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36.法隆寺の謎を解く ブログトップ

36-1.釈迦三尊像は運び出せたか [36.法隆寺の謎を解く]

『書紀』天智9年(670年)4月30日に「夜半之後、災法隆寺。一屋無餘。大雨雷震。」とあり、法隆寺が全焼したと書いている。世界最古の木造建築と言われている現存の法隆寺が、607年頃の創建当時のものか、670年に全焼した後に再建されたものであるかの議論が、明治より100年に渡って行われて来た。昭和15年に法隆寺南大門の地で、四天王寺式の「若草伽藍」と呼ばれる寺院址が見つかった。また、平成16年には若草伽藍址の西側で彩色された壁画片60点が出土し、一緒に出土した焼けた瓦は7世紀初めの飛鳥時代の様式であった。これらより、「若草伽藍」が創建当時の法隆寺(斑鳩寺)であることが確定した。 

平成16年に奈良文化財研究所は、法隆寺の金堂6点、五重の塔4点、中門2点の、建築部材の伐採年代を年輪年代法で特定し、金堂は668~669年以降、五重の塔は673年以降、中門は685年以降に完成した事が判明したと発表している。これらより、天智9年(670年)4月30日に法隆寺が全焼した後に、法隆寺が再建されたということが明確になった。
 

D10法隆寺釈迦三尊.jpg法隆寺金堂の中央に安置されている釈迦三尊像は、その光背銘に、推古31年(622年)2月に聖徳太子が亡くなったので、翌年の3月に司馬鞍首止利仏師が完成したと銘記されている。この光背銘は後世の捏造であるとの通説があったが、私は、釈迦三尊像も光背銘も推古朝の物であることを証明して来た。創建当初の法隆寺に、釈迦三尊像があったとすれば、釈迦三尊像は法隆寺が全焼した際に、運び出されたと言う事になる。
 

この釈迦三尊像は、幅x奥行x高さが202x172x106㎝の下座の上に、98x70x75㎝の上座を置き、その上座に中尊を安置しており、中尊の裳裾が上座の前に垂れ下がっている。幅x高さが168x196㎝の光背は、上座框
(かまち)の窪みにはめられ、中尊の背にある枘(ほぞ)と、2ヶ所の枘穴で楔(くさび)により固定されている。両脇侍菩薩は下座と楔で固定されている。中尊像の重量は185㎏、光背の重量は約230㎏程度である。火事の最中、総重量が400㎏を越える光背を配した中尊像を運びだせたであろうか疑問が湧く。光背と中尊像を分解して運び出すことも考えられるが、そんなことが可能だろうか? 

670年の法隆寺の火災は、『書紀』に「大雨雷震」とあり、塔に落雷して火災が発生したものと思われる。古代においては寺院の落雷による火災はよく起っている。例えば『続日本紀』宝亀11年(780年)1月14日に「平城京中の複数の寺が落雷により被害が発生する。特に薬師寺西塔、葛城寺塔・金堂は被害が大きく、全焼する」とある。創建当時の法隆寺(若草伽藍)は、四天王寺式の伽藍配置であり、塔基壇(15x15m)と金堂跡(22x19m)の間は9mしかない。塔が落雷炎上したら、金堂にはすぐに燃え移ったと考えられ、釈迦三尊像・薬師如来像を運び出すことは出来なかったと思える。

36-2.斑鳩の寺々は再建されていた [36.法隆寺の謎を解く]

D11斑鳩寺.jpg現在法隆寺金堂に安置されている釈迦三尊像・薬師如来像は推古朝のものである。また、天智9年(670年)4月30日の法隆寺全焼の際に、釈迦三尊像・薬師如来像を運び出すことは出来なかった。この二つの条件を満足さす解は、釈迦三尊像・薬師如来像は、670年以前に存在していた他の寺院から、再建後の法隆寺に移されたと考えれば成り立つ。それらの寺院は聖徳太子ゆかりの地、斑鳩にあった法起寺・法輪寺・中宮寺(中宮寺跡)であると考える。 

