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52.雄略天皇から継体天皇までの編年を解く ブログトップ

52-1.雄略天皇は暴君に仕立てられた [52.雄略天皇から継体天皇までの編年を解く]

Z33 日本書紀の編年と構成.png

言語学者(日本語・中国語)の森博達氏は、『日本書紀』の言葉と表
記(音韻・語彙・語法)を分析し、全30巻をα群・β群・巻30に
三分した。神武紀から安康紀はβ群に属し、雄略紀から崇峻紀はα群
に属している。天文学者の小川清彦氏は、『日本書紀』に記載された
暦日は、神武紀から安康紀までが新しい「儀鳳歴」で書かれ、雄略紀
から持統紀までが古い「元嘉歴」で書かれているとしている。私が調
べた歴史を古く見せるための延長期間、記事と記事の間が4年以上あ
る「空白年数」で見ても、表Z33に見られるように、神武紀から安
康紀の合計は893年、雄略紀から崇峻紀は7年となっており、明ら
かな有意差がある。言語学、天文学、「記事と記事の空白の期間」の
何れも、雄略天皇を境として『日本書紀』の表記が異なっている。


記事と記事の空白の期間でもって編年を延長し、歴史を古く見せようとするならば、延長された900年の全てを神武紀から安康紀に取り込めばよいことで、なぜ、雄略紀から崇峻紀の間に7年延長してあるのか疑問が残る。雄略紀から崇峻紀に歴史を古く見せる7年の延長がなされた証拠は、雄略紀・継体紀に記述された百済の武寧王の誕生・薨去の記事にある。継体17年[523年]夏5月に「百済の武寧王が薨じた」との記事がある。1145年に編纂された朝鮮の正史『三国史記』には、百済の武寧王は523年夏5月に薨去したとある。(以後、『日本書紀』通りの編年は[ ]で囲んでいる。)

Z-58.武寧王陵.png1971年に、韓国公州の宋山里古墳群において武寧王の墓が発見された。墓誌には「寧東大将軍百済斯麻王、年六十二歳、 癸卯年(523年)五月丙戌朔七日壬辰崩到」とある。武寧王の諱(いみな)は「斯摩(しま)」である。武寧王が523年5月になくなったことは、『日本書紀』・『三国史記』・「墓碑」の3者が一致している。また、『日本書紀』の雄略5年[461年]に、武寧王が筑紫の加羅島で誕生し「嶋(しま)君」と呼ばれたとある。武寧王の墓碑からは、523年に62歳で亡くなっていることから誕生は461年となり両者は一致している。

武寧王の誕生・薨去から見ると、『日本書紀』の雄略紀の編年は正確であるように見受けられる。しかし、雄略天皇の即位の年は『日本書紀』では[457年]となっている。一方、『宋書』倭国伝では462年に「済死す、世子興、使いを遣わして貢献す。」、そして478年に「興死して弟武立つ」とあり、「済」は允恭天皇・「興」は安康天皇・雄略天皇は「武」とされており、雄略天皇の即位は少なくとも462年以降となり、『日本書紀』と『宋書』倭国伝は矛盾している。『日本書紀』によれば、安康天皇の在位は3年間であり、『宋書』倭国伝から算出する雄略天皇の即位は、462年から465年の間ということになる。雄略天皇の即位は[457年]とする書紀編年は、5年~8年間歴史が延長されていると言える。「縮900年表」では歴史が延長されたのは7年間で、雄略天皇の即位は464年としていおり、『宋書』倭国伝から算出する雄略天皇の即位年と一致している。

『日本書紀』雄略2年[458年]、「天皇に仕えるため百済から来ていた池津姫が石川楯と通じたため、天皇の命により二人とも焼き殺された。――百済新撰には、蓋鹵王が即位した年に天皇の使いが来て美女を求めた。百済は慕尼夫人の娘を飾らせて、天皇に奉った。」とある。また、雄略5年[461年]にも「4月、百済の加須利君(蓋鹵王)は池津姫が焼き殺された話を人伝に聞いて・・・弟の軍君に『お前は日本に行って天皇に仕えよ』と告げ、・・・孕んだ女を軍君に与え・・・6月、身ごもった女は筑紫の加羅島で出産した。・・・これが武寧王である。」とある。

武寧王の誕生の年は、『日本書紀』と武寧王の墓碑が一致しており、その年は『日本書紀』編年の通りの461年であった。そうすると、蓋鹵王が「池津姫が焼き殺されたという話を人伝に聞いた」というのは461年以前となる。『三国史記』では蓋鹵王の即位は455年であり、「美女を求めた」のが455年で、雄略2年の「天皇に仕えるため百済から来ていた池津姫が石川楯と通じたため、天皇の命により二人とも焼き殺された。」という記事は、『日本書紀』編年の通りの458年のこととなる。

