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43-1.古墳時代の3期区分 [43.古墳年代の確定と古墳時代の解明]

私は古墳時代の3期区分について、前期の始まりは大型前方後円墳箸墓の登場、中期の始まりは円筒埴輪Ⅳ式・馬形/人物埴輪・家形石棺・須恵器(TK73)・馬具・鋲留短甲・挂甲の登場と三角縁神獣鏡・石製腕飾品・筒型銅器の消滅、後期の始まりは円筒埴輪Ⅴ式・(近畿式)横穴石室の登場と粘土槨・長持式石棺・長方/三角/横矧板革綴短甲・鋲留短甲の消滅と定義した。そして実年代については、前期は250年~400年、中期は400年~470年、後期は470年~(600年)と定めた。ただし、後期の終わりについては確定した年代ではない。

 

K51.古墳3期区分.pngコード編年表と古墳のコードから1265基の古墳の年代の決定を行なった。古墳形態・埋葬施設・副葬品の組み合わせによって、その年代幅が30年以内に決定出来た古墳は273基しかなかった。しかし、787基の古墳については、前期・中期・後期の3期区分に分けることが出来た。それらを表K51に示している。

 

表K51で二重線以下に示す、前期・中期・後期の欄は、「遺跡ウォーカー」の古墳データに記載された3期区分である。私が前期と判定した古墳は349基あったが、その内の42基は「遺跡ウォーカー」のデータには中期と明示されている。この42基の中には円筒埴輪Ⅲ式が10基あり、現在の定説では中期に繰り入れられる範疇にある。しかし、42基の内34基は、前期古墳の副葬品の色彩が強い円筒埴輪Ⅱ式・三角縁神獣鏡・石製腕飾品・合子/琴柱形石製品・筒型銅器・竪矧/方形板革綴短甲を出土している。このように、古墳前期と古墳中期の区分けを曖昧にしている原因は、「41-3.古墳時代の中期の始まりを考える」で述べたように、考古学的な画期のない円筒埴輪Ⅲ式(集成編年5期)を古墳中期の始まりとして取り扱っていることに起因していると思う。

 

「遺跡ウォーカー」の古墳データでは、前期・中期・後期の3期区分が明示されていない古墳が沢山ある。私が前期と判定した349基中に97基、中期と判定した130基中に77基、後期と判定した293基中に238基もある。これらは3期区分を判定しなかったのか、それとも判定できなかったのか分からないが、3期区分が不明確であることに起因しているように思える。


43-2.「消滅」と「登場」の出合いで年代が確定 [43.古墳年代の確定と古墳時代の解明]

K52古墳年代.png古墳形態・埋葬施設・副葬品の組み合わせから、古墳の年代の決定を行なったが、その年代幅が10年以内(±5年)に年代が確定出来た古墳が71基あった。このようなピンポイントの年代が決まる要因は、古墳形態・埋葬施設・副葬品の要素の内、消滅する要素と新たに登場する要素の両方の遺物が同一古墳内から出土している事に起因している。例えば、三角縁神獣鏡と石製腕飾品は一部例外を除いて400年で消滅する。一方、馬具と須恵器は400年以降(一部は390年)に新たに登場する。三角縁神獣鏡・石製腕飾品と馬具・須恵器の両者が出土する古墳があったとすると、その古墳の年代は395年~405年(400年±5年)であると考える。「消滅」と「登場」の出合いで年代が確定出来た古墳は38基であった。
図K52にそれらを示す。

 

年代が320年前後と確定された古墳の消滅する要素は「円筒埴輪Ⅰ式」で、新たに登場する要素としては、京都の妙見山古墳は「筒形銅器」、寺戸大塚古墳と平尾城山古墳は「合子・琴柱形石製品」、岡山の花光寺山古墳は「長持式石棺」、長野の森将軍塚古墳は「形象埴輪」である。また、消滅する要素が「小札革綴冑」または「竪矧・方形板革綴短甲」であり、新たに登場する要素が「造り出し」であるのは岡山の金蔵山古墳、大阪の紫金山古墳、三重の石山古墳で、「刳抜・舟形・割竹形石棺」であるのが佐賀の熊本山古墳、大阪の久米田貝吹山古墳である。京都の丹後にある作山1号墳は消滅する要素が「組合石棺」で、新たに登場する要素が「造り出し」である。

