41-1.古墳の研究者を襲った“激震” [41.古墳時代の3期区分を考える]
古墳を見学することが多いが、そこに立っている案内板には必ずと言ってよいほど、「この古墳は○世紀の古墳である」と絶対年代が書いている。古墳前期や古墳後期などの相対年代がある場合は、○世紀の後ろにカッコ付きで書かれていることが多い。弥生遺跡の案内板はそれとは逆で、弥生前期や弥生後期の後ろにカッコ付きで○世紀と書いている。確かに、絶対年代が書かれてある方が一般の人には時代のイメージが湧き易いのであるが、考古学者にとっては絶対年代の比定は簡単なことではないはずだ。それでも、○世紀の表現が何の躊躇もなく使われるのは、古墳時代(前方後円墳の時代)の前期は4世紀、中期は5世紀、後期は6世紀という定説が長年に渡って信じられてきたからだと思う。
2009年5月の考古学協会総会で、国立民俗博物館が炭素14年代測定により、箸墓古墳の築造年代が240年から260年であると発表した。この発表は古墳時代の研究者にとって、その年代観が少なくとも30年は遡る“激震”であったと思う。発表の2日前に朝日新聞がその内容を報道したこともあって、総会は紛糾したようである。発表から15年経つが、古墳時代の始まりが3世紀中ごろまで繰り上がることは認められてきたようだ。
古墳時代の研究には、もう一つ“激震”が襲っている。2006年3月、宇治教育委員会と奈良文化財研究所は、宇治市街遺跡から出土した須恵器について、「4世紀後半のもので最古級と見られる」と発表した。一緒に出た板材の伐採年代が、年輪年代測定法と炭素14年代測定により389年と導かれ、須恵器の様式で最も古い「大庭寺式」であつたことから判断したという。「渡来人が技術を伝えた須恵器の生産開始時期は5世紀前半とされてきたが、定説を遡ることになる」と記してあった。
奈良文化財研究所は、この発表の10年前の1996年に、平城宮朝集殿下層の溝から土師器と共に出土した樹皮直下層の残るヒノキ材が、年輪年代法により412年と判定した。少し離れた同じ溝から土師器とTK73の須恵器片が以前に出土しており、両方の土師器の特徴は共通していることもあって、これらより、412年にはTK73の須恵器が存在していたことが明らかとなった。この事実が大きく取り上げられるようになったのは、宇治市街遺跡から出土した須恵器(大庭寺式)の年代が判明してからである。
須恵器の編年からすると、大庭寺式(TG232)に続くのがTK73の型式であり、須恵器の生産開始の揺籃期にあたるTG232の時代が4世紀末、須恵器の生産が本格化し、その流通が全国に広がったTK73の時代が5世紀初めとなる。須恵器は古墳時代の年代を決定する重要な指標であり、その年代が、それまで考えられていたよりも約30年遡ることになることは、研究者にとっては“激震”であったと思う。古墳を研究されている研究者の方々は、この二つの“激震”をどのように受け止めておられるのか興味が湧く。
箸墓古墳の築造年代が240年から260年であるということは、箸墓古墳が卑弥呼の墓である可能性が高まったということであり、須恵器のTK73の年代が5世紀初めになることは、438年に「倭王讃死し、弟珍立つ、珍遣使献ず」(宋書)とある「讃王」の墓が、仁徳天皇陵古墳の可能性が高まるということだ。図K-12の「百舌鳥・古市古墳群の編年」は、近つ飛鳥博物館の2011年の特別展『百舌鳥・古市の陵墓古墳 巨大前方後円墳の実像』の冊子にある表であるが、TG232が4世紀末、TK73は4世紀初めとなっており、須恵器の年代観は改められている。百舌古墳群にある仁徳天皇陵古墳の年代を前方後円墳図形のくびれ部の年とすれば435年であり、「倭王讃」の亡くなった年に近いことが分かる。
41-2.円筒埴輪の編年 [41.古墳時代の3期区分を考える]
