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12.神武以前に大和に来た神々 ブログトップ

12-1.大神神社と出雲 [12.神武以前に大和に来た神々]

日本書紀には、神武天皇が腋上の嗛間の丘に登られ国見をした時、「大己貴神は名づけて『玉垣の内つ国(美しい垣のような山に囲まれた国)』と言われ、饒速日命は天磐船からこの国を見て『空見つ日本の国(大空から眺めてよい国)』と言われた」と書いている。これらは、出雲の大己貴神と饒速日命が神武天皇建国(大和王権誕生)以前に、大和に進出していた事を示すものである。大己貴神の子孫は三輪氏として、饒速日命の子孫は物部氏として、大和王権と深く関わりを持っている。神武以前に大和に来た神々について、その足跡を辿ってみる。 

大和王権と深く関わりがあったとされる大神神社は、三輪山を御神体として、主祭神を大物主大神とし、大己貴命と小彦名命を配祀する。これらの神は出雲系である。なぜ大和王権の懐深くに、出雲の神々が関わりを持っているのか疑問が湧く。

日本書紀の神代上の最後には、「幸魂奇魂」と言う神が海を照らして現れ、大己貴命に対して「お前がこの国を平定出来たのは、私がいたからだ」と言い、大己貴命が「何処に住みたいか」と聞くと、その神は「日本国の三諸山に住みたい」と答えた。そこで大己貴命は神宮を三諸に造営して住まわされた。これが大三輪の神であると書いている。 書紀の神話は、出雲勢力が大和に侵出したことを匂わしている。


12-2.出雲の国譲り [12.神武以前に大和に来た神々]

日本書紀の神代上には、天照大神の弟の素戔鳴尊は、高天原(北部九州)を追放されて出雲に行き、国つ神の娘・稲田姫を娶り、大己貴命が生まれた。大己貴命は小彦名命と力を合わせて出雲の国造りを行った。大己貴命は大国主神・大物主神など7つの名前があるとの話が記載されている。日本書紀の神代下は、出雲の国譲りの話から始まっている。高天原で権勢をふるっていた皇祖の高皇産霊尊は、出雲の国を支配下に入れようと、天照大神の息子の天穂日命を出雲の国に派遣した。しかし、天穂日命は大己貴命におもねって、復命しなかった。その後も、高皇産霊尊は再三に渡り家来を出雲に派遣し、国を譲るように迫った。大己貴命は息子の事代主命と相談して、国を譲る事を決断した。

高皇産霊尊は大己貴命に対して、現世の政治の事は皇孫の天穂日命が行うので、天日隅宮(杵築大社・出雲大社)を建てるから、大己貴命は幽界の神事を司るようにと命じている。「幽界の神事を司る」とは、戦国時代の言葉で言うならば「腹を切って死んだなら、神として祀ってやる」と言う事であろう。書紀の話が少しややこしいのは、「大己貴命は高皇産霊尊の命に従い、永久にお隠れになった」と記載している後に、大物主神と事代主神が登場し、高皇産霊尊が大物主神に「お前が国つ神を妻とするなら、まだ叛く心があると考える。わが娘の三穂津姫を妻とせよ。八十万の神を引き連れて、皇孫を守るように」と言って、地上に降下させていることだ。大己貴命と大物主神は同一神であるから、永久に隠れた神が再び地上に降下するのはおかしいことで、私は大己貴命(大国主神)の息子の事代主命が三穂津姫を娶り、地上に降下したと考える。戦国時代の言葉で言うならば「息子は恭順の証として我娘を娶れ、そうすれば命は助けてやる」である。 

出雲大社の祭神は大国主大神の一神で、三穂津姫は祀っていない。島根県松江市美保関町に美保神社があり、祭神は事代主神と三穂津姫命である。これは事代主神と三穂津姫が夫婦であることを暗示しているように思える。京都府亀岡市の出雲の地に、古来より「元出雲」と言われている丹波国一之宮であった出雲大神宮がある。この神社の祭神は明治以降大国主命と三穂津姫命であるが、それ以前は三穂津姫命一神であった。神社の由緒書きによると、丹波国は出雲勢力と大和勢力の接点に当たり、当地で出雲の国譲りが行われたとある。 

