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72.『古事記』と『日本書紀』の編年を合体 ブログトップ

72-1.『古事記』と『日本書紀』の編年比較 [72.『古事記』と『日本書紀』の編年を合体]

『古事記』は和銅5年(712年)1月に太安万侶により元明天皇に献上されている。推古天皇までが書かれているが、編年の分かるのは天皇崩御の干支だけである。『古事記』の8年後に成立した『日本書紀』は、持統天皇までが書かれており、各天皇の元年に記載されている太歳干支と年号により、編年が分かるようになっている。表Z435の『書紀』の崩御干支は、元年の太歳干支と年号から求めたものである。『古事記』の崩御干支の暦年の通説は、干支と干支の間は干支一廻り60年以内として定めている。崇神天皇の崩御干支の戊寅は、通説では318年とされているが、干支二廻り前の258年ではないかとする学者もいる。『書紀』と『古事記』の崩御干支の年代差が1年以下の所に黄色、20年以上の所に赤のマークを付けてまた、天皇の年齢が100歳以上の所には水色のマークを付けている。

 

Z435.天皇崩御年比較.png

歴史・考古学者は『古事記』の崩御干支を基に古代天皇の年代を定めており、その年代は天皇陵古墳の年代比定にも大きく影響を及ぼしている。Z310は古墳研究の第一人者であられる近つ飛鳥博物館館長の白石太一郎氏が作成した近畿地方の大型古墳の年代である。この表から、『古事記』に崩御干支が記載されている天皇陵の年代を求めた。年代は前方後円墳のくびれの位置とした。Z436は、横軸を『古事記』の天皇崩御干支の年代、縦軸を天皇陵古墳の年代としている。なお、崇神天皇陵(行燈山古墳)、応神天皇陵(誉田御廟山古墳)、仁徳天皇陵(大仙陵古墳)、允恭天皇陵(市の山古墳)は宮内庁比定の通りであるが、仲哀天皇陵は津堂城山古墳、継体天皇陵は今城塚古墳と考古学者の比定に従っている。

Z436.崩御年と陵墓年代.png

 

天皇陵古墳の年代は『古事記』の崩御干支の通説の年代にほぼ近いことが分かる。古墳の年代は円筒埴輪と須恵器の型式の年代によって決定されることが多い。考古学は遺構や遺物の相対年代(型式の年代順位)には非常に強いが、絶対年代(暦年代)には弱い。年輪年代測定法や放射性炭素C14年代測定法などの理化学的な手法で絶対年代を決めるようにになったのは近年のことである。この円筒埴輪と須恵器の型式の年代を決めるにあたって、『古事記』の崩御干支の分かった天皇陵が参考にされたのではないかと感じられる。もし、崇神天皇の崩御干支の「戊寅」の年代が通説の318年でなく、干支一廻り遡った268年であれば、歴史学も考古学も日本の古代史の考えを変えなくてはならなくなる。


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72-2.『古事記』の編年と倭の五王 [72.『古事記』と『日本書紀』の編年を合体]

歴史・考古学者は『古事記』の崩御干支を基に古代天皇の年代を定めている。その崩御干支の暦年への変換の通説は、天皇と天皇の間は干支一」廻り以内との原則で決められたいる。『古事記』の示す各天皇の崩御の年代(通説)の精度がどれ位のものであるか知るために、『宋書』倭国伝と帝紀に記載された倭の五王の年代と比較した。倭の五王については、江戸時代から現在に至るまで、多くの学者・研究者により検討されているが、未だ『宋書』記載の讃・珍・済・興・武の倭の五王が、どの天皇に当たるか定説がない状態にある。

 

倭の五王の比定は江戸時代の儒学者松下見林によって扉が開かれた。松下見林は倭の五王の名と天皇の諱(いみな)とを字の意味と字の形について比較し、讚は履中天皇、珍は反正天皇、済は允恭天皇、興は安康天皇、武は雄略天皇に比定した。著名な儒学者の新井白石は字の音の類似を比較し、松下見林と同じ結論に達している。そして、国学者の本居宣長は『日本書紀』の紀年から、五王の遣使は天皇の事績ではないとして、讚・珍・済は允恭天皇の代、興と武は雄略天皇の代のことであるとした。

 

明治時代には、那珂通世が『書紀』の神功・応神紀に記された百済王は,干支二廻り(120年)り下げると年代が一致することを見つけた。そして自らの年代論をもとにして、讚は履中天皇、珍は反正天皇、済は允恭天皇、興は安康天皇、武は雄略天皇と江戸時代の儒学者と同じ比定を行っている。政府の修史局(歴史編纂事業)にいた星野恒は、「崇神帝以後の年代は古事記に従えば大差なきに近し」と紀年表を発表した。これを見た那珂通世は讚を履中天皇から仁徳天皇へと修正すると発表している。また、修史局にいた菅政友は、『宋書』の「済死す。世子興遣使」の世子とは日嗣(ひつぎ)の皇子を意味するとして、興は履中天皇の第一皇子の市辺押磐皇子であるとの説を発表した。興については、修史局にいた久米邦武が、允恭天皇の長男で同母妹の軽大娘皇女と通じたとして次男の穴穂皇子(後の安康天皇)によって廃された木梨軽皇子であるという新説を出している。明治時代には、讚は仁徳天皇、珍は反正天皇、済は允恭天皇、武は雄略天皇であることは固まっている。

 

昭和時代の戦後、東洋史学者の前田直典は『宋書』倭国伝の武の上表文にある祖禰にも注目し、讚は応神天皇という説を発表している。この説は一時定説になった感があったが、数年後には橋本増吉、近藤啓吾、丸山二郎、井上光貞などの著名な歴史学者の反論に会っている。倭の五王の比定は今にいたっても定説がないという状態である。

 

Z437に応神天皇崩御から雄略天皇崩御までの、『古事記』記載の情報を示した。なお、安康天皇については、崩御干支の記載がないが、安康天皇が皇后長田大郎女の前夫の7歳の子供の目弱王(眉輪王)に殺されたの話が『書紀』と同じであることから、『書紀』の在位3年を採用している。また、在位については崩御間の値(空位含む)を算出している。

