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74-15.景行天皇の時代に統一国家の基盤が出来上がる [74.「記紀」で解く「空白の世紀」の150年]

景行天皇は景行4年(307年)に美濃に行幸し、景行12年(308年)に熊襲が背いた筑紫とに向かった。襲の国を平らげると筑紫の国を巡行し 、景行19年(315年)に都に帰っている。そして、景行25年(317年)に武内宿禰を遣わして、北陸・東方の地形、人民の様子を視察させている。武内宿禰は2年後に帰り東国の蝦夷について報告し、土地は肥えており広大であると攻略することを勧めている。景行27年(319年)に熊襲が背き辺境を侵したので次男の日本武尊を筑紫に遣わし、熊襲を討たせている。翌年、日本武尊は熊襲を平らげたことを奏上した。


Z493.日本武尊東征経路.png景行40年(321年)、東国の蝦夷が背いて辺境が動揺したので、日本武尊は征夷の将軍に任じられた。纏向の日代宮を出発した日本武尊は寄り道をして伊勢神宮を参拝し、倭媛命から天叢雲剣を授かった。駿河では賊の火攻めにあったが、天叢雲剣で草を薙ぎ払い、迎え火をつくって難を逃れた。相模から上総へ海を渡るとき、暴風が起こり船は進まなかったが、皇子につき従ってきた弟橘姫が海に身を投じ、嵐はおさまり無事に着いた。上総から大きな鏡を船に掲げて、海路から葦浦に回り、玉浦を回って蝦夷の支配地である陸奥国に入っている。蝦夷の首領は竹水門で防ごうとしたが、王船を見てその威勢に恐れ服従した。日本武尊はその首領を手下にして蝦夷を平らげている。


奥国は福島県・宮城県・岩手県・青森県を指すが、日本武尊が何処まで北上したか葦浦・玉浦・竹水門の比定には諸説あり定かではない。『日本書紀』井上光貞編纂(1987年)では、図293に示す「日本武尊東征経路図」では宮城県石巻市に流れ込む旧北上川の支流の江合川までが経路として描かれている。日本武尊は陸奥で蝦夷を平定した後、常陸・甲斐・武蔵・上野・信濃・美濃・尾張を通り帰国の途についたが、景行43年(324年)に伊勢能煩野で病死している。


宮城県の大崎市には墳長100mの前方後円墳、青塚古墳がある。また、仙台市には墳長110mの前方後円墳、遠見塚古墳があり、南に隣接する名取市には墳長168mの前方後円墳、雷神山古墳がある。これらの古墳からは、底部穿孔(270~360年)の二重口縁壺(270~370年)が出土しており、古墳年代は270~360年である。前方後円墳は大和王権の象徴であり、4世紀の中葉には陸前までその覇権がおよんでいる。これは日本武尊の東征が物語化された面はあるが、史実であることをしめしている。

 

 

Z494.入の沢遺跡.png2014年に江合川の北側で岩手県との県境に近い宮城県栗原市の入の沢遺跡で、総長330mにおよぶ大溝と竪穴建物跡39棟が出土した。竪穴住居の大半が焼かれていたが、住居跡からは小型の高杯・鉢や大型の二重口縁壷などの土師器、珠文鏡・重圏文鏡・内行花文鏡片などの鏡、刀剣・鏃・斧・鋤などの鉄製品、ガラス製の小玉、碧玉製や滑石製の勾玉・菅玉、水晶製の棗玉、琴柱形石製品、水銀朱などの、近畿文化の影響を受けた古墳前期の遺物が出土している。入の沢遺跡の年代は出土土器が上総の布留2式併行期で4世紀後半と見られている。私の編年でも、珠文鏡(310~570年)と二重口縁壷(270~370年)から入の沢遺跡の年代を310年〜370年と割り出した。入の沢遺跡は蝦夷に対峙する最前線の砦であったと思われる。入の沢遺跡が焼き討ちにあっているのは、蝦夷の反撃にあったのであろう。

 

 



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