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63.『日本書紀』の編年をエクセルで作る ブログトップ

63-1. 『書紀』の歴史(編年)をデジタル化する [63.『日本書紀』の編年をエクセルで作る]

「歴史をデジタル化する」と言うと、歴史資料をコンピューターに載せ、検索システム等が使用出来るようにするとの意味合いに取れるが、私がこれから述べようとするデジタル化は、古墳・飛鳥時代の編年を数値化するという意味合いである。私のモットーは「事実に即して考える」であり、多くの歴史資料をパソコンに取り込み、そのデータから古代の歴史について考えて来た。昨年、パソコンの故障から、バックアップをしていなかったこともあって、多くのデータを失った。特に『日本書紀』の編年、古墳の年代の編年に関するデータの消失は大きな痛手であった。しかし、これらのデータを再現することが出来れば、より進化出来ると、新たな作業に取り掛かった。

 

まず、初めに取り組んだのがエクセルによる『書紀』の編年である。私は、『書紀』は時間軸を引き伸ばしていたり、物語化していたり、誇張があったりして潤色されており、また後世に使われた語句を使用したりしていて、歴史書として信頼されていないが、その根底には史実が書かれていると考えている。その隠れている史実を引き出すために、『書紀』に即してその編年を作成し、「日本書紀は歴史を900年延長している。」という答えを過去に導き出していた。これらの再現が、パソコンソフトの「エクセル」とウエブサイト「日本書紀、全文検索」から容易に出来た。その過程をここに紹介するので、読者の方々が実際に挑戦していただければ幸いである。

 

初めに『書紀』が記した編年を作成する。エクセルの先頭行に見出しをA列「皇紀」、B列「西暦」、C列「干支」と付ける。A列の「皇紀」は2行に数値の「1」を、3行に「=A2+1」とインピットし、これを1358行までコピーする。皇紀1年(元年)は神武天皇が橿原宮で即位した年であり、1357年は持統天皇が皇太子(文武天皇)に譲位した年である。B列の「西暦」は2行に「-660」を、3行に「=B2+1」とインプットし、これを1358行までコピーする。神武天皇の即位は紀元前660年であることはよく知られている。注意することは、皇紀661年が「0」となっているので、「1」を書き込むこと。数学には「0」が存在するが、西暦には「0年」は無く、「-1年」の次の年は「1年」である。持統天皇の譲位は697年である。

 

『書紀』は編年を「干支」で記載しているので、紀元前660年から697年までの全ての年に「干支」を入れなければならない。干支を理解するために、十干と十二支から合成した。エクセルのどこかの列(例えばJ列)に十干の「甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸」を一文字ずつ10行インプットし、それらを下方に5度コピーする。次にその隣の列(K列)に十二子「子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥」を一文字ずつ12行インプットし、それらを下方に4度コピーする。十二子の隣(L列)に「=CONCATENATE(J1,K1)」の命令をインプットして干支「甲子」を作る。この命令を下方にコピーすれば60個の干支が出来る。表Z213に干支の一覧表を示している。

神武天皇の即位の干支は後から3番目の「辛酉」であるので、後3つの干支を切り取り、一番の「甲子」の前に挿入する。先頭が「辛酉」で最後が「庚申」の干支の60列をC列「干支」に値のみ貼り付け続けると、持統天皇が譲位した697年の干支は「丁酉」となる。これで、『書紀』の編年の準備が整った。次回にウエブサイト「日本書紀、全文検索」からのデータ抽出について解説する。

Z213.干支.png

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63-2.「日本書紀、全文検索」からデータ抽出 [63.『日本書紀』の編年をエクセルで作る]

Z214.日本書紀全文検索.pngエクセルに「皇紀」「西暦」「干支」の準備が出来ると、D列「年号」、E列「天皇」、F列「元年/崩御」、G列「年齢」、H列「記事有」の表題を記入する。D列「年号」の2行に数値の「1」を、3行に「=D2+1」とインピットし、これを1358行までコピーしておく。『書紀』は天皇の元年の記事の最後に「太歳○○」と干支が書いてある。天皇の在位年数は天皇崩御の年の年号となる。この「元年の太歳干支」と「天皇崩御の年号」を頼りに編年を行う。ウエブサイトの「日本書紀、全文検索」に入り、表題にある各天皇の巻を呼び出し、先頭にある「このページを検索」に「元年」を書き込み検索する。その後「太歳」「崩」「年」の順に文字を書き込み検索すると、これらの文字に黄色のマークが着く。

 

