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21-1.卑弥呼の三角縁神獣鏡の見分け方 [21.三角縁神獣鏡を調べる]

古墳時代の象徴が前方後円墳であり、その遺物の象徴が三角縁神獣鏡である。私は「9-1.三角縁神獣鏡は卑弥呼が貰った鏡」で書いたように、三角縁神獣鏡の中に卑弥呼の貰った百枚の鏡が入っていると考えている。                   (図をクリックすると大きくなります) 
B4三角縁神獣鏡.jpg
三角縁神獣鏡は日本全国から約500面も出土している。だから、博物館に行けば目にする事が多い鏡である。この三角縁神獣鏡の中から、卑弥呼が貰った百枚の鏡かどうか、簡単に見分ける方法がある。図B4に三角縁神獣鏡の部分名を記載したが、これを参照すると分かり易い。
 

卑弥呼が貰った鏡の条件は、外区の帯が「鋸歯文―複波文―鋸歯文」の三帯からなっていること、内区の帯が「櫛歯文帯―銘帯」
で構成され、「内区の帯に乳や方形区画がない」こと、内区には
「捩り文座がない4個の乳」が配置されていることである。
 

三角縁神獣鏡うち中国から来たと考えられる舶載鏡は378面である。これらの鏡は同じ型から作られたと思われる同笵鏡があり、その笵数は148種である。この内、私が写真で確認することが出来た鏡が130種361面であり、96%の鏡を調べたことになる。この中で卑弥呼の貰った鏡に相当する鏡に該当(A段階と称す)したものは、21種64面であった。
 

三角縁神獣鏡の研究者として名高い、大阪大学教授の福永伸哉氏は、舶載の三角縁神獣鏡をA~Dの四段階に分類しておられる。私が調査した鏡の中で、A段階の鏡は25種74面である。福永氏のA段階と私のA段階で共通した鏡は19種61面であり、かなり高い確率で共通した鏡を選択している。福永氏は内区にある神獣鏡の配置や表現を中心に分類している。福永氏と私とどちらの分類が正しいか、知っているのは卑弥呼だけである。
 

両者に共通したA段階の三角縁神獣鏡20面の鉛同位体が測定されている。その内4面が魏の年号が入った紀年鏡である。その他の鏡種の魏の紀年鏡6面についても鉛同位体が測定されている。
  
青龍3年 235年 方格規矩四神鏡 京都府 大田南五号墳
  
青龍3年 235年 方格規矩四神鏡     個人蔵   
  景初3年 239年 画文帯神獣鏡  大阪府 黄金塚古墳
  
景初3年 239年 三角縁神獣鏡  島根県 神原神社古墳    
  正始元年 240年 三角縁神獣鏡  兵庫県 森尾古墳
  
正始元年 240年 三角縁神獣鏡  山口県 御家老屋敷古墳 
  
正始元年 240年 三角縁神獣鏡  群馬県 蟹沢古墳
  
景初4年 240年 斜縁盤龍鏡   京都府 広峰15号墳
  
景初4年 240年 斜縁盤龍鏡       辰馬考古資料館蔵 

B5舶載鏡分布.jpg紀年鏡を除いたA段階の鏡16面と魏の紀年鏡10面とで鉛同位体分布図を図B5に示した。青銅器に含まれる鉛に関しては、両者は同じ原料を使用していると考えられ、卑弥呼が貰った鏡の最有力候補である。
 

21-2.仿製三角縁神獣鏡の見分け方 [21.三角縁神獣鏡を調べる]

三角縁神獣鏡のうち、明らかに日本で作られたと考えてられている仿製鏡は62種133面ある。仿製三角縁神獣鏡の見分け方として、「内区に捩り文座がない6個の乳」が配置され、「内区の帯に乳がある」。ただこれだけである。 

私が写真で確認することが出来た仿製鏡は46種108面、81%の仿製鏡を調査したことになる。その内、上記条件に適合したものが43種102面であった。
福永氏の分類より3種6面少ない。この3種6面の鏡は踏み返しといって、舶載鏡を押し当て鋳型を作った仿製鏡なので、私の条件には適合しなかったものである。一方福永氏が舶載鏡としていた中に、私の条件に適合した鏡が4種9面あった。これらの鏡は全て獣紋帯三神三獣鏡で、同笵番号(114、115、117、118)であった。これらを「舶載→仿製鏡」と表記する。 
B6仿製教.jpg
仿製鏡16面と舶載→仿製鏡3面の鉛同位体分布図と、前述した舶載鏡A段階と魏の紀年鏡の分布図を図6に示した。分布図には舶載鏡の、B~D段階の鉛同位体分布図を載せていないが、A段階や魏紀年鏡が作る直線帯と同じように分布している。これらからすると、舶載鏡と仿製鏡は、明確に使用原料の鉛が違っており、名称の通り、中国で作られた舶載鏡と、日本で作られた仿製鏡ということを暗示している。
                       
