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4-1.卑弥呼を共立した国々 [4.卑弥呼は何故共立されたか]

女王卑弥呼が誕生した経緯については、魏志倭人伝は「その国、本また男子をもって王となし、住まること七、八十年。倭国乱れ、相攻伐すること年を歴たり、乃ち共に一女子を立てて王となす。名づけて卑弥呼という。」と書いてある。倭国は男子王を抱く連合国家で、70~80年続いていた。しかし、連合国の国々が互いに戦いをはじめ、倭国が乱れて何年も経た、戦いに疲れた国々は、卑弥呼と言う一女子を倭国の王に共立し、連合国家として平和を取り戻した。 

卑弥呼を女王に抱く連合国家は、女王卑弥呼の邪馬台国、連合国を取り仕切る伊都国、大国として重鎮の奴国と投馬国、帯方郡との交通の要所である対馬国・一支国・末盧国、そして伊都国の補佐役と考えられる不弥国の8カ国である。これらの国々は平安時代に出来た「延喜式」に書かれた国々と一致する所も多い。邪馬台国は日向国、投馬国は薩摩国、対馬国が対馬国、一支国が壱岐国である。ちなみに、邪馬台国と敵対関係にあった狗奴国は大隅国となる。しかし、伊都国・奴国・末盧国・不弥国は平安時代の国々とは一致していない。 

表7 魏志倭人伝の国々.jpg平安時代の国々より以前の国と言えば、その原型と考えられる国造がある。先代旧事本紀の国造本紀に記載された国造と、魏志倭人伝に記載された国々を比較し表7に示した。魏志倭人伝に記載された9ヵ国、対馬国・一支国・末盧国・伊都国・奴国・不弥国・投馬国・邪馬台国・狗奴国と国造が一致しており、またその所在地も、私が特定した地域とほとんど同じである。特に注目に値するのは、多くの学者・研究者が間違いない     (表をクリックすると大きくなります) だろうとした、福岡県糸島市の伊都国、春日市の奴国に相当する、国造は存在しないのである。福岡県の国造は瀬戸内海に面した行橋市にあった豊国を除くと、福岡県八女郡の筑紫だけである。これらより、私が特定した9ヵ国が、客観的史実により証明できたと思われる。

魏志倭人伝には卑弥呼を女王に共立した倭国の国々として、「女王国以北、その戸数・道里は得て略載すべきも、その余の旁国は遠絶にして得て詳らかにすべからず。次に斯馬国あり。次に己百支国あり。次に伊邪国あり。次に郡支国あり。次に弥奴国あり。次に好古都国あり。次に不呼国あり。次に姐奴国あり。次に対蘇国あり。次に蘇奴国あり。次に呼邑国あり。次に華奴蘇奴国あり。次に鬼国あり。次に為吾国あり。次に鬼奴国あり。次に邪馬国あり。次に躬臣国あり。次に巴国あり。次に支惟国あり。次に烏奴国あり。次に奴国あり。これ女王の境界の尽くる所なり」と、21ヵ国の国々をあげている。

邪馬台国の領域を宮崎市以北の宮崎県、いわゆる日向の国と、伊都国から邪馬台国への行程で陸行した地域、現在の熊本県人吉盆地と、宮崎県南部のえびの高原地方を含んだものと考えた。この場合、邪馬台国の南に存在するのは、大隅半島に比定した敵対する狗奴国と、薩摩半島に比定した友好国の投馬国だけになる。邪馬台国と同盟関係にあった国々は、投馬国以外全てが、邪馬台国の北にあることになり、「女王国以北、その戸数・道里は得て略載すべきも、その余の旁国は遠絶にして得て詳らかにすべからず。」とした、21ヵ国の位置の関係が倭人伝と一致してくる。
 

魏志倭人伝に記載された9ヵ国が国造と一致するならば、邪馬台国の以北にあった21の諸国も、国造として存在するはずである。九州にある国造は全部で19ヵ国、表7に示した9ヵ国の国造を除くと、10の国造である。これでは21ヵ国とは合わない。邪馬台国の支配していた国々は、本州の地域も含まれていたのだろうか。そこで頭に浮かんだのが、哲学者和辻哲郎博士が唱えた、「銅剣・銅矛文化圏と銅鐸文化圏」であつた。図8に示す。近年「銅剣・銅矛文化園」とされ、銅鐸が出ないとされていた九州地方から、銅鐸の鋳型や銅舌のある小銅鐸が発掘されているが、これらは銅鐸の原形の「かね」として出来た朝鮮の小型銅鐸の系統であり、1.3メートルにおよぶ高さまでにも発達した銅鐸とは異なり、銅鐸とは扱われていない。