大和朝廷は神話に出て来る高天原を、大和の葛城にあったと考えていた。この考えに基づけば、出雲大神宮の由緒書きの通り、丹波の元出雲で国譲りが行はれ、大国主命が丹波の出雲から、島根の出雲に行ったと考える方が妥当である。しかし、神話に出て来る鏡・剣・矛は、大和では出土せず、圧倒的に北部九州の弥生遺跡から出土していることから、高天原は北部九州にあったと考えた。また、出雲の国譲りの舞台は、五十田狭の小汀という海岸である。丹波には海岸はない。丹波の元出雲が島根の出雲より先に存在したとは考えられない。丹波の元出雲の地は、事代主神と三穂津姫命が新たな国を求めて、島根の出雲より出て留まられた所と考える。出雲大神宮の祭神は三穂津姫命だけでなく、事代主神(現在は摂社の笑殿社に祀られている)の二神であったと推察する。


12-3.事代主神と大三輪の神 [12.神武以前に大和に来た神々]

日本書紀の神代上と神武紀には、「事代主神が三島溝橛耳の女・玉櫛姫を娶とり姫蹈鞴五十鈴姫命が生まれた、神武天皇の妃である」と記載されている。出雲大神宮のある亀岡の地から、山一つ越した所が摂津の三島(高槻市・茨木市・摂津市)である。事代主神が三島を支配していた溝橛耳の娘・玉櫛媛を娶り三島に進出し、奇日方天日方命(大神氏の系譜より)と姫蹈鞴五十鈴姫命が生れた。姫蹈鞴五十鈴姫命は、橿原の地に都を造り建国をした神武天皇の妃となり、奇日方天日方命の息子の大田田根子(この事は次々章で述べる)は、崇神天皇の世で大物主大神(大己貴命・大国主命)を祀る祭主となり、疫病を収め、国内を鎮める功績を上げた。そこで、大物主神(大己貴命・大国主命)を三輪山(三諸山)に大神神社をもうけ祀ったと考える。大田田根子が三輪君の先祖である。これが出雲系の神々が大神神社を通して、大和王権に深く関わり合いを持つようになった謂われである。 

前述の筋書きには少し時代齟齬がある。日本書紀の神代には、天皇家の先祖の神々について、伊奘諾尊の御子の天照大神から磐余彦尊(神武天皇)まで6代が記載されている。伊奘諾尊→①天照大神→②天忍穂耳尊→③瓊瓊杵尊→④彦火火出見尊→⑤鸕鷀草不合尊→⑥磐余彦尊(神武天皇)である。一方、出雲の神々について、伊奘諾尊の御子の素戔鳴尊から神武天皇の皇后・姫蹈鞴五十鈴姫命の系譜を見ると、伊奘諾尊→①素戔鳴尊→②大己貴命(大国主命)→③事代主命→④姫蹈鞴五十鈴姫命である。天照大神から神武天皇まで6代と、素戔鳴尊から姫蹈鞴五十鈴姫命まで4代で、2代の系譜が違うのは大きすぎるように思える。 

大神神社には大神氏の系譜(三輪高宮家系)が伝わっている。①建速素戔烏尊→②大国主命→③都美波八重事代主命→④天事代主籤入彦命→⑤奇日方天日方命、奇日方天日方命の妹が、姫蹈鞴五十鈴姫命となっている。出雲の神々の系譜と比べると、事代主命が2代あることが分る。大神氏の系譜で面白いことは、各人物の添え書きとして、別称が書かれていることだ。都美波八重事代主命には大物主神・大和事代主命、天事代主籤入彦命には事代主命・玉櫛彦命である。事代主命と付く名が、都美波八重事代主命・大和事代主命・天事代主籤入彦命・事代主命と四つの名が出て来る。 

私は、事代主命が三代続いたと考える。出雲の事代主命は、大己貴命(大国主神)の息子として出雲で活躍した後、出雲の国譲りに敗れ、三穂津姫命を娶り国を出た。丹波の事代主命は、丹波で保津川を開削し丹波の国造りを行った。大和の事代主命は三島溝橛耳の女、玉櫛姫を娶り三島に進出して大和への足がかりをつけている。伊奘諾尊→①素戔鳴尊→②大己貴命(大国主命)→③出雲事代主命→④丹波事代主命→⑤大和事代主命→⑥奇日方天日方命・姫蹈鞴五十鈴姫命である。素戔鳴尊から奇日方天日方命・姫蹈鞴五十鈴姫命の系譜が6代であり、天照大尊から神武天皇までが6代の系譜と時代齟齬はない。 

