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49.神話の背景には史実がある ブログトップ

49-1.『日本書紀』に書かれた神代 [49.神話の背景には史実がある]

邪馬台国が日向に在ったとすれば、瓊瓊杵尊が高天原から日向の高千穂の峰に降臨し、瓊瓊杵尊・彦火火出見尊・鸕鷀草葺不合尊の三代が日向を治めたという記紀に書かれた神話が、史実と何らかの関わりがあると考えられる。『日本書紀』には「神代」として、天孫降臨神話が記載されているが、「神代」に書かれた文章の三分の二以上が、異説の紹介記事であり、書紀の編纂者が組み立てた神話のストーリーは意外と短い。その本筋だけを選択し、神話の大筋を記す。

Z26 神代系譜(縦書き).png昔、天と地が分れた時に神が生まれた。その七代目の神、伊奘諾尊
(いざなぎのみこと)と伊奘冉尊(いざなみのみこと)は玉飾りの矛で海をかきまぜ、大八洲国(おおやしまのくに)を生み、そして天照大神(あまてらす
おおみかみ)
と素戔鳴尊(すさのおのみこと)を生まれた。父母の二神は天照大神を天上の高天原に送り、素戔鳴尊を遠い根の国へ行くよう追いやられた。高天原を訪れた素戔鳴尊は天照大神と誓約をして、素戔鳴尊の十握剣を噛み砕いた天照大神の息吹から三柱の女神(筑紫の宗像の神)
が生れ、天照大神の五百箇の御統を噛み砕いた素戔鳴尊の息吹から
五柱の男神
(天忍穂耳尊等)が生まれた。

素戔鳴尊は天の狭田・長田に馬を放って畔を壊し、機殿の屋根に穴をあけて馬の皮を投げ入れる等の狼藉を働いた。天照大神は機織の梭で身体をそこない、怒って天の岩屋にこもられた。そのため国中が常闇となり夜昼の区別も分らなくなった。
高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)の子の思兼神(おもいかねのかみ)は深謀遠慮をめぐらし常世の長鳴鶏を競わせ、天児屋命(あまのこやねのみこと:中臣連の先祖)と太玉命(ふとだまのみこと:忌部の先祖)は榊の枝に五百箇の御統と八咫鏡、青と白の麻のぬさをかけて祈祷し、天鈿女命(あまのうずめのみこと:猿女君の先祖)は茅纒の矛を持って天の岩屋の前で喋り踊った。天照大神が様子を見ようと少し磐戸をあけたので、手力雄神(てちからおのかみ)が天照大神の手をとって引き出された。

素戔鳴尊は高天原より追放され、出雲の簸の川に降りられた。そこで八岐大蛇の人身御供に娘を差し出さなければならないと嘆いていた翁と媼、脚摩乳
(あしなづち)と手摩乳(てなづち)に出会った。素戔鳴尊は娘の奇稲田姫(くしいなだひめ)を貰い受け、八岐大蛇を退治した。素戔鳴尊と奇稲田姫の子が大己貴神(おおあなむちのかみ)、大国主神(おおくにぬしのかみ)とも呼ばれている。大己貴神は出雲を平定した。

天照大神の子、天忍穂耳尊は高皇産霊尊の娘の栲幡千千姫
(たくはたちちひめ)を娶られて、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が生まれた。皇祖の高皇産霊尊はこの孫の瓊瓊杵尊を可愛がられ、葦原中津国の君主にしようと思われた。葦原中津国を平定しようと、出雲に天穂日命を行かせた。けれども天穂日命は大己貴神におもねって、三年たっても復命しなかった。その後も大己貴神はなかなか国を譲らなかったが、四度目の使者に対して子の事代主神(ことしろぬしのかみ)共々服従を誓い、国を譲っている。

高皇産霊尊は瓊瓊杵尊を日向の襲の高千穂の峰に降ろされた。瓊瓊杵尊は吾田国の長屋の笠狭崎で大山祗神
(おおやまつみのかみ)の娘、吾田鹿葦津姫(あたかしつひめ)、またの名は木花開耶姫(このはなさくやひめ)を娶り、火闌降命(ほのすそりのみこと:隼人の始祖)・彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)・火明命(ほのあかりのみこと:尾張連の始祖)の三人の子が生まれた。瓊瓊杵尊は日向の可愛の山の陵に葬られた。