 

Z438.倭の五王の比定.png

『古事記』の天皇崩御干支の通説は、応神天皇の甲午は394年、雄略天皇の己巳は489年で、『宋書』倭国伝・帝紀では、讃が初め貢献したのが421年、武が最後に貢献したのが478年である。これからすると、倭王の5人は、仁徳・履中・反正・允恭・安康・雄略の6人の天皇で、誰か一人の天皇が貢献していないことになる。倭の五王、讃・珍・済・興・武の年代と『古事記』の編年が一致するか比較したのがZ438の表である。

 

「古事記干支」の欄を見れば、倭の五王、讃・珍・済・興・武の比定が江戸時代から現在に至るまで、諸説が乱立し定説が定まらなかったことが理解できると思う。「プラス5年」の欄は、応神天皇から安康天皇までの崩御年にプラス5年した(5年繰り下げた)年代との比較である。応神天皇から安康天皇の崩御年にプラス5年すると、『宋書』倭国伝と帝紀に記載された倭の五王の讃・珍・済・興・武の年代とピッタリ一致し、讚は仁徳天皇、珍は反正天皇、済は允恭天皇、興は安康天皇、武は雄略天皇であることが一目瞭然である。「プラス5年」は「プラス4年」でも、「プラス6年」でもダメで、「プラス5年」でなければならない。これは江戸時代から現在にいたるまでの学者・研究者が知らなかった大発見かも知れない。こんなことが起こるのは、『古事記』の天皇崩御干支は伝承されたものではなく、『書紀』と同じように編年されたものであるからだろう。


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72-3. 『古事記』の天皇年齢は2倍暦ではない [72.『古事記』と『日本書紀』の編年を合体]

10代崇神天皇から21代雄略天皇の12名の天皇についてみると、『古事記』は崩御干支については9名の天皇の記載があるだけだが、崩御の年齢については全員の記載がある。『古事記』の編年解読に、年齢を活用すればよいと思われるが、12名の内うち5名が100歳以上であり、編年の情報としては信頼することが出来ない。

 

魏志倭人伝に倭人の年齢は「百歳あるいは八、九十歳」とあり、文末注に「魏略曰く、その俗、正歳四節を知らず。ただ春耕秋収を計って年紀と為す。」の記述があることから、記紀の天皇の年齢は1年で2歳年をとると二倍年暦で計算した結果であるとの説がある。『古事記』の天皇の年齢は2倍年暦で換算されているか、天皇誕生時の父(前天皇)の年齢と即位の年齢を指標に検証した。何故、この二つの指標にしたかというと、前天皇との系譜が親子関係であるときは、「即位年齢=皇子年齢+1=前天皇年齢―誕生時父年齢+1」が成り立ち、即位年齢と誕生時父年齢は相反の関係があり、答えが絞られてくるからである。また、特別の事情が無い限り誕生時父年齢と即位年齢は18歳~60歳の範囲にあると判定基準が想定できるためである。

 

Z439.2倍年暦.png

表Z439にその結果を示す。表の中で黄色は『古事記』崩御干支の通説と変更したところで、応神天皇から安康天皇までは前章で示したように倭の五王の年代とピッタリ一致しているプラス5年を採用した。垂仁天皇と景行天皇の崩御西暦は、私の推定値である。誕生時父年齢で見ると、応神天皇・履中天皇・安康天皇・雄略天皇が15歳以下であり、特に応神天皇の値はマイナスのあり得ない値である。また、即位年齢では仁徳天皇が10歳で異常値が出ている。これらより、『古事記』記載の天皇の年齢は二倍年暦で換算されたものでないことが分る。


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72-4. 崇神天皇の崩御干支の戊寅は318年か! [72.『古事記』と『日本書紀』の編年を合体]

崇神天皇の崩御干支の戊寅は、通説では318年に比定されており、多くの歴史・考古学者がそれを支持している。しかし、258年という異説もあり、318年で問題ないか検証した。崇神天皇の崩御干支の戊寅を318年とした場合、誕生時父年齢と即位年齢が18歳~60歳の範囲を満足させる天皇の年齢が存在するかを調べたのがZ440の「記通説+5年表」である。表の編年の欄にある修崩御年齢は、崩御年齢から延長年齢を引いたものである。

 

Z440.崇神崩御318年.png

全ての天皇において、誕生時父年齢と即位年齢が18歳~60歳の範囲を満足させる天皇の年齢が存在した。仲哀天皇の誕生時父年齢が15歳であるが、仲哀天皇は成務天皇の異母兄倭建命(日本武尊)の息子であり、倭建命が成務天皇より3歳程度年上ならば問題ない。応神天皇の即位が4歳になっている。仲哀天皇が筑紫で崩御され、神功皇后が新羅征伐した後に、応神天皇が筑紫で生まれている。その後神功皇后が大和に帰り摂政になっており、応神天皇の即位が4歳は問題はない。

 

Z441. 書紀記事年数.png崇神天皇の崩御干支の戊寅を318年に比定した場合、誕生時父年齢と即位年齢に問題を起こさない最適年齢が設定できた。しかし、私には気になることがある。それは垂仁天皇と景行天皇の在位が17年・15年と『日本書紀』の記事年数より少ないことだ。崇神天皇から雄略天皇までの、古事記の編年「記通説+5年表」の在位年数と『書紀』の記事年数(記事が記載されている年数)と空白年数(記事が書かれていない年数)の関係をZ441に示した。ただし、記事年数には魏志倭人伝・百済記・百済新撰・百済本記などの引用記事やそれに付帯してある記事は省いている。

 

