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69.須恵器の型式をAIで判定する ブログトップ

69-1.須恵器の型式の判定基準はイメージ? [69.須恵器の型式をAIで判定する]

古墳の築造年代を決定する指標は、一に円筒埴輪型式、二に須恵器の型式である。円筒埴輪(含む朝顔形円筒埴輪)の型式はⅠ期~Ⅴ期の5型式に分類され、古墳時代の前期から後期までを網羅している。この円筒埴輪の型式は1980年代に30歳代の川西宏幸氏によって構築されたものである。川西氏はその特徴を、焼成(有黒班・無黒班)、2次表面仕上げ(A種ヨコハケ・B種ヨコハケ・ナシ)、底部調整、突帯(突出・台形・山形)、スカシ穴形状(△・▽・□・○)、突帯間のスカシ穴数(3個以上、2個)に分類した。この型式の分類は簡単明瞭で考古学のプロでなくても容易に判定出来る。

 

須恵器の型式は、窯跡の出土資料により型式が決められ編年されている。窯の出土資料を型式に採り入れたのは森浩一氏であった。堺市・和泉市にまたがる泉北丘陵には須恵器の窯跡が多数発見され、陶邑窯跡群と呼ばれている。田辺昭三氏は泉北丘陵で初めに開発された陶邑窯跡群の東半の高蔵(TK)・陶器山(MT)地域の窯跡から出土した須恵器の編年を行い、古墳時代に限ってみればⅠ期(5型式:TK73TK47)・Ⅱ期(5型式:MT15TK209)に分類している。中村浩氏はその後に開発された陶邑窯跡群の西半の栂(TG)・大野(ON)・光明池(KM)地区から出土した須恵器を加えて、古墳時代に限ってみればⅠ型式(5段階)、Ⅱ型式(6段階)に編年している。ただ、古墳の遺物としての須恵器の型式は、1983年に発表された田辺昭三氏の編年に基づいて表記されている場合が多い。

 

これら陶邑須恵器編年について植田隆司氏は、「古墳時代須恵器編年の限界と展望」(2008)の中で、「従前の陶邑須恵器編年を、古墳時代中期・後期資料の時期を判断する時間尺として活用する場合、現時点においては、次の2つの問題が内在している。1点めは各型式の実年代比定の問題である。古墳の築造年を推定する際に、研究者によって須恵器の特定の型式に想定する実年代が大きく異なり、研究上の障害になりつつある。2点めは、研究者間において須恵器編年(型式同定)観が概ね等しく共有されていないことである。田辺編年を用いて特定資料の型式を同定する場合、各人が標式として念頭に置く基準資料のイメージと照らし合わせることになるが、この概念的な基準資料のイメージが研究者によって大なり小なり異なっている。このため、ある研究者がTK43型式と判断する杯身は、他の研究者にはTK209型式と判断されてしまう事態も発生する。」と述べている。

 

Z362.須恵器の型式編年.png植田氏が指摘する1点めの実年代については、私は全国の前方後円墳(6305基、含む前方後方墳)のなかから、須恵器の型式が明らかにされている216基の古墳について、古墳の遺構・遺物の関係を調べ、須恵器の年代を10年単位で割り出した(表Z362)。しかし、2点めの須恵器型式の同定については、その判定基準が私にはブラックボックスで、手におえるものではない。須恵器型式の同定は研究者個人の標式として念頭に置く基準資料のイメージと照らし合わせて行われているようだ。現在、AI(人工知能)での画像処理はめざましく発展しており、顔認識システムが犯罪捜査で威力を発揮している。須恵器型式の同定もイメージからAIで画像処理する時代になるのではないかと考える。それに先駆け、須恵器の型式をAIで判定することに挑戦してみたい。

 

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69-2.須恵器の形態変遷は曲線で表せる [69.須恵器の型式をAIで判定する]

須恵器の形態の変遷について私が知っていることと言えば、坏身(つきみ)の立上りは時代と共に低くなる。はそうの頸の長さと高坏(たかつき)の脚の長さは時代と共に長くなることくらいである。これらの形態の変遷がどう変化しているかを散布図に表わすことから始めた。これらのデータは、『和泉陶邑窯出土須恵器の型式編年』(中村浩著)と『古墳出土須恵器集成 第1巻』(中村浩編)の大阪府・和歌山県から須恵器の図面を抽出し、パソコンのペイントにコピーして須恵器の各部分の座標を読んで数値化した。なお、はそうにかぎってはデータが少ないので、『古墳時代の研究 土師器と須恵器』にある岡山・広島からデータを追加し抽出した。

 

坏身の立上りの型式別形態変化は“立上り/器高(KH/CH)”、はそうの頸の長さの変化は“頸長/胴長(ND/BH)”、無蓋高坏の脚の長さの変化は“坏部長/脚長(CH/LH)”で縦軸に、横軸は“編年No(Hen-No)”で表し、散布図(Z363)に示した。どの図を見ても同じ型式内でのバラツキが大きく、その型式の前後と重なりあっている部分が多い。しかし、大きく見れば夫々の形態は“うねり”のような変化をおこしていることが分かる。この形態変化の変遷の“うねり”を曲線にしてあらわせば、須恵器研究のプロでなくても須恵器の型式を判定することが出来るようになると思われる。

 

散布図のデータを統計的に処理し、回帰曲線(中心的な分布傾向を表す曲線)を導きだすことは、Python(パイソン)と言うAIなどを作るプログラムで可能である。これまでも「67-9.古墳の編年の年代観は正しいか?」で、日本列島の主要な古墳の編年を行った51名の考古学者の年代観を知るために、回帰直線を導き出した。ただ、今回は直線でなく、曲線であることが難しい所である。

Z363.須恵器の形態変遷.png

 

Pythonを勉強していると、機械学習という分野でガウス関数を使用すれば、散布図のデータから回帰曲線を導きだすことが分かった。ガウス関数という内容は良く分からないが、須恵器の形態変化を示す“うねり”の回帰曲線を導きだすことが出来ることは分かった。そして、標準偏差(シグマ、σ、SD)も算出されることから、中心曲線から±1σの曲線を描けば、異常値等を取り除いたデータの68%を包含する曲線を描くことが出来た。散布図のデータをpythonのガウス関数のプログラムに取り込み、須恵器の型式別形態ガウス曲線を描き図Z364に示した。赤が中心の曲線で緑が±1σの曲線である。これで、須恵器の型式による形態変化を曲線の帯として表せることが出来た。

Z364.須恵器の形態ガウス曲線.png

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69-3.AIによる坏身の型式判定 [69.須恵器の型式をAIで判定する]