雄略天皇の即位は464年であり、美女を求めた455年、池津姫が焼き殺された458年は、雄略天皇の治世下でないことがわかる。安康天皇の在位は3年であることからすると、允恭天皇(442~460年)の治世下である。雄略天皇にすれば濡れ衣である。雄略天皇は兄の安康天皇が暗殺されたこともあって、皇位に就くまでの間に、兄弟や縁者を数人殺している。雄略2年の記事には「天皇は自分だけで専決され、誤って人を殺されることも多く、天下の人々は『大変悪い天皇である』と誹謗した」とある。そんなこともあり、池津姫が焼き殺された事件は、雄略天皇の仕業であると、物語化され編年が組み立てたられ、雄略天皇は暴君に仕立てられたのであろう。雄略4年の記事には、雄略天皇が葛城に狩りに行ったとき、一言主神に出会い、一緒に狩りを楽しまれ、世の人々は「天皇は徳のある方である」と評したとある。雄略天皇は暴君であったのであろうか、それとも賢君だったのであろうか。


52-2.「ワカタケル大王・辛亥の年」は雄略天皇 [52.雄略天皇から継体天皇までの編年を解く]

雄略天皇の和名は『古事記』が「大長谷若建命」、『日本書紀』が「大泊瀬幼武尊」で、「おおはつせわかたけるのみこと」である。熊本県玉名郡の江田船山古墳から出土した鉄剣の銀象嵌、埼玉県行田市の稲荷山古墳から出土した鉄剣の金象嵌には「獲加多支鹵大王」の銘があり、「ワカタケル大王」と読めることから、雄略天皇を指していると考えられている。雄略天皇の陵の古墳年代が不明であっても、江田船山古墳・稲荷山古墳の年代が分れば、雄略天皇の活躍していた時代が考古学的に分かる。「縮900年表」によると雄略天皇の治世は、464年から486年である。

Z59.江田船山古墳.png熊本県玉名郡の江田船山古墳は編年の要素としての、造出し・横口家形石棺・円筒埴輪Ⅴ式・馬形埴輪・横矧板革綴短甲・横矧板鋲留短甲・馬具・須恵器が出土している。江田船山古墳の築造年代は、消滅する要素としての「横矧板革綴短甲」「横矧板鋲留短甲」と、新たに登場する要素の「円筒埴輪Ⅴ式」の出会いから、460~469年と定めることが出来る。横口家形石棺から出土した須恵器の型式は議論が定まらないが、周濠からはTK23とTK47の両者(470~489年)が出土しており、古墳築造直後のもとと思われる。江田船山古墳は略天皇の治世(464~486年)の初め頃に築造されたと考えられる。

Z-60.埼玉稲荷山古墳.png埼玉県行田市にある稲荷山古墳の墳頂には、粘土槨と礫槨の埋葬施設があり、粘土槨は盗掘を受けていたが、礫槨から金象嵌鉄剣や挂甲・馬具が出土している。墳丘にある円筒埴輪Ⅴ式で人物埴輪も出土しており、造出しから出土した須恵器はTK23・TK47と判定されている。稲荷山古墳の粘土槨は後円部中央の前方部よりに横たわってあり、礫槨は後円部中央から外れた位置に、粘土槨と直角に設置されている。粘土槨が第一主体で、礫槨が粘土槨より後に造られた第二主体と考えられる。稲荷山古墳の築造年代は、造出しから出土した須恵器はTK23とTK47の共存から470~489年と定めることが出来る。

Z-61.稲荷山鉄剣.png稲荷山古墳の礫槨から出土した金象嵌鉄剣には「辛亥の年7月中に記す、ヲワケの臣、上祖名はオホヒコ、其の児・・(5代の名)・・其の児名はカサハヨ、其の児名はヲワケの臣、世々、杖刀人の首と為り、奉事し来り今に至る、ワカタキロ大王の時()、シキの宮に在る時、吾天下を佐()治し、この百錬鉄の利刀を作らしめ、吾が奉事の根源を記すなり」とある。辛亥の年は471年と考えられている。稲荷山古墳は粘土槨に葬られた「カサハヨ」のために造られた古墳で、礫槨に葬られたのが金象嵌鉄剣を作った息子の「ヲワケ」と考えることが出来る。稲荷山古墳が470~489年に造られ、金象嵌鉄剣が471年に作られたとしても何の齟齬もない。「ワカタケル大王」と読める銘のある象嵌鉄剣が出土した江田船山古墳・稲荷山古墳の築造年代は、雄略天皇の治世(464~486年)の間であり、考古学から見ても「縮900年表」は、信頼に値するものである。


52-3.継体天皇崩御の年を解く [52.雄略天皇から継体天皇までの編年を解く]