円筒埴輪の編年を確立した川西宏幸氏は、1978年に「円筒埴輪総論」を『考古学雑誌』に発表し、その10年後に加筆修正して著書『古墳時代政治史序説』にその論文を掲載している。その中で川西氏は、「円筒埴輪は、形が単純であるうえに、古墳に伴う遺物の中では時間や空間を越えてかなり普遍的に存在する。しかも、副葬品と違って墳丘に樹立されているから、大がかりな発掘調査を経なくても資料が得られる。・・・円筒埴輪の編年がもし可能ならば、考古学上の時間や空間をはかる物差しのひとつに加えうるはずである。」と述べ、焼成・器面の調整(ハケ)・底部調整・タガ(突起)・スカシ孔の変化からⅠ式からⅤ式までの5段階に分類している。
図K-13は、近つ飛鳥博物館の『考古学からみた日本の古代国家と古代文化』(2013年)に掲載された「円筒埴輪の編年」である。川西氏の編年を分かり易く表わしている。ただ表にある「年代」は、川西氏の論文にある「年代」とは異なっており、その違いを下記に記した。近つ飛鳥の円筒編年は、箸墓の築造年代と須恵器の生産開始年代の遡上により約30年、円筒埴輪開始年代は約50年、川西宏幸編年より古い実年代を示している。
Ⅰ式 Ⅱ式 Ⅲ式 Ⅳ式 Ⅴ式
5C後葉
近つ飛鳥編年 3C後半 4C中葉 4C後葉 5C前葉 5C後葉
4C前葉 5C中葉 6C
Ⅰ式・Ⅱ式・Ⅲ式 とⅣ式・Ⅴ式の判別は、埴輪に「黒斑」があるかどうかの単純なことだ。前者は野焼きで焼成するため「黒斑」が生じ、後者は窖窯(あながま)で焼成するため「黒斑」が生じないということである。窖窯は初期の須恵器の焼成にも使用されており、Ⅳ式・Ⅴ式の埴輪は須恵器と共伴することも納得がいく。円筒埴輪の型式の基準が分かり易いこと、破片でも判定出来ることもあり、当初懐疑的な人もおられたようだが、古墳の築造年代の判定に有効に活用されている。
41-3.古墳時代中期の始まりを考える [41.古墳時代の3期区分を考える]
中期の始まりを集成編年5期にしているのは、広瀬氏ばかりではなく、大方の研究者も同様である。『前方後円墳集成』にある編年基準の5期の定義は、「円筒埴輪のⅢ式、同種多量の滑石製農工具が顕著となる。鉄鏃は4期出現の型式が、また短甲は三角板革綴・長方板革綴型式がそれぞれ主体を占める。銅鏃・筒形銅器・巴形銅器・石製腕飾類などは4期で消滅し、この時期には続かない。」とある。
考古学での時代区分は「画期」(過去と新しい時代を分けること。その区切り。)であるべきだ。5期には考古学的な「画期」がないと思われる。鉄鏃も短甲も4期と同じであり「画期」ではない。銅鏃・筒形銅器・巴形銅器・石製腕飾類が4期で消滅し5期にないのは「画期」であるが、このことをもって時代を区分することは出来ない。なぜなら、たとえば三角板革綴短甲と筒形銅器が共伴している場合は4期と言えるが、三角板革綴短甲だけが出土した場合、4期とも言えるが5期とも言える。5期の時代区分の頼りは円筒埴輪のⅢ式だけなのである。
考古学的に画期でない集成編年5期が、なぜ中期の始まりとされたのか、それは墳丘長が200mを越す巨大古墳が河内に造られ始めた時期であるからだ。墳丘規模(墳丘長)で全国第9位(286m)の仲津媛陵古墳が古市古墳群に、第3位(365m)の履中天皇陵古墳が百舌鳥古墳群に登場する。両者とも円筒埴輪はⅢ式で、集成編年5期にあたる。ちなみに河内に最も早く造られた巨大古墳は第27位(208m)の津堂城山古墳で、円筒埴輪Ⅱ式・集成編年4期である。三角板革綴・長方板革綴短甲の武具の出現を中期の始まりと考え、津堂城山古墳を中期に入れておられる学者の方もおられる。
5期に巨大古墳が造営されたのは河内だけではない。吉備(岡山市)に墳丘規模第4位(360m)の造山古墳が、上野(群馬県太田市)には26位(210m)の大田天神山古墳が造られている。巨大古墳の造営が河内や吉備・上野(かみつけの)へ波及したことは、古墳時代の政治的な画期ではあるが、考古学的に画期のない集成編年5期を古墳中期の始まりとして取り扱うことは、古墳の年代比定に混乱が生じていると思う。そして、それは古代史の解明に大きな妨げになっていると考える。
