31-1.新沢千塚古墳のガラス器 [31.古代のガラス器]



たように、新羅の都であった慶州にある古墳、金冠塚・金鈴塚・皇南大塚・瑞鳳塚・天馬塚
などからは、金製品の冠・冠帽・冠飾・腰帯・垂飾・耳飾・腕輪・指輪・珠などが多量に出土している。これらの金製品と共伴して碗・皿・杯・瓶などのガラス器が副葬されていた。これらのガラス製品はローマングラス、あるいは
ササン朝ペルシャグラスで、シルクロードでも北部の草原地帯のステップ路を通って伝来したと考えられている。慶州の黄金文化の最盛期は5世紀の初めから6世紀半ばの150年間であると言われている。



新沢千塚126号墳出土の金製品の垂飾・耳飾・腕輪・指輪などを見ると、慶州の古墳出土の金製品と類似している。ガラス製品でみると、どちらもローマングラス・ササン朝ペルシャグラスの系統である。『ガラスの道』の著者由水常雄氏は、「千塚出土の紺色の皿の技法と慶州金冠塚出土の足付杯に使用された技法と同一部類に属し、両者が製作地の点で近親性を持っていることを示している。また両者の出土遺物にも共通性が強い。千塚のガラス器は新羅を通じて伝来して来た可能性がある。」としている。
31-2.仁徳天皇陵のガラス器 [31.古代のガラス器]


日本書紀によると仁徳17年(399年)に、「新羅が朝貢しなかった。秋九月、的臣の先祖砥田宿禰と小迫瀬造の先祖賢遣臣を遣わして、朝貢せぬことを詰問された。新羅人は恐れ入って貢物を届けた。調布の絹千四百六十匹、その他種々の品物が、合わせて八十艘であった。」とある。日本書紀の表現には誇張があると思われるが、新羅から種々の品物の貢物が届けられたことは確かであろう。新羅からの貢物の中に、金製品やガラス器が入っていたと考える。
仁徳天皇陵のガラス器は紺色(瑠璃色)の碗(壺)と無色透明(白色)の皿、新沢千塚126号墳のガラス器は紺色の碗と無色透明の皿である。仁徳天皇陵と新沢千塚では、碗と皿の色の組み合わせが逆になっている。新羅の貢物のガラス器は、瑠璃色の碗と皿、無色透明の碗と皿のセットであったが、それが分れて仁徳天皇陵と新沢千塚126号墳に埋葬されたのだと想像したくなる。
31-3.安閑天皇陵出土のカットグラス [31.古代のガラス器]



安閑天皇陵出土の円形切子碗と正倉院宝物の白瑠璃碗は、ササン朝ペルシャのカットグラスで、シルクロードを通って伝来したと考えられている。西アジアで円形切子装飾を施したカットグラスが製作され始めた年代は、紀元1世紀頃まで遡るが、ササン王朝時代(226年~651年)に隆盛を極め、七世紀後半イスラム時代に入って衰退すると考えられている。ササン王朝時代のカットガラスの編年が明らかでないので、安閑天皇陵出土の円形切子碗と正倉院宝物の白瑠璃碗の年代は明らかではないそうだ。
安閑天皇の崩御の年は日本書紀・古事記とも535年で、前方後円墳である安閑天皇陵(高屋築山古墳)の古墳年代は515年前後である。「19-8.天皇陵の古墳年代の解明」で示したように、天皇崩御の年と考古学から見た古墳年代がほぼ一致しており、高屋築山古墳が安閑天皇陵であることは確かだと考えられる。安閑天皇陵出土の円形切子碗は535年には日本に伝来していた。
正倉院宝物の白瑠璃碗は、記録にはないが天平勝宝四年(752年)の東大寺の大仏開眼会の際に奉納されたか、あるいは天平勝宝八年(756年)聖武天皇77忌に光明皇后が聖武天皇ゆかりの品を東大寺の大仏に奉献しているが、その奉物に入っていたと考える。正倉院宝物の白瑠璃碗は750年までには、日本に伝来していた事になる。

31-4.正倉院の紺瑠璃杯 [31.古代のガラス器]
正倉院には聖武天皇・光明皇后ゆかりの品をはじめとする、奈良時代を中心とした多数の宝物が納められている。この宝物の中に6点のガラス器がある。この6点のガラス器について、由水常雄氏の『ガラスの道』では「コバルト・ブルーのワイングラス紺瑠璃杯、透明で美しい曲線をもつ白瑠璃水瓶、亀甲状のカットを施した白瑠璃碗、エメラルドグリーンに輝く緑十二曲長杯、安定したシャープな器形の白瑠璃高杯、濃紺の厳しい意匠感覚を見せている紺瑠璃壺」と紹介している。
昨年秋に奈良国立博物館で開催された正倉院展では、紺瑠璃杯が展示された。紺瑠璃杯はコバルト着色のソーダガラス製で、総高さ11.2㎝、ガラス部分の高さ8㎝、口径8.6㎝であり、胴部には同質のガラス紐による22個の環文装飾がある。なお、この杯の銀製台脚部は明治時代に造られたものであるそうだ。この杯の特徴の円形装飾文様のガラス製品は、西アジアにおいて1世紀後半から作られ始め、3世紀に大流行となった。そして、ササン朝ペルシャ(226~651年)のササングラスでも隆盛は衰えず、イスラムガラスでも続いた。円文装飾にはカットによるもの、形押しによるもの、貼付けによるものがある。貼付け技法は高度な技術が必要であったらしい。
正倉院の紺瑠璃杯は貼付け技法によるもので、類型は韓国慶尚北道漆谷郡の松林寺の磚塔から発見された緑色のガラス舎利杯で、12個の環文装飾がある。両者は同一の製作地で同時代に製作されたものであると考えられている。由水常雄氏は4世紀以降7世紀以前のササン朝ペルシャのガラスで、シルクロードを通じてやって来たものとしている。正倉院の紺瑠璃杯は、我々にシルクロードの夢を抱かせる逸品である。

正倉院の紺瑠璃杯は貼付け技法によるもので、類型は韓国慶尚北道漆谷郡の松林寺の磚塔から発見された緑色のガラス舎利杯で、12個の環文装飾がある。両者は同一の製作地で同時代に製作されたものであると考えられている。由水常雄氏は4世紀以降7世紀以前のササン朝ペルシャのガラスで、シルクロードを通じてやって来たものとしている。正倉院の紺瑠璃杯は、我々にシルクロードの夢を抱かせる逸品である。