兄の火闌降命は海の幸を得、弟の彦火火出見尊は山の幸を得た。兄弟は幸を取替えようと釣針と弓矢を交換したが、その幸は得られなかった。兄は釣針を返すよう要求した。弟は無くしていて困り果て、海岸で嘆いていた時、翁に会い海宮に案内された。そこで無くした釣針を得、海神の娘の豊玉姫
(とよたまひめ)を娶られた。

海宮に三年留まった後に郷里に還えった弟は、海神の教えに従い兄を降伏させた。火闌降命は吾田君小橋らの先祖である。後に豊玉姫は妹の玉依姫
(たまよりひめ)を連れてやって来た。豊玉姫は出産の時に体が竜になり、それを見られたのを恥じて海路を帰られた。生まれた子を名付けて鸕鷀草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)という。彦火火出見尊は日向の高屋山上陵に葬られた。 鸕鷀草葺不合尊は叔母の玉依姫を妃とされ、彦五瀬命(ひこいつせのみこと)・稲飯命(いなひのみこと)・三毛入野命(みけいりののみこと)・磐余彦尊(いわれひこのみこと:神武天皇)を生まれた。鸕鷀草葺不合尊は日向の吾平山上陵に葬られた。

Z27 沖ノ島.png今年7月28日文化審議会は、世界遺産の登録候補として「宗像・沖ノ島」を推薦した。「沖ノ島」は田心姫神を祭神とする宗像大社沖津宮の女人禁制の神領で、4~9世紀に朝鮮半島や中国大陸との交流の成就や航海の安全を願う祭祀が行われ、祭祀跡からは銅鏡など4万点の国宝が出土し「海の正倉院」と呼ばれていると紹介されている。『日本書紀』の「神代」では、天照大神が素戔鳴尊の十握剣を噛み砕き、噴出した霧から宗像の三柱の女神(田心姫・湍津姫・市杵島姫)が生れたとしている。また異説には、天照大神が「三柱の神は、海路の途中に降りて、天孫を助け奉り、天孫のためにお祀りをされよ」と仰せられたとある。沖ノ島は「神代」の伝承と結びついた「神宿る島」である。



 


49-2.天照大神の墓は須玖岡本遺跡D地点 [49.神話の背景には史実がある]

『日本書紀』の「神代」では、高天原を治めた天照大神が素戔鳴尊の狼藉により天岩屋に籠った後に、高皇産霊尊が高天原を治め、出雲を平定し、瓊瓊杵尊を高千穂の峰に降臨させている。神話が史実をもとに出来上がったとするならば、天照大神や高皇産霊尊が高天原で活躍した時代はいつのことであろうか。天照大神が天岩屋に籠った説話は、天照大神が亡くなり、大きな石で覆われた墓に葬られたことの伝承であると考えられる。その時代は神話に出てくる、「金を採って日矛を造らせた」「鹿の皮を丸剥ぎにしてフイゴを造った」「八咫鏡を作った」という語句より、青銅器が造られていた弥生中期・後期の時代を反映していると考える。天岩屋の前に飾った八咫鏡(大きな鏡)・八坂瓊の曲玉(大きな勾玉)・五百箇の御統(沢山の玉の首飾り)・日矛(かたちを映す矛)は墓に副葬されたものを示しているのであろう。

Z28 須玖岡本遺跡復元.pngナ国の王墓とされている須玖岡本遺跡D地点の甕棺墓は、図Z28
にあるように長さ3.3m、幅1.8mの大石に覆われ、横には高さ
.2m、幅1.2mの小石が立っていた。甕棺の型式は立岩(古)(KbBC100~BC50年)で、21面以上の前漢鏡が副葬
されていた。その多くが漢鏡3期(
BC100~BC25年)の型式
であった。鏡を入手して墓に副葬するまでのタイムラグを考えると、甕棺墓の年代は
BC75年からBC50年くらいと考えられる。甕棺
には中細矛4本、細矛・中細戈・中細剣・多樋剣が各1本、壁玉片
が3個、長さ4
.8cmの勾玉1箇、菅玉多数も副葬されていた。