 

K53九州式横穴石室.png年代が380年前後と確定された古墳の消滅する要素は「円筒埴輪Ⅱ式」「円筒埴輪Ⅱ~Ⅲ式」で、新たに登場する要素が「九州式横穴石室」である佐賀の谷口古墳、福岡の鋤崎古墳・丸隈山古墳・老司古墳である。これらの4古墳は初期の九州式石室を持つ古墳と考えられている。「九州式横穴石室」の登場は380年としているが、これでもって初期の九州式横穴石室の古墳の年代を決めるというのは、我田引水的で客観性に欠ける。新たに登場する要素の「九州式横穴石室」を除いて、初期の九州式石室を持つ4古墳について、出土した埋葬施設・副葬品の編年を比較し表53に示した。初期の九州式横穴石室を持つ古墳とされる谷口古墳・鋤崎古墳・丸隈山古墳・老司古墳の古墳年代は370~400年の範囲にあることが分かる。これらより「九州式横穴石室」の登場は380年とした。


43-3.須恵器の併行期は年代が確定 [43.古墳年代の確定と古墳時代の解明]

K52古墳年代.png年代が400年前後と確定された古墳の消滅する要素は「円筒埴輪Ⅲ式」と「三角縁神獣鏡」「石製腕飾品」「合子・琴柱形石製品」「筒型銅器」であり、新たに登場する要素が「鋲留短甲」「短甲」「馬具」である。宮崎の下那珂馬場古墳、兵庫の行者塚古墳、奈良の島の山古墳、京都の久津川車塚古墳がこれらにあたる。新たに登場する要素に須恵器がないのは窯を作る等のタイムラグがあるためかも知れない。新たに登場する要素が「家形石棺」であるのが岡山の鶴山丸山古墳、福井の龍ヶ岡古墳。「馬形・人物埴輪」が大阪の古市墓山古墳である。全国第4位の規模である岡山の造山古墳は「円筒埴輪Ⅲ式」と「円筒埴輪Ⅳ式」が共存していることで年代が確定した。

 

年代が470年前後と確定された古墳の消滅する要素は「円筒埴輪Ⅳ式」、新たに登場する要素が「横穴式石室」「円筒埴輪Ⅴ式」であり、熊本の国越古墳、愛媛の三島神社古墳、京都の山田桜谷1号墳・宇治二子塚古墳がこれにあたる。新たに登場する要素が「須恵器TK23・TK47」の場合は、岡山の朱千駄古墳、兵庫の中垣内天神山1号墳、大阪の墓谷2号墳、奈良の四条古墳がある。古墳の消滅する要素が「長方/三角/横矧板革綴短甲」「鋲留短甲」の場合も、新たに登場する要素は「横穴式石室」「円筒埴輪Ⅴ式」で、熊本の江田船山古墳、福岡のセスドノ古墳・小田茶臼塚古墳、愛知の二子山古墳、茨城の三昧塚古墳、群馬の若田大塚古墳である。

 

K54併行期須恵器.png年代幅が10年以内の71基の古墳の内、33基は二つの型式の須恵器(TK23/TK47は同一時期として除く)が出土している古墳であった。考古学では二つの型式が共存する場合を「併行期」と呼んでいる。年代決定のシステムでは、この「併行期」の期間を10年(±5年)と定めて年代を決定している。TK73/TK216は420年、TK208/TK23は460年、TK47/MT15は500年、MT15/TK10は520年、TK10/TK43は
540年である。表54にそれらの古墳を示す。


43-4.三角縁神獣鏡の編年と古墳年代 [43.古墳年代の確定と古墳時代の解明]

魏志倭人伝には、景初二年(景初三年説がある)に卑弥呼の使いが魏に朝貢し、鏡百枚を賜ったと記載されている。島根の神原神社古墳からは景初三年(239年)銘の三角縁神獣鏡が、群馬の蟹沢古墳・兵庫の森尾古墳・山口の御家老屋敷古墳からは世始元年(240年)銘の三角神獣鏡が出土している。

 