Z365.杯身の測定箇所.png坏身の型式別形態変化を前節では、“立上り/器高”だけと捉えたが、一つの型式の形態のバラツキは大きく、また前後の型式の形態と重なっており、“立上り/器高”のガウス曲線一つでは、須恵器の型式を判定することが出来ないと考えた。そこで、杯身の図面(Z365)から“器高/外径(CH/OD)”、“立上り/器高(KH/CH)”、“立上り/外径(KH/OD)”、“立上り角度(Angle)のデータを導きだし、4つのガウス曲線(Z366)を用いて、杯身の型式を判定が出来るようにした。全ての要素を○/○と比で表したのは、縮尺の無い図面や、正面から撮った写真からでも、データが採取できるからである。

Z366.坏身ガウス曲線.png

Z367.年代のものさし裏表紙.png

つ博物館の『年代のものさし 陶邑の須恵器』の裏表紙には、Z367のように坏身形態の変遷が描かれている。高台付の坏身の登場は飛鳥時代になってからであり、古墳時代の坏身は5C・6C・7C三つの形態のみである。裏表紙の図面から4要素の値を求め、ガウス曲線に当てはめZ368に、型式の適合を星取表(Z369)にまとめ型式を判定した。星取表から、5世紀のものはⅠ-2(TK216)に、6世紀のものはⅡ-1(MT15)あるいはⅡ-2(TK10)に、7世紀のものはⅡ-6(TK217古)に比定することが出来た。

 

Z368.年代のものさし型式判定.png


Z370.坏身の型式比較.png『年代のものさし』の裏表紙にある坏身図面と、中村氏の『和泉陶邑窯出土須恵器の型式編年』にある型式別の図面とを照らし合わせると、Ⅰ-2型式はTK395号窯、Ⅱ-1型式はTG38号窯、Ⅱ-2型式はTG44号窯、Ⅱ-6型式はTG206号窯の坏身の形態がほぼ同じであった。両者の図面を、外径を合わせて重ね合わせると、Z370のようにピッタリ一致している。これらは、AIが導き出したガウス曲線による坏身の型式判定が、有効であることを物語っている。


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69-4.AIによる“はそう”の型式判定 [69.須恵器の型式をAIで判定する]

Z371.はそう測定箇所.png堺市・和泉市にまたがる泉北丘陵の陶邑窯跡群の中で最古の窯跡は、最も平地に近い窯跡であるTK73(Ⅰ-1後)窯と考えられていた。しかし、1986年にTK73窯から石津川を挟んで西1Kmにある大庭寺遺跡が発掘調査され、TK232(Ⅰ-1前)窯跡が陶邑で最古の須恵器窯跡と考えられるようになった。TK232窯とTK73窯から出土する須恵器の器種の違いは、高坏・はそうは両者から出土するが、須恵器の中で最も一般的に使用された坏がTK232窯からは出土していないことである。本節では、須恵器の生産当初からあったはそうについて、AIによる型式判定を行ってみる。はそうの測定箇所はZ371に示した通りで、ガウス曲線を描いた指標は、口径/胴径(MD/BD)、頸径/胴径(ND/BD)、頸長/胴長(NH/BH)、頸径/全長(ND/TH)である。Z372にはそうの型式別形態ガウス曲線を示す。

 

Z372.はそうガウス曲線.png

Z373.布留遺跡出土

古墳時代前期の土師器として有名な布留式土器が始めて出土した天理市の布留遺跡の豊井地区(石上神宮北側)から初期の須恵器が出土し、その中に陶邑Ⅰ-1~2段階に相当するはそうが3点(Z373)あった。これらの指標をはそうの型式別形態ガウス曲線に黒線(Z374)で描いた。これらより、布留遺跡の豊井地区出土のはそうの型式は、Hen-No1~2(
左上1-4,右上1-3,左下1-6,右下1-2)でTK232又はTK73(Ⅰ-1前・後)と判定することができ、学者の判定をより狭く絞り込んでいる。

Z374.

 

Z375-1.TK208はそう.png大阪府和泉市のいずみの国歴史館では、令和元年度夏季特別展「“須恵器2”―泉北丘陵窯跡群の軌跡―」を開催した。この時のポスターにTK208窯出土のはそうの写真(Z375-1)があった。TK208窯は、考古学者の多くが須恵器の型式の同定に用いている田辺昭三氏の編年の標式窯である。このはそうの資料は平安高校が所蔵のものであった。何故、京都の高校が泉北丘陵窯跡群の須恵器を所蔵しているのか不思議に思えたので調べてみると、須恵器の編年で有名な田辺昭三氏が同校で教鞭を採っておられたことを知り納得できた。

 

私がガウス曲線を描くために用いた須恵器の図面は、中村浩氏が著作および編纂した本から引用している。同氏の本には田辺昭三氏の編年の標式窯の須恵器の図面は、初期のTG232窯・TK73窯以外は載っていない。そこで、いずみの国歴史館のポスターにあったTK208窯出土のはそうの写真より各部位の座標を取り、ガウス曲線によるはそうの型式判定が正確か検証した。Z374の赤線の結果はHen-No3または4(4-6,3-4,1-6,1-3)で、TK216(Ⅰ-2)またはTK208(Ⅰ-3)となり、TK208に絞れなかった。これらは形状が似ているのであろう。

Z375,はそうMT15.jpg
田辺昭三氏著作の『須恵器大成』には、MT15号窯から出土したはそう(Z375-2)の写真が掲載されてあった。この写真から得た指標がZ374の青線であり、Hen-No7(7-12,6-7,6-7,6-7)で、4図共に満足されるのはHen-No7のMT15(Ⅱ-1)で、田辺氏の編年と一致している。ガウス曲線によるはそうの型式判定は正確であった。


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69-5.AIによる高坏の型式判定 [69.須恵器の型式をAIで判定する]

Z376.無蓋高坏の測定箇所.png高坏は須恵器が作られ始めた当初のTK232(Ⅰ-1前)の時代から登場している器種である。高坏は蓋が付かない無蓋高坏と蓋が付く有蓋高坏の2種類がある。そして夫々が、脚部の長さの長脚・短脚と脚部の透かし窓の有・無で4タイプに分かれる。高坏の脚の長さは時代と共に長くなるが、短脚(坏長/脚長>0.9)で透窓無の高坏は長脚の時代にも共存している。そのため、AIでの高坏の型式判定においては、この短脚・透窓無の高坏は排除している。

 

無蓋高坏の測定箇所はZ376に示した通りで、ガウス曲線を描いた指標は、口径/全長(MD/TH)、坏長/脚長(CH/LH)、頸径/足径(ND/FD)、足径/脚長(FD/LH)である。Z377に無蓋高坏の型式別形態ガウス曲線を示す。有蓋高坏の坏部は坏身と同じ指標で、脚部は無蓋高坏の脚部と同じ指標であり、ガウス曲線は、立上り/坏長(KH/CH) 立上り/外径(KH/OD)、坏長/脚長(CH/LH)、足径/脚長(FD/LH)としてZ378に示した。

 