大和事代主命の孫、奇日方天日方命の息子の大田屋根子は、大神神社には大己貴命(大国主命)を、大神神社の別宮の鴨都波神社には出雲事代主命を祀ったのである。それでは大和事代主が三島に進出した年代を考える。大和事代主は三島溝橛耳の女・玉櫛姫を娶とり、神武天皇の皇后になった姫蹈鞴五十鈴姫命が生れている。これらの事を考慮すると、大和事代主が三島に進出したのは、241年の神武建国より20~30年前、3世紀の初めの頃と考える。


12-4.饒速日命の出自を探る [12.神武以前に大和に来た神々]

饒速日命ついて神武天皇紀では、磐余彦尊(神武天皇)が東征するに際し「東の方に良い土地があり、饒速日(にぎはやひ)が天の磐船に乗って天降りしている」と言っている。そして建国後、国見をした時「饒速日命は、天の磐船に乗って、この国に降りになったので、名づけて『空見つ日本の国』という」とある。「饒速日」が「饒速日命」と格上げされているのは、磐余彦尊が大和に攻め込んで長脛彦と対峙したとき、長脛彦が「昔、天神の御子の饒速日命が天磐船に乗って天降りされ、我が妹を娶り可美真手命が生れた。私は饒速日命に仕えている」と言って、天孫の証拠として天の羽々矢を示し、磐余彦尊が「偽りではない」と饒速日命を天神の子と認めたからだ。 

天の羽々矢は神代の中で出雲の国譲りに出て来る。天穂日命が高天原から出雲に天降りした後、大己貴神におもねって、三年経っても復命しなかった。そして高皇産霊尊が天稚彦を出雲に遣わすとき、天の羽々矢を授けている。饒速日命を河内に天降りするときも、天の羽々矢を授けられたのであろう。だから、磐余彦尊が長髄彦に対して、饒速日命が天神である証拠を見せろと言ったときに、天の羽々矢を差し出す事が出来たのであった。 饒速日命が高天原から河内に天降りしたことを示唆している。

ただ、日本書紀の神代には、饒速日命の事は一切書かれていない。『先代旧事本紀』では、饒速日命を天照大神の孫の火明命と同一神として扱つかい、名前を「天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊」とし、河内国の河上の哮峯に天降りされたとしている。先代旧事本紀では尾張氏と物部氏が共通の先祖を持っていた事になっているが、日本書紀では火明命は尾張連らの遠祖、饒速日命は物部氏の先祖としている。 

新撰姓氏録は平安時代(815年)に京と畿内にすむ1182氏族の始祖・出自を調査したものだ。始祖が神代の時代の404氏族を、天孫・天神・地祇の三つに分類している。始祖が天照大神の子供と瓊瓊杵尊以後の日向3代の子孫の場合は天孫、高天原にいた神々は天神と扱われている。面白い事に、高天原を追放され出雲に行った素戔鳴尊と子の大国主命を始祖に持つと地祇であるが、出雲に天降った天穂日命を始祖に持つと天孫である。始祖が神武天皇以後であれば皇族、外国から渡来帰化した氏族は諸蛮、出所不明な氏族を雑姓となる。饒速日命を始祖とする、物部氏に繋がる氏族は「天神」とされ103氏族ある。火明命を始祖とする、尾張氏に繋がる氏族は「天孫」とされ53氏族ある。饒速日命と火明命は明確に区別されており、先代旧事本紀に示す同一神ということにはなっていない。本件に関して先代旧事本紀は信用できない。

それでは、饒速日命の出自を明らかにしてみよう。新撰姓氏録の天神の中で、高魂命を先祖に持つ氏族に小山連がいる。この備考には「高魂命の子、櫛玉命の後なり」とある。高魂命は高皇産霊尊のことであるとされており、また饒速日命は櫛玉饒速日命とも書紀に書かれてあり、櫛玉命とも呼ばれるようだ。これらより、饒速日命は高皇産霊尊の子であることになる。高皇産霊尊の子といえば思兼神がいる。天照大神が天の岩屋に籠られたとき、深謀遠慮をめぐらしたのが思兼神である。思兼神は思慮に優れていたと書かれているが、出雲の平定の話には出て来るが、瓊瓊杵尊の天孫降臨以降の話には全く出て来ない。
 

