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1-6.日本書紀の編年を解読 [1.日本書紀の編年を解く]

私は日本書紀に書かれた記事は、全て史実であると信ずる。もちろん記事には誇張もあり、勝負・正悪・清濁・譲奪を反対に書いていることもあると思う。ただ書かれた記事が史実だと言っても、百歳以上の天皇が10人以上いる事を信じるわけにはいかない。日本書紀は何かの意図を持って歴史を延長している。  

神武天皇の建国を紀元前660年と古い時代に持ってきたのは、大和政権の権威を高めるために、中国の歴史に比べて遜色ないように脚色された。神武天皇の建国が「辛酉」の年になっているのは、中国の漢代に流行した思想、「辛酉の年ごとに、中でも21度目の辛酉の年に大いに天の命が改まる」に基づいて定められたという、明治時代の学者那珂通世氏が唱えた辛酉革命説が定説化している。私は日本書紀の基となった帝紀は、仏教が伝わった欽明朝に編纂され、歴史を延長した意図は、神武天皇即位(紀元前660年)を、釈迦誕生(紀元前624年or566年)以前にした。また、崇神天皇即位(紀元前97年)を、朝鮮三国で最も早く建国した新羅(紀元前57年)より以前とし、そして、神功皇后を魏志倭人伝に記載された女王卑弥呼に比定したと考える。  

日本書紀に記載されている記述を全て史実と信じ、編年された年月は延長されたものだと信じない。この相反する考えを解決する解は、記載された記事と記事の間の空白の期間に、歴史を延長している年月があると考えた。それでは書紀に隠されている、延長されていない原典の年表(元年表)を作成する。書紀には各天皇の元年に「太歳」と書いて干支が記されている。これにより各天皇が即位した年が西暦で分かる。太歳から次の太歳までの期間を在位とした。書紀は、天皇の何年に何があったかを記載している。それらの記事が各天皇で何年あったかを調べたものが記載年数である。ただし、絶対年が正確である記事、干支2廻り繰上げされた元絶対年が正確な記事は省いている。記事は毎年書かれている訳でなく、数年に渡って記事が書かれてない年もある。この空白年数についてその期間と頻度を調べた。 

天皇が崩御した年号が在位である。天皇の即位は崩御の年の翌年の正月であるが、空位があったり崩御の年に即位があったりすると、太歳から太歳までの在位期間とが違って来る。神武・成務・応神・反正・継体天皇である。これらの天皇について、書紀の記事との整合性を確かめ
空位年数を決めた。神武天皇の崩御の後に異母兄弟の争いがある。政務天皇には何事もない。応神天皇は皇太子が長兄に皇位を譲ろうとして自殺し、空位が3年と記載がある。反正天皇は1月に崩御したが、皇太子が皇位を継ぐことを辞退し、群臣の願いにより12月に即位している。崩御の年の12月に即位したと考える。継体天皇の場合は即位前の空位がある。武烈天皇には跡継がなく、その後継者選びは一筋縄ではいかなかったようで、第一候補は頓挫している。これらの中には書紀に書かれた内容とは違って、きな臭いにおいもするが、空位が生ずる事変があったのは史実であろう。 

表3元年表.jpg
              (表をクリックすると大きくなります)
計算在位記載年数空白年数空位年数を合計したものである。空白年数は、1年は1年間、2年は2年間、3~14年は1年間、15年~以上はゼロとして、その頻度を掛けた合計である。延長年数在位から計算在位を引いたものである。神武天皇の延長年数には、2代の綏靖天皇から9代の開化天皇までの8代の在位の合計が含まれている。これらの天皇は欠史八代と言われ、皇后・都・皇子・皇太子について書いているだけで、史実と思われる記事がない。各天皇の延長年数を累計すると900年になる。日本書紀が丁度干支15廻り900年延長されて編年されていることを示している。干支を基本に編年を行っていることから考えると、納得出来る値である。

 

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コメント 4

kodomo

>空白年数は、1年は1年間、2年は2年間、3~14年は1年間、15年~以上はゼロとして、その頻度を掛けた合計
この根拠は何でしょう? 恣意的な計算方法で後の年代あわせに有利なやり方に過ぎないと言う印象を受けます
by kodomo (2013-03-08 14:12) 

t-tomu

コメント頂いた件にお答えする前に、日本書紀が如何に精緻に編年されているかを知って頂きたいと思います。書紀は天皇が即位した年は、太歳としてその年の干支を記載し、記事の多くには在位年月日が、●年○月△△朔□□と記載されています。△△には○月1日の干支が記載されています。書紀に記載された100歳を超える天皇について、その即位と崩御した●年○月1日の干支を調べてみました。小島荘一氏の「日本書紀の編纂における暦日の設定」に書かれていますが、書紀の神武紀から安康紀までは、書紀は儀鳳歴で歴日の干支を書いているそうです。私には儀鳳歴で歴日の計算は出来ないので、Webの「高精度計算サイト」にある「旧暦カレンダー」「干支カレンダー」で、書紀記載の年月(旧暦)を新暦の年月に直し、その月の1日の干支が正しいかチェックしました。
       年齢 太歳  即位年月 朔干支Web(新暦) | 崩御年月 朔干支 Web(新暦)
  景行天皇 106歳 辛未  71年7月 己巳 同左(8/14)|130年11月 乙酉  同左(12/18)
  成務天皇 107歳 辛未 131年1月 甲申 同左(2/15)|190年 6月 己巳  同左(7/20)
  応神天皇 110歳 庚寅 270年1月  丁亥 同左(2/ 8)| 310年 2月 甲午  乙未(3/18)

