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73-14.最古の製鉄遺跡は何処か?大阪府、百舌鳥古墳群近辺 [73.日本の製鉄(製錬)の始まりは何時か?]

大阪府には5C後半~6Cの時代の製錬滓・精錬滓が出土した枚方市の森遺跡、柏原市の大県遺跡、堺市の土師遺跡・陵南北遺跡がある。枚方市の森遺跡は生駒山地西麓北端部にあり、5C後半から6C紀代にかけての鍛冶遺構を伴なった遺構で、鍛冶炉9基、鉄滓27.Kg、フイゴ羽口破片231点が出土している。この遺跡のC地区の5世紀後半~6C後半の包含層から出土した椀形滓1点を鉱石の製煉滓[鍛錬鍛冶滓]と判定した。ただ、C地区から出土した鍛冶炉は1基のみで、その時期は6世紀前半頃と推定されている。なお、鍛冶炉周辺から出土した鉄滓は、鉱石の精錬滓or鍛錬滓[鍛錬鍛冶滓]の領域であった。森遺跡は5世紀代に製錬あるいは精錬を行っていた遺跡の候補からは外した。

 

大阪府下最大の鍛冶遺跡とされている柏原市の大県・大県南遺跡は、生駒山地西麓南端部で、奈良盆地からの大和川と南河内地方からの石川の合流地点から北に古大和川の東側にあり、川の西側には古市古墳群が広がる。隣接した両遺跡は東西0.Km、南北1.Km,鉄生産は5世紀から8世紀と長期間にわたり、鍛冶関連の遺構・遺物は、鍛冶炉19基、鉄滓約500Kg、フイゴ羽口約1000個と多量に出土している。大県遺跡(82-9 F区)の5C末~6Cの層から出土した鉄滓は、鉱石の精錬滓[鍛錬鍛冶滓]と判定した。この調査区からは5基の鍛冶炉が出土しているが、これらの遺構面は出土遺物より古墳時代後期(6世紀中葉~同世紀末)頃と考えられている。大県遺跡は5世紀代に製錬あるいは精錬を行っていた遺跡の候補からは外した。

 

堺市土師町の土師遺跡21街区出土の2点の鉄滓を製煉滓[鍛錬鍛冶滓]と判定した。堺市陵南町の陵南北遺跡出土の2点の鉄滓を精錬滓[鍛錬鍛冶滓]、1点を製煉滓or精錬滓[鍛錬鍛冶滓]と判定した。土師遺跡21街区と陵南北遺跡は500m程しか離れていなく、年代も5世紀後半と同じであり、同一の製鉄関連遺跡として捉えていく。陵南北遺跡からは7基の炉跡が出土しており、いずれかの炉で製錬が行われたと考える。

 

始発原料は陵南北遺跡の精錬滓1点が砂鉄で、その他は全て鉱石である。大阪府南部には鉄鉱石を産出する鉱山・鉱床はない。土師遺跡の東部で採掘した水酸化鉄が分析されている。全鉄量(T-e)が11.7%で製鉄原料となる代物ではない。褐鉄鉱・沼鉄鉱は水酸化鉄と酸化鉄からなり、高師小僧や壺石も同様である。「73-1.垂仁天皇は剣一千口を造らせた」で述べたように、阪南市で採れた壺石で製鉄が行われたと述べたが、土師遺跡東部で高師小僧・壺石が採取できたのではないかと考える。なお、高師小僧は愛知県豊橋市の高師原で採取され命名されている。陵南北遺跡のある陵南町はもと百済村で、遺跡は石津川支流の百済川の河原近くにあった。石津川の河口の海岸は高師浜と呼ばれ、『万葉集』に持統天皇が難波宮に行幸されたときの歌「大伴の高師の浜の松が根を枕に寝れど家し偲ばゆ」がある。百済といい、高師といい、5世紀後半に陵南北遺跡で製鉄が行われたことに因縁を感じる。


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73-15.5世紀の鉄滓の製鉄工程判定は定説を忖度 [73.日本の製鉄(製錬)の始まりは何時か?]