図16岡水門.jpg私は次のように考える。高皇産霊尊は葦原中津国を平定しようと、出雲に天照大神の子の天穂日命を天降りさせ、日向に天照大神と高皇産霊尊の孫の瓊瓊杵尊を天降りさせた。そのあと高皇産霊尊が亡くなり、子の思兼命が後を継ぎ2代目高皇産霊尊となり、子の饒速日命を東の国に天降りさせたと考える。新撰姓氏録の中に、未定雑姓の分類で「神饒速日命、天降りましし時の従者」として3氏族がある。二田物部、嶋渡物部、坂戸物部である。7章2節(7-2)で示した、図16に二田物部があり、嶋渡物部は嶋戸物部であり、物部の出身地が遠賀川周辺であることが分かる。饒速日命(物部氏の始祖)は遠賀川流域に         (図をクリックすると大きくなります)
領地を以っていたのであろう。


12-5.饒速日命天降りの足跡 [12.神武以前に大和に来た神々]

先代旧事本紀は日本書紀が説明不足になっている所は、必ず突っ込んで詳細を書いている。熊野国も、高倉下も、そして饒速日命もそうだ。それだけに先代旧事本紀は魅力ある書物になっている。だから、饒速日命が河内の国の哮峰に天降り、大倭の国の鳥見の白庭山に移ったという記事は魅力を感じる。私は、先代旧事本紀は平安時代の歴史学者が書いた論文だと思っている。平安時代の方が現代より史実や伝承に近かったことは間違いない。だから、昔の学者を信じるのも、現代の学者を信じるも大同小異であり、何を信じ、何を信じないかの問題である。私も饒速日命は河内に天降りし、その後大和に進出したと考える。 

それでは、饒速日命が河内に天降りした時代を明らかにしたい。6章4節(6-4)で、天照大神が天の岩屋に籠ったとき、「国中が常闇となり夜昼の区別も分らなくなった」のは、天照大神の死亡と、日食が重なったことから起こった伝承だとして、158年の皆既日食に比定した。一方、天の岩屋で活躍した思兼神を饒速日命の父とし、この頃高天原で活躍していた高皇産霊尊を饒速日命の祖父と考えた。政務で活躍出来る最高年齢を60歳、最低年齢を20歳として、158年を起点に、高皇産霊尊、思兼神、饒速日命の3代の年齢構成を考えてみる。可能性のあるのは、158年の時点で、高皇産霊尊:思兼神:饒速日命が(60歳:40歳:20歳)とすれば、饒速日命は河内にすぐ天降り出来る。(50歳:30歳:10歳)であれば、10年後に天降り出来る。(40歳:20歳:0歳)では20年後に天降り出来る。 

図32 高地性集落.jpg饒速日命の天降りが30歳のことも考慮に入れると、これらから饒速日命が天降りに出発したのは、160~190年の間で、まさに、倭国大乱のときであることが分かる。図32に弥生後期(Ⅴ期)の高地性集落の分布を示す。高地性集落は防御のための集落である。弥生Ⅴ期というと50年~200年が見当になり、年代の幅が広いが、まさに饒速日命が北部九州より河内に天降りした時に、瀬戸内海沿岸で高地性集落が築かれた事を示している。      
                    
書紀では饒速日命が義兄の長髄彦を殺し、神武天皇に帰順したのは、建国の2年前である。私は神武建国を241年とした。饒速日命の出発の年と年齢を考えると、神武天皇に帰順した時の年齢は、70歳~100歳となる。河内から大和に侵出して、長髄彦の妹の三炊屋媛妹を娶ったのは饒速日命の息子で、孫の可美直手命が伯父の長髄彦を殺したのであろう。そうすると饒速日命の子孫が大和に侵出したのは、180~220年の間になると考える。纒向遺跡が突然あらわれるのが180年頃であり、饒速日命の子孫が大和に侵出た時代と合ってくる。饒速日命の息子は纒向に侵出したのであろう。纒向遺跡から北部九州の土器が出土せず、河内庄内土器が多数出土しているのは、饒速日命の河内の時代があるためと考える。弥生後期の高地性集落の分布と言い、纒向遺跡の突然の出現と言い、二世紀末に行われた饒速日命の河内・大和への侵出は歴史に大きな足跡を残している。

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