神武天皇(3巻)では、「元年」のマークを探すと、元年の記事の最後には「太歳○○」が無い。記事先頭に「辛酉年春正月」とあり、干支は「辛酉」と分かる。因みに「太歳○○」の干支は東征出発の年に書かれてある。「崩」のマークは最後の記事にあり、神武天皇が崩御したのは76年であり、年齢は127歳と分かる。E列2行に「神武天皇」と記入し、年号が76年までコピーする。年号1年のF列に「元年」を、年号76年のF列に「崩御」、G列に「127」と記入する。H列「記事有」の記入は「年」のマークを頼りに元年から始める。神武天皇の巻では、「元年、2年、4年、31年、42年、76年」に記事が書かれてあるので、それぞれの年号のH列に「1」を記入する。

 

Z215.書紀のデータ.png綏靖天皇から開花天皇(4巻)では、綏靖天皇の元年の太歳干支は「庚辰」であり、33年に84歳で崩御したことが分かる。神武天皇崩御の4年後の皇紀80年に「庚辰」の干支があるので、その行のD列年号に「1」を記入、E列に「綏靖天皇」と記入し年号33年までコピー、年号1年のF列に「元年」を、年号33年のF列に「崩御」、G列に「84」と記入する。皇紀77・78・79年は空位であることが分かるので、E列の天皇名は「空位」と記入し、D列の年号をスペース(空白)にする。綏靖天皇では、「元年、2年、4年、25年、33年」に記事が書かれてあるので、それぞれの年号のH列に「1」を記入する。4巻では綏靖天皇から開花天皇までの8代の天皇の項目がインプットできる。

 

崇神天皇の5巻から持統天皇の30巻まで、同じ作業を繰り返す。異常事項を下記に列記した。「元年」のマークは通常記事の先頭に出てくるが、神功紀では「是年也、太辛巳、則爲攝政元年」と「元年」が記事の最後に出てくる。雄略天皇の元年太歳の干支が写本の記載ミスの通りの「大丁酉」となっており、検索のマークが着いていない。安康天皇と崇峻天皇は暗殺されたので「崩」マークが出てこないが、データには「崩御」と記入している。

 

『書紀』に登場する天皇で譲位されたのは、皇極天皇と持統天皇である。皇極4年の「乙巳の変」で蘇我氏が滅び、皇極天皇が譲位し孝徳天皇が即位している。孝徳天皇の元年(大化元年)の太歳干支は「乙巳」で、皇極4年と重なっている。データ処理上厄介なので、皇極3年のF列に「譲位」と記入し、皇極天皇の在位は4年間とメモを残しておく。持統天皇の譲位は『書紀』の最後の記事であり、データ処理上問題はない。孝徳天皇では在位の途中に「白雉」と、天武天皇では「朱鳥」に改元が行われている。『書紀』は改元の年の干支を書いていないのが、白雉元年は大化5年の翌年、朱鳥元年は天武14年の翌年と編年する。『書紀』は元号を表示しているため、在位中に改元があった場合は、崩御した年の年号が在位年数を表わさない。孝徳天皇の在位は10年間で、天武天皇の在位は15年間であるとメモを残しておく。

 

天皇の即位は、元年に即位するのが普通であるが、前天皇が崩御した年に即位し、その翌年が元年となっている事例は多くある。また、天智天皇・持統天皇のように称制(即位せず政務を執る)の期間があり、即位が元年より数年遅れることもある。天武紀には元年(28巻)に太歳干支の記載がなく、また「即位」「即天皇位」の言葉も無い。2年(29巻)の記事の最後に「是年也、太癸酉」とある。元年(壬申:672年)は壬申の乱により大海人皇子(天武天皇)が大友皇子(天智天皇の長子)を破り、政権を獲得した年である。天武2年の8月の記事に「天皇、新平天下、初之卽位」とあり、天皇が即位したのは2年のようである。明治3年に大友皇子を弘文天皇と追号したため、天武元年を癸酉(673年)とし、天武天皇の在位を14年間とする年表もあるが、私は『書紀』の記載の通り、天武天皇元年は壬申(672年)としている。

 

各天皇の年号は記事の先頭にあるので分かりやすいが、特に景行紀の日本武尊が能褒野で亡くなった記事では、記事の最後に「是也、天皇踐祚卌三年焉」(天皇が皇位につかれて43年の年なり)とあり、最も見落とし易い年号である。また、記事が短いときは、前年の文章に引き続き書かれているので年号を見落とし勝ちである。允恭10年、仁賢4年・5年、武烈3年・6年、継体18年、欽明28年、敏達8年・9年、舒明7年などがこれらにあたる。データのインプットが終われば、コピーしてSheet2に「値」のみ貼り付ける。ウエブサイトの「日本書紀、全文検索」からデータ抽出する作業は、集中すれば1日、ボチボチすれば3日の作業である。実際に挑戦していただければ、『書紀』が緻密に編年されているのを感じていただけると思う。