図8銅剣・銅矛文化.jpg卑弥呼が共立した倭国の国々は、九州を中心としてあったが、その九州は銅剣・銅矛文化圏に属している。九州以外で銅剣・銅矛・銅戈が多数出土するのは、出雲と吉備の中国と四国である。四国は「女王国の東、海を渡る千余里、また国あり。皆倭種なり。」と、邪馬台国との同盟の関係には入っていなかった「
倭種」の国と比定した。出雲の荒神谷遺跡からは銅剣358本、銅矛16本、銅鐸6個、加茂岩倉遺跡からは39個の銅鐸が出土しており、出雲が「銅剣・銅矛文化園」と「銅鐸文化園」の接点であった事を証明している。
                              (図をクリックすると大きくなります)
これらより、卑弥呼を倭国の女王に共立した21ヶ国の国々は、銅剣・銅矛文化園にある、出雲と吉備以西の中国地方と、大隅半島を除く、九州と考える事が出来る。九州と中国地方の国造と一致するか、前述の9ヵ国の国造を除いて、平安時代の国別に分けてみた。  
国 名 国 造(現在地)
肥後国 葦北(八代市)・天草(松島町)・火(竜北町)・阿蘇(一の宮町)
肥前国 葛津直(藤津郡)
豊後国 大分(大分市)・国前(国東町)・比多(日田市)
豊前国 宇佐(宇佐市)・豊国(行橋市)
長門国 穴門(下関市)・阿武(阿武町)
周防国 波久岐(山口市)・都怒(徳山市)・周防(布施町)・大島(大島郡)
安芸国 安芸(府中町)
石見国 石見(浜田市)
出雲国 出雲(松江市)
美作国 美作(津山市)
備後国 吉備品治(福山市)・吉備穴(神辺町) 
備中国 吉備中県(井原市)・笠臣(笠岡市)・下道(真備町)・加夜(総社市)
備前国 三野(岡山市)・上道(岡山市)・大伯(邑久町) 

出雲・吉備以西の国造(除く九ヵ国)は全部で29ヵ国あり、邪馬台国以北の21ヵ国より8ヵ国多い。魏志倭人伝に書かれた邪馬台国以北の21ヵ国は、国造と一致しないのであろうか。日本書紀の応神天皇22年に次の記事がある。「吉備国を割いて、その子どもたちに治めさせられた。川島県を分けて長子の稲速分に。これが下道臣の先祖である。次に上道県を中子の仲彦に。これが上道臣・香屋臣の先祖である。次に三野の県を弟彦に、これが三野臣の先祖である。また波区芸県を、御友別の弟鴨別に。これが笠臣の先祖である。苑県を兄の浦凝別に。これが苑臣の先祖である。」 

岡山平野に存在した国造は、備後国にある吉備品治・吉備穴、備中国にある吉備中県・笠臣・下道・加夜、備前国にある三野・上道・大伯の9ヵ国である。これらの国造のうち応神天皇22年の記事に出てくるのが、笠臣・下道・加夜(香屋)・三野・上道の6ヵ国である。大和朝廷設立当時、岡山平野にあった国造はもともと吉備国として一つの国造であったと思われる。延喜式で定められた備前国・備中国・備後国にあった国造を吉備国1ヵ国とすると、邪馬台国以北の21ヵ国は、出雲・吉備以西の国造(除く九ヵ国)と一致した。 

卑弥呼を倭国の女王に共立した21ヶ国の国々は、銅剣・銅矛文化園にある国造と一致した。倭国の連合国は出雲・吉備以西の中国・九州にある、後の国造となる国々であった。


4-2.邪馬台国は日向にあった [4.卑弥呼は何故共立されたか]

女王卑弥呼がいた邪馬台国の都を、宮崎市の北22キロメートルの、一ッ瀬川流域にある西都市に比定した。この西都市は考古学的に見て、邪馬台国の都であったという可能性があるのであろうか。邪馬台国の都ということは別として、西都市は読んで字のごとく、「西の都」の価値をもった遺跡の町である。特別史跡「西都原古墳群」は、西都市市街地の妻地区にある都万神社の山手側に広がっており、東西2.6キロメートル、南北4.2キロメートルの台地にある。この史跡は文化庁と宮崎県の協力によって史跡公園「風土記の丘」として、全国第一号に整備されたものである。 

