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74-2.応神天皇崩御の年が「空白150年」解明の第一歩 [74.「記紀」で解く「空白の世紀」の150年]

Z478.倭の五王.png私は、『書紀』の編年が900年延長していることを発見した。その延長の900年は、欠史8代の天皇で484年と、『書紀』に記載された『魏志倭人伝』『百済記』『百済新撰』などの引用記事を取り除いた後の、記事と記事の空白の期間が4年以上を合計した416年であった。これにより、『書紀』に記載された全ての記事を網羅する「縮900年表」を作成する事が出来た。「縮900年表」の仁徳天皇・履中天皇・反正天皇・允恭天皇の崩御年は、表Z478に示すように『古事記』崩御年プラス5年とほぼ同じ(違っても1年)で、『宋書』倭国伝とピッタリ一致している。しかし、応神天皇の崩御に関しては「縮900年表」が378年に対して、『古事記』の「甲午」の394年、あるいはプラス5年の399年と16年以上違っている。応神天皇の崩御年を明確にすることが、「空白の世紀」の150年間の編年を解明する第一歩であると考える。

 

書紀』の神功紀と応神紀にある『百済記』から引用された記事、あるいはそれらと関連する記事の年月は、干支2廻り120年繰り上げられている。これらの記事を120年繰り下げて、応神天皇の崩御年を境として振り分けた。「縮900年表」の応神崩御378年を境にすると、応神天皇側には、神功56年以前の8件の引用記事があり、仁徳側は神功62・64・65年の記事と応神3年以後の9件の引用記事がある。そこで、神功紀の引用記事は応神天皇在位中の出来ことで、応神紀の引用記事は仁徳天皇在位中の出来ことであるとの仮説を立てて編年を行った。この仮説に従えば、応神天皇の崩御・仁徳天皇の元年は、神功65年(385年)と応神3年(392年)の間になる。

 

「縮900年表」の仁徳天皇元年は381年であり、仁徳紀をもっと縮小しなければならない。「縮900年表」の編年にいおては、記事と記事の空白の期間が4年以上ある場合は、延長された期間として削除している。仁徳紀に限り、2年以上の空白の期間を延長された期間とした。こうすれば、仁徳紀にある全ての記事を削除することなく、年表が作成出来る。これによれば、応神天皇崩御が390年、仁徳元年は2年間の空位期間あり393年となり、仁徳天皇崩御は431年である。応神天皇崩御の年は『古事記』の394年と4年の違いとなった。

 

この仁徳元年の393年は、引用記事を振り分け定めた「応神天皇崩御・仁徳天皇元年は385年から392年の間」と比較すると1年オーバーしている。「2年以上の空白の期間を延長された期間」として作成した仁徳紀の年表の全体を1年繰り上げた。そうすると、応神天皇崩御が390年、仁徳元年は392年となり、仁徳天皇崩御は430年となった。

 

これで起こる問題は、応神天皇崩御と仁徳元年の間の2年間の空位期間が1年となり、仁徳天皇崩御と履中元年の間に1年間の空位が出来ることである。応神天皇が崩御したとき、皇太子の菟道稚郎子は即位することを拒み、また大山守皇子が皇太子を殺し帝位をとろうとした。このために生じた空位の期間が1年であっても、『書紀』の記す歴史は繋がっている。また、仁徳天皇が崩御したとき、皇太子の去穂別尊(履中天皇)を仲皇子が殺そうと太子の宮を焼くような争いが生じている。このために仁徳天皇が崩御し履中天皇が即位するまでに空位が1年生じたとしても、『書紀』の記す歴史は繋がっている。応神天皇崩御390年、仁徳天皇元年392年、仁徳天皇崩御430年としたものを「新縮900年表」と呼ぶ。


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74-3.阿知使主が呉から帰国の年に仁徳天皇が崩御 [74.「記紀」で解く「空白の世紀」の150年]

明治時代の歴史学者那珂通世氏は、『書紀』の神功紀と応神紀にある百済記から引用された記事の年月が、『三国史記』に記載された年月と比較すると干支2廻り、120年繰り上げられていることを発見している。私は「縮900年表」を作成の中で、干支2廻り、120年繰り上げられているのは、百済記から引用された記事だけではないことを発見した。その一例が、呉に派遣された阿知使主の記事である。

 Z479.阿知使主.png

応神37年「阿知使主を呉に遣わして縫工女を求めさせた。阿知使主は高麗国に渡ったが道がわからず、高麗王の付けた案内人よって呉にいくことが出来た。呉王は縫女の兄媛・弟媛・呉織.穴織の四人を与えた。」、応神41年「阿知使主らが呉から筑紫についた。兄媛を宗像大神に奉り、あとの三人の女を連れて津国の武庫についた時、天皇が崩御された。そこで三人を大鷦鷯尊に奉った。」。呉とは中国南北朝時代の南朝の宋である。宋の建国は420年で都は建康(南京)である。これからすると、阿知使主は420年以後に宋に遣わされたことになる。

 

阿知使主が呉に派遣された応神37年は、『書紀』の編年に従えば306年だが、干支2廻り、120年繰り下げると426年である。『宋書』倭国伝には元嘉2年(425年)に讃が司馬曹達を遣わして貢献したとあり、1年の違いがあるが『書紀』と『宋書』倭国伝は一致している。また、阿知使主が帰国した応神41年は430年にあたる。『宋書』武帝紀には「元嘉七年(430年)春正月、倭国王使いを遣わしいて方物を献ず。」とある。阿知使主が帰国する年の正月に、皇帝の朝賀の儀に参列したことを示している。

 

Z480.仁徳陵古墳.png私は『古事記』記載の仁徳・履中・反正・允恭天皇の崩御年の通説にプラス5年すると、『宋書』倭国伝・帝紀の記載と矛盾なく、讚は仁徳天皇、珍は反正天皇、済は允恭天皇、興は安康天皇、武は雄略天皇に比定できることを発見した。これらからすると、宋に阿知使主を派遣した天皇は仁徳天皇となる。『書紀』応神41年の記事では「阿知使主が帰国し津国(摂津国)の武庫に着いた時、天皇(応神天皇)が亡くなり、呉王より賜った3人の縫女を大鷦鷯尊(仁徳天皇)に奉った。」とあるが、亡くなったのは仁徳天皇であったのである。阿知使主が呉から帰国した430年に仁徳天皇が崩御した。「新縮900年表」では仁徳天皇の崩御を430年とした。両者はピッタリ一致している。


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