41-4.中期の始まりは400年が相応しい [41.古墳時代の3期区分を考える]
須恵器の始まり、TG232(大庭寺式)の登場は集成編年5期の後半である。須恵器の登場が6期であるとすると矛盾することになる。このことについて説明しておこう。私はウェブサイトの“遺跡ウォーカー”で遺跡や古墳の資料を集めている。遺跡ウォーカーでは“前方後円墳”が6,694件ヒットし、“須恵器”が34,186件ヒットする。しかし、“TG232”や“大庭寺式”ではまったくヒットしない。TG232は須恵器の揺籃期で古墳に副葬されることは少なかったと思える。TK73でもって、須恵器の古墳への登場と考えても、おかしくないと考えている。
古墳の編年において、実年代は○世紀前半・後半とか、○世紀初・末、○世紀前葉・中葉・後葉で表わされる。図12の「百舌鳥・古市古墳群の編年」では、須恵器TK73・円筒埴輪Ⅳ式の登場を400年としている。図表ではあるが、こんなに明確に実年代を表現しているのは珍しい。同成社より出版された全10巻の『古墳時代の考古学』(2011~2014年)という新しい本がある。その1巻『古墳時代の枠組み』、3巻『副葬品古の型式と編年』には、古墳時代の編年について記載されているが、「須恵器TK73・円筒埴輪Ⅳ式の登場を400年」とした編年は行われていない。
私は「須恵器TK73・円筒埴輪Ⅳ式の登場を400年」に基づいた編年の作成に挑戦した。私に出来ることは「事実をして語らしむ」ことである。ウェブサイトの“遺跡ウォーカー”から、1939基の古墳の遺構と遺物の情報を抽出した。その内、前方後円(方)墳は994基であり、『前方後円墳集成』に記載された約5200期の約5分の1にあたる。
41-5.須恵器の編年表 [41.古墳時代の3期区分を考える]
古墳の年代を決めるには、古墳の形態・埋葬施設・埴輪・副葬品について、それらの実在した年代や型式の年代を編年して行かなければならない。中でも、円筒(朝顔形)埴輪の型式と須恵器の型式は年代決定の重要な要素である。図K12に表わされた円筒埴輪の型式と須恵器の型式の関係は、最も新しい情報が取り入れられていると思われる。ただ、これを鵜呑みにするのでなく、自分自身で事実を掴んでみようと、1739基の古墳のデータベースより、須恵器の型式(TK73~TK10)が分かっている203基の古墳を抽出した。その中で円筒埴輪の型式(Ⅳ式・Ⅴ式)が分かっている古墳は94基であった。表16にそれらの結果を示す。表は小文字一文字が1基の古墳のデータ、大文字は5基の古墳を示す。同じ列で上下に文字がある場合は同一古墳で両方の型式が共伴していることを示している。(*/+:TK73とTK216が1基の古墳で共伴、N/D:MT15 とTK10が5基の古墳で共伴)
表K16からすると、円筒埴輪Ⅳ式とⅤ式が共伴するのは2基の古墳だけであるが、須恵器はTK73とTK216で2基、TK208とTK23で2基、TK23とTK47では7基、TK47とMT15では5基、MT15とTK10では6基の古墳が共伴関係に在ることが分かる。図12の「百舌鳥・
古市古墳群の編年」では、円筒埴輪Ⅳ式とⅤ式を斜めの線で区切り共伴があるとし、須恵器は横線で区切り共伴が少ないとしているが、それは逆で、円筒埴輪ⅣとⅤを横線で区切り、須恵器は斜線で区切った方が良いと思えた。ただ共伴の期間が短い場合は横線で区切って、その区切りの前後には共伴関係が存在すると考える方が分かり易いように思えた。
図K12にもあるようにTK23とTK47は少しのずれがあるが同時期のものであると思えた。表16で重要なことは、TK23とTK47の双方に円筒埴輪Ⅳ式とⅤ式が存在することだ。私は、円筒埴輪Ⅳ式でTK23とTK47が存在する期間を7.5期として中期の終わりに定め、円筒埴輪Ⅴ式でTK23