この西都原古墳群には、前方後円墳32基、方墳1基、円墳277基、その他地下式横穴群が多数ある。これら310基以上の古墳の内、北西部の最も高い位置に男狭穂塚・女狭穂塚が在り、全長はそれぞれ219メートル、194メートルあり、九州最大の前方後円墳である。男狭穂塚のそばにある円墳からは、子持家埴輪・舟形埴輪が出土した。これらは重要文化財として東京国立博物館に保管されている。これらの写真を見ていると、古代の姿が目の当たりに浮かぶ様な気がする。この男狭穂塚・女狭穂塚は陵墓参考地として宮内庁が管理している。

この前方後円墳こそ魏志倭人伝に、「卑弥呼、以に死す。大いに冡(つか)を作る。径百余歩なり。徇葬する者奴婢百余人なり。」と書かれている、卑弥呼の墓と特定したい所であるが、残念ながら西都原古墳群は出土した遺構・遺物の年代が、5世紀をピークとするもので、どんなに遡っても四世紀末の年代である。卑弥呼が魏に使いを派遣し、親魏倭王の金印紫綬を授かったのが景初3年、239年頃である。卑弥呼が活躍した時代3世紀中頃と、西都原古墳群の年代は一致していない。
 

西都原古墳群の近くには、一ッ瀬川をはさんで新田原・茶臼原古墳群がある。新田原古墳群には前方後円墳23基、方墳2基、円墳18基がある。そのうち最も大きい前方後円墳は石船塚古墳で全長は66メートル、後円の径は45メートルである。西都原古墳群の東、約15キロメートルの小丸川河口に近い高鍋町付近には、高鍋・持田古墳群と呼ばれる台地がある。ここには前方後円墳11基、円墳76基がある。この古墳の最大の前方後円墳は、計塚と呼ばれる全長は110メートル、後円の径は50メートルである。また、小丸川を3キロメートルほど遡ると川南古墳群と呼ばれる地域がある。ここには前方後円墳23基、円墳32基がある。ここでの最大のものは全長112メートルである。 

西都市・新富町・高鍋町、一辺15キロメートル四方の地区に合計565基の古墳があり、その内89基は前方後円墳である。ここは古墳の宝庫である。これらの古墳はほとんど五世紀のものと断定されている。西都原周辺から出土した遺物は、県外に流出しているものが多いというが、国宝に指定されている「金覆輪の鞍」と呼ばれる馬具は、龍を表現した透かし彫りの装飾もみごとで、藤の木古墳から出土した鞍にも劣らぬものである。このように西都原付近は、非常に古墳の多い所であるが、その古墳の多くが五世紀のものであり、卑弥呼が亡くなった後に発生した三世紀後半の、前期前方後円墳はないとされていた。 

平成17年5月19日の新聞に「宮崎県西都市の西都原古墳群にある前方後円墳が、宮崎大学の調査で、国内最古級と確認された。築造は三世紀中ごろから後半とみられ、畿内で同じ形式の古墳築造が始まったのとほぼ同時期。大和政権下に古墳がひろまったとする説に一石を投じ、古墳の成立を研究する上で貴重な発見となりそうだ。確認されたのは、『西都原81号墳』。後円部長さが約33メートル、前方部が約19メートル。前方部が短く撥の形に開いた『纒向型前方後円墳』で、本格的な前方後円墳の前に造られたとされる。南九州では最古という。後円部の墳丘付近から土器数点が出土。その特徴から築造時期が判明した。」という記事が出た。 

一方、昭和62年、京都府福知山市の広峰15墳から、景初4年銘の斜縁盤龍鏡が出土した。同年兵庫県西宮市の辰馬考古資料館は、広峰一五墳と同笵の景初4年銘の斜縁盤龍鏡を所蔵していることを公表した。この鏡は宮崎県の持田古墳群から出土したものであるそうだ。景初4年は240年で、この鏡は卑弥呼が魏から貰ったものだ。西都原古墳群の付近に、卑弥呼の活躍した三世紀の時代、邪馬台国があったという事を証明する、考古学的資料が発見され始めてきた。

4-3.金印をもらった奴国 [4.卑弥呼は何故共立されたか]