全鉄量(T-e )が20%以上で、製鉄指標(製鉄工程判別指標:SQRT(Ti2/5+MnO*2))が0.75以上の鉄滓は、95%の信頼性でもって、製煉滓あるいは精錬滓のどちらかであると言える。これを基にして、5世紀以前に製煉滓あるいは精錬滓が出土した遺跡を求めて来た。該当したのは表Z468に示す16遺跡、34点の鉄滓であった。これらの遺跡の発掘調査報告書等を精読し、石川県の豊町A遺跡・長崎県の小原遺跡・岡山県の押入西遺跡のように混入が考えられる遺跡、広島県の小丸遺跡のように遺跡の年代が疑われる遺跡、岡山県の押入西遺跡・大阪府の森遺跡・大県遺跡のように鉄滓の年代が5世紀を超えていると判断できる遺跡は候補からは外した。また、残った遺跡の中で福岡県の新西町遺跡と島根県の関谷遺跡は、単独の遺跡で単一の鉄滓であることから候補からは外した。

 

Z468.5世紀以前の遺跡.png

5世紀代に製錬を伴なう製鉄が始められたと考える候補地として、潤崎遺跡・重留遺跡・長野A遺跡のある福岡県北九州市小倉南区の地域、窪木薬師遺跡・高塚遺跡のある岡山県総社市の造山古墳周辺地域、そして土師遺跡・陵南北遺跡のある堺市の百舌鳥古墳群の南端地域を挙げた。これら候補地に掲げた8遺跡の11点の鉄滓の分析値を見ていて気付いたのは、その内の10点が製鉄指標が0.75~1.0の狭い範囲にあること、そして、分析者はその内の8点を鍛錬滓と判定していることだ。その8点の鉄滓の私の判定は、製煉滓2点、製煉滓or精錬滓3点、精錬滓3点である。

 

分析者はこれらの鍛錬滓について、「鍛錬が高温で行われガラス化した鍛錬滓」「鉄素材の鍛接のための高熱作業時に粘土と反応して派生した鍛錬鍛冶滓」「鍛接の高温作業で排出された鍛錬鍛冶滓で、赤熱鉄素材の酸化防止の粘土汁多用」と説明されている。5世紀代に製錬を伴なう製鉄が始められたと考える証拠とする鉄滓が、製錬滓あるいは精錬滓ではなく、そのほとんどが鍛錬滓であつたならば、今まで行ってきたことが水泡に帰す。

 

私のデータベースでは、T-eが20%以上で製鉄指標が1.0~0.75の範囲の鉄滓は128点あるが、その内、分析者が製鉄工程を製煉滓・精錬滓・鍛錬滓と明確に分類し、その年代が示されているのは111点であった。それらを“5世紀~(古墳中期)、“6世紀~(古墳後期)、“7世紀~(飛鳥時代以降)と年代を3分割し、その製鉄工程を調べたのが表Z470である。なお、年代幅が“5世紀~中世のように他の世紀に渡っても、“5世紀~とするように初めの世紀に分類している。表470の左側から分るように、“7世紀~では鍛錬滓の比率が8%と私の想定5%に近い値であるが、“6世紀~では14%で、“5世紀~では82%と不自然な値となっている。

 

Z470.5世紀の製鉄工程判定.png

表470の右側は、鉄成分(T-e)、造滓成分(SiO2Al2O3CaOMgO)、製鉄指数(TiO2MnO)の年代別の平均値を示した。当たり前のことであるが、製煉滓は鍛錬滓に比べて、鉄成分が少なく、造滓成分や製鉄指数が多い。それらからすると、鍛錬滓85%の“5世紀~の鉄滓と、鍛錬滓が8%の“7世紀~の鉄滓では、鉄成分・造滓成分・製鉄指数が異なるはずである。しかし、表470の右側を見ると、鉄成分は45%~47%、造滓成分は30%~33%、製鉄指数0.85~0.871と、“5世紀~、“6世紀~、“7世紀~の年代に関係なく、ほぼ等しいことが分かる。“5世紀~の年代の鍛錬滓の比率が82%と異常なのは、分析者の判定が間違っていることが明らかである。分析者は、我が国で製錬を伴なう製鉄が開始されたのは6世紀後半であるという定説に忖度し、それ以前の時代の鉄滓に対しては鍛錬滓と判定したのではないかと邪推してしまう。


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