                     (図をクリックすると大きくなります)

また、舶載→仿製鏡の鉛同位体分布は、仿製鏡の作る直線帯にあり、仿製鏡であることが分かる。福永氏の分類判定より、私の分類の方が正解であった。橿原考古学研究所の所長を長く務められた樋口隆康氏は、「三角縁神獣鏡綜鑑」のなかで、これらの鏡について、仿製鏡との区別がつけにくいグループと言っている。
 

三角縁神獣鏡は日本全国から約500面も出土しているにもかかわらず、中国本土・朝鮮半島からは1面も出土していない。このため三角縁神獣鏡の製作地が中国だ、倭国だ、呉の職人が倭国で作ったという論争が起り、いまだに結論が出ていない。「魏の紀年鏡」を中国で作られたと認めるならば、図6の鉛同位体分布図からみて、三角縁神獣鏡の製作地は中国と言える。

21-3.魏は乳が好き、呉は乳が嫌い [21.三角縁神獣鏡を調べる]

この話は、魏の曹操は女好きで、呉の孫権は女嫌いであったという話ではない。魏の神獣鏡には乳があり、呉の神獣鏡には乳がないという話だ。中国では、鏡は春秋戦国時代からあるが、神獣鏡は後漢の時代に出来た鏡だ。この神獣鏡と、神獣鏡より少し以前からあった獣帯鏡、少し以後に出て来た盤龍鏡の、年号が銘記された紀年鏡の「乳」について調べてみた。 

B7紀年銘神獣鏡.jpg図B7の「乳」について見ると、後漢前期には「乳」で、後漢中期には「環状乳」になっている。環状乳とは乳の真ん中が火山の噴火口のように凹んでいる乳である。後漢後期と三国黎明期は「乳なし」、三国時代、呉は「乳なし」、魏は「乳・環状乳」となり、西晋は「環状乳・乳なし」で、三国が西晋に統一されると「乳なし」となっている。
 

三国時代の黎明期(221年~228年)を紐解くと、220年(黄初元年)は魏王曹操が後漢の献帝を廃し後漢が滅亡し、221年(章武元年)劉備が蜀の国を建国し、222年(黄武元年)孫権自立し呉の年号を定め、229年(黄竜元年)孫権が呉の国を建国してる。     
            (表をクリツクすると大きくなります)           
呉の孫権が自立した時の年号「黄武」が面白い、魏の年号から一字「黄」を、蜀の年号から一字「武」を取っている。実際この頃、呉の孫権は魏に近づいたり、蜀に近づいたりしている。神獣鏡の「黄初」の年号にも「黄武」の年号にも、呉の地である「会稽」の地名がある。魏も三国黎明期には、鏡は会稽で作っていたのであろう。だから「黄武」の年号の鏡は、魏の鏡でありながら乳がないのである。
 

1984年3月、東京プリンスホテルで開催された第7回古代史シンポジウムの席上で、中国社会科学院考古研究所の前所長の王仲殊氏は、「三角縁神獣鏡は魏王朝から賜与されたものではなくて、当時日本に渡来した呉の工人によって、日本で製作されたものである。」と講演し、日本の考古学会に大きな衝撃を与えた。この発表により、それまで劣性であった、三角縁神獣鏡の国内製作論は息を吹き返し、現在では三角縁神獣鏡の製作地を、中国と考えるか、日本と考えるか、5分5分の感じである。
 

呉には、神獣鏡には「乳」を配置しないという伝統がある。
三角縁神獣鏡の全てに「乳」がある。この「乳」という点から見ると、三角縁神獣鏡は、「日本に渡来した呉の工人によって、日本で製作されたものである。」とは言えないと思う。なお、紀年鏡がないので年代が明確でないが、江南の地域から出土する画文帯神獣鏡に環状乳があり、画像鏡に乳があることは申し添えておく。


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