「儀鳳歴」と「高精度計算サイト」で違うのは、応神天皇の崩御の2月1日の干支だけです。「甲午」の次の日が「乙未」ですので1日違いです。「儀鳳歴」と「高精度計算サイト」では、そのほとんどが△△は同じ干支なのですが、閏月と閏日の設定が違うので、たまに前後1日とか前後丁度1月の違いが生ずる場合があり、応神天皇の崩御の日はこのためです。

以上のように、書紀記載の天皇の年齢はとても信用出来ないのですが、その編年は「日」の単位で非常に精緻に計算されています。これは、即位や崩御のばかりか、年月日まで記載している全ての編年に言えることです。書紀は何らかの意図を持って、歴史を延長し古く見せているのです。私は、書紀が歴史を延長したのは、記事と記事の間の空白の期間にあると考えました。空白の期間を短くする事により、書紀に記載された記事の全てを網羅した、史実に近い編年が再現出来ると考えたからです。

書紀には神武天皇が建国して、持統天皇が文武天皇に譲位するまでの間、1357年間の編年が行われています。この1357年間で記事が書かれたのが、「魏志倭人伝」や「百済記」などからの挿入記事を除けば407年間、このうち欠史8代に記事が38年間あり、これらを除くと記事が書かれているのは369年間です。記事と記事の空白の期間が1年と2年は記事が書かれていた期間としてみなすとそれらの期間が61年間となり、書紀が歴史を延長した期間は、
1357-(369+61)=927年間となります。

書紀の編年は、欽明天皇即位元年の皇紀1200年を起点として、皇紀900年には卑弥呼に見立てた神功皇后が在位、崇神天皇は朝鮮の新羅・高句麗・百済より古くに即位された天皇として皇紀600年に在位、神武天皇は釈迦より古い現人神として1200年前の皇紀元年に即位したとしているように思えました。これらは、干支60年の5倍の300年が基本となっています。これらより、書紀が歴史を延長した期間は900年であると考えたわけです。

空白の期間を3~14年は1年間、15年以上を0年としたのは、空白の期間を900年とするための方策(仮説)です。この仮説で出来た年表は、カテゴリー「倭の五王を解く」で示すように、宋書に記載された倭の五王の朝貢記事と「弟」の1文字を除けば何の齟齬もありません。書紀に書かれた記事の内容を一切変更することなく、恣意的に編年を歪める事のない方法であると思っています。

by t-tomu (2013-03-10 06:36) 

マッキ

倭の五王と天皇との比定ができなくて、本ブログにたどり着きました。日本書紀が900年延長しているとの仮説にはびっくりしました。
質問が2点あります。
1.允恭天皇について24年延長とされていますが、本ブログ内のスライドでは25年延長に修正されています。
  理由を教えて頂けませんか?

  日本書紀の現代訳?のブログで記載年数、空白年数を確認し、24年の延長は理解できました。

2.天皇の即位年数を終生したとの見解ですが、年齢についてはどの様に考えていますか?
  ウキペディアによれば、仁徳天皇の崩御年齢は143歳。明らかにおかしいですよね。


by マッキ (2021-03-29 10:58) 

t-tomu

日本書紀が900年延長されていることに関し、私のブログを精緻にお読み頂き有難うございます。

質問1)「1.日本書紀の編年を解く」を書いた段階では、歴史を延長した空白の期間(A)は、記事と記事の間の空白の期間(B)が3~14年の時はA=B-1,
15年以上の時はA=Bと定義しておりました。允恭天皇の場合、Bの期間は8年と17年であり、A=(8-1)+17=24年となります。
「63.日本書紀の編年をエクセルで作る允恭天皇の場合、」の段階では、歴史を延長した空白の期間(A)は、挿入記事を取り除いた後の、記事と記事の間の空白の期間(B)が4年以上の時はA=Bであると定義を変更しました。允恭天皇の場合、挿入記事は無いので、A=8+17=25となりました。
このように定義を変更したこともあって、延長された期間は900年と同じですが、各天皇の元年の編年が若干変わり、倭の五王の「珍」の比定が、履中天皇から
反正天皇に変更になりました。「63-9.縮900年表で倭の五王を解明」

質問2)仏教が伝来した欽明朝の時代に帝紀・旧辞が作られたとき、日本(やまと)建国の神武天皇は釈迦より古い現人神であるとするために、欠史8代の天皇が創作され、各天皇の年齢が伝承より延長されたと考えています。
魏志倭人伝に倭人の年齢は「百歳あるいは八、九十歳」とあり、文末注に「魏略曰く、その俗、正歳四節を知らず。ただ春耕秋収を計って年紀と為す。」の記述があることから、1年で2歳年をとると計算した年齢が伝承していたかもしれないと思っています。しかし、日本書紀は「2倍年暦」を採用して編年されたものではないと考えます。「63-3.書紀は二倍年暦を採用していない。」

by t-tomu (2021-03-30 11:48) 

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