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63-3.『書紀』は二倍年暦を採用していない [63.『日本書紀』の編年をエクセルで作る]

Z216-1.日本書紀の編年.png『書紀』の編年データのインプットが完了すると、これからはデータを駆使して編年を明らかにし、史実をあぶり出す作業である。Sheet2のI列の先頭行に「記事数」の表題を入れ、各天皇の崩御の年の行のI列に「=COUNT(」と命令を入れ、「記事有」のH列を「崩御」の行から「元年」の行まで上方にドラッグして、Enterキーを押す。すると各天皇紀に記載された記事の数がカウントされる。なお、皇極天皇は「記事数」が「4」と手動入力する。I列をどこかの列に「値」のみ貼り付け、切り取りI列に貼り付け固定化する。

 

Sheet2でA列からI列をドラッグして「並び替えフィルター」の「ユーザー設定並び替え」を選択。「先頭行をデータの見出しとして使用」にチェックをいれ、最優先キーに「元年/崩御」を、次に優先キーに「皇紀」を選び、「OK」をクリックする。各天皇の「元年」と「崩御」の行が選び出されるのでコピーしてSheet3に貼り付ける。Sheet2は優先キーを「皇紀」にして整列し直しておく。Sheet3から表Z216が作成出来る。皇極天皇の在位4年、孝徳天皇の在位10年、天武天皇の在位15年は書き改めておく。

 

天皇の年齢については記載の無い場合でも、皇太子なった時の年号と年齢が記載されている場合があり、年齢が計算出来るようになっている。年齢の列の( )は計算年齢である。表Z216を見ると、年齢が百歳以上の天皇が12名もいる。この年齢が史実であるとは到底考えられない。しかし、魏志倭人伝に倭人の年齢は「百歳あるいは八、九十歳」とあり、文末注に「魏略曰く、その俗、正歳四節を知らず。ただ春耕秋収を計って年紀と為す。」の記述があることから、倭国の歳の勘定は、一年を春と秋とで区切る二倍年暦(1年で2歳)であったとして、『書紀』の編年を考える説が古田武彦氏により提唱され、それに賛同される方も多くいる。

 

Z217.春秋/夏冬同年記載.png四季を2分すると春・夏/秋・冬、あるいは冬・春/夏・秋である。もし『書紀』が二倍年暦を採用していたら、どちらの区分の仕方であっても、1年の間に春(正月・2月・3月)と秋(7月・8月・9月)は共存せず、また夏(4月・5月・6月)と冬(10月・11月・12月)は共存しないはずである。百歳以上の天皇について、同年に春秋・夏冬が記載されているかを調べ、表Z217に示した。『書紀』は同年に春秋・夏冬が多く記載されており、二倍年暦を採用していないこと判る。124代の昭和天皇の在位は62年で、欽明天皇以後では最長の在位年数である。『書紀』が記載する天皇には、昭和天皇よりも長い在位の天皇が8名もいる。年齢からみても、在位期間からみても『書紀』は歴史を延長していることは明らかだ。


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63-4.『書紀』の編年は3期に分かれている [63.『日本書紀』の編年をエクセルで作る]

Z216-2.日本書紀の編年.png表Z216の記事記載率(記事数/在位)で見ると、安康紀を境に大きく変化していることが分かる。言語学者の森博達氏は、『書紀』の言葉と表記(音韻・語彙・語法)を分析し、全30巻をα群・β群・巻30に三分した。神武紀から安康紀はβ群に属し、雄略紀から崇峻紀はα群に属している。天文学者の小川清彦氏は、『書紀』に記載された暦日は、神武紀から安康紀までが新しい「儀鳳歴」で書かれ、雄略紀から持統紀までが古い「元嘉歴」で書かれているとしている。記事記載率、言葉と表記(音韻・語彙・語法)、暦日のいずれも、『書紀』は安康紀を境に表記の仕方が異なっている。

 

記事記載率から見ると、1代の神武天皇から9代の開花天皇までの9代の天皇は15%以下(平均9%)で、10代の崇神天皇から19代の允恭天皇までは、成務天皇の12%と履中天皇の100%を除く9代の天皇・皇后では22%~56%(平均36%)、20代の安康天皇から40代の持統天皇までの21代の天皇では72%以上(平均95%)であり、明らかに3期間に分かれている。

 

