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29-11.弥生後期のガラス玉の分布 [29.ガラスを透して古代を見る]

G70ガラス玉二塚山.jpg弥生後期に入るとガラス小玉が爆発的に増加し、関東以西の日本各地に分布している。弥生後期のガラス玉(勾玉・管玉・小玉)のうち、数量でみると99%がガラス小玉である。1994年発行の「弥生ガラス」藤田等によると、出土したガラス小玉の総数は48,278個で、その内の96%が埋葬に伴うものであるそうだ。権力の象徴として埋葬に際しガラス小玉を副葬したのであろう。 


G69塔ノ首ガラス玉.jpgガラス小玉が最も多く出土したのが、長崎県(大半が対馬)で15,324個、その内の8,236個が対馬の塔ノ首3
号石棺内の小壺に収められていた。次に多いのが佐賀県の14,604個、大和町の惣座遺跡の土壙墓から3個の銀製の指輪と共に、径0.2~0.mmのガラス小玉6,974個が出土した。吉野ヶ里遺跡近くの二塚山遺跡の土壙墓から、径1.2~9.mmのガラス小玉が3,573個、頭・首・胸・両手首の位置から出土している。3番目が京都府(大
半が丹後半島)で10,003個、京丹後市の左坂古墳群からは6,145個出土している。そして、4番目に福岡県の4,072個となる。この4県が抜きんでて多い。 

弥生後期のガラス玉(勾玉・管玉・小玉)の県別出土数を図G71に示す。北部九州と京都(北部)に二大中心があるが、関東の千葉に一つの中心が生れている感じがする。これらを見ていて、それG71弥生後期ガラス.jpgが同時代の鉄器の分布に似ていることに気付いた。そこで、「王権誕生」寺澤薫の「県別に見た鉄器の出土数」の弥生[後期](1世紀後半から2世紀)の値をもとにして図G72を作成した。鉄器とは工具(鉄斧・ヤリガンナ・刀子・鑿)と武器(鉄鏃・鉄剣)である。近年淡路島に弥生時代(後期)の鍛冶工房跡の「垣内遺跡」が発見されており、兵庫県の数字はもう少し増えているであろう。鉄は北部九州と瀬戸内の岡山がニ大中心である。
 


G72弥生後期鉄器.jpg番驚くことは、ガラス玉においも、鉄器においても、奈良県(大和)が極めて少ないことだ。これらガラス玉や鉄器が分布した弥生時代[後期]は、倭の奴国王が後漢より金印を授かってから、卑弥呼が女王に共立されるまでの間である。邪馬台国近畿説の論者は、鉄器は錆たり腐食して無くなるから、大和に鉄器が見つからないだけだというが、ガラス玉は風化するが無くなることは少ない。鉄器はガラス玉と同じような分布をしていることからして、卑弥呼が女王に共立される前の時代、大和の地に鉄器はなかったと考えられる。邪馬台国近畿説を唱える人は、鉄器の武器を持たない邪馬台国の女王、卑弥呼がどのようにして、伊都国や奴国を従属させたと考えているのであろうか。卑弥呼の鬼道(呪術)は、大和から北部九州までの人々を幻惑する程の力があったのであろうか。
 

私は卑弥呼の時代、邪馬台国は日向にあったと考えている。日向の邪馬台国も鉄器の少ない、鉄器の武器を持たない国である。強国でないがゆえに、卑弥呼が女王に共立された。そして、邪馬台国は勢力の拡大を計るため、連合国以外で戦力の乏しい大和に攻め込んだと考える。伊都国や奴国は邪馬台国の宗家に当たる国であり、卑弥呼の時代には邪馬台国に従属したが、卑弥呼亡き後、これ以上邪馬台国が強国に成っては困ると考え、男王が立つのを認めなかった。邪馬台国は宇陀の「朱」を手中に入れ、それを中国の魏に献上して鏡を手に入れ、鏡を配布することで国を統一し、大和政権となったと考えている。ガラスを透して見えた邪馬台国も、やはり同じ結論である。