377.無蓋高坏ガウス曲線.png
Z378.有蓋高坏ガウス曲線.png


前方後円墳が終焉を向かえるのは、須恵器の型式がTK209(Ⅱ-5)の時代である。古墳時代が終わり飛鳥時代に入ると円墳・方墳を中心とした古墳が作られ終末期古墳と呼ばれている。その先駆けとなったのが都塚古墳で、欽明31年(570年)に亡くなった蘇我稲目の墓でないかと考えられている。都塚古墳は一辺が約40mの方墳で、階段ピラミッド状の形をしている。その頃から、大阪府河南町の平石谷に三基の大型方墳、シシヨツカ古墳・アカハゲ古墳・ツカマリ古墳が造られている。。三基とも埋葬施設は花崗岩の切石で造られた横口式石槨で、棺は高級な漆塗籠棺であった。大阪府教育委員会の上林四郎氏は、この地が大伴氏の勢力範囲であることとして、この三基の大型方墳を大伴金村の子孫の墓としている。

 

三基の中で最も古いのがシシヨツカ古墳で、後期古墳から終末期古墳への過渡期に築造された古墳と考えられている。私は、「61.後期古墳・終末期古墳の被葬者を比定する」で、シシヨツカ古墳は大伴金村の息子の狭手彦の墓であると論証した。『日本書紀』欽明23年(562年)には、大伴狭手彦は数万の兵を率いて高麗(高句麗)を撃破し、勝ちに乗じて宮殿に入って珍宝・財貨などを奪い帰還し、七織帳を天皇に献上し、甲・金飾刀・銅鏤鐘・五色幡と美女媛・従女吾太子を蘇我稲目大臣に送っている。蘇我稲目は美女媛の影響を受け、高句麗のピラミット形の陵墓を造り、大伴狭手彦もその影響を受け、方形の陵墓を造ったと想像する。Z379.シシヨツカ古墳高坏.png

 

シシヨツカ古墳からは、須恵器甕に納められた4個の無蓋高坏(Z379)が出土している。高坏の型式はTK43(Ⅱ-4)とあった。この無蓋高坏の型式を、ガウス曲線を使って判定(Z380)すると、No10(左上9-10,右上10-12,左下9-11,右下9-10)となり、無蓋高坏の型式はTK43(Ⅱ-4)で、研究者の見解と一致している。TK43の年代は560~589年である。

 

Z380.無蓋高坏型式判定.png

大伴狭手彦は宣化2年(537年)に任那に派遣され、欽明23年(562年)には高麗(高句麗)を撃破し帰還している。これからすると宣化2年に30歳だったとすれば、欽明23年は55歳であったことになる。大伴狭手彦が70歳までに亡くなり、シシヨツカ古墳に葬られたとするならば、TK43の須恵器が副葬されても齟齬はない。


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69-6.雄略天皇は景行天皇陵に参拝したか? [69.須恵器の型式をAIで判定する]

天理市にある景行天皇陵(渋谷向山古墳)の前方部墳丘頂に据えられていた円筒埴輪の中から、須恵器のはそうが出土している。宮内庁の『書陵部紀要 第22号』(1970年)の「景行天皇陵出土の須恵はそう」には、口縁部が未修復であるはそうの写真が掲載されていた。現在、宮内庁のHPには完璧に修復された景行天皇陵出土のはそうの写真が公開されている。このはそうの写真をパソコンのペイントにコピーして各部の座標をデータとして取り込んだ。写真は少し斜め上から撮影されているが、側面の座標で読むかぎり、頸径と胴長の比は実寸の比とほぼ同じであり、はそうの写真から得た座標をもとに型式を判定することが出来た。Z381の赤線が示すようにNo6に近いNo5(左上5-6,右上5-7,左下1-6,右下5)のTK23(-)と判定出来る。

 

Z381.

Z382.景行天皇陵はそう.pngZ381にある青線は、三重県松坂市の常光坊谷4号から出土したはそうで、No5またはNo6(5-6,6-7,1-6,5)と判定した。No5はTK23(-)で、No6はTK47(-)である。『古墳出土須恵器集成 第1巻』では常光坊谷4号のはそうの型式はTK47とあった。TK23の年代は460~489年、TK47は470~499年で、両型式は年代がオーバーラップしており形状が良く似ているのであろう。景行天皇陵のはそうの写真の上に、常光坊谷4号のはそうの図面を重ねあわせると、Z382のように両者の形状がピッタリ一致した。

    

景行天皇陵のはそうの型式をTK23(-)とすると、その年代は雄略天皇(464~486年)の時代と重なる。『宋書』倭国伝に記載された倭の五王の武は、雄略天皇であると考えられているが、478年に朝貢した武は上表文の中で「昔からわが先祖は、みずから甲冑をつらぬき、山川を跋渉し、安んずる日もなく、東は毛人を征すること55国、西は衆夷を服すること66国、北のかた海を渡って平らげること95国に及び、巨大な一国家をつくりあげました。」とある。日本武尊を遣わして蝦夷・熊襲の征伐を行った景行天皇の陵墓で、雄略天皇が先祖を崇める祭祀を行ったとしても不思議ではない。


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69-7.ワタカケル大王の時代の須恵器型式 [69.須恵器の型式をAIで判定する]

雄略天皇の和名は『古事記』には「大長谷若建命」、『日本書紀』には「大泊瀬幼武尊」とあり、「おおはつせわかたけるのみこと」である。埼玉県行田市の稲荷山古墳から出土した鉄剣の金象嵌、熊本県玉名郡の江田船山古墳から出土した鉄剣の銀象嵌には「獲加多支鹵大王」の銘があり「ワカタケル大王」と読めることから、雄略天皇を指していると考えられている。特に稲荷山古墳から出土した金象嵌鉄剣には「辛亥の年7月中に記す」とあり、辛亥の年は471年と考えられている。

 

Z383.稲荷山古墳須恵器.jpg稲荷山古墳からは、須恵器の坏蓋・有蓋高坏・はそう(Z383)が出土している。有蓋高坏の内で透窓がある8個の型式判定を行った。これらは個別の判定を行うのではなく、8個の測定値から平均値と標準偏差(σ)を算出し、“平均値±1σ”の値から、その範囲を満足する型式を抽出した。Z384の黄色の範囲で、有蓋高坏の型式はNo4~5(左上4-6,右上4-6,左下4-5,右下4-5)の範囲しか絞り込めなかった。はそうの型式はZ385に示すようにNo5(5-7,5-7,1-6,5)であった。したがって、稲荷山古墳の須恵器の年代はNo5のTK23(Ⅰ-4)と判定できる。TK23は460~489年であり、辛亥の年471年を満足している。なお、学者は稲荷山古墳の須恵器の型式をTK43(Ⅰ-5)と判定しており、ガウス曲線の判定と違っている。これは前節で述べたように、TK23とTK47は年代がオーバーラップしており形状が良く似ているためである。

 