「72-.『古事記』の編年と倭の五王」で示したように、応神天皇から安康天皇の崩御の年に5年プラスすれば、『宋書』倭国伝と帝紀に記載された倭の五王は、讚は仁徳天皇、珍は反正天皇、済は允恭天皇、興は安康天皇、武は雄略天皇の年代がピッタリ一致した。これら5名の天皇については全て古事記の編年に記事が収まる。履中紀のマイナス1年は許容の範囲内であろう。応神紀の場合は神功紀の記事を含めても応神記の編年内に収まる。これらに比較して垂仁紀のマイナス5年、景行紀のマイナス11年は異常である。成務紀のマイナス2年は両天皇の影響を受けたものであろう。垂仁紀では、記事年数が22年、空白年数が77年である。景行紀では、記事年数26年、空白年数34年である。『古事記』の編年において、崇神天皇の崩御を318年に比定した場合、垂仁記には『書紀』の垂仁紀の5年分の記事が収まらず、景行記には景行紀の11年分の記事が収まらない。

 

『古事記』の景行記と『書紀』の景行紀を対比すると、景行天皇とその息子の倭建命(日本武尊)(やまとたけるのみこと)の行動に大きな違いがある。古事記では、倭建命が熊襲征伐・出雲建討伐・東国征伐を行っている。『書紀』では、景行天皇自身が日向国に赴き襲国を平定し、筑紫の国を巡幸している。そして、帰京後に熊襲が再び背いたので、日本武尊を熊襲征伐に派遣し、その後に東国征伐に向かわしている。倭建命が出雲討伐した話は、『書紀』には記載されてなく、景行天皇が九州遠征した話は、古事記には記載されていない。

 

しかし、『古事記』と『書紀』が示す我が国の歴史は大筋では同じでり、『書紀』の記事の根底には史実があると確信する。だからこそ『古事記』の崩御干支から導く編年には、『書紀』の記事の全てを包含できなければならないと思う。その意味において、垂仁紀と景行紀の記事の書かれた年が、『古事記』の崩御干支から導く編年に収まらないのは、編年が違っていると思わざるを得ない。崇神天皇の崩御干支の戊寅は318年ではないと考える。


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72-5.神功皇后が実在した証拠は「寐錦(むきん)」 [72.『古事記』と『日本書紀』の編年を合体]

『古事記』『日本書紀』に記載された天皇の中で、歴史・考古学者がその存在を全く信用していない天皇は、神武天皇と神功皇后であるといっても過言ではない。『書紀』は、神功皇后が新羅の国に攻め込んで、新羅が降伏した時の様子を「新羅王波沙寐錦(はさむきん)、微叱己知波珍干岐(みしこちはとりかんき)を人質とし、金・銀・彩色・綾・絹を沢山の船にのせて、軍船に従わせた」と書いている。

 

日本および東洋の思想史研究に大きな業績を残し、文化勲章を受ておられる津田左右吉氏は、『書紀』の「新羅王波沙寐錦」について、「新羅王波沙寐錦は、王として三国史記などに見えない名である。『波沙寐』は多分新羅の爵位の第4級『波珍』の転訛で、『錦』は尊称ではなかろうか。もしそうとすれば、これは後人の付会であって、本来王の名として聞こえていたのでは無い。・・中略・・この名およびこの名によって語られている人質の派遣と朝貢との話は後に加えられたものであることが、文章の上から、明らかに知られるようである」と述べており、神功皇后の新羅征伐はもちろんのこと、神功皇后の実在を否定されておられる。

 

4世紀末から5世紀の朝鮮半島の三国(高句麗・百済・新羅)ならびに倭との関係を記した有名な広開土王碑(好太王碑)がある。この石碑の第3面の2行目には「新羅寐錦」の刻字がある。ただ、「新羅寐錦」と読まれたのは近年のことで、それまでは「新羅安錦」と読まれていた。

 

Z442.中原高句麗碑.png「寐錦」が新羅王を表すということを歴史学者(日本・韓国・中国)が知ったのは、1978年に韓国の忠清北道忠州市(ソウル南東100km)で発見された中原高句麗碑からである。 碑は、高さ2m、幅0.55mの石柱の四面に刻字があり、5世紀前半の高句麗の碑石であることが判明した。この碑文の中に「新羅寐錦」の文字がある。「高麗太王」と「新羅寐錦」の関係は「如兄如弟」とあり、新羅寐錦は新羅王を指していることが分る。1988年に慶尚北道蔚珍郡竹辺面で石碑が発見され、蔚珍鳳坪碑と名付けられ国宝となった。この碑は新羅の法興王11年(523年)に建立されたもので、新羅が高句麗から奪回した領地に「寐錦」の視察があったことが刻字されている。

 

『日本書紀』の神功紀には「新羅王波沙寐錦」とあり、広開土王碑・中原高句麗碑・蔚珍鳳坪碑に刻字された「寐錦」という文字が、新羅王を表わす君主号であることと一致している。「寐錦」と言う言葉は、史実の伝承として後世に残らなかった言葉であり、決して後世の人が付け加え出来る言葉ではない。『書紀』は津田氏や歴史学者より、「寐錦」の言葉を正確に伝えており、神功皇后が実在し、新羅征伐が史実であった証拠であると考える。

 

『古事記』にも、神功皇后の新羅征伐を行ったこと、そのときお腹の中には応神天皇が宿っていたこと、お腹の御子が産まれないようにと石を腰に付けたこと、その石が筑紫の伊斗村にあることなど『書紀』とストーリーは同じである。『古事記』の崩御干支から導く編年には、『書紀』の神功皇后の全ての記事(『魏志』『百済記』等も引用記事を除いて)を収められなければならないと思う。

 

『書紀』の記事には、誇張があったり、勝負・正悪・清濁・譲奪が反対であったり、時代考証なしで後世の言葉を使っていたりする。また編年においても、記事と記事の間の空白の期間で歴史を延長し、『魏志倭人伝』や『百済記』などから引用挿入して、その延長された歴史があたかも正確であるように見せかけている。だからといって、史料批判という名のもとに全て排除したのでは我が国の歴史は姿を現さないと考える。神武天皇についても『古事記』と『書紀』のストーリーは大筋同じである。神武天皇は創作された人物とせず、歴史の編年を行ってみる。


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72-6. 『住吉大社神代記』は垂仁天皇の没年を捏造 [72.『古事記』と『日本書紀』の編年を合体]