法起寺は池後寺・岡本寺とも呼ばれており、平安時代初に成立した『日本霊異記』には、「大倭国平群郡鵤
(いかる)村岡本尼寺は、昔小墾田宮御宇天皇(推古天皇)の世に、上宮皇太子が住まわれた宮を、太子が請願して尼寺にしたもの」とある。『日本書紀』には推古14年(606年)に、聖徳太子が法華経を岡本宮で講じたとある。 

鎌倉時代成立の『聖徳太子伝私記』には、「法起寺塔露盤銘文」が収録されている。この銘文の文章は漢文として意味の通じないとこがあったが、会津八一氏の読解によって、信頼出来る史料として認められるようになった。「聖徳太子は壬午年(622年)2月22日に崩ずるとき、山代兄王に山本宮(岡本宮)を寺とするよう遺言した。戊戌年(638年)に福亮僧正が弥勒像をつくり金堂を建て、乙酉年(685年)に恵施僧正が堂塔を建て初め、丙午年(706年)に露盤を作った。」とある。露盤を作ったということは、塔が完成したことを意味している。法起寺は聖徳太子が薨去された15年後に金堂が建てられ、法隆寺が全焼した15年後に塔の建立が始まっている
 

法輪寺については、平安時代前期成立の『上宮聖徳太子伝補闕記』に、「斑鳩寺(法隆寺)が被災した後に、百済聞師、円明師、下氷新物等の三人が、三井寺(法輪寺)を造った」とある。また、考古学的にみても、現在の法輪寺の伽藍は、法隆寺式伽藍配置で、法隆寺西院伽藍の3分の2の規模であり、法隆寺式軒丸瓦が用いられているなど、法隆寺との共通点があり、法隆寺の再建時期とほぼ同じ時期、七世紀後半の白鳳期に建立されていることが分かる。
 

法輪寺については、もう一つ創建説話がある。鎌倉時代成立の『聖徳太子伝私記』に引用されている「御井寺縁起」には、「聖徳太子の御病気平癒を願って、山背大兄王や由義王等が法輪寺を建立された」と記されている。これらからすると、七世紀後半の白鳳期以前に創建されていたことになる。法輪寺の発掘調査では、金堂北側で現伽藍(七世紀後半)の整地時に埋められたと考えられる窪地から「船橋廃寺式軒丸瓦」が出土している。「船橋廃寺式軒丸瓦」は、七世紀前半の飛鳥期の中期から後期のものと位置付けされており、創建時のものと思われる。法輪寺は法起寺とほぼ同じ時期に創建され、法隆寺や法起寺とほぼ同じ時期に再建されたと考えられる。
 

現在の中宮寺は法隆寺夢殿の東隣に立っているが、創建当初は400メートルほど東にある中宮寺跡に建っていた。現在の場所に移ったのは安土桃山時代と推定されている。中宮寺には「寺家縁起」がないため、創建を伝える文献がないが、『上宮聖徳法王帝説』には、聖徳太子が起こした寺として、「四天王寺・法隆寺・中宮寺・橘寺・蜂丘寺・池後寺・葛城」の七寺が上げられている。なお、奈良時代成立の『法隆寺資財帳』には、丁卯年(推古15年、607年)に推古天皇と聖徳太子が「法隆学問寺、四天王寺・中宮尼寺・橘尼寺・蜂岳寺・池後尼寺・葛城尼寺の七寺」を建立したとあるが、「丁卯年に推古天皇と聖徳太子が」と言う所は、薬師如来像光背銘と同じで、建立年は信用されていない。
 

文献では中宮寺の創建時期は明確ではないが、中宮寺跡の発掘調査から、伽藍配置は法隆寺(若草伽藍)や四天王寺と同じ、塔と金堂が南北に並ぶ四天王寺式であることが分かった。発掘された瓦は飛鳥時代から室町時代に及ぶが、創建時の瓦として高句麗系軒丸瓦や忍冬文軒丸瓦が出土しており、中宮寺はお若草伽藍より少し後の飛鳥中期に創建されたことが分かる。また、創建時の次の時代の瓦としては、白鳳後期の6弁・8弁の蓮花文軒丸瓦や忍冬唐草文軒平瓦が出土しており、再建法隆寺と同じ時代に再建が行われたことが伺われる。