須玖岡本遺跡D地点の甕棺墓こそ、天照大神の墓であると思われる。甕棺を覆った大石が天岩屋で、横に立っている小石は手力男神が引きあけた岩戸に見立てられたのであろう。また、副葬されていた鏡・矛・勾玉・多数の菅玉は、天岩屋の前に飾られた品々と同じである。また、イト国の王墓とされている三雲南小路遺跡の甕棺墓は、甕棺型式と前漢鏡型式が須玖岡本遺跡D地点の甕棺墓と同じで、同時代のものであり、高皇産霊尊の墓と考えられる。高天原はナ国・イト国の地、福岡平野とその周辺であり、天照大神がナ国王、高皇産霊尊がイト国王であった。両者が共栄していたのは、
BC100年からBC50年の時代であったであろう。

Z29 皆既日食BC79年.png天照大神が天岩屋に籠られたとき、「国中が常闇となり夜昼の区別も分
らなくなった」と記紀には書いてあり、「日食」があったのではないか
と考えられている。
NASAのホームページを見ると、図Z29に示すよう
BC79年9月20日に皆既日食帯が沖縄あたりを通過している。点線は食分(欠けた割合)が50%であるから、博多あたりは90%以上欠けており、真っ暗闇に近いことが予想できる。NASAの皆既帯のコースは地球の自転速度が一定として計算されているが、実際は自転速度が変化しているので、皆既帯がもっと九州に近かった可能性もある。BC79年の皆既日食は、私が推定した須玖岡本遺跡の甕棺墓の年代とほぼ一致している。


49-3.神話に出てくる「出雲」は実在した [49.神話の背景には史実がある]

『日本書紀』の神代では、高天原より追放された素戔鳴尊が出雲の国を造り、息子の大己貴神が出雲の国を治めている。高天原に君臨した高皇産霊尊は、大己貴神に出雲の国を譲るように迫り、息子の事代主神の助言を受け、高天原の勢力下に入っている。私は、高天原はナ国・イト国の地、福岡平野とその周辺であり、天照大神がナ国王、高皇産霊尊がイト国王であったと考えた。両者が共栄していたのは、BC100年からBC50年の時代である。その後、イト国がナ国を滅ぼしAD57年頃に奴国が誕生した。そして、奴国を盟主国とする倭国(奴国連合国)が成立し、奴国王が倭国王となった。その後、奴国は勢力拡大をはかり、出雲を支配下に入れたと考える。これが神話に出てくる出雲平定であろう。神話では出雲を平定したのは高皇産霊尊となっているが、時代が合わない。出雲を平定したのは、2~3世代あとの奴国王であろう。神話は歴史を短絡化している。

「48
-9.女王・卑弥呼を共立した国々」では、倭国(邪馬台国連合国)は銅剣・銅矛・銅戈文化圏の地域で、出雲・吉備が東の端の国であるとした。魏志倭人伝には「女王国より以北は、その戸数道里を略載し得べくも、その余の旁国は、遠絶にして、詳らかにすることを得べからず。次に斯馬国あり、・・・次に奴国あり。これ女王の境界の尽きる所なり。」と21ヶ国を記している。女王の境界の尽きる所の奴国は出雲の事と考える。奴国王が倭国(奴国連合国)の王であった時代に、出雲は奴国の支配下に入っていた。その後も、奴国が勢力の拡大をはかって倭国大乱が起こり、戦いに辟易した国々が邪馬台国の女王・卑弥呼を倭国(邪馬台国連合国)の王に共立する。この段階で、出雲は奴国の支配下から外れ、邪馬台国連合国の一国となったと考える。