私は1代の神武天皇から9代の開花天皇までを歴史(編年)が創作された時代、10代の崇神天皇から19代の允恭天皇までが歴史(編年)が延長された時代、20代の安康天皇から40代の持統天皇までは歴史(編年)が史実のまま(潤色はあるが)書かれた時代と考える。なお、神武天皇の記事記載率は8%であるが、磐余彦尊が日向から東征に出発した年に「太歳甲寅」の記載があり、乙卯の年に吉備国に入り、戊午の年に東に向け出発し、己未の年に長髄彦を討伐し、庚申の年に正妃を立てたとある。そして、辛酉の年に橿原宮で即位し神武元年を迎えている。日向出発から即位までの7年間のうち5年間に記事の記載があり、記事掲載率は71%である。神武天皇は実在し、歴史(編年)が延長された天皇であると考える。


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63-5.欠史8代 の天皇は創作された天皇 [63.『日本書紀』の編年をエクセルで作る]

『書紀』は何故、神武天皇の建国を紀元前660年にしなければならなかったのだろうか。通説では、大和朝廷の権威を高めるために、中国の歴史に比べて遜色がないように、日本書紀編纂時に脚色されたとされている。神武天皇に対応する中国の皇帝といえば、約550年にも及ぶ春秋・戦国時代に終止符を打ち、初の統一王朝「秦」を作り上げた秦の始皇帝であろう。秦の始皇帝の治世は紀元前221から210年である。中国の歴史に比べて遜色がないよう脚色するのに、神武天皇の建国を紀元前660年まで遡らせる必要はない。

 

Z216-3.日本書紀の編年.png神武天皇が建国した年が「辛酉」であることから、日本書紀の編者は、元来、年代の伝えていなかった日本の古伝を中国流に形を整えるとき、中国の漢代に流行した「辛酉の年ごとに、中でも21度目の辛酉の年に大いに天の命が改まる。」という思想に基づき、日本史上の大変革というべき神武天皇即位を、推古天皇9年(辛酉:601年)から数えて、1260年前の辛酉の年においたとする辛酉革命説が、明治時代の学者那珂通世氏によって唱えられた。それほどまでに考えて、編者が日本書紀に取り入れた辛酉革命説であるならば、大変革の起こるべき推古9年に、特別な事件が起こっていないのは何故だろうかと疑問が残る。

 

表Z216の中で、29代の欽明天皇を見ると、皇紀は1200年、西暦は540年、干支は庚申となっている。1200は干支の基本数字60で割り切れる数字で、庚申の翌年が辛酉の年にあたる。欽明天皇元年は、『書紀』編年の要となる年となっている。欽明紀の中で特記すべきことは、欽明13年に百済の聖明王から仏教が伝来されたことだ。『書紀』が記載する日本(倭国)の歴史の中で、仏教が伝来し興隆したことは大変革であったと言える。仏教が伝来した頃、仏教を起した釈迦の誕生(諸説あるが紀元前566年頃)が、千百年位前であると伝わっていたと考える。神武天皇は釈迦より昔に我が国を建国した立派な天皇であるとするために、神武元年を欽明元年の1200年前、紀元前660年とする編年が出来たと考える。

 

歴史(編年)が創作された時代の天皇は、皇紀80年の綏靖天皇元年から皇紀563年の開化天皇崩御までの484年間で、「欠史8代」と呼ばれている。なお、古事記にも綏靖天皇から開化天皇までの記載があり、記紀の編纂以前の帝紀・旧辞にも書かれていたと考えられる。帝紀・旧辞の成立について、津田左右吉氏は、古事記の旧辞を出典として考えられる物語の多くが、23代顕宗天皇の御世までであることを理由に、「それらからあまり遠くない時代、しかしその記憶がやや薄らぐくらいの欽明朝頃、6世紀の中頃には一通りまとまっていたのだろう。」と述べている。仏教が伝来した翌年の欽明14年の記事には、内臣を百済に遣わして、勅に「医博士、易博士、暦博士は当番制により交代させよ。」とある。帝紀・旧辞は欽明朝に来日していた百済の暦博士の指導の下に作成され、神武天皇の建国を釈迦誕生以前とする編年が出来上がったと思える。


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63-6.『書紀』は挿入記事で編年を正当化している [63.『日本書紀』の編年をエクセルで作る]