Z384-385.稲荷山型式判定.png


Z386.埴輪・須恵器編年表.png有蓋高坏・はそうのガウス曲線の4図を見て気付くことは、何れの図も変曲点がNo5のTK23、No6のTK43にあることだ。このことは無蓋高坏・坏身にも起っている。Z386に見られるように須恵器のTK23・TK47の時代は、円筒埴輪がⅣ式期からⅤ式期に変わり、古墳時代が中期から後期に代わった時期である。古墳後期の特徴は、何んと言っても横穴式石室の登場である。須恵器の形態の変遷をあらわすガウス曲線は時代の大きな流れを的確に捉えている。


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69-8.市尾墓山古墳は畿内型横穴式石室の初現か? [69.須恵器の型式をAIで判定する]

近藤義郎編『前方後円墳集成』(1992年、山川出版社)という本がある。全6巻に全国5200余基の前方後円()墳の調査資料を集大成してあり、古墳研究者にとってはバイブルの本である。この本では全国的規模での前方後円墳の横並びの関係をつかむために、広瀬和雄氏が作成した「畿内における前方後円墳の編年基準」を共通の編年基準として、古墳時代を10期に区分することを採用している。この編年基準では、川西宏幸氏の円筒埴輪編年と田辺昭三氏の須恵器編年を基本として、その他の要素を加えて編年基準が作成されている。この編年基準は「集成編年」として、研究者の間でもっぱら用いられている。Z387.市尾墓山石室.png

古墳後期の始まりについては、集成編年9期からとしている学者も多い。集成編年9期の定義は「円筒埴輪のⅤ式。MT15・TK10型式。鉄製輪鐙・心葉形杏葉・楕円形杏葉・鐘形杏葉・半球形雲珠や竜鳳環頭大刀が出現する。横穴式石室が普及する。」とある。横穴式石室は畿内型横穴式石室のことである。横穴式石室の初現は、奈良県高取町にある墳長70mの前方後円墳の市尾墓山古墳であり、横穴式石室(Z387)は奥行5.9x幅2.5x高さ2.9mで自然石を小さな持ち送りで8~10段積み上げ、天井石5枚で覆っている。片袖型の横穴式石室で3.6x1.8x1.7mの羨道を持つ。玄室内部には刳抜式の家形石棺が一基を安置されている。円筒埴輪はⅤ式、須恵器はMT15とTK10の二つの意見に分かれている。

 

Z388.市尾墓山須恵器.png市尾墓山古墳の石室からは、坏身4点・坏蓋3点・はそう2点・無蓋高坏5点・器台2点・広口壺2点・短頸壺1点・同蓋2点が出土している。その一部の図面(Z388)で、ガウス曲線による型式判定(黒線)をおこなった。はそう(Z389)はNo8(左上8-12,右上4-8,左下7-8,右下7-8)、坏身(Z390)はNo7~8(6-8,7-10,7-9,6-9)、無蓋高坏(Z391)はNo8~9(8-11,8-9,8-9,8-11)である。市尾墓山古墳は追葬が無いとされているので、須恵器の型式はNo8のTK10(Ⅱ-2)と判定できる。TK10の年代は520~549年であり、市尾墓山古墳が畿内型横穴式石室の初現ではないように思える。

 

Z389.
Z390-391.坏 市尾墓山.png


Z392.宇治二子塚天井石.png私は古墳時代の始まりを、円筒埴輪Ⅴ式・須恵器TK23・TK47の集成編年8期からと考えている。そして、畿内型横穴式石室の初現は、京都府宇治市にある墳長約112mの前方後円墳である宇治二子塚古墳であると思っている。宇治二子塚古墳の円筒埴輪はⅣとⅤ式、須恵器はTK23またはTK47である。石室は大正時代に取り壊されており、隣接する西方寺の裏庭にある巨石(高さ3
.2x幅2.8m)は、古墳破壊の時にその天井石の一石をここに運び庭石としたと言われている。昭和62年から行われた発掘調査では、後円部中央に東西16x南北8x深さ4.3mの巨大で堅牢な基礎を発掘している。市尾墓山古墳にも、同様の基礎があることが確認されており、宇治二子塚古墳の横穴式石室の存在は確実なものとなっている。須恵器の型式の判定を行いたいが、残念ながらその資料は入手できない。


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69-9.藤ノ木古墳の被葬者は誰か? [69.須恵器の型式をAIで判定する]

 奈良県生駒郡斑鳩町の法隆寺の西350mに藤ノ木古墳がある。藤ノ木古墳は径約50mx高さ約9mの円墳で、埋葬施設は全長14mの両袖式の横穴式石室である。玄室は長さ6mx幅2.3mx高4.4mがあり、玄室には二上山の白色凝灰岩製の刳抜式家形石棺が一基据えられている。昭和60年代に二度に渡り発掘調査が行われ、未盗掘であったことから、玄室からは金銅製鞍金具・心葉形鏡板付轡などの馬具類、挂甲小札・刀身・鉄鏃などの武器・武具類、土師器・須恵器などが出土し、石棺からは金銅装の大刀・剣、金銅製の冠・履などの装身具、獣帯鏡・画文帯神獣鏡・神獣鏡銅鏡、ガラス玉類などが検出されている。これらの副葬品は国宝に指定され、奈良県立橿原考古学研究所附属博物館において保管・展示されている。


 

Z394-Z395.藤ノ木古墳.png


藤ノ木古墳の玄室から出土した須恵器(Z396)は、はそう2点・無蓋高坏7点・有蓋高坏9点・同蓋14点・台付長頸壺3点・同蓋3点・長頸壺1点・器台1点の須恵器が出土している。なお、左列中央の坏身に見えるのは有蓋高坏の坏身部分である。ガウス曲線による型式判定(黒線)をおこなうと、はそう(Z397)はNo10(左上9-11,右上10,左下9-11,右下10-13) 、無蓋高坏(Z398)はNo10(9-11,10-12,9-11,9-10)、有蓋高坏(Z399)はNo10(10,10-11,9-11,8-11)である。須恵器の型式はNo10のTK43(Ⅱ-4)と判定でき、学者の判定と一致している。


 

Z396-397.藤ノ木須恵器.png
Z398-399.高坏 藤ノ木.png

 

藤ノ木古墳の石棺からは、衣服の上からさらに4重の布で包まれた2体の成人男性の人骨が出たことから、その被葬者について議論が沸騰した。白石太一郎氏は副葬遺物の金銅製鞍金具は東アジアで発見されているものでは最高級のものである、金銅装の大刀は伊勢神宮の神宝玉纏大刀と共通の様式であることなどから、被葬者は大王家の大王以外の男性、すなわち皇子であると推測されている。

 

白石氏は6世紀第4四半期頃(須恵器TK43)で、二人の有力な皇子がほぼ同時に没する出来事としては、用明天皇没後の587年の皇位継承をめぐる争いで、物部守屋大連と組んで皇位につこうとした穴穂部皇子(欽明天皇の皇子)と宅部皇子(宣化天皇の皇子)が蘇我馬子大臣に殺されたことを取り上げ、藤ノ木古墳の被葬者はこの二人の皇子であるとしている。なお、TK43の年代を私は560~589年としており、穴穂部皇子と宅部皇子が暗殺された年代とピッタリあっている。