三角縁神獣鏡は全国各地から500面以上出土しているが、その内378面は舶載鏡と呼ばれ中国から来たと考えられている。しかし、中国からは三角縁神獣鏡が一面も出土していないことから、三角縁神獣鏡は倭国で製作されたものであるという説が唱えられ、長らく学者の間で論議されて来た。三角縁神獣鏡の研究者である福永伸哉氏は、三角縁神獣鏡の鈕孔は円や半円でなく、全て長方形であるという単純なことから、三角縁神獣鏡は魏の領域(河北省等)に特有のものであることを見つけ出し、長らく続いた“三角縁神獣鏡は中国産か?国産か?”の論争に決着を付けた(まだ納得していない学者もいるらしいが)。

 

福永伸哉氏は『三角縁神獣鏡の研究』のなかで、舶載鏡はA・B・C・Dの4段階、・倣製鏡(仿製鏡)はⅠ・Ⅱ・Ⅲ・Ⅳ・Ⅴの五段階の同笵鏡種に分類している。そして、舶載鏡のA段階は239年の卑弥呼の朝貢、B段階は243年と247年の卑弥呼の朝貢、C段階は266年の壱与の朝貢で中国王朝より与えられたものであり、倣製鏡は316年に西晋が滅亡し、舶載鏡の入手が困難となって倭国で製作されるようになったとしている。

 

古墳年代の年代幅が10年(±5年)と確定出来た古墳の中にも三角縁神獣鏡が出土している。A段階の舶載鏡が出土した福岡の老司古墳の古墳年代は390年、B段階の舶載鏡とⅢ段階の倣製鏡が出土した京都の久津川車塚古墳は395年、C段階の舶載鏡とⅠ・Ⅱ段階の倣製鏡が出土した岡山の鶴山丸山古墳は400年の古墳年代であった。これらより、舶載鏡A・B・C・Dと倣製鏡のⅠ・Ⅱ・Ⅲ・Ⅳ・Ⅴの全ての鏡種は、三角縁神獣鏡が消滅する400年まで古墳に副葬され続けていたことが分かる。

 

K55三角縁神獣鏡.png以上を参考にして、図K55を作成した。舶載鏡のA段階は240年以降、B段階は250年以降、C段階は270年以降、D段階は290年以降に副葬され、倣製鏡のⅠ段階は310年以降、Ⅱ段階は320年以降、Ⅲ段階は330年以降、Ⅳ・Ⅴ段階は340年以降に副葬されたと考える。年代幅が±15年以内であった古墳が273基あるが、その内32基に三角縁神獣鏡が副葬されており、その全ての古墳年代は図K55の条件を満たしていた。京都の妙見山古墳の古墳年代は315年±5年(310年~320年)である。妙見山古墳倣製鏡はⅠ段階(310年以降)を副葬しており、図K55の妥当性を物語っている。

 

奈良の新山古墳は三角縁神獣鏡が舶載鏡A・B・C・Dと倣製鏡Ⅰ・Ⅱの9面が副葬されていた。新山古墳の古墳年代は305年±15年(290年~320年)である。図K55からすると、新山古墳で副葬された最も新しい三角縁神獣鏡の倣製鏡Ⅱ段階は320年以降に副葬されたことになり、これらより新山古墳の古墳年代は320年ということになる。新山古墳からは金銅製帯金具が出土している。我が国においては、金銅製帯金具は馬具が副葬される5世紀以降であると考えられている。新山古墳の金銅製帯金具は、それらとは別の物であり、中国西晋時代のものに類似性が強いとされている。新山古墳の古墳年代を320年とすると、新山古墳の金銅製帯金具が西晋時代(316年滅亡)のものであることと一致する。

 

京都の椿井大塚山古墳と福岡の石塚山古墳は共に、舶載鏡A・B・C段階の三角縁神獣鏡を副葬する。両者の古墳年代は275年±15年(260年~290年)である。最も新しい三角縁神獣鏡のC段階の副葬は270年から始まる。これらからすると、京都の椿井大塚山古墳と福岡の石塚山古墳の古墳年代は、280年±10年(270年~290年)ということになる。京都の平尾城山古墳は倣製鏡を出土しているが、その鏡種段階は分かっていない。平尾城山の古墳年代は315年±5年(310年~320年)であり、平尾城山古墳の倣製鏡はⅠ段階であることが分る。古墳年代決定の編年表と三角縁神獣鏡の型式の編年は、全く別の概念から作成されている。その両者の年代感覚が一致していることは、両者の年代観が史実に近いものであることを物語っている。