皇學館大学の学長であられた田中卓氏は、崇神天皇の没年は通説より干支一廻り前の258年とされている。田中氏の論拠は『住吉大社神代記』に「活目入彦命(垂仁天皇)は彌麻帰天皇(崇神天皇)の子、巻向の玉木の宮に大八嶋國御宇し、五十三年辛未に崩る。」とあることから、垂仁天皇の没年を311年(辛未)と捉え、53年前の258年を崇神天皇の没年としている。垂仁天皇の没年を干支一廻り後の371年(辛未)としたのでは、垂仁天皇の時代が百済の肖子王の時代となり、応神天皇が肖子王から馬二頭を献上されたと記載する『古事記』の記述と齟齬をきたすからであろう。

 

Z443.記258年表.png

崇神天皇の崩御を258年として作成した年表「記258年表」がZ 443である。検証の欄を見ると、誕生時父年齢と即位年齢で問題の箇所はひとつもない。もちろん垂仁天皇と景行天皇の在位年数が44年と41年なので、『書紀』垂仁紀と景行紀の記事年数22年と26年を収めることが出来る。しかし、逆に垂仁天皇と景行天皇の在位年数が44年と41年が長いことが気になる。『古事記』が記載している天皇の中で、在位が一番長いのは37年の推古天皇、次が33年の仁徳天皇、そして32年の応神天皇、雄略天皇(安康天皇在位3年として)、欽明天皇(日本書紀)である。125代平成天皇までで見ても、在位が40年以上の天皇は昭和天皇の63年、明治天皇の45年の2人のみである。

 

崇神天皇の崩御を258年とすると、垂仁天皇と景行天皇の在位年数が44年と41年が長くなり、258年説が本当に正しいか疑念が沸いてきた。そこで、その根拠となった『住吉大社神代記』の記述を検証した。『住吉大社神代記』の記述の中で、干支で表記されてる年の記事をピックアップした。

  仲哀天皇の即位は元年壬申の春正月

九年庚辰五十二歳で崩御

庚辰の年十二月譽田皇子を産む

新羅を伐った明年辛巳の春二月、皇后は群卿百寮を率いて穴門の豊浦宮に移る。

群臣は皇后を尊んで皇太后と曰す。是年太歳辛巳、攝政元年となす。

二年壬午十一月天皇を河内國長野陵に葬しまつる。

水色が『書紀』と同じ記述である。仲哀天皇と神功皇后に関する干支が記載された年の記事は、『書紀』と全く同一で、『住吉大社神代記』が『書紀』を引用して編年していることはあきらかだ。

 

垂仁天皇の崩御干支が記載されているのは「船木等本記」というところにある。垂仁天皇の崩御年号と干支の記述の前には、崇神天皇の崩御年号と干支が記載されている。「彌麻帰入日子之命(崇神天皇)とは、大日日命(開化天皇)の御子なり。志貴御豆垣宮に御宇しし天皇なり。六十八年、戊寅年を以て崩ります。山邊上陵に葬しまつる。活目入彦命(垂仁天皇)は彌麻帰天皇(崇神天皇)の子、巻向の玉木の宮に大八嶋國御宇しし五十三年辛未崩ります。菅原伏美野中の陵に葬しまつる。」 

 

『住吉大社神代記』は、崇神天皇が68年の戊寅の年に崩御したと記している。『古事記』では、崩御干支は戊寅である。『書紀』では、崩御の年号は68年で干支は辛卯である。『住吉大社神代記』は、崇神天皇の崩御の干支を『古事記』から、崩御の年号を『書紀』から引用ている。ちょっと胡散臭い史料である。

 

それでは垂仁天皇の崩御の年号53年と干支辛未は、何から引用しているのであろうか。『古事記』には垂仁天皇の崩御の年号も干支書かれていない。記載があるのは崩御年齢が153歳とあるだけだ。『書紀』では、垂仁天皇の崩御の年号は99年で干支は庚午である。垂仁天皇の崩御の翌年が景行天皇の元年で、太歳干支は辛未である。『住吉大社神代記』は、垂仁天皇の崩御干支を『書紀』の景行天皇の元年太歳の辛未を引用している。そして、『古事記』にある垂仁天皇の年齢153歳から100歳をマイナスして、53歳で亡くなったとするところを、53年に崩御とすり替えたと思われる。『住吉大社神代記』の垂仁天皇の没年を『書紀』と『古事記』から捏造したもので、史料として使えない。また、崇神天皇の崩御を258年とするのも在位年数から疑問が残る。


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72-7. 崇神天皇の崩御干支の戊寅は即位の年 [72.『古事記』と『日本書紀』の編年を合体]

私は「72-. 崇神天皇の崩御干支の戊寅は258年」で示したように、崇神天皇の崩御干支の戊寅の通説318年を否定した。しかし、258年の論拠となる『住吉大社神代記』の垂仁天皇の没年は『書紀』と『古事記』から捏造されたものであった。また、在位年数が垂仁天皇と景行天皇共に40年を超えており、125代の昭和天皇、そして明治天皇に続く在位である。崇神天皇の崩御258年説も行き詰ってしまった。そうかと言って『古事記』記載の「崇神天皇の崩御干支の戊寅」を無視したくは無い。この矛盾を解決することで思いついたのが、「崇神天皇の崩御干支の戊寅は即位干支であった」とすることであった。そこで「崇神即位を258年の戊寅」として作成した年表「記即位258年表」が、Z444である。誕生時父年齢と即位年齢に問題を起こさない最適年齢が得られた。また、『書紀』垂仁紀と景行紀の記事年数は垂仁記と景行記の在位年数の中に収めることが出来る。

Z444.記即位258年表.png

 

