と治定している。高鷲地区には全国第5位の規模の河内大塚古墳(335m)があり、宮内庁が陵墓参考地として管理している。雄略天皇の治世と、陵墓の所在地、古墳規模から河内大塚古墳が雄略陵と考えることが出来る。河内大塚古墳は後円部の盛土がほぼ出来上がり前方後円墳の形も整っているにも関わらず、前方部の盛り土がなく周濠も浅いことから、未完成の前方後円墳であるという説が出てきた。

 

未完成の河内大塚古墳が雄略天皇の陵墓として造られたことを証明する記事が『書紀』『古事記』に記載されている。『書紀』によると、雄略天皇の後に即位した清寧天皇は、雄略天皇に謀殺された従兄弟の市辺押磐皇子の子供の億計と弘計を発見し宮中に引取った。清寧5年、清寧天皇が亡くなると、弟の弘計は兄の皇太子であった億計(後の仁賢天皇)から天皇の座を譲られ顕宗天皇に即位した。顕宗2年、顕宗天皇は億計皇太子に「わが父王は罪なくして雄略天皇に殺され、屍を野良に捨てられた。仕返しに雄略天皇の墓を壊し、遺骨を砕いて投げ散らしたい。」と言われた。皇太子は「私たち兄弟は清寧天皇から厚い寵愛と深い恩を受けた。雄略天皇は清寧天皇の父である。陵を壊したりすれば、祖霊に仕えることも出来ないし、天下に臨み人民を子とすることも出来ない」と諫めた。そこで、民を使役することをやめられたとある。

 

私は河内大塚古墳が486年に崩御した雄略天皇陵と考える。しかし、古墳の後円部にある「ごぼ石」が横穴式石室の天井石と考えられ、埴輪が無いことからから見瀬丸山古墳と同じ古墳後期後半の年代と見解も出ている。私の編年では、横穴式石室の登場は470年からであり時期的には合っている。未完ならば円筒埴輪が無いことと整合性がとれる。ただ、その他の考古学的資料は乏しく、古墳の年代決定には至らず、陵墓年代比定に採用していない。

 

清寧天皇陵は河内の坂戸原陵と記載され、羽曳野市の白髪山古墳に治定されている。仁賢天皇は埴生坂本陵と記載され、藤井寺市のボケ山古墳に治定されている。両者の年代の決めては埴輪V式(470~600年)と造出(280~550年)で470~550年であり、崩御は清寧天皇は491年で、仁賢天皇が505年である。なお、武烈天皇と顕宗天皇の陵墓は資料に乏しく陵墓年代比定に採用していない。

 

継体天皇陵は藍野陵とされ、茨木市にある大田茶臼山古墳(墳長226m)に治定されているが、須恵器のON46(430〜450年)が出土している。継体天皇の崩御は531年であり、大田茶臼山古墳の年代とかけ離れており、多くの研究者により高槻市にある今城塚古墳(墳長186m)であるとされている。今城塚古墳の年代の決め手は須恵器のTK10から520〜550年である。安閑天皇は古市高屋丘陵とあり、高屋築山古墳に治定されている。古墳年代の決め手は埴輪Ⅴ式(470~600年)とテルテル坊主形墳形(350~580年)で470~580年であり、年代幅100年以上で陵墓年代比定に採用していない。

 

宣化天皇は『書紀』に身狭桃花鳥坂上陵と記され、「身狭」とは現在の奈良県橿原市の畝傍山の南および南東一帯をさす古代地名であり、欽明天皇の陵墓とされている平田梅山古墳(墳長140m)に比定する。欽明天皇陵は檜隈坂合陵と記され、推古20年(612年)の記事には「皇太夫人堅塩媛を檜隈大陵に改葬した。この日、軽の往来で誄の儀式を行った。」とある。この「軽」の地は、見瀬丸山古墳の北側の橿原市大軽町とされ、町内には飛鳥時代の軽寺跡がある。欽明天皇陵については、見瀬丸山古墳(墳長310m)と考える研究者が多い。平田梅山古墳と見瀬丸山古墳からは須恵器TK43が出土しており、古墳年代は550〜579年である。宣化天皇崩御は539年(在位4年)、欽明天皇崩御は571年(在位32年)である。

 

Z502.天皇の没年と陵墓年代.png

再度、天皇・皇后の没年(新縮900年表)と御陵の古墳年代(箸墓250編年2003)を掲げた。両者の関係は45度の直線に近く、『日本書紀』の年代と考古学(古墳の遺構・遺物)の年代が一致していることを示している。本節末尾に掲載した「新縮900年表」と『日本書紀』の対照表は、『日本書紀』の全ての記事の年代を示している。この対象表に従って『日本書紀』の記事を読めば、「記紀」で「空白の世紀」の150年を解明できるばかりか、我が国の古墳時代の歴史を明らかにすることが出来る。

Z502-1.新縮900年表と日本書紀1.png

 

新縮900年表と日本書紀2.png
Z502-3.新縮900年表と日本書紀3.png

 


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74-20.「倭国600年の歴史を紐解く」 [74.「記紀」で解く「空白の世紀」の150年]

2011年6月から13年間続けて来たブログ「日本書紀の解明・・邪馬台国と大和王権」は前回で終了させていただきます。愛読ありがとうございました。本日7月7日からは、新たなブログ「倭国600年の歴史を紐解く」、「https://wakoku-himotoku.blog.ss-blog.jp/」を立ち上げました。引き続きご愛顧いただければ幸いです。

 

「倭国600年の歴史を紐解く」

プロローグ

倭国600年の歴史(奴国・邪馬台国・大和国・大和王権)

古代我が国は中国から倭国と呼ばれていた。倭人の国は倭国ではなく、倭国の誕生は倭国王が登場してからのことである。後漢書東夷伝には、「安帝の永初元年(107年)倭国王帥升ら、生口百六十人を献じ、請見を願ふ。」とある。これにより、倭国は107年の少し前、弥生時代後期中葉頃に誕生したことが分かる。倭国は時代と共に形態や領域が変遷している。大和国が全国を支配し大和王権となるまでは、倭国は連合国であった。連合の盟主国は、奴国・邪馬台国・大和国と変遷している。奴国は福岡平野にあり、大和国は奈良盆地にあった。邪馬台国が何処にあったかは、いまだ決着していない。

 

「日本」という国号は、中国の史書『史記』の注釈書である『史記正義』(736年)の中に、「則天武后が倭を改めて日本とした」とする記述があることから、粟田真人が飛鳥時代の終りに遣唐使執節使として派遣された702年の遣唐使から「日本」の国号が使用されたとされている。粟田真人は国史の編纂にも携わり、題名に「日本」を冠し『日本書紀』としたと考える。ただ、粟田真人は『日本書紀』が完成し舎人親王により撰上された前年の養老3年(719年)2月に亡くっている。倭国の歴史は、倭国王の登場した107年頃から、「日本」の国号を使用した702年頃まで、弥生時代後期中葉から飛鳥時代の終りまでの約600年となる。


13年間続けてきたブログ「日本書紀の解明・・邪馬台国と大和王権」では、『日本書紀』を900年縮めて編年し、歴史民俗博物館の弥生日用土器の編年を基にして甕棺型式の編年を行い、9千基の古墳から遺構・遺物を編年して、歴史学と考古学の年代を一致させ、倭国の歴史を解明してきた。このブログを整理し、倭国の歴史を一本の紐として解き明かすために、新たにこのブログ「倭国600年の歴史を紐解く」を立ち上げた。

 

毎週金曜日に掲載し、1年半は続きます。連読頂ければ幸いです。


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