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3-7.邪馬台国への道 [3.邪馬台国を解く]

それではいよいよ邪馬台国への道を進もう。「南至邪馬壱国女王之都水行十日陸行一月」。南に水行10日と言うと、投馬国への半分、吉野ヶ里遺跡付近から約百キロメートル、球磨川の河口熊本県八代市付近になる。陸行1月と球磨川を遡行し、熊本県人吉市に抜ける道も考えられるが、日本三大秘境の一つである球磨川沿いに、遡行することは当時困難なことであったに違いない。八代市から不知火で有名な八代海を、30キロメートル南下した所に野坂の浦と言う天然の港がある。この港の奥にある芦北町佐敷から、穏やかな流れの佐敷川を遡り、標高差の少ない県道を15キロメートル行くと球磨川に出る。ここから5キロ上流に、肥薩線の球泉洞駅がある。ちなみに球泉洞駅から八代駅まで38キロ、球泉洞駅から人吉駅まで19キロであり、難所の球磨川を3分の2きた近道である。人吉市からは標高差、約600メートルの国見山地を越えるとえびの市に出る。高千穂の峰のある霧島山の裾野を通り、小林市から宮崎方面に向かい、野尻町から高岡町・国富町を通って西都市に向かう道が、古くからあったことが平安時代に出来た「延喜式」に出ている。私は邪馬台国の都がこの西都市付近にあったと考えている。

図5邪馬台国への道.jpg伊都国から「水行10日、陸行1月」とは、吉野ヶ里遺跡付近から佐敷までの約123キロメートルが水行、定理に従えば水行11日となりほぼ合致する。
 陸行1月を定理により検討してみる。熊本県の佐敷から球磨川沿いの球泉洞駅までが、道路の距離で20キロメートル。球泉洞駅から人吉市を通り、肥薩線吉松駅までは57キロメートル。吉松駅から小林市までが吉都線で27キロメートル。小林市から高岡町までは、バス宮林線で35キロメートル。高岡町から西都市までは県道で、その距離は20キロメートル。合計159キロメートル。これを陸行の定理に照らし合わせ計算すると、27日となりほぼ1月近くとなる。邪馬台国の大きさは、7万余戸となっており、日向の国・宮崎県と、有明海からの道筋、人吉盆地・えびの高原地方であったと考える。

郡より女王国に至る万二千余里」魏志倭人伝に記載された、帯方郡より邪馬台国までの道のりを整理してみる。

帯方郡   狗邪韓国    7千余里
狗邪韓国  対馬国       千里
対馬国   一支国       千里
一支国   末盧国       千里
末盧国   伊都国      5百里
伊都国   邪馬台国   水行十日・陸行一月(千5百里) 
帯方郡   邪馬台国  1万2千余里                

帯方郡から伊都国までを合計すると1万5百余里。魏志倭人伝は帯方郡から邪馬台国までが1万2千余里と記載している。これからすると、伊都国から邪馬台国までの水行10日・陸行1月は千5百里となる。伊都国から邪馬台国までを陸行・水行の定理から計算すると、水行10日が千里、陸行1月が1千5百里で合計2千5百里。魏志倭人伝から算出した里数の方が千里も少ない。これらについて検証してみる。 

魏志倭人伝に登場する国々の都を特定し、これらの都と都の距離を測定した。水行・渡海は地図上の直線距離を測り、陸行は鉄道距離(含む直線道路)を調べた。水行・陸行の定理「千里が直線距離・鉄道距離で120キロメートル」を使い、測定距離から計算里数を求めた。これらを表5に示した。狗邪韓国から末盧国までの、3回の渡海において、計算里数の合計は2千80里、倭人伝の記載里数の合計は3千里、倭人伝記載里数が約千里多くなっている。伊都国から邪馬台国までの水行10日・陸行1月で、魏志倭人伝から算出した里数の方が定理より千里も少なくなったのは、狗邪韓国から末盧国への渡海の里数過多の影響であった。「波濤千里洋々と」と歌にあったが、日の出から漕ぎ出し、日の入りまで一気に航海する「渡海」は、その距離の大小よりも、千里という単位で表現されたと思う。 

表5 1200余里.jpg帯方郡の出発地とした大同江河口付近から、邪馬台国の都とした宮崎県西都市までの、計算里数の合計が1万2千5百里となり、魏志倭人伝記載「郡より女王国に至る万二千余里」の1万2千余里とピッタリ一致した。それにしても、魏志倭人伝が正確な距離を記載している事に驚くと共に、距離計算に用いた定理、「陸行千里は、20日の行程。鉄道距離で約120キロメートル」、「水行千里は10日の行程。直線距離で120キロメートル」の妥当性が証明された。魏志倭人伝に記載された方角と里数・日数通りに辿ると、邪馬台国が宮崎県西都市にあったという答えが出て来る。

図6邪馬台国は日向.jpg「その南に狗奴国あり。男子を王となす。女王に属せず」、狗奴国は邪馬台国の南にある。この事より狗奴国は都城を含んだ大隅半島一帯で、「延喜式」でいう「大隅国」に当たり、都は志布志湾沿岸にあった。「倭の女王卑弥呼、狗奴国の男王卑弥弓呼と素より和せず。倭の載斯烏越等を遣わして郡に詣り、相攻撃する状を説く」文章からして、邪馬台国と狗奴国は以前から争いを繰り返していたように思える。そのような争いをする国と国の位置関係は、隣接していたに違いない。「日向」と「大隅」、この関係はこれらの条件を満足している。図6に魏志倭人伝に書かれてある通りの国名・方角・距離と九州の地図を重ね合わせてみた。伊都国が吉野ヶ里遺跡であり、邪馬台国が日向の地にあったことが明白である。魏志倭人伝に記載された方角と里数・日程を何一つ訂正することなく、邪馬台国の都に辿り着いたのが西都市であることを強調しておきたい。
 

 

 

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コメント 2

ミッキー

邪馬台国=西都市というのは、魏志倭人伝の記述とおりにたどるとそのとおりなので、私も以前同じ意見でした。南九州説の一番の問題は、人口がそこに非常に多くの戸数があったとは思えないことです。邪馬台国の戸数が。
方角は、釜山を基準として、南の水平線を見ながら、南=対馬、壱岐、まつら
東南、いと、なこく、
東、ふや
と順番に、水平線上を指し示していって、出雲に向かうにしても、対馬経由なので南に行くことになります。
水行20日。邪馬台国はその南=吉備。ただし舟は、出雲からじゃなくて、釜山から関門海峡を通って水行10日、陸行一ヶ月。あと、たいほうぐんから1万2000里なのに、まつらまでで1万も使ってしまっているので畿内は遠すぎる。南九州なら距離合ってます。吉備も距離あってます。くなこくを、東征のため日向出身の武人が出発していったのは記紀から確実と思われます。
by ミッキー (2013-12-19 16:42) 

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なぜアマチュアはすぐに「証明された」「明白である」など強い言葉を使ってしまうのでしょう
説はかなり説得力がありますが、文が信憑性を落としています
書籍でなく論文の書き方を覚えてみては
by お名前(必須) (2023-12-30 01:33) 

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