43-5.沖ノ島の岩上祭祀遺跡の年代 [43.古墳年代の確定と古墳時代の解明]



K56沖ノ島.png玄界灘のど真ん中にある沖ノ島は周囲4㎞の絶海の孤島である。沖ノ島では4世紀後半から9世紀末にかけて、航海の安全と対外交渉の成就を願って国家的祭祀が行われたと考えられている。島の中腹にある巨岩群からは23ヶ所の祭祀遺跡が発見され、出土した約8万点の遺物は国宝に指定されており、沖ノ島は「海の正倉院」と呼ばれている。沖ノ島には宗像大社の沖津宮が鎮座しており、全島が沖津宮の境内地で厳しく入島が制限され、「神宿る島」として守られてきた。平成21年には「宗像・沖ノ島と関連遺跡群」として世界遺産暫定一覧表に記載され、世界遺産への登録を目指している。





K57沖ノ島岩上祭祀.png沖ノ島では1954年から始まった学術調査によって、4世紀後半から9世紀末にかけての古代祭祀の変遷の様子が明らかになった。祭祀の場は巨岩の上で始まり、岩陰、露天へと時期を追って変遷している。巨岩の上を神が降臨する場として祭祀が行われた「岩上祭祀」は4世紀後半から5世紀、せり出した巨岩の岩陰に祭壇を設け祭祀が行われた「岩陰祭祀」は5世紀後半から7世紀、祭祀の場が巨岩近くの露天となった「半岩陰・半露祭祀」は7世紀後半、巨岩から離れた平坦地で祭祀が行われた「露天祭祀」は8世紀から9世紀と考えられている。





K57岩上祭祀遺跡鏡.png「岩上祭祀」とされる16号・17号・18号遺跡からは、倣製三角縁神獣鏡が出土している。表57にそれらの遺跡から出土した倣製三角縁神獣鏡の段階(型式)を示した。古墳に副葬された鏡と沖ノ島の岩上に祀られた鏡の違いは何であろうか。古墳に副葬された鏡は、数十年あるはそれ以上伝世されている場合が多い。航海の安全を願って沖ノ島の岩上に祀った鏡は、長年の伝世の鏡ではなく、市場(?)に出回っているものを手に入った鏡であったと考える。「岩上祭祀」で出土した鏡のすべてが、倣製三角縁神獣鏡であることがこれを物語っている。沖ノ島の岩上祭祀遺跡である16号・17号・18号は、倣製三角縁神獣鏡が製作されていた年代の340~350年頃から始まった遺跡と考える。




43-6.沖ノ島岩上祭祀と神功皇后 [43.古墳年代の確定と古墳時代の解明]

340~350年頃、大和王権が沖ノ島で航海の安全を祈願する祭祀を執り行ったのは何の出来事であろうか。「謎の四世紀」と称されるように、倭国に関する4世紀の文献資料は少ない。奈良県石上神社の御神宝である七支の金象嵌には、369年に「百済王が倭国王のために百錬の七支刀作った」という旨のことが刻まれている。高句麗の好太王の業績を書いた「好太王碑」には、391年に「倭が海を渡ってきて百済・□□・新羅を臣民とした」とある。倭国が朝鮮半島に進出した資料は370年以降でしかない。

 

私が日本書紀を基にして作成した年表(「2.日本書紀原典の再現」参照)では、仲哀天皇が崩御された353年に、神託を受けた神功皇后が新羅に侵攻している。また、358年には葛城襲津彦が新羅に侵攻し捕虜を連れて帰っている。沖ノ島の巨岩の上で始まった祭祀(340~350年)は、神功皇后の新羅征伐に関わる遺跡であった考える。日本書紀では仲哀天皇が崩御された前年(352年)に、岡県主の先祖の熊鰐と伊都県主の先祖の五十迹手のそれぞれが、船の舳(とも)に大きな賢木(さかき)を立て、枝に白銅鏡と十握剣・八尺瓊(珠)をかけて天皇を迎えに来ている。沖ノ島の岩上祭祀遺跡である16号・17号・18号からは、鏡・鉄剣・勾玉が出土している。4世紀半ばの航海の安全の祈願には、鏡・鉄剣・勾玉の三種の神器を用いていたのであろう。