36-3.中宮寺は薬師如来像を献納 [36.法隆寺の謎を解く]

聖徳太子が薨去された後、太子の王子山背大兄王は、聖徳太子が推古9年(601年)に造営した斑鳩宮に住んでいた。皇極2年(643年)に、蘇我入鹿が山背大兄王を急襲討して、斑鳩宮を焼き払い、山背大兄王以下の上宮王家の人々は、法隆寺で自決に追い込まれた。聖徳太子関連の法起寺・法輪寺・中宮寺の三寺院は、飛鳥時代後期には上宮王家の後楯を無くし困窮していたので、伽藍の再建や完成は儘ならなかった。 

丁度その頃、天智9年(670年)4月30日に法隆寺(若草伽藍)が全焼したのである。法隆寺は兵庫県揖保郡に広大な寺領(鵤荘)を保持していた。この寺領は、推古14年(606年)に推古天皇が聖徳太子におくられた播磨国の水田百町を、太子が斑鳩寺(法隆寺)に寄進したものである。法隆寺は、この鵤荘の財力でもって再建されたと考えられている。
 

『法隆寺資財帳』にあるように、法隆寺(若草伽藍)は仏教を学ぶための「学問寺」であり、聖徳太子の遺品は少なく、また焼失してしまっていた。再建法隆寺(法隆寺西院)には、聖徳太子のゆかりの品々が集められ、聖徳太子を祀る寺に変貌した。聖徳太子信仰の始まりである。聖徳太子ゆかりの品々は、釈迦三尊像・薬師如来像であり、天寿国曼荼羅繍帳であったと考える。法隆寺に釈迦三尊像・薬師如来像・天寿国曼荼羅繍帳を献納した寺々に対して、鵤荘の衆は、その見返りとして寺の再建・増築・修造の資財を提供したと考える。
 

D12法隆寺薬師像.jpg平安時代に設立した『聖徳太子伝暦』には、「中宮寺、この寺は間人穴太部皇后の宮なり、皇后が崩御の後寺と為す。」とある。間人穴太部皇后は、用明天皇の皇后であり、聖徳太子の母であった穴穂部間人皇后のことである。薬師如来像光背銘には、「用明天皇が病の平癒を願い、寺と仏像を造ることを請願し、推古天皇と聖徳太子が丁卯(607年)に奉じた。」とある。この寺が穴穂部間人皇后の中宮とされる中宮寺金堂で、穴穂部間人皇后は薬師如来像を祀り、用明天皇を弔っていたと思われる。そして、皇后亡き後に塔を建て寺としたと想像する。薬師如来像は中宮寺にあったものが、法隆寺再建の際に献納され、その見返りとして、中宮寺の再建を得たと考える。
 

36-4.法輪寺は釈迦三尊像を献納 [36.法隆寺の謎を解く]

法輪寺の創建には、「御井寺縁起」に「聖徳太子の御病気平癒を願って、山背大兄王や由義王等が法輪寺を建立された」と記されている。釈迦三尊像は光背銘によると、「聖徳太子の病気平癒を願い、太子の王子等の発願により、癸未(623年)に釈迦三尊像が止利仏師により造られた。」とある。御井寺縁起と釈迦三尊像光背銘からすると、寺と仏像を造ることを、太子の長子山背大兄王やその子の由義王が、発願したのであろう。法輪寺に釈迦三尊像は安置されていたと考える。 