Z445.記即位と紀縮の比較.png私は25年前に『日本書紀』が歴史を900年延長していることを発見し「紀縮900年表」を作成している。「紀縮900年表」は『書紀』の記事と記事の間の空白の期間が4年以上の場合、その期間は歴史を延長した期間であるとして省き作成している。その4年以上の空白の期間の合計が900年である。「紀縮900年表」は『書紀』の全ての記事を収めることができている。そして、『宋書』倭国伝・帝紀にある倭の五王、讃を仁徳天皇、珍を反正天皇、済を允恭天皇、興を安康天皇、武を雄略天皇として、『古事記』(応神天皇から安康天皇の崩御年を5年繰り下げた)と同様に年代がピッタリ合っている。この「記即位258年表」と「紀縮900年表」を比較したのがZ445である。両者は全く違ったプロセスで作成した年表だがよく似た年代観を示している。崩御年の差(崩A-B)でみると、仁徳天皇から雄略天皇まではほぼ一致していることが分る。大きく違っているのが、応神天皇の19年である。仲哀天皇・成務天皇・景行天皇とその差が16年から13年と少し下がり、崇神天皇では両者が一致している。在位年数の差(在A-B)で見ると、仁徳天皇だけが▲18年と大きく、その他の天皇は概ね近いことがわかる。これらより、応神天皇の崩御の年(仁徳天皇の即位の年)を見直せば「記即位258年表」と「紀縮900年表」が近づいてくることが分る。

 

歴史・考古学者の間では『書紀』の太歳干支より『古事記』の崩御干支の方が信頼が高い。そこで「記即位258年表」の年表に「紀縮900年表」を重ね合わせることにした。私は『古事記』の編年と『日本書紀』の編年とを合体させるにあたり、留意した点がある。それは、百済の肖古王(照古王)が応神天皇に良馬二匹・大刀(七枝刀)・大鏡(七子鏡)を奉った年代を合わせる事である。『古事記』の応神記には次の文章がある。「百済の国王照古王が牡馬一疋・牝馬一疋を阿知吉師に付けて貢りました。また大刀と大鏡とを貢りました。百済国に賢人があれば貢れと仰せになり、和邇吉師が論語十巻・千字文一巻を携え召された」。これらに関する『書紀』の文章は下記の通りである。

神功52年(372年:252+120

    百済の肖古王が七枝刀一口、七子鏡一面、種々の重宝を奉った。

神功55年(375年:255+120

  百済の肖古王が薨じた。翌年、百済の皇子貴須が王となった。

応神15年

 百済王は阿直岐を遣わして良馬二匹を奉った。天皇が優れた学者を請われ、翌年に王仁がきた。

朝鮮の正史『三国史記』によると、肖古王の在位は346年~375年で、神功52年・神功55年の記事は干支二廻り120年繰り上げられた挿入記事であり、応神朝の事である。応神15年の記事が372年~375年の間に入るような年表の作成が必要である。

 


『古事記』と『書紀』を合体させた年表を「記紀年表」と名付けた。「記紀年表」は下記の条件を満足するものとした。

 1)『古事記』の崇神天皇崩御の干支戊寅は即位干支に置き換え、崇神天皇の即位は256年とする。

 2)「各天皇の崩御年は『古事記』の崩御干支の年(通説)から10年以内のこと。

 3)「記紀年表」には『書紀』の全ての記事(引用記事を除く)が収まること。

 4)各天皇の誕生時父年齢と即位の年齢は、特別の場合を除き18歳から60歳の範囲に入っていること。

 5)『宋書』の倭の五王の記事との対比において、讃は仁徳天皇、珍は反正天皇、済は允恭天皇、興は安康天皇、

   武は雄略天皇の比定に1年の齟齬も生じないこと。

 6)『書紀』の応神15年の肖古王の記事は、372年から375年の間に収まること。

「紀縮900年表」は『書紀』の全ての記事を収めることができているので、天皇の在位年数を減らす場合は「紀縮900年表」にある記事と記事の空白の期間、あるいは空位の期間を減らし、天皇の在位年数を増やす場合は「紀縮900年表」の作成時に省いた記事と記事の空白の期間を復活させることにした。作成できた「記紀年表」をZ446に示す。


 

Z446.記紀年表.png

これらの原則に反したのは、雄略天皇のみであった。雄略天皇の在位年数は『古事記』では32年(安康天皇の在位を3年として)、その差の9年の内5年は、倭の五王と年代を合わせるために安康天皇の崩御年を5年繰り下げて埋まり、2年は『書紀』にはない空白の年を2年加えた。この2年の空白年の増加により、『書紀』の雄略12年にある身狭村主等を呉に遣わした記事が676年になった。『三国史記』では675年には百済の王都漢城が高句麗より落城している。『宋書』倭国伝では、678年に武(雄略天皇)が朝貢し、差し出した上表文には「高句麗が百済の征服をはかったため朝献出来なかった。」と言い訳をしている。「記紀年表」の精度が如何に高いかが分る。


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72-8.『古事記』も900年歴史を延長していた [72.『古事記』と『日本書紀』の編年を合体]

私は25年前に『日本書紀』が歴史を900年延長していることを発見し、「紀縮900年表」を作成している。その延長の900年は、神武天皇で69年、欠史8代の天皇で484年、崇神天皇から雄略天皇で340年、継体天皇で7年であった。『古事記』にも欠史8代の天皇(2代綏靖天皇~9代開花天皇)の記事が記載されている。これからすると、『古事記』も歴史を延長していると考えられる。

 

崇神天皇から雄略天皇において、『古事記』には在位年数の記載がなく、編年の分かるのは天皇崩御の干支だけである。通説では前後の天皇の崩御干支の間は干支一廻り以内としているが、『古事記』の編年は崩御干支に影響が無いように、干支一廻り60年の単位で歴史を延長しているかも知れない。もし、そのような延長がなされていたとするならば、その延長の痕跡が天皇の年齢に残されていると考える。天皇の年齢が90歳以上の場合、『古事記』は歴史を干支一廻り60年、あるいは二廻り120年延長していると考える。崇神天皇から雄略天皇において、90歳以上の天皇は6名(崇神・垂仁・景行・成務・応神・雄略)である。崇神天皇は年齢168歳で120年の延長、後の5名天皇は60年の延長、合計420年歴史を延長していると思う。

 