 

日本書紀に記載された天皇の中で、歴史・考古学者がその存在を全く信用していない天皇は、神武天皇と神功皇后であるといっても過言ではない。その神功皇后の時代に、沖ノ島の岩上遺跡の祭祀が行われたとするのは、荒唐無稽な話と思われるかも知れないが、私は神功皇后の新羅征伐を史実であったと思っている。日本書紀は神功皇后が攻め込んだ新羅の王の名を「波沙寐錦」と書いている。「新羅寐錦」が新羅王を表すということを歴史学者(日本・韓国・中国)が知ったのは、1978年に韓国の忠清北道忠州市で発見された中原高句麗碑からである。あの有名な好太王碑にも「新羅寐錦」の刻字があったが「新羅安錦」と読まれていた。日本書紀は歴史学者より「寐錦」の言葉を正確に伝えており、神功皇后の新羅征伐が史実であった証拠ではないかと考えている。

 

日本書紀は、葛城襲津彦が新羅より連れて帰った捕虜は、桑原・佐糜(佐味)・高宮・忍海の四つの村の漢人の先祖であるとしている。佐味・忍海の地名は現在でも葛城の地にある。葛城の地にある南郷遺跡群は約2平方キロメートルの集落遺跡で、その随所から大壁建物・韓式系土器・初期須恵器などが発見されており、渡来人が居住していたことも明らかになった。葛城襲津彦が新羅より捕虜を連れて帰ったということが、史実であったことを伺わせる。

 


43-7.応神陵古墳の年代 [43.古墳年代の確定と古墳時代の解明]



K58応神陵古墳.png古市古墳群の応神陵古墳(誉田御廟山古墳)は、仁徳陵古墳に続く全国第2位の規模を持つ古墳である。応神陵古墳の円筒埴輪には黒斑がなく窖窯(あながま)で焼成されたⅣ式で、馬型埴輪も出土している。
埴輪以外には年代を決める出所が確かな遺物は出土していない。外堤よりTK73型式の須恵器片が出土しているが、応神陵古墳と結びついたものであるか信頼性に欠けるようだ。応神陵古墳の年代は、その陪塚から導き出しすしか手がないようだ。




宮内庁は応神陵古墳の近くにある墓山古墳を陪塚に治定している。墓山古墳は円筒埴輪Ⅲ式とⅣ式の両者が出土してあり、私が検定した古墳年代は395年~405年とる。墓山古墳の墳丘長は224mで全国第23位の規模であり、5つの陪塚を伴っていることから、考古学では応神陵古墳の陪塚ではないとされている。





K58蕨手刀子.png応神陵古墳の確実な陪塚にアリ山古墳がある。アリ山古墳は一辺45mの方墳であるが、80本以上の鉄剣、1500本を超える鉄鏃、1000点を超える農工具が出土している。私が注目するのは、アリ山古墳から156本出土した蕨手刀子である。蕨手刀子は30㎝以下の刀子で、持ち手の所が蕨のようにくるりと巻いている。これらが古墳から出土する例は少なく、私の知るところでは、複数本の蕨手刀子が副葬されているのは9古墳のみである。これら古墳の年代を表58に示す。蕨手刀子の副葬は4世紀後葉に集中しており、最多の蕨手刀子が副葬されたアリ山古墳の古墳年代は5世紀初頭と考えられる。





応神陵古墳の陪塚のアリ山古墳が5世紀初頭とすると、応神陵古墳の外堤より出土したTK73型式の須恵器片は、同古墳に関係するものと考えられ、応神陵古墳の古墳年代は400年~420年に比定できる。「2.日本書紀原典の再現」で示した年表によると、応神天皇の即位は361年、崩御は380年である。古墳築造の期間を考慮すると、応神天皇の崩御の年と応神陵古墳の古墳年代は矛盾のない範疇に入ると考える。