D7釈迦三尊.jpg法輪寺の創建は630年から640年頃と考えられるが、釈迦三尊像は623年には造られている。法輪寺が完成するまで、釈迦三尊像は何処に安置されていたのであろうか。聖徳太子が亡くなった後、山背大兄王は斑鳩宮に住んでいた。この斑鳩宮は桧皮葺だったと思われるが、斑鳩宮跡の発掘調査から、忍冬文で装飾された6弁連華文軒丸瓦が出土している。この瓦は斑鳩宮跡でのみ出土しており、『法隆寺の至宝 瓦』には、小仏堂に使用されていたのであろうとしている。釈迦三尊像は斑鳩宮の小仏堂に安置され、法輪寺の完成に伴い移されたと考える。釈迦三尊像は法輪寺にあったものが、法隆寺再建の際に献納され、その見返りとして、法輪寺中の再建を得たと考える。

36-5.法起寺は天寿国繍帳を献納 [36.法隆寺の謎を解く]

D13天寿国繍帳.jpg「天寿国曼荼羅繍帳」は、現在その断片を中宮寺が所蔵し、国宝に指定されている。鎌倉時代の『太子曼荼羅講式』によると、鎌倉時代の文永11年(1274年)に、中宮寺の中興の祖と称される尼僧・信如により、「法隆
寺の蔵」から発見されたそうだ。『上宮聖徳法王帝説』
にも、「法隆寺の蔵」にあると記載されており、中宮寺
の「天寿国繍帳」は、もともと法隆寺の所蔵品であった
のである。
 

「天寿国繍帳」には銘文が刺繍されてある。その銘文の一部が現存するだけだが、『法王帝説』にはその全文が引用されてある。それには「聖徳太子が亡くなられたとき、妃の橘大郎女(推古天皇の孫)が推古天皇に、『太子と母の穴穂部間人太后は、契り合っていたかの如く、相次いで逝ってしまわれた。太子が往生した天寿国の様子を見たい。』と願われ、推古天皇は采女らに命じて繍帳二帳を作らせた。」とある。
 

この「天寿国繍帳」は、橘大郎女が所持していたと考える。橘大郎女は何処に住んでいたのであろうか。通説では、中宮寺の前身の中宮に穴穂部間人太后と一緒に住んでいたといわれている。『法王帝説』には、「聖徳太子の異母兄弟の多米王(田目王)は、父の用明天皇が崩御された後に、太子の母の穴穂部間人太后を娶り、佐富女王を生んだ。」とある。現代では考えられない事であるが、史実であったと考える。聖徳太子からみて、父の用明天皇が亡き後、母の穴穂部間人太后が住んでいた中宮に、義理の兄の多米王が母を娶って通っていた。そんな中宮に、妃の橘大郎女を住まわし、太子自身が通ったとは考えられない。
 

聖徳太子の宮は4ヶ所ある。主宮が斑鳩宮、傍宮が岡本宮・中宮・飽波葦垣宮である。聖徳太子には4人の妃がいたが、斑鳩宮には妃の蘇我の刀自郎女が長子の山背大兄王と住んでいたであろう。中宮には聖徳太子の母、穴穂部間人太后が住んでいた。飽波葦垣宮には、妃の膳部菩岐美郎女(膳大郎女)が住んでおり、太子もこの宮で亡くなったと言われている。岡本宮には推古天皇の娘で太子の妃、菟道貝蛸皇女(貝蛸王)が住んでいたが、子女も無いまま早くに亡くなったと思われる。その後、推古天皇の孫で太子の妃、位奈部橘王(橘大郎女)が岡本宮に住んだと考える。
 

「天寿国繍帳」は橘大郎女が住んでいた岡本宮にあったと考える。その岡本宮が聖徳太子の遺言により法起寺となる。『法隆寺資財帳』に「池後尼寺」とあるように、橘大郎女が「尼僧」となったのかも知れない。法起寺は「天寿国繍帳」を保持していたが、法隆寺再建の際に献納され、その見返りとして、法起寺三重塔の建立を得たと考える。法起寺三重塔の初層・二層・三層の大きさが、法隆寺五重塔の初層・三層・五層とほぼ同じであることは、これらを暗示している。

36-6.法隆寺五重塔の心柱の謎を解く [36.法隆寺の謎を解く]