私は魏志倭人伝に記載された方角・里数通りに辿ることにより、邪馬台国を研究する人の誰もが考えもしなかった、伊都国が吉野ヶ里遺跡、奴国の都が八女市であると比定して、邪馬台国が日向にあつたとの結論を導き出した。邪馬台国論争の近畿説・九州説、どちらの説も、伊都国が現在の福岡県の糸島市付近、奴国が福岡市・春日市付近としている。糸島市・福岡市・春日市からは、定説で伊都国・奴国といわれる遺跡が数多く発掘されている。これらの遺跡の歴史的意味合いを探り、私の比定の整合性を検証する。

奴国は福岡平野の西の端、飯盛山の裾野に広がる早良平野で興った。吉武高木遺跡の木棺墓から、細形銅剣・細形銅矛・細形銅戈、多鈕細文鏡、そして硬玉製勾玉・碧玉製管玉が出土している。青銅武器や甕棺の形式から最古の王墓と考えられている。その他の木棺墓や甕棺墓からも、多数の銅剣や勾玉・管玉が出土している。これらの遺跡は弥生中期の初め、紀元前2世紀の初め頃と考えられている。吉武高木遺跡の鏡・玉・剣の三点セットは、天皇家が鏡・玉・剣を神宝としていることと一致し、奴国が天皇家の発祥と大きく関わりを持っていると考えさせられる。 

この奴国は福岡平野の南部の春日丘陵で、青銅器の生産を大規模に行い発展して行った。この丘陵には、須玖岡本遺跡をはじめとする弥生遺跡が多くみられる。須玖岡本遺跡群は青銅器の工房などがある集落遺跡と、多数の墓で構成されている。須玖岡本遺跡の巨大支石墓から、前漢鏡約30面、青銅製の刀剣八本、ガラスや骨で作られた勾玉や管玉などの遺物が出土している。この巨大支石墓は、奴国の王の墓と考えられている。 

糸島平野の三雲あたりは三雲遺跡群と呼ばれ、広い地区に多くの集落や墓地の遺跡が散在している。この三雲遺跡からは、二基の大型甕棺墓が発見され、それらから合計57面の前漢鏡が出土している。これは弥生・古墳時代を通じて、一遺跡から出土した舶載の鏡としては最高の数である。これらの地区は、糸島半島の根元にある今山から採れる硬くて緻密な玄武岩を使って作った、伐採用の大型蛤刃石斧を北九州一円に売り、財を為したのであろう。 

福岡平野の東の三郡山地を越えた、遠賀川上流の嘉穂盆地にある立岩遺跡では、10号甕棺からは前漢鏡6面が、その他4基の甕棺からそれぞれ1面の前漢鏡、合計10面の前漢鏡が完全な形で出土している。これらの甕棺からは銅剣や鉄剣・鉄矛も出土しており、鉄剣・鉄矛には絹が付着していたそうだ。また、14個のゴホウラ貝の腕輪をした人骨も出土している。これらの地域は立岩の西北6キロにある笠置山で採れる、輝緑凝灰岩で作った石包丁を北九州一円に売り、財をなしたと想像する。 

倭人が初めて中国に朝献した年は、漢書地理史に「楽浪海中倭人有り、分かれて百余国と為す。歳時を以て来り、献じ見ゆ」と記載されていることから知る事が出来る。「楽浪」は前漢の時代、紀元前108年に定められ、前漢が滅びたのは西暦8年。倭人が朝献したのは、この間の事であった。唐津湾に面する糸島半島の御床からは、前漢武帝(在位紀元前141~前87年)の開鋳といわれる半両銭が発見されている。これらからすると、倭人が初めて中国に朝献した年は、紀元前108年から前87年の頃であったのかもしれない。いずれにしても、紀元前からこの地が中国と交流があった事を示している。須玖岡本遺跡・三雲遺跡・立岩遺跡からは前漢鏡の鏡が出土しており、この時期のものと考える。前漢の時代、奴國の領域は早良平野・福岡平野・春日丘陵の範囲であり、糸島平野と嘉穂盆地には、それぞれ別の国であったと思われる。 