43-8.仁徳陵古墳の年代 [43.古墳年代の確定と古墳時代の解明]



K59仁徳陵古墳.png成22年10月文化庁は、世界遺産暫定一覧表への百舌鳥・古市古墳群の掲載を認めた。堺市・羽曳野市・藤井寺市が提出した提案書の表題は、「百舌鳥・古市古墳群-仁徳陵古墳をはじめとする巨大古墳群-」であった。この提案書の作成には考古学者も関わっているなかで、「仁徳陵古墳」と表記されたことは意義深いことに思われる。それは、考古学においては、仁徳陵古墳は大山古墳(現仁徳陵)と記載されており、仁徳天皇陵であるとは認めていなかったか、あるいは仁徳天皇の存在すら認めていない風潮があったからである。






仁徳陵古墳は宮内庁の管理下にあり、考古学的資料は少ないが、1872年(明治5年)に、風雨によって前方部前面の斜面が崩壊し、石室と石棺が発見され調査が行われている。石棺は開封されなかったが、その時描かれた絵図の一部が現存している。それによると、石棺は長持形石棺であり、横矧板鋲留短甲・小札鋲留眉庇付冑が副葬されていたことが分る。江戸時代には後円部が露呈しており、長持形石棺があったようである。





K60須恵器仁徳.jpg墳丘・周豪から出土したものには、円筒埴輪Ⅳ式・馬形埴輪があり、長持形石棺・円筒埴輪Ⅳ式・馬形埴輪・横矧板鋲留短甲の要素から導き出される仁徳陵古墳の年代は、400年~470年の古墳中期としか言えない。1998年(平成10年)に宮内庁は、仁徳陵古墳の東側造出しから須恵器を採取した。復元された須恵器の大甕はON46型式であることが判明した。私が作成した須恵器の編年表からすると、仁徳陵古墳の古墳年代は、ON46型式(TK208)である440年~460年になる。





宋書の帝紀・倭国伝によると、倭国王「讃」は421年・425年・430年と宋に朝貢し、438年には「倭王讃死し、弟珍立つ。珍遣使献ず」とある。倭王讃が亡くなった年代(438年頃)と仁徳陵古墳の古墳年代(440年~460)とが一致し、倭王讃が仁徳天皇であることが確定できる。ちなみに、「2.日本書紀原典の再現」で示した年表によると、仁徳天皇の即位は383年、崩御は434年であり、倭王讃の朝貢、倭王讃の崩御、仁徳陵古墳の年代の全てを満足している。古墳時代の中期の始まり(400年)の画期は、仁徳天皇の治世下にあった。




43-9.雄略天皇と江田船山古墳 [43.古墳年代の確定と古墳時代の解明]

K61雄略天皇陵.png宋書倭国伝には478年に「倭国王興死し、武立つ」とあり、この倭国王「武」は雄略天皇であることは多くの学者が認めている。宮内庁は高鷲丸山古墳(円墳、径76m)と平塚古墳(方墳、辺50m)の2つの古墳を丹比
高鷲原陵に治定している。写真K61に見られるように、丹比高鷲原陵は後円部と前方部が濠で隔てられているが前方後円墳に見える。これは、江戸時代の文久年間に、幕命により上野(群馬県)の館林藩が円墳と方墳をくっ付けたからである。館林藩はなぜこのような修復をしたのであろうか。

 


『古事記』と『日本書紀』は共に、履中天皇(17代)の孫である顕宗天皇(23代)は、雄略天皇(21代)に殺された父・市辺押磐皇子の仇討ちをすべく雄略天皇の陵を破壊しようとしたが、後の仁賢天皇(22代)である兄がこれを諌め止められたとある。「諌め止めた」というのは、天皇を美化し物語化する後世の編修で、史実は雄略天皇の陵は破壊されたのではないかと思える。河内の高鷲の地には立派な前方後円墳は存在していないことから、江戸幕府も雄略天皇陵は破壊されたと考え、館林藩に円墳と方墳をくつっけたる命令を下したのであろう。

 