 

法隆寺の高田良信氏は藤ノ木古墳が発掘された直後、法隆寺が保管しているさまざまな時代の文章に、ミササキとか陵山(みささぎやま)などと呼ばれていた藤ノ木古墳についての記載があること、藤ノ木古墳の近くに陵堂があったこと、江戸時代には崇峻天皇御陵として伝えられていたことなどを発表している。藤ノ木古墳の玄室からは江戸時代の灯明皿が出土している。このことと、未盗掘であったことを重ね合わすと、近世に至るまでこの石室内で被葬者に対する供養が行われていたと考えられ、高田氏の話と符合する。驚いたことに、法隆寺の行事として毎年11月3日に崇峻天皇御忌の法要が聖霊院で行われており、以前は藤ノ木古墳でも法要が行われていたそうだ。藤ノ木古墳の被葬者が崇峻天皇であるという伝承を、法隆寺は現在でも受け継いでいる。

 

崇峻天皇が蘇我馬子に暗殺されたのは592年であり、TK43の年代とも合っている。ただ、『日本書紀』は崇峻天皇の御陵は倉梯岡陵(奈良県桜井市倉橋)とし、『古事記』も倉椅岡のほとりとしている。桜井市倉橋にある赤坂天王山1号墳は、江戸時代には崇峻天皇の御陵みられていた。一辺約45mの方墳で、埋葬施設は全長15mの両袖式の横穴式石室である。玄室は長さ6,3mx幅3.2mx高4.2mがあり、玄室には二上山の白色凝灰岩で刳抜式家形石棺が一基据えられている。玄室・石棺は藤ノ木古墳と良く似ており、6世紀後半の古墳と見られている。赤坂天王山1号墳は地所・規模・形態・年代からみて、歴史学者・考古学者の間では崇峻天皇陵として有力視されている。

 

「68-10.記紀が定めた天皇陵は規模・年代に齟齬は無い」で述べたように、天皇陵の治定には古墳の規模や形態、埴輪や須恵器の年代からみて齟齬がある御陵が少なからずあるが、記紀が記載した陵墓の地には、規模・形態・年代に齟齬をきたさない古墳が存在しており、記紀が記載した陵墓の地は正確であった。これからすると、藤ノ木古墳が崇峻天皇陵とはならないと思われる。法隆寺はいつから藤ノ木古墳の被葬者を崇峻天皇とするようになったのであろうか謎は残る。


 


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69-10.植山古墳は推古天皇の初葬墓 [69.須恵器の型式をAIで判定する]

天皇陵でみると、最後の前方後円墳は敏達天皇陵(太子西山古墳)であり、敏達天皇以降の天皇陵は方墳・円墳・八角墳となっている。敏達天皇の皇后であった豊御食炊屋姫尊が後に推古天皇となっている。『書紀』によれば、推古36年(628年)3月に推古天皇は亡くなったが、その前群臣に「この頃五穀がみのらず、百姓は大いに飢えている。私のために陵を建てて、厚く葬ってはならぬ。ただ竹田皇子(敏達天皇との息子)の陵に葬ればよろしい。」と遺詔している。『書紀』は推古天皇の陵墓名・地名を記していないが、『古事記』には「御陵は大野崗の上にありしを、後に科長の大陵に遷しまつりき。」とある。

 

Z400-Z401植山古墳.png


Z402.植山古墳西石室須恵器.png竹田皇子の墓は橿原市五条野町の植山古墳が有力視されている。植山古墳はZ400の写真に見えるように、竹田皇子の祖父であり、推古天皇の父である欽明天皇の御陵と考えられる見瀬丸山古墳(五条野丸山古墳)のすぐ側にある。植山古墳は平成12年に橿原市教育委員会により発掘調査された。植山古墳は東西49mx南北27mの長方墳方で、丘陵の南斜面にコの字状に周濠を掘り墳丘を削り出している。墳丘には横穴式石室が東西に二基並んでいる。橿原市埋蔵文化財調査報告『史跡 植山古墳』には、東石室の構築時期は6世紀末、西石室は7世紀前半とある。西石室から須恵器の坏・高坏・長頚壺(Z402)が出土しているが、調査報告書には須恵器の型式は言及していない。ガウス曲線を使って、無蓋高坏の型式を検証した。Z403の赤線で判定すると、無蓋高坏の型式はNo12(左上11-12,右上9-13,左下12-13,右下12-13)のTK217古(Ⅱ-6)と判定できた。

 

Z403.無蓋高坏 植山古墳西石室.png


Z404.植山古墳南整地層坏.png西石室から出土した坏身の指標をZ405の黒線に示した。右下のAngleで判るように、前述の無蓋高坏の型式No12のTK217古よりも古い型式であることが分かった。これは東石室のものかと思ったが、東石室からは須恵器は出土していない。墳丘の南側(二つの石室の正面)には、古墳築造に伴う整地層があり、その整地層の直上ないし整地層内から須恵器の坏身(Z404)が出土している。その中で器形が完全な3点の指標をZ405の赤線で示した。西石室から出土した坏身は、これら3点と同時期、古墳築造当時の杯身であることが明確である。これら4点の坏身の型式はNo10(8 or 12,9-11,9-10,10)のTK43(Ⅱ-4)と判定した。

 

Z405 植山古墳坏、西石室・整地層.png

植山古墳が『古事記』に見える大野岡上陵だとすると、東石室に竹田皇子が葬られ、西石室に推古天皇が一時的に葬られていたことになる。竹田皇子が『書紀』に登場する最後の記事は、用明天皇没後の587年に、蘇我馬子大臣が諸皇子と群臣によびかけ物部守屋大連を滅ぼしたときの軍勢に、泊瀬部皇子(崇峻天皇)・厩戸皇子(聖徳太子)共々と加わっていたことである。竹田皇子の父敏達天皇と母豊御食炊屋姫皇后(推古天皇)は欽明天皇の異母兄弟、また厩戸皇子の父用明天皇と母穴穂部間人皇后は欽明天皇の異母兄弟で、両者は同じ境遇である。593年に推古天皇が皇位に就いたとき、竹田皇子が皇太子にはならず、厩戸皇子が摂政となっている。竹田皇子は587年の戦で命を落としたと考えられる。

 

植山古墳の古墳築造(東石室築造)当時の須恵器の型式はTK43と判定した。TK43の年代は560~589年であり、竹田皇子の亡くなったと推定する587年とピッタリあっている。また、西石室の須恵器の高杯の型式はTK217古で年代は620~639年であり、推古天皇の崩御の628年とピッタリ合っている。これらより、植山古墳の東石室は竹田皇子が埋葬され、西石室は推古天皇が埋葬されたと思われる。推古天皇の御陵は大阪府太子町の磯長谷古墳群にある山田高塚古墳(方墳)に比定されている。『古事記』が記していた通り、推古天皇の御陵は植山古墳から山田高塚古墳に移されたもと思われる。