欠史8代の天皇(2代綏靖天皇~9代開花天皇)は歴史を延長するために創作された天皇であると考える。欠史8代の天皇では90歳以上の天皇が3名(5代孝昭天皇93歳、6代孝安天皇123歳、7代孝霊天皇106歳)いる。これらの天皇ではそれぞれ60年、合計で180年延長されている。また、8代の天皇の在位年数合計も延長された年数である。欠史8代の天皇においては、年齢は全ての天皇に記載されているが、崩御干支は誰一人として記載がなく、在位年数を知る手がかりは年齢だけである。天皇ごとの在位年数は分からないが、欠史8代の在位年数の合計ならば、年齢から算出できる方法を考えた。

Z447.欠史八代在位 ①.png

 

8代の天皇の系譜(前天皇との関係)は全て父子であり、それも2代綏靖天皇が第3子以外は第1子と第2子である。「次の天皇となる皇子は、天皇が即位した年に生まれた」と仮定したのが表Z447である。表の黄色の期間が求める欠史8代天皇の在位年数合計であり、下記の公式が成り立ち、欠史8代の在位年数の合計は201年であることが分る。

欠史8代在位年数合計=([2代綏靖~10代崇神]年齢合計

―(2代綏靖皇子年齢+10代崇神天皇在位年数))/

      ≒([2代綏靖~10代崇神]年齢合計

        ―(2代綏靖年齢+10代崇神年齢)/)/

      ≒(449-(45+48)/2)/2=201

 

Z448.欠史八代在位 ②.png

欠史8代の在位年数の合計は、天皇誕生時の父(前天皇)年齢(n)からも計算できる。表Z448に示すように、欠史8代天皇の在位年数合計は下記の公式が成り立つ。

欠史8代在位年数合計=9代開花年齢―1代神武年齢
(n1~n8)合計

(n1~n8)の平均をNとすると

欠史8代在位年数合計=9代開花年齢―1代神武年齢+8N

=63-47+8x26=224

 

9代開花天皇の年齢は63歳、初代の神武天皇の年齢は137歳であるが90年延長されているとして47歳とした。平均天皇誕生時父年齢Nは不明であるが、前章の「記紀年表」で前天皇と父子関係にある天皇(垂仁・景行・成務・応神・仁徳・履中・安康)の平均天皇誕生時父年齢Nは26歳であった。この値を代用すると欠史8代在位年数合計は224年となった。「次の天皇となる皇子は、天皇が即位した年に生まれた」と仮定して計算した201年と大きく変わらない。欠史8代在位年数合計は両者の平均として210年とする。

 

『古事記』が歴史を延長している年数は、崇神天皇から雄略天皇が420年(年齢)で、欠史8代が180年(年齢)と210年(在位)、そして神武天皇については、初代の天皇は崩御干支に影響を与えないので年齢の延長がそのままの歴史延長に繋がるとして90年(年齢)とした。『古事記』が歴史を延長している合計が900年となった。私は『書紀』が900年歴史を延長していることを発見したが、『古事記』もまた900年歴史を延長していた。


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72-9. 神武天皇の建国は釈迦入滅より古い [72.『古事記』と『日本書紀』の編年を合体]

『古事記』は和銅5年(712年)1月に太安万侶が元明天皇に献上している。その序文には、天武天皇が「諸家に伝わっている帝紀及び本辞には、すでに真実と違い、多くの虚偽が加わっている。今この時にその誤りを改めなければ、今後幾年も経たないうちに滅んでしまう。これらは国家の経緯、天皇家(王化)の基本である。帝紀を撰録し、旧辞を検討して、偽りを削って正しきを定めて、後世に伝えようと思う。」と仰せになったとある。

 

『日本書紀』は養老4年(720年)に舎人親王により撰上されている。『書紀』には序文はないが、天武10年(681年)3月の記事に、天武天皇が大極殿にお出ましになり、帝紀と上古諸事(旧辞)を記録し定めるようにと、川島皇子等13名に詔を発し、それを大嶋・子首に執筆させ記録に残したとある。『古事記』の編纂も、『書紀』の編纂も、この「詔」が出発点で、帝紀・旧辞を基にしていることがわかる。

 

 津田左右吉氏は帝紀・旧辞の成立について、『古事記』の旧辞を出典として考えられる物語の多くが、23代顕宗天皇の御世までであることを理由に、「それらからあまり遠くない時代、しかしその記憶がやや薄らぐくらいの欽明朝の頃、6世紀の中頃には一通りまとまっていたのだろう。」と述べている。帝紀・旧辞は欽明朝に成立したのであろう。

 

『古事記』『書紀』の両書共に、欠史8代の天皇を挿入し、900年歴史を延長ていることから、帝紀・旧辞の成立した欽明朝に歴史を古く見せる編年が行われていたと考える。何故、帝紀・旧辞は900年歴史を延長した編年を行ったのか、何故、神武天皇の建国が辛酉の年であるのか明らかにしなければならない。

 

明治時代の学者那珂通世氏は、『書紀』が神武天皇の建国を紀元前660年と古い時代に持ってきたのは、大和政権の権威を高めるために、中国の歴史に比べて遜色ないように脚色された。神武天皇の建国が「辛酉」の年になっているのは、中国の漢代に流行した思想、「辛酉の年ごとに、中でも21度目の辛酉の年に大いに天の命が改まる」に基づいて定められたという辛酉革命説を唱え、それが定説となっている。

 

神武建国から21度目の辛酉の年は推古5年にあたる。その前年に我が国の仏教の礎となった法興寺(飛鳥寺)が落成しており、辛酉革命説はそれを指しているのだろう。『書紀』が歴史を900年延長し、神武天皇の建国を紀元前660年と古い時代に持ってきたのが辛酉革命説としたならば、その延長が欽明朝になされていることより、大和政権の権威を高めるためではなく、仏経が我が国に伝わったことと関係するのではないかと思われる。

 

Z449.タイカレンダー.png私は2000年にタイランドに赴任した。その年は、正確には翌年からが21世紀であるにも関わらず、マスコミは新しい世紀に入ったと、多くの報道をしていた。スナックで先輩と飲んでいた時のことである。日本語の喋れるタイ人のママさんと、21世紀についての話が弾んだ。その時、ママさんが「タイは今年2543年、キリストよりもお釈迦さまの方が古い」と言った。すると、その年還暦を迎えた先輩は「私が生まれた年には、皇紀2600年のお祝いがあった。だから今年は2660年、お釈迦さまより日本の神武天皇の方が古い」と言い返した。