後漢書に「建武中元2年(57年)倭奴国、貢を奉じて朝賀す。使人自ら大夫と称す。倭国の極南界なり、光武賜に印綬を以てす」と記載されている。江戸時代、北九州の博多湾の出口にある志賀島で、農夫により「漢委奴国王」の五文字を刻んだ金印が発見された。この金印こそ、光武帝より授かった印綬であった。この時金印を授かったのは、倭国王ではなく奴国王であったと言うのが定説だ。金印は王墓から出土したのでなく、志賀島の海岸沿いにある小さな石組から出土しているのが謎である。この時期の王墓と言えば、糸島平野の三雲遺跡に隣接する井原鑓溝遺跡から方格規矩四神鏡21面や刀剣などがおさめられた甕棺が出土している。これら方格規矩四神鏡は新または後漢の鏡であるされている。春日丘陵からは、この時期の王墓クラスの墓は発見されていない。

ただ、光武帝が王莽の新を破って後漢を建国したのが25年で、光武帝の先祖は前漢の景帝の皇子である。光武帝の時代の鏡が、王莽の新の時代に流行った方格規矩四神鏡であったとは考え難く、前漢鏡タイプの鏡を造ったと考える方が素直である。そうなると、金印を授かった奴国王の墓は、前漢鏡30面が出土した須久岡本遺跡の王墓となってくる。金印を授かった奴国王の墓の比定は後章に譲る。

後漢書に「安帝永初元年倭国王帥升朝貢。生口百六十人を献ず」とある。後漢中頃の107年に、倭国王が朝貢していた。三雲の西側の平原遺跡からは、墓の四方に溝をめぐらした方形周溝墓が発見されている。その大きさは、長さ18メートル、幅14メートルと大きなものであった。この遺跡からは42面の舶載の鏡、直径46センチの超大型国産鏡(舶載鏡の説あり)、メノウの管玉、琥珀製の丸玉など副葬品が出土している。この舶載鏡は方格規矩四神鏡で、井原鑓溝遺跡の方格規矩四神鏡よりは新しいタイプのものと言われている。平原遺跡の王墓は倭国王帥升の墓と考えたいが、光武帝の時代の鏡が前漢鏡タイプであったとすれば、鏡による時代比定がひとつズレ、倭国王帥升の王墓は井原鑓溝遺跡ということになる。倭国王帥升の王墓の否定は後章に譲る。

後漢鏡を出土する王墓が糸島平野に存在し、春日丘陵には存在しない。糸島地区の王が奴国を乗っ取ったのかも知れない。奴国の王は亡命に際して、金印を志賀島に埋めたと想像することも出来る。後漢の時代の奴国の領域は、糸島平野・福岡平野・春日丘陵・飯田盆地などを支配する国になり、他の諸国を束ね奴国連合国の倭国王として君臨していたに違いない。


4-4.有明海に侵出した奴国 [4.卑弥呼は何故共立されたか]


魏志倭人伝に記載された伊都国が糸島平野、奴国が福岡平野・春日丘陵であると定説化したのは、三雲遺跡・井原鑓溝遺跡・平原遺跡・須玖岡本遺跡があるからであり、不弥国が嘉穂盆地に比定されることが多いのも立岩遺跡があるからであろう。これらの遺跡から出土する鏡は、前漢・新・後漢前期の鏡であり、卑弥呼の活躍した魏の時代の鏡ではないのである。魏の時代の奴国は、前漢鏡をもらった前漢時代、金印を貰った後漢時代の奴国と変わっているはずだ。
                             
魏志倭人伝の初めの文章は「倭人は帯方東南の大海の中にあり、山島に依りて国邑をなす。旧百余国。漢の時朝見する者あり、今、使訳通じる所三十国」。また「その国、本また男子をもって王となし、住まること七、八十年。倭国乱れ、相攻伐すること年を歴たり、乃ち共に一女子を立てて王となす。名づけて卑弥呼という。」とある。前漢の時代から卑弥呼が登場する間に、百余国の国々が、30ヶ国に集約されている。 

後漢書に「桓・霊の間、倭国大いに乱れ、更々相攻伐し、歴年主なし。一女子あり、名を卑弥呼という。」とある。桓帝は147年から167年、霊帝は168年から188年であるので、倭国が乱れたのは160年から188年の頃であったと考えられている。この頃に倭国の盟主である奴国が、筑紫平野に向かって領土を拡張していったのであろう。そうなると連合国を束ねる箍(たが)が緩み、倭国乱れ、相攻伐することになったと思われる。邪馬台国の卑弥呼が共立される頃には、奴国は有明海沿岸まで勢力を伸ばし、三国時代には八女に都を置いていたと考える。                                                              