Z30 荒神谷遺跡.png記紀の神話では出雲は重要な位置づけをされているにも関わらず、多くの歴史・考古学者は、長らく弥生時代の出雲について、弥生文化の果てる所と位置づけしていた。しかし、1984年に島根県斐川町の神庭荒神谷遺跡で358本の銅剣が出土、翌年には16本の銅矛と6個の銅鐸が出土した。また、1996年には荒神谷遺跡3.5km離れた大原郡加茂町岩倉の山中で39個の銅鐸が出土した。これらの発見により、出雲には弥生時代に大きな勢力が存在していたと考えられるようになった。

z1.甕棺編年1.png写真Z30で見るように、荒神谷遺跡の銅剣の出土地と銅矛の出土地は、荒神谷の同じ高さで7mか離れていない。これらの埋納は同時期であったと考えられる。荒神谷遺跡の銅剣は358本とも中細形銅剣で、銅矛は2本が中細銅矛、14本が中広形銅矛である。そうすれば、埋納時期は中広形銅剣の時代で、それも中細形の銅剣・銅矛に近い時代であること分かる。実年代でいえば、図Z1に示すように、弥生後期初めの桜馬場式甕棺(AD元年~75年)に比定できる。まさに、神話の出雲平定の時代である。奴国の支配に対して、在地の出雲勢力は銅剣・銅矛・銅鐸を隠匿したのであろうか。


49-4.高天原から高千穂に天孫降臨 [49.神話の背景には史実がある]

後漢の光武帝がナ国王に下賜した金印が志賀島から単独で出土し、光武帝が下賜したと考えられる鏡が、イト国の王墓とされている井原鑓溝遺跡から出土している。これらより、AD57年にイト国がナ国を滅ぼし奴国が誕生した。この時、滅ぼされたナ国王が瓊瓊杵尊であり、瓊瓊杵尊は一族郎党を引き連れて日向の高千穂に落ち延びたと考える。このことが後世に美化され、天孫降臨の神話となったのであろう。天孫降臨の時期がAD57年ならば青銅製武器は鉄製武器に変わっており、また中広形矛による祭祀が始まる直前の時期でもあり、宮崎県の弥生遺跡から1本の青銅武器が出土せず、鉄器のみ出土するのと符合する。

神話では、瓊瓊杵尊は天照大神の内孫で、高皇産霊尊の外孫であるとして、高皇産霊尊が瓊瓊杵尊を日向の高千穂に降臨させたとしている。天孫降臨の話は天照大神が天岩屋に籠られた後に出てきており、天孫降臨は
BC75年からBC50年ころの話となる。前述した、瓊瓊杵尊が高千穂に落ち延びたのがAD57年とすることと矛盾して来る。瓊瓊杵尊は天照大神・高皇産霊尊から2~3世代後のナ国王であったのであろう。出雲平定の話と同じように、神話は歴史を短絡化している。

Z31 高千穂の神楽.png宮崎県西臼杵郡高千穂町は神話の町である。高千穂には天岩屋とされる洞窟を御神体とする天岩戸神社があり、また天照大神を天岩屋から出そうと神々が集まった天安河原もあり、天岩戸神話を題材にした神楽の伝承もあり、高天原として存在している。よくよく考えれば、神話では高千穂は瓊瓊杵尊が高天原から降臨した場所であり、高天原が在っては可笑しいのである。しかし、天照大神の末裔であるナ国の王瓊瓊杵尊が、国を追われて高千穂に来たならば、天照大神の天岩屋の伝承は、追われた地には残らないで、落ち延びた地に残ると考えられ、高千穂が神話の町であることも納得できる。高千穂町の弥生遺跡、神殿遺跡からは鉄刀が1本、鉄鏃が4個と内行花文昭明鏡の鏡片が出土し、宮の前第2遺跡からは鉄鏃1個が出土している。


49-5.邪馬台国の女王・卑弥呼は玉依姫 [49.神話の背景には史実がある]