『日本書紀』は継体天皇の崩御の年について、継体紀には「継体25年2月7日に、継体天皇が磐余の玉穂宮で崩御された」とある。書紀の編年に従えば、継体25年は辛亥の年で531年にあたる。一方、安閑紀には「継体25年春2月7日に、継体天皇は安閑天皇を即位させられた。その日に天皇は崩御された。」とあり、安閑天皇の即位は継体天皇が崩御された531年になる。一方、「元年春一月都を倭の国の勾の金橋に遷した。・・・この年、大歳甲寅」とある。『日本書紀』においては、「大歳」は天皇が即位した年の最後に記載している。「安閑元年」とあるから、安閑天皇が即位した年であり、甲寅の年は534年となる。安閑天皇の即位は531年と534年の二つが記載され、3年間の矛盾がある。

『日本書紀』の継体紀の最後には「――ある本によると、天皇は28年甲寅の年に崩御している。それを25年辛亥の年に崩御としたのは、百済本記によって記事を書いたからである。その文には『辛亥の年3月、進軍して安羅に至り、乞屯城を造った。この月高麗はその王、安を弑した。また聞くところによると、日本の天皇および皇太子・皇子皆死んでしまった。』とある。辛亥の年は25年にあたる。後世、調べ考える人が明らかにするだろう。」との記載がある。ある本の通り、「継体
28年2月7日に、継体天皇は安閑天皇を即位させられた。その日に天皇は崩御された」とすると、継体天皇の崩御・安閑天皇の即位は甲寅の年で534年となり3年間の矛盾は起こらない。

『百済本記』の「辛亥の年3月、この月高麗はその王、安を弑した。」とある。『三国史記』高句麗伝によると、531年(辛亥)に興安王(安臧王)が亡くなっており、『百済本記』は干支・内容が正確であることが分る。一方、『日本書紀』によると、安閑2年12月17日に安閑天皇が崩御されている。継体天皇の崩御・安閑天皇の即位は534年とすると、安閑天皇の崩御は535年である。『百済本記』の「日本の天皇および皇太子・皇子皆死んでしまった。」の内容は合っていることが分る。『百済本記』が「辛亥の年3月、進軍して安羅に至り、乞屯城を造った。この月高麗はその王、安を弑した。また聞くところによると、
この頃日本の天皇および皇太子・皇子皆死んでしまった。」と、「是頃」の二文字さえあれば、『日本書紀』の述作者も早とちりすることがなかったのであろう。『日本書紀』の述作者とっては、『百済本記』は編年のバイブルであり、疑問を正すことが出来なかったのであろう。

Z-62.継体天皇年表.png

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

元の「縮900年表」では、継体天皇崩御は531年で、2年間の空位の後に安閑天皇が534年に即位したことになっていた。新「縮900年表」(表Z61)は、継体天皇は28年甲寅(534年)の年に崩御、安閑天皇も同年に即位したと編年し、空位の2年間は無くなった。元の「縮900年表」より、継体紀は3年間延長されたが、その3年間は、525年に都を山城国乙訓に遷した、529年に都を大和の磐余に遷したと、両者の間に3年間あること(元の「縮900年表」では無し)で吸収している。表Z62に継体紀の年表を示した。そして末尾に、改めて「縮900年表」全体を掲示する。

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年表最終版1.png年表最終版2.png年表最終版3.png年表最終版4.png年表最終版5.png年表最終版6.png年表最終版7.png年表最終版8.png年表最終版9.png年表最終版10.png


52-4 継体天皇の陵墓と筑紫国造磐井の墳墓 [52.雄略天皇から継体天皇までの編年を解く]

Z-63.新池遺跡前景.png

『日本書紀』は継体天皇を藍野陵に葬ったとある。宮内庁は継体天皇の藍野陵を大阪府茨木市(摂津国三島郡藍野)にある太田茶臼山古墳に比定している。太田茶臼山古墳は墳長が20位にランクされる227mの前方後円墳である。その築造年代を知る手掛かりは、陵墓から出土した埴輪でしかない。太田茶臼山古墳の埴輪は、その形状・整形の刷毛目・胎土分析・ベンガラの塗り具合から、陵墓の東北1kmにある、新池埴輪生産遺跡のA期の埴輪と一致することが明らかにされている。A期の埴輪生産遺構としては3基の窯と工房・集落が見つかっており、出土した円筒埴輪は型式Ⅳ期(400~479年)で、須恵器は型式ON46(400~459年)である。これらより太田茶臼山古墳の埴輪の製作年代は、継体天皇の即位514年よりも半世紀以上前であり、太田茶臼山古墳は継体天皇陵ではないと判断できる。