さて、時代は下るが継体天皇21年(529年)に、筑紫の国造筑紫磐井が大和朝廷に反乱を起こしている。この反乱は肥前・肥後。豊前・豊後の地域、現在の福岡県を中心として、大分県・佐賀県を含む広大な地域であった。筑紫磐井は一年半の戦いの後、大和朝廷の派遣した物部麁鹿(あらかい)によって磐井の本拠地である筑紫国三井郡(久留米市)で討ち取られ、反乱は鎮圧された。磐井の息子筑紫君葛子は糟屋(福岡市)の屯倉を献上して死罪を免れたという。
 

筑紫国風土記には上妻の県(八女市)に筑紫磐井の墓があり、裸で地に伏している石人や石馬がいると書いている。風土記に記載された通りの石人・石馬のある前方後円墳が、八女市吉田にある岩戸山古墳である。また、石人・石馬のある古墳の分布と磐井が起こした反乱の地域と一致している。大和朝廷に一年半も反逆した謀反人が、全長180メートルにおよぶ北九州最大規模の墓に葬られていることは、筑紫磐井を九州の一豪族ととらえたのでは理解出来ない。筑紫磐井は大和朝廷の総本家筋の奴国の末裔であり、大和朝廷にとっては息子筑紫君葛子に糟屋の屯倉を献上させただけで、筑紫磐井の領土であった筑紫の国、もとの奴国も取り上げることも出来ず、また磐井の墓を造ることも黙認したのではないだろうか。 

図9奴国の範囲.jpg倭国の元となった奴国は、弥生中期の始め、秦の時代に早良平野の吉武地区で興り、弥生中期、前漢(前漢鏡)の時代には福岡平野・春日丘陵と勢力を伸ばし、弥生後期、後漢(後漢鏡)の時代に糸島平野・嘉穂盆地を取り込み、奴国連合国の盟主となって、数代の間倭国王を務めた。弥生終末期、三国時代が始まると有明海側まで侵攻した。盟主の奴国が強権的になると、その連合が崩れ、倭国の国々が互いに争そうことになった。戦いが長く続き、倭国の国々は邪馬台国の卑弥呼を共立する。その後奴国は、邪馬台国(女王国)連合国の一員と成り下がり、邪馬台国が東遷して大和の地に建国して、日本全土を統一して行った段階で、筑紫の国造りとして生き残り、筑紫磐井の乱で衰退する。これが、奴国興亡のストーリーである。        (図をクリックすると大きくなります)

「邪馬台国が東遷して大和の地に建国」は、今後証明していく話である。 
                    


4-5. 卑弥呼が共立された理由 [4.卑弥呼は何故共立されたか]

表8青銅器分布.jpg邪馬台国が日向に存在したと言っても、多分考古学者の方々は、そんな荒唐無稽な事と相手にもされないであろう。その最大の原因は、日向には九州の弥生時代の象徴である銅剣・銅矛や銅鏡等の青銅器の出土がほとんどないからである。現在考古学者は、日向は青銅器文化が未発達で弥生文化の遅れた地であり、邪馬台国が存在するなどあり得ないと考えておられる。表8に、卑弥呼を共立した国々から出土した、弥生時代の青銅器、銅剣・銅矛・銅鏡、ならびに銅鐸と、新の貨幣である貨泉についてまとめた。これを見ると、邪馬台国に比定した日向が青銅器についてみれば一番遅れた国であることが分り、考古学者の言われることがもっともだと思える。
                                                      (表をクリックすると大きくなります)
ここで、互いに戦っている国々から共立される条件を考えて見る。それは、1)強国を選ばない。強国の王を選べば、その他の国々は属国にされてしまう。2)大国でも武器を持たないお金持ちの国を選ぶ。魏への朝貢などで贈り物にお金がかかる。3)近くに敵対する国があって、同盟国に戦いを仕掛ける事が出来ない国。4)家柄が良く優しい国。5)国王としてシンボルとなる人がいる国。6)同盟国以外の国と手を結ぶ恐れのない国。
 

