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73-4.銅鐸を鋳造する技術レベルは鉄の製錬が可能 [73.日本の製鉄(製錬)の始まりは何時か?]

我国の最古の製鉄遺跡とされているのは、岡山県総社市の千引カナクロ谷製鉄遺跡で、年代は出土した須恵器より6世紀後半と判断されている。6世紀後半といえば、古墳時代後期後半で欽明天皇の時代である。我が国の製鉄の始まりがそれほど遅いのかの疑問に、これより以前の製鉄遺跡が出土していないからと言われればそれまでだが、それよりも製鉄技術は非常に高度なもので、弥生・古墳前期・古墳中期の技術レベルでは鉄を造り出すことは出来ないという、先入観に囚われているのではないかと思える。

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ヨーロッパで鉄の歴史を研究されている学者は、アフリカの原住民の製鉄に興味を持っている。それは、原始的な製鉄方法が垣間見られるからであろう。You Tubeの「Smelting Iron in Africa」の映像がある。この映像は西アフリカのBurkinaで撮られたものであるが、この地方には紀元前にNok Cultureが栄え、製鉄(製錬)が行われていたそうだ。この映像を見ると、目から鱗、日本の考古学者が考えているような炉・炉床がなくとも、鉄の製錬は出来ると推察できる。

 

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炉を造る材料として粘土を採取し(7)、水を加えてスサ(8)を練りこむ。スサは木の葉(青い人の後ろにある)を利用している。炉の芯はヨシのような枝分かれしていな草の茎の下部の部分を、細い上部の部分で包んで作る(9)。下が大きく、上が小さい炉の形となる。

 

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 炉の芯を立て表面に粘土を貼り付けて行く(10)。1m程度の高さまで貼り付けたら表面をなで(11)、スサを貼り付け(12)、そして粘土をもう一層貼り付ける。炉の強度を確保するためにはスサが重要である。

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粘土が乾燥し強度が出てきたら炉芯に使っていた茎を抜き(13)、下部に炉口を切る(14)。炉芯に使っていた茎などを燃やし、炉を乾燥させる。これで炉本体(15)の完成である。

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丸棒にスサ入りの粘土を巻き付け、羽口(16)・送風管(17)・フイゴ本体(18)を作る。  

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炉に羽口・送風管・フイゴ本体を取り付け(19,20)、フイゴに革を張る(21)

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炉に木炭を満杯に詰め、炉口より着火する(22)。木炭に火が付いたら羽口と炉口の隙間を粘土でふさぐ。木炭が燃え炉の頂上に隙間が出来ると、鉄鉱石と木炭を一籠ずつ交互に入れる(23,24)

 

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 フイゴの操作は一人が右手と左手で交互に行い(25)、人を交代させながら休みなく行われ、木炭・鉄鉱石・オークストーンの投入が行われる。所定の投入が終わると、羽口の周辺に覗きの口を開け、中の様子を伺いながら送風を行い、時期を見てノロ(鉄滓)が流し出さされる(26)。その後、もう少し送風を続け温度を上げると、鉄塊(Bloom)が半溶融状態となる(27)。操業開始から約10時間程度である。

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製錬の工程が終わると鍛冶の工程にはいる。送風を止め、鉄塊を取り出す。取り出された鉄塊の表面はノロや木炭が付き凸凹している(28)。鉄塊を鉄床の上に置き、鏨を鉄鉗で挟んで鉄槌で打ち切り分ける(29)。表面は黒くなっていても中は赤く、溶岩とおなじである(30)

 

弥生時代に造られた銅鐸で一番大きなものは、滋賀県野洲市大岩山出土の大岩山1号銅鐸と呼ばれているもので、高さ135cm、裾幅49cm×43cm、厚さ約3mmで、重量は45kgである。金属成分を銅鐸の平均的な組成の銅・錫・鉛(85:8:7)の青銅と考えると、比重は8.93で融点は約950である。銅鐸を造るに必要な45kg青銅の体積は5000㎤で、一辺17㎝の立法体の大きさである。鋳込みに必要な溶融温度は融点の10%程度上とされているが、高さ135cm、厚さ約3mmの銅鐸を鋳込むためには、湯(溶融青銅)の流動性を良くしておく必要があり、溶融温度は融点の200程度上の1150℃は必要と思われる。

 

たたら製鉄における炉内温度は1300℃前後である。また、西アフリカの製鉄の映像にあった円筒の炉で製錬された鉄塊の大きさは、一辺17㎝の立法体程度の大きさである。一方、銅鐸を鋳込むとき青銅を溶融させる炉は、鉄の製錬が行われる炉内よりもオープンで温度をあげ難いと思われる。これらを考えると、弥生時代の銅鐸を造る技術(炉・フイゴ・炭)は、製鉄に必要な高温を確保するにレベルにあることが分かる。原料の選別(砂鉄・磁鉄鉱・渇鉄鉱)、炉の構造、製鉄方法を知れば、弥生・古墳前期・古墳中期に原始的な方法で製鉄を行うことが出来ただろうと思える。


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73-5.行者塚古墳の鉄鋌40枚は百済の肖古王の下賜品 [73.日本の製鉄(製錬)の始まりは何時か?]