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69-11.飛鳥時代前半の須恵器編年は混沌 [69.須恵器の型式をAIで判定する]

 須恵器の編年は、生産地である陶邑窯跡群から出土した須恵器に基づいて田辺昭三氏や中村浩氏により成し遂げられた。一方、推古天皇から始まる飛鳥時代、7世紀の須恵器の編年については、消費地である飛鳥・藤原京から出土した須恵器に基づいて、西弘海氏によって飛鳥編年が提唱され、多くの考古学者の間で使用されている。飛鳥編年では7世紀の須恵器を飛鳥Ⅰから飛鳥Ⅴの五段階に別けている。飛鳥編年では、飛鳥Ⅰから坏蓋には珠形のつまみをもち端部にかえりのあるG坏と呼ばれるものが登場し、従来の坏身にかえりのあるH坏は減少して、飛鳥Ⅲの段階では坏の全てがG坏となることに注目している。G坏比率「G坏蓋/(H坏身+G坏蓋)」を各型式の標式資料でみると、飛鳥Ⅰが48%、飛鳥Ⅱが77%、飛鳥Ⅲが100%になっている。

Z406.H坏とG坏.png

一方、中村編年でみると7世紀の須恵器は、Ⅱ-5・Ⅱ-6・Ⅲ-1・Ⅲ-2の段階に相当する。中村氏の『和泉陶邑窯出土須恵器の型式編年』でみると、Ⅱ-5・Ⅱ-6の段階ではG坏が全く存在せずH坏のみであり、Ⅲ-1・Ⅲ-2の段階ではH坏が全く存在せずG坏(台付き坏除く)のみである。中村編年ではH坏とG坏が共存する飛鳥Ⅰと飛鳥Ⅱに相当する時期が無いのである。7世紀(飛鳥時代)の須恵器の編年において、7世紀後半(飛鳥Ⅲ、Ⅲ-2)以降の編年はほとんどの学者の意見が一致しているが、7世紀前半の編年については様々な説が並立しているのは、このためであると考える。


『和泉陶邑窯出土須恵器の型式編年』のⅡ-6とⅢ-1の図面を見ていて、TG17窯・TG64窯・TG206窯が両者の型式に登場していることが分った。Ⅱ-6型式とされている前記3窯の坏身の外径の平均は103㎜、残りの窯の外径は117mmと大きく異なっている。これらより、TG17窯・TG64窯・TG206窯の坏の型式はⅢ-1とする方がよいと思われた。こう考えると、生産地の陶邑でⅢ-1の時代にH坏が生産されていたことになり、消費地の飛鳥・藤原京から出土するH坏と整合性がとれる。


Z407.飛鳥編年と中村編年.png飛鳥編年においては、その指標に坏の外径・法量(容量)が用いられる。この指標を用いて、飛鳥編年と中村編年の突合せを行ってみた。飛鳥編年の飛鳥Ⅰの標式資料は、川原寺SD02(資料数3)、山田寺整地層(13)、甘樫丘東麓遺跡焼土層(6)、甘樫丘東麓遺跡SK184(8)、飛鳥池遺跡灰緑色粘砂層(8)で、飛鳥Ⅱの標式資料は、坂田寺SD100(1)、水落遺跡貼石遺構(1)、難波宮北西部(4)である。中村編年はⅡ-5(15)、Ⅱ-6(8)、Ⅲ-1(11:TG16TG64TG205)とした。横軸を坏の外径、縦軸を坏の容量(外径x器高)として、飛鳥編年・中村編年の坏の値をプロットした。が飛鳥Ⅰ、●が飛鳥Ⅱ、がⅡ-5、がⅡ-6、▲がⅢ-1である。Z407から飛鳥Ⅰに対応するのはⅡ-で、薄水色の枠内(外径㎜:105132、容量㎠:3048)であることがわかる。飛鳥ⅠはⅡ-6(TK217古)、飛鳥ⅡはⅢ-1(TK219新)と考える。


 


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69-12.飛鳥時代の須恵器の実年代 [69.須恵器の型式をAIで判定する]

 Z408は飛鳥編年と中村編年のH坏身の外径と容量をプロットしており、が飛鳥Ⅰ、●が飛鳥Ⅱ、がⅡ-5、がⅡ-6、▲がⅢ-1である。薄緑の枠内にある「✕」は、飛鳥寺下層(資料数1)、豊浦寺下層(1)、TK207窯(3)出土の坏であり、薄青の枠内にある「+」が隼上り2号瓦窯の灰原(6)から出土した坏である。
Z408-Z409.隼人上り2号窯灰原.png

『書紀』崇峻元年に「飛鳥衣縫造の先祖の樹葉の家を壊して、はじめて法興寺(飛鳥寺)を造った。この地を飛鳥の真神原と名づけた」とあり、588年に法興寺の創建が始まっている。落成したのは推古4年(596年)である。飛鳥寺下層出土の坏はこの時期のものではないかと考える。甘樫丘の北西麓にある豊浦寺跡の発掘調査では、講堂・金堂跡と見られる下層から掘立柱建物や石敷が発見された。豊浦寺は推古天皇の即位から小墾田宮に移るまでの豊浦宮(592年~603年)の跡に建てられたと考えられている。豊浦寺下層出土の坏は豊浦宮時代のもと思われる。薄緑の枠内の中村編年Ⅱ-5はTK209と同じ年代で、年代は飛鳥時代初頭の590~619年と考える。Z410.豊浦寺式軒丸瓦.jpg

 

京都府宇治市の宇治平等院の北2kmの丘陵に、隼上り瓦窯跡がある。ここで焼かれた瓦は7世紀初頭、推古天皇の時代に蘇我氏が飛鳥に、飛鳥寺と対をなす尼寺として建立した豊浦寺で使われていたことが判明している(Z410)。『書紀』推古36年(628年)の記事に、聖徳太子の息子の山背大兄王が「以前に叔父(蘇我蝦夷)の病を見舞おうと、京に行って豊浦寺に滞在した。」とある。これらより豊浦寺の創建は603年から628年の間であることが分る。隼上り瓦窯跡には4基の窯があるが、1・3・4号窯は瓦窯として、2号窯は須恵器窯として操業を開始している。その後、2号窯は瓦窯に転用され、最終的に須恵器窯にもどり他の窯より早くに廃絶している。なお、隼上り瓦窯の廃絶期には1・3号窯でも須恵器が焼かれている。


Z411.隼上り瓦窯跡2号灰原.png2号窯の灰原からはZ411のH坏身・G坏蓋・はそう・有蓋高坏が出土している。なお、G坏比率「G坏蓋/(H坏身+G坏蓋)は25%である。Z408の薄青の枠内にある「+」が隼上り2号瓦窯の灰原の坏で、飛鳥Ⅰ・Ⅱ-6(TK217古)の段階であることが明確である。Z412にはそう、Z413に有蓋高坏のガウス曲線による型式判定を示した。いずれも型式は-6(TK217古)であること示している。豊浦寺の創建年代と照らし合わせて考えると、隼上り瓦窯で豊浦寺の瓦を造ったのは620~628年頃と推察し、飛鳥ⅠはⅡ-6(TK217古)の段階で、その始まりの年代は620年頃と考える。