とTK47が存在する期間を後期の初めと整理した。実年代は図K12「百舌鳥・古市古墳群の編年」を基本として編年表を作成した。表K17は古墳中期は円筒埴輪Ⅳ式の時代で400年から、古墳後期は円筒埴輪5式の時代で470年からという明確な3期区分が出来あがった。
41-6.九州で始まった横穴式石室 [41.古墳時代の3期区分を考える]
古墳後期の始まりについては、前章で円筒埴輪Ⅴ式(集成編年8期)からとしたが、集成編年9期からとされている学者も多い。集成編年9期の定義は「円筒埴輪のⅤ式。MT15・TK10型式。鉄製輪鐙・心葉形杏葉・楕円形杏葉・鐘形杏葉・半球形雲珠や竜鳳環頭大刀が出現する。横穴式石室が普及する。」とある。須恵器・馬具・珠・大刀の型式変化は大きな画期にはならないが、「横穴式石室の普及」は大きな画期である。ウェブサイトの“遺跡ウォーカー”で「横穴式石室」を検索すると13,466基の古墳がヒットした。この数は前方後円(方)墳の数よりはるかに多く、円墳・方墳や飛鳥時代(古墳終末期)の上円下方墳や八角形墳にも取り入れられていたことが伺える。これらからして、古墳時代にとって「横穴式石室の普及」は大きな画期である。
「横穴式石室の普及」ということは、集成編年9期より前に横穴式石室が出現していたことになる。古墳データベースより、円筒埴輪Ⅳ式以前の横穴式石室を持つ古墳を抽出し表K18を作成した。表を見ると、円筒埴輪Ⅱ式の時代に、九州北部の玄界灘沿岸に横穴式石室を持つ谷口古墳・老司古墳・鋤崎古墳が出現している。谷口古墳の横穴式石室は竪穴系横口式石室と呼ばれ、鋤崎古墳の石室は北部九州型石室と呼ばれている。老司古墳はその中間で、竪穴系横口式石室という学者もいれば、北部九州型石室という学者もいる。
竪穴系横口式石室は従来から行われていた竪穴式石室の一端に出入り口を付けたもので、谷口古墳では持ち送りの石積みをした側璧が、天井部で合わさり石室は合掌型になっている。石室は奥行3.0mx幅1.6mの短冊形である。それに対して、北部九州型石室は扁平状の石を持ち送りさせながら積み上げて天井を狭めて行き、最後に天井石で覆って平天井を形成し、長方形の石室を造っている。鋤崎古墳の石室は3.6x2.6m、丸隈山古墳は3.9x2.5mである。老司古墳・鋤崎古墳・丸隈山古墳は追葬が行われているが、その時に石室の横穴へ行く通路は、墳頂から掘られている。この点が、羨道が古墳の横に通じる近畿型横穴石室との大きな違いである。
九州の有明海沿岸では円筒Ⅳ式時代に、肥後型石室と言われる、正方形の石室にドーム状の天井を築き、頂部を1枚の天井石で覆う横穴式石室が登場している。この肥後型は石室内部を板石(石障)で仕切り、幾つかの埋葬空間を形成している。熊本県嘉島町の井寺古墳は直径25mの小規模な円墳で、凝灰岩の切り石を積み上げ2.9x2.5mの石室が造られ羨道もあり、その側壁や石障などには図柄が描かれた装飾古墳である。
41-7.九州系横穴式石室の拡がり [41.古墳時代の3期区分を考える]
考古学者は、次の時代につくられる畿内系横穴式石室の出現を持ってして時代の画期と考え、九州系横穴式石室は時代の画期としては扱っていない。畿内型横穴式石室の祖形として考えられているのが、大阪府柏原市の高井田山古墳である。高井田山古墳は直径30mの帆立貝形古墳で、板石を積み上げた奥行3.7x幅2.3mの石室(玄室)を持つ、片袖式の横穴式石室である。北部九州型石室との大きな違いは、長さ2x幅1mの羨道があることだ。青銅の火熨(ひのし:アイロン)が出土したこともあって、このような形状の石室は百済の影響を受けて造られたと言われている。
私には、高井田古墳の墳径が30mと小さく初期横穴式石室の古墳と同じ規模であること、肥後型石室の井寺古墳にも長さ1.2x幅0.7mの羨道が備わっていることから、初期横穴式石室と大差がないように思える。この高井田古墳が横穴式石室の祖形であったとしても、全国的に普及する横穴式石室の原点であるようには思えない。