大阪府高槻市にある今城塚古墳が継体天皇の陵墓だと、多くの考古学者が比定している。今城塚古墳は墳長が190mで42位にランクされる規模の前方後円墳である。今城塚古墳から出土する須恵器の多くはTK10型式である。TK10の編年は520~539年であり、継体天皇の崩御534年との整合性はとれ、今城塚古墳は継体天皇の陵墓と言える。

Z-64.新池ヘラ記号「舟」.png今城塚古墳の埴輪は西北西800mにある、新池埴輪生産遺跡のC期の窯で製作されたものであることが分っている。それは両者の円筒埴輪の型式がⅤ期(470年~)で、埴輪の形状や整形の刷毛目が同じであるだけでなく、「舟」のヘラ記号を書いた円筒埴輪が、今城塚古墳と新池遺跡のC期の遺構の双方から出土しているからである「舟」のヘラ記号のある円筒埴輪の一つは、C期の窯の近くの1号井戸の井筒に使用されていたが、その井戸からはMT15(500~519年)の須恵器が出土している。継体天皇の即位は514年、崩御は534年であり、陵墓は生前から造営していた寿陵であったと言える。

『日本書紀』は継体21年6月に、近江の毛野臣が兵6万を率いて任那に行こうとしたとき、筑紫国造磐井が反乱を起こし、火国・豊国を抑え、毛野臣の任那への派遣を遮った。翌年11月に大将軍・物部麁鹿は、筑紫の御井郡(福岡県三井郡)で磐井を斬り、反乱は鎮圧された。筑紫君葛子は父(磐井)の罪に連座して誅されるのを恐れ、糟屋の屯倉を献上して、死罪を免れることを請うたとしている。

筑後国風土記に、「上妻県の南二里に筑紫磐井の墓墳がある。・・・石人・石盾が六十枚ずつ交互に、列をなして四面をめぐっている。東北の一隅に別区があって衙頭という。その中には一人の石人があり・・・古老はこう伝えている。雄大迹
(継体)天皇の世に、筑紫磐井は強くまた暴虐で、天皇の命に従わなかった。この墓は彼が生前に造営したものであった。・・・官軍は磐井を追ってこの墓所に来たが、兵士たちは怒りのあまり石人の手を撃ち折り、石馬の頭を打ち落としたという。・・・」とある。

Z-65.岩戸山古墳.png福岡県八女市にある岩戸山古墳が筑紫磐井の墳墓とされている岩戸山古墳は墳長125mの前方後円墳であるが、古墳からTK10型式の須恵器が出土しており、その築造年代は520~539年と考えられる。磐井が反乱を起こした継体21年は「縮900年表」では530年になる。反乱の翌年亡くなった筑紫磐井が、生前に造っていた墳墓が岩戸山古墳として齟齬はない。古墳の東北の空濠の外側には、風土記に「衙頭」と記されている一辺40mの方形の区画があって、そこから石人・石馬などの石製品が出土しているが、いずれも首や足が取れており、風土記に記してあるように、官軍が壊したものかも知れない。阿蘇の凝灰岩で製作された石人・石馬を飾った古墳は福岡県南部・熊本県北部・大分県東部に集中するが、それは磐井が抑えた筑紫国・火国・豊国と一致している。

Z-66.今城塚古墳祭祀埴輪.png継体天皇の陵墓とされる今城塚古墳、筑紫磐井の墳墓とする岩戸山古墳の築造年代は、520~539年(TK10型式)と同じである。今城塚古墳の二重の濠を区分する内堤からは、東西約60m南北約6mの埴輪祭祀区があり、家形・器財・人物・動物の埴輪113点以上が出土している。一方、岩戸山古墳の空濠の外側にある一辺40mの方形の別区には、器財・人物・動物の石製品が多数出土している。今城塚古墳と岩戸山古墳の祭祀の製品は、埴輪と石製品との違いがあるが、いわゆる造出しと違った場所に、祭祀の区画を設けている点では同じである。

筑紫磐井は近江毛野臣に「昔はおれの同輩で肩肘触れ合わせ、同じ釜の飯を食った仲」と言っている。埼玉県の稲荷山古墳から出土した金象嵌鉄剣には、「オワケ」なる人物が官人として雄略天皇に宮中で仕えていたと刻まれているが、筑紫の国造であった磐井は、官人として継体天皇に宮中で仕えていた時期があったのではないかと想像する。そのとき継体天皇が寿陵として造営していた今城塚古墳の様相を見聞きし、筑紫磐井はそれを参考して、生前から墳墓を造営したと考える。倭国の盟主国であった奴国の国王を先祖に持つ筑紫磐井にとっては、応神天皇の五世孫として越前の国から天皇に迎えられた継体天皇を妬み、自分も筑紫(北部九州)の王とならんと考え、乱を起こしたのではないだろうか。


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