Z412-Z413.隼人上り2号坏原.png

 

飛鳥宮跡を俯瞰する甘樫丘の東麓には蘇我氏の邸宅があった。『日本書紀』の皇極3年(644年)の記事には「蘇我の大臣蝦夷と子の入鹿は、家を甘樫岡に並べて建てた。大臣の家を上の宮門と呼び、入鹿の家を谷の宮門といった。男女の子たちを王子といった。家の外にとりでの柵を囲い、門のわきに武器庫を設けた」とある。また、皇極4年(645年)の“乙巳の変”で、中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我入鹿を大極殿で斬殺した後、蘇我蝦夷を殺そうと迫った時の記事には「蘇我臣蝦夷らは殺される前に、すべての天皇記・国記・珍宝を焼いた。」とある。甘樫丘東麓遺跡は蘇我氏の邸宅の遺構と考えられている。この遺跡のSK184・焼土層から出土した須恵器は飛鳥Ⅰで、G坏比率58%である。

Z414.甘樫丘.png

 

645年の乙巳の変で中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我氏を滅ぼし、孝徳天皇が即位され難波長柄豊崎宮に遷都し大化の詔を発している。この難波宮跡の北西部の発掘調査で、谷部16層から「評」「戊申年」と書かれた木簡が出土した。「評」は行政区域の単位で、大宝律令(701年)以後は「評」に代わり「郡」が使用されていることから、「戊申年」は大化4年(648年)の戊申年と考えられている。難波宮北西部遺跡の谷部16層から出土した須恵器は飛鳥Ⅱとされており、G坏の比率は81%であり、H坏の減少が進んだ段階であることがわかる。Z408で「✕」で示した前期難波宮跡から出土した坏は概ね肌色の枠内に入っている。飛鳥ⅡはⅢ-1(TYK217新)のH坏身のかえりの立ち上がり無くなる段階で、G坏比率はH坏が消滅する直前の時期で75%~100%である。


飛鳥Ⅰ(-6、TK217古)と飛鳥Ⅱ(-1、TYK217新)の境の年代は、“乙巳の変”があった645年と考える。7世紀後半の須恵器の始まりは飛鳥Ⅲである。飛鳥Ⅲの標式資料である大官寺下層土坑SK121出土の須恵器の坏は全てG坏(台付き坏除く)でH坏は消滅していることが分かる。飛鳥Ⅲの年代は壬申の乱(672年)後、天武天皇が飛鳥浄御原宮に遷都後と考えられている。飛鳥Ⅲは中村編年ではⅢ-2(TK46)と考える。飛鳥時代前半の須恵器の編年・年代は下記のようにまとめることができる。


中村編年  田辺編年  飛鳥編年 実年代   G坏比率
    Ⅱ-5 TK209             590619年  0%   
    Ⅱ-6 TK217古 飛鳥Ⅰ   620639年  075%
    Ⅲ-1 TK217新 飛鳥Ⅱ  640669年  75100%

      -2 TK46   飛鳥Ⅲ  670年~    100%


 


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69-13.坏の型式判定をプロ並みのレベルへ [69.須恵器の型式をAIで判定する]

坏は年代決定のための重要な須恵器である。しかし、坏の型式による形態変化(編年で1段階)よりもバラツキ幅の方が大きいため、型式による変化の大きい指標を選定することが肝要である。私は須恵器の型式判別において、縮尺の無い図面や写真も対象としたので、夫々の寸法比率を採用している。飛鳥時代の須恵器の編年において、坏の外径と容量(外径x器高)が有効な指標であることが分った。そこで坏の型式判定指標を見直し、外径・器高✕外径・器高/外径・立上げの4指標で行うこととした。新しく定めた坏のガウス曲線をZ415に示す。外径(OD)・立上げ(KH)の実寸法は有用な指標であった。容量の代用とした器高✕外径(CH✕OD)に期待したが、有用なのは飛鳥時代前半(Ⅱ-5~Ⅲ-1)の期間のみであった。器高/外径(CH/D)はⅠ期(Ⅰ-1~Ⅰ-5)とⅡ期(Ⅱ-1~Ⅱ-6)を明快に分けることに役立っている。

 

Z415.杯身NewGaus.png

Z416.難波宮跡出土須恵器.png645年の乙巳の変で中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我氏を滅ぼし、孝徳天皇が即位され難波長柄豊崎宮に遷都した。この前期難波宮の柱堀穴・整地層・整地層直下からZ416のH坏とG坏が出土している。Z415にある黒線が前期難波宮出土のH坏の指標値で、飛鳥Ⅱ(Ⅲ-1、TK217新)の時代のものであることが分る。中村浩氏が-6とⅢ-1の2期にまたがる窯としたTG17窯・TG64窯・TG206窯出土の坏の型式を、Ⅱ-6からⅢ-1に変更することで、最も小さな容量を示す飛鳥Ⅱ(Ⅲ-1)の坏の形状が明確に表れるようになった。外径・器高✕外径・器高/外径・立上げの4指標のガウス曲線は、坏の型式判定をプロ並みのレベルに引き上げた。


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69-14.須恵器型式のAIによる全自動判定 [69.須恵器の型式をAIで判定する]

Z417.はそうガウス曲線.pngこれまで須恵器の型式による形態変化をAIで作成したガウス曲線で見える化を計り、須恵器の図面・写真から得た指標と照らし合わせて型式の判定を行ってきた。「須恵器の型式をAIで判定する」と唱えたかぎりは、最後の型式判定までパソコンで行えるようにしなければならない。私が確立した須恵器型式のAIによる全自動判定システムについて、はそうの口径/胴径(MD/BD)のガウス曲線を例にとり説明する。ガウス曲線(Z417)の赤線が平均値(A)、緑帯が平均値±1σ、青帯が平均値±1.σである。統計的にみると、平均値±1σは基礎資料の68%を含み、平均値±1.σは87%を含む範囲である。

 

型式を判定するはそうMD/BDを平均値(a)が1.3、標準偏差(σ)が0.1であったと仮定する。赤点線が平均値、上の黒点線がa+1σ、下の黒点線がa-σである。Hen-No1~13において、赤点線・黒点線が緑帯の範囲にあれば2点、青帯の範囲にあれば1点、白の範囲にあれば0点と判定する。Z418にHen-No毎に得点の合計と比率を示した。これらをエクセルで自動計算するプログラムをZ419に示した。

 

Z418-Z419.型式自動判定.png

この方法ではそうの口径/胴径(MD/BD)、頸径/胴径(ND/BD)、頸長/胴長(NH/BH)、頸径/全長(ND/TH)の4指標について同じプログラムで行を揃えて横並びに作り、その最後に4指標の小計を合計する。4項目24点満点で、Hen-No毎にその得点比率を計算し、その比率の最も高かったHen-Noが、その資料の型式である。藤ノ木古墳出土のはそうの型式をAIで自動判定した結果をZ420に示した。