瓊瓊杵尊は吾田国の長屋の笠狭崎で大山祗神の娘吾田鹿葦津姫、またの名は木花開耶姫を娶り、火闌降命・彦火火出見尊・火明命の三人の子が生まれている。兄の火闌降命は海の幸を得、弟の彦火火出見尊は山の幸を得た。兄弟は幸を取替えたが、兄の火闌降命はもとの幸を取り戻そうと弟に迫った。しかし、弟の彦火火出見尊は兄から受け取った釣針を無くしてしまっていたので困窮した。彦火火出見尊は海神と出会い、失った釣針を得ることが出来た。海神の娘の豊玉姫を娶った彦火火出見尊は、海神の援助を得て兄を降伏させることが出来た。後に豊玉姫は妹の玉依姫を連れてやって来た。豊玉姫は出産の時に体が竜になり、それを見られたのを恥じて海路を帰られた。生まれた子を名付けて鸕鷀草葺不合尊という。

これらの神話は「海彦山彦」の話として、多くのページを割いて書いている。『日本書紀』は、弟の彦火火出見尊に降伏した兄の火闌降命は、吾田君小橋らの先祖、隼人の始祖である
と記載している。薩摩の古称が阿多(吾田)と呼ばれ、薩摩隼人が阿多隼人と呼ばれるように、火闌降命は薩摩国の始祖である。
Z32 免田式土器.jpg「海彦山彦」の争った「幸」を「国」の例えであると考えると説話の意味が理
解できる。海の幸を「日向国(邪馬台国)」、山の幸を「薩摩国(投馬国)」
の例えであると考える。瓊瓊杵尊の子の長男・火闌降
命は薩摩半島に進出し投
馬国を造り、次男の彦火火出見尊は宮崎平野に進出し邪馬台国を造った。投馬
国と邪馬台国は一時期領地争いがあり、「海彦山彦」の話として後世に伝わっ
たと考える。
 

弥生時代後期中頃、熊本平野に免田土器と呼ばれる、祭祀に用いられたと見ら
れる「重弧文長頸壺」の土器が出現している。この免田土器は、鹿児島県北西
部、宮崎県五ヶ瀬川流域(高千穂町)、宮崎県大淀川流域と広がり、最後に熊
本県人吉盆地、鹿児島県大口盆地の山間部で隆盛を極めている。免田土器の分
布図を図Z32に示すが、その分布は投馬国の成立に関わっているようにも見
受けられ、投馬国・邪馬台国、そして狗奴国の領域を明快に分けている。

私は、邪馬台国の女王・卑弥呼の誕生を次のように考えている。倭国大乱の頃、日向の邪馬台国の王は彦火火出見尊であった。妃の豊玉姫は妹の玉依姫を連れて嫁いで来ていた。この玉依姫は年が10歳過ぎであったが神懸かりし、物事を良く当てたので、巫女として彦火火出見尊に仕えていた。その鬼道の噂は邪馬台国ばかりか、倭国の国々にも広がった。戦いに辟易としていた倭国の国々の王から、この巫女を倭国の王にとの声があがった。

そこで、彦火火出見尊は息子の鸕鷀草葺不合尊と玉依姫を結婚させ、邪馬台国の王の座を玉依姫に譲り、玉依姫は共立されて倭国の女王となり、卑弥呼と呼ばれるようになった。鸕鷀草葺不合尊は卑弥呼に会うことが出来た唯一の人であり、飲食を給し、情報を伝えるために居室に出入りした。そして四人の男神が生まれた。彦五瀬命・稲飯命・三毛入野命・磐余彦尊である。卑弥呼は人に会う事がなかったので、この秘密は守られた。子供が大きくなると、弟として国を治める事を補佐させた。

魏志倭人伝には、「鬼道に仕え、能く衆を惑わす。年すでに長大なるも、夫婿無し。男弟ありて、佐けて国を治む。王となりてより以来、見る有るもの少なし。婢千人を以って自ら侍らしめ、唯男子一人ありて、飲食を給し、辞を伝えて出入りす。」と卑弥呼について述べている。前述の玉依姫の話は、魏志倭人伝とは「夫婿無し」と言う点で大きく違っているが、史実として在り得ない話ではないと思っている。瓊瓊杵尊が高千穂に落ち延びたのが57年とすると、卑弥呼の登場は200年ころであり、瓊瓊杵尊・彦火火出見尊・鸕鷀草葺不合尊の三代にプラス2~3世代が存在するのであろう。神話は歴史を短絡化している。


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