 

私は、25年前に出版した「神武天皇と卑弥呼の割符 900-660=240」の中で、「釈迦の存在を知った大和人は、日本(やまと)建国の神武天皇は釈迦より古い現人神として、歴史を作ったのではないだろうか」と書いている。タイで採用されている仏暦が、『書紀』の編年の延長は「大和政権の権威を高めるためになされた」とする歴史学会の難しい定説より、「神武天皇は釈迦より古い現人神」とするためになされたとする方が、真実に近いと証明してくれたように思う。

 

『書紀』欽明天皇13年には、仏教伝来についての記述が見られる。百済の聖明王は侍臣を遣わして、釈迦仏の金銅像一体・経論千巻をたてまつり、仏法は諸法の中で最も勝れている。遠く天竺から三韓に至るまで、教えに従い尊敬されていると仏を広く礼拝する功徳を伝えている。蘇我稲目は「西の国の諸国は皆礼拝しています。豊秋の日本だけがそれに背くべきでしょうか」と、仏教礼拝に賛成した。物部尾輿・中臣鎌子は「わが帝の天下に王としておいでになるのは、常に天地の祠の百八十神を、春夏秋冬にお祀りされることが仕事であります。今始めて仏を拝むことになると、恐らく国つ神の怒りをうけることになるでしょう」と、仏教礼拝に反対した。

 

拝仏反対派の物部氏の先祖は、神武天皇が東征された時、長髄彦を殺害し帰順した饒速日命。中臣氏の先祖は、天照大神が天の岩屋にこもったとき、岩屋の前で祈祷した天児屋命、また神武天皇が東征した時の侍臣であった天種子命である。拝仏反対派の物部尾輿・中臣鎌子の二人、あるいはどちらかが帝紀・旧辞の編纂に関わりを持っていて、「神武天皇は釈迦より昔に我が国を建国された」との筋書きを作り、歴史を編纂させたと考える。蘇我氏と物部氏・中臣氏の仏教を巡る争いが、記紀の編年を歪めた源流なのであろう。


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72-10.卑弥呼の宗女壱与は崇神天皇の皇后 [72.『古事記』と『日本書紀』の編年を合体]

戦前は、記紀に書かれた歴史は全て正しいとされた。戦後は、記紀に書かれた推古より以前の歴史は、歴史の対象でないと全て否定された。近年、考古学の発掘が数多く行われ、科学的機器が取り入れられるに及んで、記紀が史実を書いていると見直されることも増えて来てた。現在その実在を信じられている最古の天皇は崇神天皇である。神武天皇の実在は信じられておらず、日本建国神話の一部であるとの考えから脱却できていない。

 

『古事記』『書紀』の両書共に、欠史8代の天皇を挿入し、900年歴史を延長して、神武天皇を釈迦より古い現人神としている。神武天皇が実在したかどうか決めつけず、神武天皇を含めた「記紀年表」を完成させ、その答えを探った。『古事記』の神武記には、神武天皇の年齢が137歳であるという以外に編年の情報はない。『書紀』の神武紀は、神武元年から神武76年の崩御までと3年の空位となっているが、記事が書かれてあるのは6年間のみである。「紀縮900年表」では、神武天皇の在位は1年・2年・③年・4年・31年・42年・76年の7年間、そして空位3年間としている。この編年を崇神天皇の即位258年(戊寅)とする「記紀年表」に結び付けてたのがZ450である。なお、「記紀年表」には『書紀』の記事が全て包含しており、今後人物名・地名は『書紀』の表記に従う。

 

Z450.記紀年表神武.png

私は、邪馬台国は日向(宮崎県西都市)にあって、女王卑弥呼を神武天皇の母・玉依姫に比定している。このストーリーが成り立つか「記紀年表」で検証した。卑弥呼が女王に共立されたのは倭国大乱(147~188年)が収まった頃と考えると、卑弥呼の誕生は(188-α)年となる。「記紀年表」で、神武天皇の誕生が207年からすると、誕生時卑弥呼は(19+α)歳であった。神武天皇は卑弥呼(玉依姫)の息子と言える。

 

「記紀年表」では、神武天皇の即位が248年、崇神天皇即位が258年、崩御が276年となっている。『魏志倭人伝』には、247年頃に邪馬台国の女王卑弥呼と狗奴国の国王との交戦があり、その後に卑弥呼が亡くなり、男王が立つが国中承服せず戦となった。卑弥呼の宗女壱与13歳を女王に共立し戦が収まっている。また、『晋書』には泰始2年(266年)に倭の女王(壱与)が晋に朝献したとある。私はこれまで「紀縮900年表」をもとに、崇神天皇は壱与であるとの説を主張してきた。「記紀年表」では、崇神天皇の即位を13歳とする解は得られず、崇神天皇の即位は25歳となり、崇神天皇は壱与であるとの説は取り下げざるを得なくなかった。しかし、壱与が崇神朝に関わりがあることは間違いない。

 

私は次のようにストーリーを考えた。磐余彦尊(神武天皇)と兄の五瀬命とが東征に出発した隙をついて、247年頃に日向の邪馬台国に大隅の狗奴国が攻め込んで来た。その後の254年に卑弥呼が亡くなった。248年に大和国を建国し国王となっていた神武天皇は、卑弥呼のあとを継ぎ同盟30ケ国の盟主である倭国王になろうとしたが、神武天皇の台頭を恐れた国々の反対に会い戦いが始まった。その戦いは3年間におよんだ。258年神武天皇は息子と、卑弥呼の宗女、3歳の壱与と結婚させ、壱与を倭国王とし、息子を大和国王の崇神天皇として争いを治めた。神武天皇は大彦命と称して、崇神天皇(御間城入彦)と倭国王壱与(御間城姫)を支えた。「記紀年表」の神武天皇崩御の254年は卑弥呼の崩御を意味し、神武天皇の年齢は崩御年齢でなく、254年に47歳であったと理解する。