雄略天皇の和名は『古事記』が「大長谷若建命」、『日本書紀』が「大泊瀬幼武尊で、「おおはつせわかたけるのみこと」である。熊本県玉名郡の江田船山古墳から出土した鉄剣の銀象嵌、埼玉県行田市の稲荷山古墳から出土した鉄剣の金象嵌には「獲加多支鹵大王」の銘があり、「ワカタケル大王」と読めることから、雄略天皇を指していると考えられている。雄略天皇の陵の古墳年代が不明であっても、江田船山古墳・稲荷山古墳の年代が分れば、雄略天皇の活躍していた時代がわかる。

K62江田船山古墳.pngK63横口式家形石棺.pngK64横矧板鋲留短甲.png








熊本県玉名郡の江田船山古墳は編年の要素としての、造出し・横口家形石棺・円筒埴輪Ⅴ式・馬形埴輪・横矧板革綴短甲・横矧板鋲留短甲・馬具・須恵器が出土している。江田船山古墳の年代は、消滅する要素としての「横矧板革綴短甲」「横矧板鋲留短甲」と、新たに登場する要素の「円筒埴輪Ⅴ式」の出会いから、465~475年と定めることが出来る。横口家形石棺から出土した須恵器の型式は議論が定まらないが、周濠からはTK23・TK47(460~500年)が出土しており、古墳年代と何ら齟齬はない。


43-10.雄略天皇と稲荷山古墳 [43.古墳年代の確定と古墳時代の解明]

埼玉県行田市にある稲荷山古墳の墳頂には、粘土槨と礫槨の埋葬施設があり、粘土槨は盗掘を受けていたが、礫槨から金象嵌鉄剣や挂甲・馬具が出土している。墳丘にある円筒埴輪Ⅴ式で人物埴輪も出土しており、造出しから出土した須恵器はTK23・TK47と判定されている。稲荷山古墳の粘土槨は後円部中央の前方部よりに横たわってあり、礫槨は後円部中央から外れた位置に、粘土槨と直角に設置されている。粘土槨が第一主体で、礫槨が粘土槨より後に造られた第二主体と考えられる。稲荷山古墳の古墳年代は、消滅する要素としての「粘土槨」と、新たに登場する要素の「円筒埴輪Ⅴ式」の出会いから465~475年と定めることが出来る。造出しから出土した須恵器はTK23・TK47(460~500年)と何ら齟齬はない。

K65埼玉稲荷山古墳.png

K66稲荷山鉄剣.png
稲荷山古墳の礫槨から出土した金象嵌鉄剣には「辛亥の年7月中に記す、ヲワケの臣、上祖名はオホヒコ、其の児・・(5代の名)・・其の児名はカサハヨ、其の児名はヲワケの臣、世々、杖刀人の首と為り、奉事し来り今に至る、ワカタキロ大王の時
()、シキの宮に在る時、吾天下を佐()治し、この百錬鉄の利刀を作らしめ、吾が奉事の根源を記すなり」とある。辛亥の年は471年と考えられている。粘土槨に葬られたのが「カサハヨ」で、礫槨に葬られたのが「ヲワケ」、稲荷山古墳を造ったのは「ヲワケ」と考えれば、金象嵌鉄剣が471年に作られ、465~475年に稲荷山古墳が造られたことに何の矛盾もない。

 

稲荷山古墳より出土した鉄剣に金象嵌された「辛亥の年」より、471年には雄略天皇は在位していたことがわかる。478年に宋に朝貢した倭王武は上表文で、「高句麗が百済の征服をはかったので朝貢が遅れた」と言い訳しており、即位から朝貢までにかなりの年月がたっていることが伺える。三国史記によると、高句麗が百済に攻め込み王都が陥落したのが474年である。これらより雄略天皇の即位は471年以前であることが分る。私が日本書紀より導きだした年表では、雄略天皇の即位は464年、崩御は486年である。この年代と宋書倭国伝の「武立つ」の年、稲荷山鉄剣に金象嵌された「辛亥」の年、江田船山古墳・稲荷山古墳の古墳年代と齟齬はなく、文献と考古学の両面から証明されたことになる。古墳時代後期の始まり(470年)の画期は、雄略天皇の治世からであった。


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