41-8.横穴式石室は黄泉の世界 [41.古墳時代の3期区分を考える]
畿内型横穴式石室(以後、横穴式石室と呼ぶ)が全国的に普及したということは、前方後円墳が全国的に拡がったことと同じ意味合いを持ち、大和王権が関わっているように思える。大和王権に関わりがあると考えられている横穴式石室の初現は、奈良県高取町にある墳長70mの前方後円墳の市尾墓山古墳であり、円筒埴輪Ⅴ式・須恵器MT15・TK10の時代に造られている。横穴式石室は奥行5.9x幅2.5x高さ2.9mで自然石を小さな持ち送りで8~10段積み上げ、天井石5枚で覆っている。片袖型の横穴式石室で3.6x1.8x1.7mの羨道を持つ。玄室内部には刳抜式の家形石棺(2.7x1.3x1.4m)が一基を安置されている。
市尾墓山古墳の大きな画期は、自然石の積み上げで大きな石室空間を造っていることだと考える。石室空間について、円筒埴輪Ⅱ式の時代の大型前方後円墳7基の竪穴式石槨と比較した。これら7基は、奈良のメスリ山古墳・佐紀陵山古墳・巣山古墳、大阪の津堂城山古墳、岡山の金蔵山古墳、滋賀の安土瓢箪山、山梨の銚子塚古墳で、平均墳長は190mであった。竪穴式石槨の平均寸法は、長さ6.6x幅1.3x高さ1.2mで、その石槨の空間(容積)は10.3㎥である。市尾墓山古墳の横穴式石室の空間は35.6㎥であり、竪穴式石槨の3.5倍の大きさである。
竪穴式石槨から横穴式石室への変化は、木棺や石棺を埋葬する「石槨」から、死者が死後に過ごす「石室」への変化であり、来世観(黄泉の世界)の変化であると考える。表24に竪穴式石室、九州系横穴石室、横穴石室の石室容積を記載した。長方形の石室の容積は高さの1/3を合掌型として、正方形の石室の容積は高さの1/3がドーム(半楕円球)になるとして計算している。北部九州型石室の容積の平均値は15.1㎥で竪穴式石槨の平均の1.5倍ある。これは追葬することを目的として造られた石室であると考えられる。
熊本の井寺古墳は小さな円墳であるわりに、石室の容積は18.9㎥と北九州型石室より大きい。井寺古墳は装飾古墳として有名で、羨門・羨道の側壁や石障に直孤文や同心円文などの図柄が書かれてあり、赤・青・白・緑の色で塗られている。熊本を中心に九州に広がる装飾古墳には、死者が死後に過ごす「石室を飾る」という来世観(黄泉の世界)があったと考える。岡山の千足古墳の石障に直孤文が描かれている。これは肥後型石室の影響であり、死者が死後に過ごす「石室を飾る」という来世観(黄泉の世界)が伝わっていたと思う。千足古墳の石室が19.7㎥と大きいのも「死者が死後に過ごす石室」の思いがあったのであろう。
畿内で作られた横穴式石室は、その来世観(黄泉の世界)が「石室を飾る」という形でなく、「死者が死後に過ごす石室」の思いが強く、大きな石室を造るという形で表わされたと考える。初期の横穴式石室には数多くの須恵器や土師器が副葬され、それらの土器の中に貝殻や魚の骨などがあることから、死者に食物を供していたと考えられている。その来世観(黄泉の世界)が畿内より全国に広がり、横穴式石室が造られる古墳時代後期が到来したと思う。
ただ、筑後・肥後を中心とする九州では、近畿系の横穴式石室が造られるようになってからも、「石室を飾る」との思いが綿々と伝わり、福岡県桂川町にある王家古墳(前方後円墳:墳長86m)の奥行4.2x幅3x高さ3.6mの石室(玄室)に見られるような、「黄泉の世界」が描かれるようになった。このような装飾古墳は北関東まで伝わっている。しかし、全国に拡がったのは、大きな石を積み上げて造る堅牢な横穴式石室である。扁平石を大きな持ち送りで積み上げて造る北部九州型横穴石室は、多くの古墳で天井が崩落している。このことを古代人は知っており、「黄泉の世界」も安心・安全な石室を求め、最終的には巨石を積み上げた横穴式石室が誕生したのであろう。
41-9.幻の横穴式石室 [41.古墳時代の3期区分を考える]