日向の邪馬台国はこれらの6条件を全て満足させると考える。1)邪馬台国は青銅武器のない国。奴国は強国なので絶対共立されない。2)戸数は7万戸と最大の大国で、農業国としてお金持ち。3)狗奴国と隣接し交戦している。4)先祖が天孫降臨で日向に来た、天照大神・高皇産霊尊の子孫。5)卑弥呼は鬼道に仕え、良く衆を惑わす。6)狗奴国以外、同盟国以外の国とは遥か離れている。出雲国・吉備国は同盟国以外の国の祭器・銅鐸をもっており、いつ寝返るかわからない。こう考えると、日向の邪馬台国の卑弥呼を倭国の女王に共立するのが一番相応しいと思える。 

話は飛ぶが、国連の事務総長は共立される。現在の潘基文氏は8代目の総長である。これまでの総長の出身国を見ると、1代ノルウエー、2代スウェーデン、3代ビルマ、4代オーストリア、5代ペルー、6代エジプト、7代ガーナ、8代韓国である。大国や強国は選ばれていない。意図的にそうしている面もあるが、共立とはそのようなものだ。 

女王卑弥呼の邪馬台国が文化的に最も進んだ国であるとの固定概念を取り払い、同盟国の盟主は強国でない国の王が選ばれやすいと考えた時、日向に邪馬台国があったということが見えてくる。 

4-6.歴史は時代と場所を問わず似ている [4.卑弥呼は何故共立されたか]

中世ヨーロッパに神聖ローマ帝国(962-1806年)があった。現在のドイツ・オーストリア・チェコ・ハンガリー・スイス・北イタリアの諸国から成り立ち、首都はなく帝国というよりは大小の国家連合体であった。

最強のドイツ国王のオットー1世が、ローマ教皇から「ローマ皇帝」の冠をもらい、神聖ローマ帝国の初代皇帝となっている。ドイツ王国はオットー3世で直系が断絶、傍系も数代で断絶した。そのため7人の選帝侯で皇帝を選ぶ事が制度化した。選帝侯は皆自分が選ばれたし、自分でなければ操り易い人物を皇帝に選んだ。皇帝はローマ教皇から冠を授かり、正式に皇帝として認められた。誰だって他人が権力を持つことに手を貸すのは喜ばない。これらの制度が破綻し、13世紀に皇帝がいない大空位時代が20年間続いた。この間も皇帝は選出されたが、名ばかりの皇帝であった。

1273年、ハプスブルグ家のルドルフ1世が皇帝に選ばれた。ルドルフ1世はスイスの片田舎に小さな領地を持つ家柄の良い貴族で、それまでの皇帝には従順で、優れた武将の印象はなかった。強力な皇帝の出現を嫌うドイツ諸侯の思惑にピッタリで選出された。

ルドルフ1世はローマ教皇から冠を授かり、権力を握ると、神聖ローマ帝国で最も強力で、自分こそ皇帝になるべきだと自負していたボヘミア王が叛旗をひるがえした。ルドルフ1世はボヘミア王を撃退し、オーストリアのウイーンに本拠地を移し、皇帝権力の強化を図った。ルドルフ1世の後ハプスブルグ家が強国化するのを恐れ、皇帝に選出されなかったが、力を付けた
ハプスブルグ家は神聖ローマ帝国の皇帝を世襲するまでとなった。ハプスブルグ家はオーストリア・チェコ・ハンガリーを治め、神聖ローマ帝国の国々やヨーロッパ諸国と姻戚関係を結び、500年間以上ハプスブルグ帝国と言われる程繁栄する。1806年神聖ローマ帝国はナポレオン1世の攻撃に屈して解体、第一次世界大戦の終わる1918年に崩壊した。 

歴史は時代・場所を問わず似ている。
神聖ローマ帝国は国家連合体=倭国は分れて百余国
最強のドイツ国が実権を握る=最強の奴国が漢委奴国王金印をもらう
初代皇帝がローマ教皇より冠を授かる=初代倭国王帥升(奴国王)が後漢に朝貢
大空位時代=倭国大乱
スイスの小国で家柄の良いハプスブルグ家=天孫降臨の日向の邪馬台国  
ルドルフ1世は優れた武将に見えない=青銅器の武器を持たない邪馬台国
ルドルフ1世が皇帝に選出される=卑弥呼が倭国王に共立される   
オーストリアのウイーンに侵出=磐余彦(神武天皇)が大和に東征
ハプスブルグ家500年繁栄=大和朝廷600年繁栄(藤原氏台頭まで)
                    
   (今後書く記事を先取りして書いています) 
4.卑弥呼は何故共立されたか ブログトップ

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