D14法隆寺五重塔.jpg世界最古の木造建築と言われている現存の法隆寺(西院伽藍)が、607年頃の創建当時のものか、670年に全焼した後に再建されたものであるかの議論は、四天王寺式の「若草伽藍」の寺院址の発見で、再建されたものであることが決着した。法隆寺西院伽藍は和銅4年(711年)までには完成していたと言うのが通説となっている。 

平成13年に奈良文化財研究所の光谷拓実氏は、法隆寺五重塔の心柱、直径約78㎝の八角形のヒノキ材を年輪年代法測定し、594年に伐採されたものであると発表している。これは法隆寺再建より100年も古く、心柱は他の寺から移築したとか、木を寝かせていたものを使用したとか、様々な説が発表されている。法隆寺五重塔の心柱も法隆寺の大きな謎のひとつである。
 

D15法起寺三重塔.jpg法起寺三重塔は明治時代に解体修理された。そのとき腐朽していた心柱の根元を切断した。それは直径約70㎝の八角形で、最外周が心材のヒノキ材であった。その心柱を年輪年代測定した光谷氏によれば、法起寺三重塔の心柱は、法隆寺五重塔の心柱の年輪パターンと酷似しており、両方の心柱は同じ産地から供給された木材であろうと推察されている。
 

木材の断面は最外周が樹皮、その内側が辺材・心材・髄となっているが、法起寺三重塔の心柱は辺材がまったくないのである。法隆寺五重塔心柱の樹皮直下まである辺材の最大幅は3
.6㎝である。この辺材幅が法起寺三重塔の心柱の木材にもあったとすると、法起寺三重塔心柱の木材は、約78㎝(70+3.6x2+α)の心柱が取れる木材であったことになる。法起寺三重塔の心柱の木材は、法隆寺五重塔の心柱とほぼ同じ大きさのヒノキであったのである。 

光谷拓実氏は、法起寺三重塔心柱の年輪年代を「572年+α」と測定している。この年輪年代は伐採年代ではない。法起寺三重塔の心柱は、最外周が心材であるから、伐採年代は「辺材年輪数+削除された心材年輪数+年輪年代」となる。法隆寺五重塔の心柱の測定データーから読み取ると、辺材幅が3
.6㎝の年輪数は約35層であった。また、削除された心材年輪数を数年と考えると、法起寺三重塔心柱の伐採年代は、約610年頃となる。 

「法起寺塔露盤銘文」には、法起寺三重塔は685年に塔を建て始めたとあり、その塔の心柱の伐採年代が約610年頃であることからすると、法起寺の塔の心柱は、三重塔の建立より約75年間も古い木材が使用されたことになる。法隆寺五重塔の心柱が法隆寺再建より100年も古い木材を使用していたことと同じで、両者共に長年寝かされた木材を使用していた。
 

奈良時代成立の『法隆寺資財帳』には、丁卯年(推古15年、607年)に推古天皇と聖徳太子が「法隆学問寺、四天王寺・中宮尼寺・橘尼寺・蜂岳寺・池後尼寺・葛城尼寺」の七寺を建立したとある。「建立」を「建立の詔」と考えると、伐採年代が約610年頃の法起寺三重塔の心柱は、この推古15年(607年)の「詔」により伐採されたものであると考えられる。
 

『書紀』推古2年(594年)に、「皇太子と大臣に詔して、仏教の興隆を計られた。このとき、多くの臣・連たちは、君や親の恩に報いるため、競って仏舎を造った。これを寺という」とある。伐採年代が594年の法隆寺五重塔の心柱は、この推古2年(594年)の「詔」により伐採されたものであろう。
 法隆寺五重塔の心柱は100年も寝かされた木材を使用している。その伐採木材が何故そのように長い年月寝かされていたのかは解からない。ただ、法起寺三重塔の心柱が75年も、法隆寺五重塔と同じように寝かされていた木材を使用していることが、法隆寺五重塔の心柱の謎を解くヒントになるであろう。
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