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コメント 1

暇な年寄りTomyK

拝読させていただきました。
女王国の場所を考え始めて、1ヶ月が経ち、どうしても大和朝廷との関りが交差します。
私なりの考えを記載させて頂きます。
ご指摘の点ございましたら教えてください。
大和朝廷が天孫降臨の高千穂から出兵したとき、【日向の高千穂で、葦原中国を治めるにはどこへ行くのが適当か相談し、東へ行くことにした】と古事記に書いてあります。
その降臨の記述には「筑紫の日向の高千穂のクシフル岳に天降りまさしめき。(中略)ここは韓国に向い、笠かさ沙さの御前(みさき)を真来通りて、朝日の直さす国、夕日の日照る国なり」 伊都国の高祖山のそばにある山をクシフル山
伊都国のクシフル山の民(日向の民)が、先住民(伊都国)に追われ、一部は南へ(朝倉→浮羽→難関を通って菊池→高千穂定住)、一部は東へ逃れ飯塚盆地へ。朝鮮半島からの漂着者が暮らす 遠賀川流域文化と合流しの田川の地へ。
高千穂=英彦山の麓  英彦山(日の巫女の山)から日が昇る東は宇佐です。
英彦山山頂から宇佐は見えたはずです。(確認していませんが)
宮崎日向から宇佐に向かうのは北です。東に向かうなら四国です。高千穂から海に出て延岡ここからなら四国が見えるはずです。何故、四国へ向かわなかったのでしょう。日向は、宮崎では ないからと思います。
宮崎日向から宇佐に向かったのではなく、伊都国の日向で、占いをし 東へ向かう。英彦山(彦・ヒコ・王子の山)から 朝日が昇る宇佐まで行った。のです。 
記紀は 辻褄を合わせて書いた。特に日本書紀は 邪馬壱国から追われ 中国からの移民と共に東進したと 思われない様に宮崎日向と記載した。
田川→行橋→宇佐へ 山越えルートに 1隊(真直ぐ東へ向かうルート)
田川→直方→中間→聞(企救)→苅田→行橋ルートに本隊(迂回ルート) 平地が続き通り易いし、少しずつ領土を増やしていける+兵力を増やせる。又、苅田から行橋まで近いし、豊前→宇佐と陸行できます。
別動隊と合流。戦闘が苦手な渡来人を含む田川の民は、行程で農耕や灌漑を教えながら婚姻などの平和同盟を結びながら進む。邪馬壱国同盟下の宇佐を支配下に置く。又、今までの戦闘で犠牲になった者たちの霊を弔う。内陸育ちの田川の民は、造船技術を持たなかったので、目的の対岸に少しでも近づこうと 海岸沿いに北上し苅田港あたりで 教えて貰いながら 船を造り始めた。その間 黒崎に行って「農耕や灌漑を教えるから同盟を結びたい」と申し出るが、朝鮮に近い黒崎には既に多くの渡来人が住んでいて交渉を断念この間1年。船が完成し安芸へ向かう。 

大和朝廷は、多分 北部九州に居た部族と中国から渡って来た移民(秦氏・姫氏など)連合が 邪馬壱国に追われて できた国家と思います。
そして、近畿地方では政略結婚で同盟を結んで勢力を伸ばした。と記紀に書いてあります。戦闘が苦手な大和朝廷は、結婚による同盟を選択したのかもしれません。

私は、大和朝廷は糸島市発祥説を取ります。辻褄が合います。野蛮な邪馬壱国から追われて 近畿に来たと云えませんので、日向(日に向かい)から東征したと した方が 聞こえが良いのです。天皇の近くには、秦氏出身の者も多く「秦の国と間違えられる」事もあるはずです(随書倭人伝629年 秦の国)
宗像・遠賀・行橋などの海岸沿いは、貿易の利益が多いので 邪馬壱国同盟側と思われる。
天孫降臨で、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が、高天原に降臨された時に付き従った神々 とは、一緒に渡航した方々(大友氏・物部氏など)でしょう。
天皇の性も 倭人名の鵜葺草葺(ウガヤフキ)や中国から渡来人の姫(ヒ)があるようです。長い旅の間に 姻戚が有ったり、離れたり、一つの血統ではない様に見受けられます。又、力を持った豪族たちが外戚により、王位継承時には、兄弟・親子・叔父・甥 熾烈な争いが有ったものと思われます。

by 暇な年寄りTomyK (2024-03-24 15:26) 

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