市尾墓山古墳は円筒埴輪Ⅴ式、須恵器MT15・TK10の時代(集成編年9期)の時代に造られている。私は市尾墓山古墳が造られた時代より前の、円筒埴輪Ⅴ式、須恵器TK23・TK47の時代(集成編年8期)に造られた大型の横穴式石室を求めた。大阪府八尾市の郡川西塚古墳は墳長さ60mの前方後円墳で、横穴式石室内から出土した須恵器がTK47・MT15で時期は条件に合っている。郡川西塚古墳の横穴式石室の寸法は、奥行き5.4x幅3.6mで高さは調べたが分からなかった。市尾墓山古墳の横穴式石室は奥行5.9x幅2.5mで、床面積で比べると郡川西塚古墳は19.4㎡、市尾墓山古墳は14.8㎡であり、石室の空間は郡川西塚古墳の方が市尾墓山古墳よりも遥かに大きいことが伺われる。
郡川西塚古墳からは、画文帯神獣鏡などの鏡が5面、武具の鋲留短甲や鉄剣、そして金環・銀環・銀製垂飾付耳飾の装身具が出土している。特に画文帯神獣鏡は、雄略天皇を指す「ワカタケル大王」の銘を銀象嵌した鉄剣が出土した、江田船山古墳出土の鏡と同笵(同じ鋳型でつくられた)である。郡川西塚古墳は明治35年に発見されたこともあり、副葬品も素晴らしいものでありながら、初期の大型横穴式石室としてあまり評価を受けていない。
古墳は大正2・3年に鉄道施設に伴い、後円部の土が採り崩され、現在残るのは前方部と周濠の一部だけである。京都大学の梅原末治氏は古墳破壊の報に接し現地を訪れている。その時には、石室は破壊されており大石が3・4個残っていただけであるが、埋葬施設は大石を用いた横穴式石室らしいと判断されている。宇治二子塚古墳の横に在る西方寺の裏庭にある巨石(高さ3.2x幅2.8m)は、古墳破壊の時にその天井石の一石をここに運び庭石としたと言われている。
宇治教育委員会は1987年から宇治二子塚古墳の発掘調査を初め、その翌年には、後円部中央に東西16x南北8x深さ4.3mの巨大で堅牢な基礎を発掘している。その基礎は20~40㎝大の河原石を積み重ねながら、その隙間を土で固めて造られており、横穴式石室の石の重みを受け止めるためのものであった。全国に普及した横穴式石室の初現と見られている市尾墓山古墳にも、同様の基礎があることが確認されており、宇治二子塚古墳の横穴式石室の存在は確実なものとなった。
大阪府高槻市にある今城塚古墳は墳長190mの前方後円墳であり、真の継体天皇陵であると考えられている。戦国時代に城が築かれたこともあり、横穴式石室と思われる石室は消滅している。2007年に、今城塚古墳から東西17.7x南北11.2x高さ0.8mの、コの字形の石組で囲った中に、20~40㎝大の石を敷き詰めながら土で固めた横穴石室の基礎が発見されている。なお、今城塚古墳の築造時期は円筒埴輪Ⅴ式で、造り出しから出土した須恵器はMT10・TK15であり、市尾墓山古墳と同じような時代である。
宇治二子塚古墳の石室の基礎は、その面積では今城塚古墳に及ばない(東西は同じで南北が2/3)が、深さでは今城塚古墳の約5倍もある。今城塚古墳は盛り土の上0.8m施行しているのに対して、宇治二子塚古墳は地山まで4.3mの基礎を行っており、今城塚古墳より丁寧な造り方である。現に今城塚古墳は安土桃山時代の伏見地震で基礎の部分も崩落している。横穴式石室の基礎工事から見ても、宇治二子塚古墳の被葬者は大和王権に関わりがある人物と考えられる。
宇治二子塚古墳からは円筒埴輪Ⅳ・Ⅴ式と須恵器TK23・TK47が出土しているが、図17に示したように、Ⅳ式のTK23・TK47とⅤ式のTK23・TK47は、古墳中期と古墳後期の境い目である。宇治二子塚古墳に存在していただろう幻の大型の横穴式石室は、古墳後期の始まりは円筒埴輪Ⅴ式(470年~)から、横穴式石室の時代であるという編年を立証している。なお、『宋書』倭国伝によれば、478年に「倭国王興死し、弟武立つ、武遣し上表す」とあり、「倭国王武」は雄略天皇と考えられている。古墳後期が雄略天皇の時代から始まるとすれば、政治的にも大きな画期である。