 

卑弥呼(玉依姫)の宗女(長男の娘)の壱与は、磐余彦尊の兄・五瀬命の娘と考える。五瀬命が磐余彦尊と共に吉備に滞在したのは242~246年の3年間である。その時、吉備王の娘を娶り生まれたのが壱与(御間城姫)とすると、崇神天皇即位の258年に13歳であることと合っている。一方、崇神天皇が誰にあたるか、神武天皇と崇神天皇との間に欠史八代の天皇が挿入されており決めるのは難しい。「記紀年表」によれば、神武天皇が即位したのが41歳で、26歳の時に崇神天皇が誕生していることより、崇神天皇は神武天皇が日向で吾田の吾平津媛を娶り生まれた息子ということになる。

 

ただ、崇神天皇は25歳で即位している。垂仁天皇が誕生したのは即位前の24歳の時である。記紀共に、垂仁天皇(活目入彦尊)は崇神天皇(御間城入彦)と御間城姫の子としている。御間城姫を13歳の壱与とすると、御間城姫は12歳で活目入彦尊を産んだことになり、成り立たない。活目入彦尊には異母兄の豊城命がいる。崇神紀には、崇神天皇が息子兄弟のどちらを後継ぎにするか夢占いをした話が載っている。その結果、兄の豊城命は東国を治め、弟の活目入彦尊が天皇の位を継ぐことになっている。兄が天皇の位を継ぎ、弟が東国を収めたと解釈したら辻褄は合う。

 

倭国(同盟30ケ国)の歴史からみると、神武天皇は女王卑弥呼の時代、崇神天皇は女王壱与の時代。卑弥呼の時代の倭国の東端は吉備と出雲であったが、神武天皇の東征により大和・河内が加わり、崇神天皇の時代に丹波・北陸・東海・東国と拡がった。『古事記』崇神記の最後には崇神天皇を讃えて「初めて国を治めた天皇」と呼んだとあり、『書紀』の崇神紀にも崇神天皇は「御肇国天皇」と誉め讃えられたとあるのは、このためである。


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72-11.神武天皇は三角縁神獣鏡を携えて東征した [72.『古事記』と『日本書紀』の編年を合体]

神武天皇が日向から東征に出発し、安芸・吉備・難波・熊野を経由して大和の橿原に建国したというストーリーの大筋は、東征に要した歳月以外は『古事記』『書紀』の両書共に同じである。『書紀』では、神武天皇が日向から東征に出発した年を太歳甲寅としている。「太歳」は天皇の元年の最後に太歳〇〇と干支を記載していることからして、東征に出発した年は非常に重要な記念の年であることが分る。神武天皇が建国したのが辛酉の年で、東征に7年掛かっている。「記紀年表」では、神武天皇の建国元年が248年の戊辰の年となつている。そうすれば、神武天皇が日向から東征に出発した年が241年の辛酉の年になる。

 

Z450.記紀年表神武.png

『魏志倭人伝』には、景初3年(239年)に魏の都洛陽を訪れ、皇帝の明帝に拝謁した難升米が帯方太守の使いと共に帰国した時の話として、「正始元年(240年)。太守弓遵が建中校尉の梯儁たちを派遣し、詔書と金印紫綬を奉じて倭国に行き、倭王に授けた。詔書と共に金・白絹・錦・毛織物・刀・鏡などを与えた。」とある。

 

邪馬台国の女王卑弥呼に魏の明帝から「親魏倭王」の金印と鏡100枚等の賜物のが届けられた翌年の241年に、磐余彦尊(神武天皇)は東征に出発している。卑弥呼の使いの難升米に明帝は「魏が邪馬台国の後ろ盾である証の賜り物であることを国中の人に示せ」と言っている。磐余彦尊は鏡を携えて東征に出発したと想像する。

 

邪馬台国の都に比定している宮崎県西都市に隣接する児湯郡高鍋町の持田古墳群から景初4年銘の斜縁盤龍鏡が出土し、東征のルート上にある山口県周南市竹島町の御家老屋敷古墳から正始元年銘の三角縁神獣鏡が出土している。島根県雲南市加茂町の神原神社古墳から景初3年銘の三角縁神獣鏡が出土している。卑弥呼を共立した30ケ国の東端の国が吉備国と出雲国である。磐余彦尊は東征の途中、3年間吉備に滞在した。その間に出雲に立ち寄ったと想像する。『書紀』によれば、神武天皇の皇后・姫蹈鞴五十鈴姫命の出自は出雲である。磐余彦尊は河内の白肩の津で長髄彦と戦い敗れる。負傷した五瀬命を伴ない南下した茅渟海にある大阪府和泉市の黄金塚古墳から景初3年銘の画文帯神獣鏡が出土している。

 

『古事記』の崇神天皇の崩御干支の戊寅を即位干支に置き換え、崇神即位を258年(戊寅)として、神武天皇の在位7年(空白1年含む)と空位の3年の10年間を付け加えると、神武天皇の即位が248年(戊辰)となる。神武天皇が東征に日向を出発したのが、7年前の241年の辛酉の年であった。その1年前の240年には、邪馬台国の卑弥呼のもとに魏の明帝から金印と鏡100枚等の賜物が届けられている。「事実は小説より奇なり」。邪馬台国は日向にあり、神武天皇は実在し、東征は行われた。

 

「記紀年表」は、『古事記』の崩御干支と±7年以内(崇神天皇崩御干支は即位干支と置き換えて)の範囲にあり、また『書紀』に書かれてある全ての記事がこの年表の中に収まっている。そして、『魏志倭人伝』とは1年の隙間なく繋がり、『宋書』倭国伝・帝紀の倭の五王とは1年の齟齬も無い。「記紀年表」は『古事記』と『日本書紀』を包含した、我が国の古代史を俯瞰できる年表である。Z451に「記紀年表」と『日本書紀』年号の対照表を示す。

 

Z451.記紀年表対照表1.png

 

Z451.記紀年表対照表 2.png

 

 

 

 

 

 

 


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