 

Z420.藤ノ木古墳はそう自動判定.png


須恵器の形状を示すガウス曲線の平均値(A)は器種・指標によって異なっているが、型式判定のプログラムは全ておなじである。Z421に、坏身・はそう・無蓋高坏・有蓋高坏のHen-No毎のガウス曲線平均値(A)と標準偏差(σ)を示した。この値をもとにすれば須恵器の型式を自動計算するプログラムがエクセルで作成できる。

Z421.機種別・指標別ガウス曲線.png

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69-15.狭山池周辺の須恵器窯の型式 [69.須恵器の型式をAIで判定する]

Z422.狭山池須恵器窯型式.jpg須恵器の生産地である陶邑窯跡群の東端に狭山池がある。狭山池は『日本書紀』では崇神天皇紀に、『古事記』では垂仁天皇記に登場する古い池である。この狭山池周辺に多くの須恵器窯跡が存在している。狭山市立郷土資料館の図録「狭山池築造と須恵器窯」にある“狭山池の須恵器が操業した時期”の表を改変してZ422に示した。Z422をみると、狭山池2号窯の須恵器の型式がTK209,狭山池1号窯と東池尻1号窯がTK217古、狭山池4号窯がTK217新となっている。須恵器型式のAIによる全自動判定で、これらの型式の検証を行ってみた。なお、狭山池周辺の須恵器窯の内、TK43と判定されている大満池南窯、狭山池4号窯と同じTK217新と判定されているひつ池西窯の型式も全自動判定をおこなった。

 

測定したのは外径(OD)、器高(CH)、立上り(KH)であり、判定に用いた指標はOD、CHXOD、CH/OD、KHである。なお、外径(OD)と立上り(KH)は縮尺より実寸法を算出した。各窯の資料数は15~48個で、4指標の平均値()と標準偏差(σ)を求めた。a-σ、a、a+σの値がガウス曲線のA±σの範囲にあれば2点、A±σ~A±1.5σの範囲にあれば1点、それ以外は0点で、各型式の得点を計算した。その得点の割合(24点満点)が最も高い型式が、その坏身の型式となる。狭山池周辺の須恵器窯のAIによる全自動型式判定の結果をZ423に示す。

 

Z423.狭山池須恵器窯型式判定.png満池南窯はTK43、狭山池2号窯はTK209,狭山池1号窯と東池尻1号窯はTK217古と狭山市教育員会(含む郷土資料館)の報告書と同じであったが、狭山池4号窯とひつ池西窯は、私の判定はTK217古、狭山市教育員会の判定はTK217新とくい違がっている。狭山池周辺の須恵器の研究の第一人者であられる植田隆司の「TK217型式の類型化および他型式との相対評価」では、狭山池4号窯とひつ池西窯はTG10-(TK217古)とTG10-(TK217新)にかけて分布しているとあり、AIによる全自動判定もあながち間違ってはないのだろう。「69-11.飛鳥時代前半の須恵器編年は混沌」で述べたように、Ⅱ-6型式とされているTG17窯・TG64窯・TG206窯の坏の型式をⅢ-1としたことが影響していると思われる。

 

私は、飛鳥時代前半の須恵器の編年・年代は下記のようにまとめている。

中村編年  田辺編年  飛鳥編年 実年代   G坏比率

    Ⅱ-4 TK43        560589  0%
-5 TK209             590619年  0%

    Ⅱ-6 TK217古 飛鳥Ⅰ   620639年  075%

    Ⅲ-1 TK217新 飛鳥Ⅱ  640669年  75100%

    Ⅲ-2 TK46   飛鳥Ⅲ  670年~    100%

 

TK217古と判定した狭山池1号窯は、狭山池築造当初の堤の外側の斜面を利用して造られている。これからすると、狭山池1号窯は狭山池の堤の築造年代よりも後に操業したことになる。この堤の下層から導水のためのコウヤマキ製の樋管が出土している。この下層東樋と呼ばれる樋管の年輪年代測定で616年伐採と出た。狭山池1号窯の須恵器は616年以降に生産されたことが分る。616年にコウヤマキを伐採し樋管を作り、樋管を埋めて堤を造り、その堤に須恵器窯を築造した。そこで焼成した須恵器の型式はTK217古(Ⅱ-6)の飛鳥Ⅰで、年代は620~639年である。狭山池1号窯の須恵器の年代と樋管の年輪年代はピッタリあっている。


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69-16.桑原遺跡の八角形墳は中臣鎌足の初葬墓 [69.須恵器の型式をAIで判定する]

Z424.阿武山古墳と桑原遺跡.png飛鳥Ⅱ(Ⅲ-1、TK217新)の事例は少ない。他にないかと探して、行き当たったのが桑原遺跡である。桑原遺跡は中臣鎌足の墓ではないかと考えられている阿武山古墳のある阿武山の南西麓にある。A7号は無袖の横穴式石室を伴う小さな方墳で、石室が墳丘いっぱいを占め、奥壁が北側の墳丘裾の近くまである 。石室内からは、H坏身5点、G坏蓋10点が出土している。H坏身のAIによる全自動型式判定ではNo13が83%と最高得点で、Ⅲ-1(TK217新)の飛鳥Ⅱの年代の須恵器と判定した。ちなみに、G坏比率は67%で飛鳥Ⅱの値には少し足らなかった。

 

八角形墳のC3号墳は中臣鎌足の墓の可能性を指摘する声もある。C3号墳の石室からは、H坏身が1点とG坏蓋が5点出土している。H坏身のAI判定では、No13が100%(8点満点中8点)でⅢ-1(TK217新)の飛鳥Ⅱの年代の須恵器であった。ちなみに、G坏比率は83%で飛鳥Ⅱの範疇である。

 

八角形墳の天皇陵は舒明天皇陵(641年没)・天智天皇陵(671年没)・天武天皇陵(686年没)であり、また斉明天皇(661年没)の墓ではないかと考えられている牽牛子塚古墳も八角形墳である。C3号墳が八角形墳であることからして、飛鳥Ⅱの年代は、八角形墳が築かれ年代7世紀第3四半期の時代を示唆するものであった。私は飛鳥Ⅱ(Ⅲ-1、TK217新)の年代を640~669年としており、ピッタリあっている。

 

Z425.阿武山古墳の冠帽と玉枕.png『書紀』には中臣鎌足が薨去し、藤原の姓を賜ったのは天智8年(669年)とあり、八角形墳のC3号墳は中臣鎌足の初葬墓であった可能性が高いと思われる。冠帽や玉枕が出土し、中臣鎌足の墓ではないかと考えられている阿武山古墳からもH坏身1点とH坏蓋3点が出土している。H坏身のAI判定はNo12とNo13が100%(8点満点中8点)で、Ⅱ-(TK217古)またはⅢ-1(TK217新)の区別ができなかった。


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