『日本書紀』神功46年には、卓淳国(韓国大邸市)に遣わされた斯摩宿禰は卓淳の王から百済王が倭国と交流したいと願っていることを聞き、従者の爾波移を百済国に遣わした。百済の肖古王は大変喜んで厚遇され、倭国の使者に五色の綵絹(色染めの絹)各一匹、角弓箭(角飾りの弓)鉄鋌40枚を与えている。百済の肖古王の在位は346~375年であり、神功46年は書紀の編年に従うと246年で年代が合わない。『書紀』の神功46年から応神41年までの百済・新羅・高麗および呉と関連する記事は、干支2廻り繰り上げられており、神功46年は干支2廻り繰り下げた366年で、「記紀年表」では応神5年となる。

 

百済の肖古王は372年、応神11年(神功52年:252+120)に使者久氐を倭国に遣わし、七枝刀一口、七子鏡一面、および種々の重宝を奉ったとある。この七枝刀が奈良県天理市の石上神宮にある国宝の七支刀で、表の金象嵌には泰和4年(東晋太和4年:369年)に七支刀が造られたことを記し、裏の象嵌には百済王が倭王のために造ったことを記している。石上神宮の七枝刀は百済の肖古王が369年に造り、372年に倭国の応神天皇に献じたものであることが分かる。

 

七枝刀を奉ったとき、百済の使者久氐は、「わが国の西に河があり、水源は谷那の鉄山から出ています。その遠いことは七日間行っても行きつきません。まさにこの河の水を飲み、この山の鉄を採り、ひたすらに聖朝に奉ります」と口上している。肖古王の時代、百済の都は漢城(ソウル)であった。ソウルを通って黄海に流れる漢江の上流のに忠州市がある。忠清北道忠州市にある弾琴台土城の発掘調査が2007年に行われ、鉄鋌40枚が出土している。同時に出土した土器は4世紀のものが多く、5世紀初頭までのものであった。

Z456. 弾琴台鉄綖.png

Z457. 行者塚古墳鉄鋋.png我国の5世紀の古墳から鉄鋌と呼ばれる両端がバチ形に広がる鉄板でが、西は福岡・大分から、東は群馬・千葉までの地域から出土している。圧倒的に多いのは近畿地方で、奈良県奈良市のウワナベ古墳の培冢の大和6号墳からは872枚、大阪府羽曳野市の墓山古墳の培冢の野中古墳からは130枚が出土している。鉄鋌が出土した古墳の中で、最も古いのが5世紀初頭とされている兵庫県加古川市の行者塚古墳で、鉄鋌40枚が出土している。行者塚古墳は墳長100m、後円径68mの帆立貝形前方後円墳で盾形の周濠を有し、造出が両くびれ部と後円部左右の4ヶ所にある特異な古墳である。後円部中央に埋葬施設があり3基の粘土槨が据えられている。円筒埴輪はIII(340379)で、ひれつき(280419)のものもあり、盾形埴輪・蓋形埴輪・短甲形(三角板革綴)埴輪(350469)・草摺形埴輪(280459)の器財埴輪、家形埴輪、囲形埴輪が出土している。出土した遺物には、金銅装帯金具(380559)・巴形銅器(290379)の青銅製品、円形鏡板付轡・長方形鏡板付轡・鎮轡の3点の鉄製馬具(380年~ )、鉄刀・鉄鏃・鍬先・鉄鋌の鉄製品がある。なお、(  )に示す数字は3294基の古墳データ(前方後円墳1922基)より、143種の遺構・遺物の編年を行った値である。

 

『書紀』神功46年の記事では、366年に百済の肖古王が倭国の使者爾波移に鉄鋌40枚を賜ったとあり、韓国忠州市にある弾琴台土城からは鉄鋌40枚が出土し、その年代は4世紀から5世紀初頭である。また、5世紀初頭とされている兵庫県加古川市の行者塚古墳から出土した鉄鋌40枚と、3者が40枚と合致していることに興味を覚える。行者塚古墳の築造年代は、埴輪はIII(340379)・巴形銅器(290379)と金銅装帯金具(380559)・鉄製馬具(380年~ )から375~385年であると考える。行者塚古墳の被葬者は斯摩宿禰、あるいは従者の爾波移で、埋納されていた鉄鋌40枚は、366年に百済の肖古王から賜ったものであると想像する。

 

「弁辰と加耶の鉄」(東潮:2003)によると、鉄鋌は4世紀中葉ごろ百済・新羅・加耶の地域で出現する。初期の鉄鋌の形状はバチ形で、6世紀になると小型化し、6世紀中葉ごろには鉄鋌という形の鉄素材が出土資料として認識できなくなるとある。また、我が国の鉄鋌の出現は5世紀の初めで(4世紀中葉頃の流入の可能性も示唆)、古墳への副葬は6世紀中葉頃には無くなっている。8世紀初めに編纂された『書紀』が“鉄鋌”について記載し、その年代が考古学な知見と合致していることは、366年に百済の肖古王が鉄鋌40枚を倭国の使者に賜ったという記事が、史実であったことを証明している。


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