10代の崇神天皇から19代の允恭天皇までが歴史(編年)が延長された時代である。『書紀』は『魏志』倭人伝や『百済記』『百済新撰』『百済本記』から引用した記事を、延長された編年の中に挿入して、延長された編年が正確であるかのように偽装している。その典型が神功39年の「この年太歳己未、魏志倭人伝によると、明帝の景初三年六月に倭の女王は・・・」記事である。エクセルSheet2のデータを見れば、神功39年は西暦239年であり、明帝の景初三年は239年である。『書紀』の編年と「魏志倭人伝」の年を一致させ、編年がさも正確であるかのように見せかけている。

 

『魏志』倭人伝を引用している記事は、神功39年のみならず神功40年に「魏志にいう、正始元年・・・」とあり、神功43年には「正始四年・・・」とある。神功40年と正始元年は240年、神功43年と正始四年は243年と一致させている。また、神功66年の記事には「晋の天子の言行を記した起居注に武帝の泰初二年十月、倭の女王が貢献したと記している。」とある。「起居注」は現存しないが、神功66年と泰初二年は両者共266年である。『書紀』は、倭国の女王が登場する「魏志倭人伝」「起居注」の記事を神功紀に挿入し、その女王があたかも神功皇后であるかのように見せかけて、延長した編年を正当化している。

 

神功55年の記事には「百済の肖古王が薨じた。」とある。神功55年はエクセルSheet2のデータを見れば255年である。現存する朝鮮最古の歴史書『三国史記』を見ると、肖古王が薨去したのは375年で、その差は120年である。神功64年の貴須王、神功65年の枕流王、応神3年の辰斯王、応神16年の阿花王、応神25年の直支王、これら百済王の薨去の年は、『書紀』の編年は『三国史記』に記載された百済王の薨去の年より120年遡らせている。『書紀』は干支が同じであることを隠れ蓑にして、延長した編年を正当化している。なお、百済王の名が無くとも肖古王の家来の登場する記事、『百済記』の引用記事も120年遡らせた挿入である。

 

雄略紀には『百済新撰』の引用記事、百済が高麗(高句麗)に滅ぼされた記事、文斤王が薨じて東城王立った記事があり、武烈紀には『百済新撰』の引用記事があり、継体紀には『百済本記』の引用記事、百済の武寧王が薨じ百済の聖明王が即位した記事がある。これらの記事の年代は、『書紀』と『三国史記』に差はない。これらの記事も『書紀』の編年を正当化するために、『百済新撰』『百済本記』に書かれた事柄を引用し、挿入した記事であると考える。

 

応神37年に「阿知使主を呉に遣わして、縫工女を求めさせた。阿知使主は高麗に渡り、高麗王から道案内人を得て、呉に行くことが出来た。呉の王は四人の縫女を与えた。」との記事があり、応神41年には「阿知使主が呉から筑紫についた。宗像大神に兄媛を奉った。これがいま筑紫国の御使君の先祖である。あと3人の縫女を連れて武庫に着いたとき、天皇が崩御されたので、大鷦鷯尊に奉った。」とある。

 

中国で呉の国といえば、三国時代に都を建業(南京)におき、江南の地を治めた呉(222~280年)がよく知られている。書紀の編年では応神37年は306年である。中国で306年頃の王朝は西晋(265~316年)で都は洛陽にあり、呉と呼ばれることはない。応神37年の記事も干支2廻り120年遡らせて挿入しされているとすれば、426年の事となる。南北朝の時代の宋は420年に建国し、都を建業においていた。阿知使主が朝貢した呉国は宋である。『宋書』倭国伝には「元嘉2年(425年)に讃が司馬曹達を遣わし、表を奉りて宝物を献ず.」とある。『書紀』は宋への朝貢を干支2廻り120年遡らせて挿入している。

 

阿知使主が訪れた高麗(高句麗)王は長寿王(413~491年)となる。そうすると、応神28年に「高麗王が使いを遣し、その上表文に高麗の王、日本国に教うとあったので、無礼であるとその表を破り棄てられた。」とある高麗王も長寿王であろう。応神28年(297年)を干支2廻り120年遡らせると417年のことになる。『三国史記』の長寿王元年(413年)に「晋に使者を派遣し、上表文を奉り、白馬を献上した。安帝は王を高句麗王・楽浪郡公に封じた。」とある。高句麗王の上表文に「日本国に教う」とあったのは、晋に朝貢しなさいということであったのだろう。応神28年の記事も挿入記事である。また、応神20年にある「倭漢直の先祖である阿知使主がその子の都使主、並びに十七県の自分のともがらを率いてやってきた。」の記事も挿入記事となる。

 

表Z218にこれらの挿入記事を示した。『書紀』はこれらの記事を延長された編年の中に挿入して、延長された編年がさも正確であるかのように偽装している。延長されていない歴史(編年)を見つけ出すためには、これらの記事を取り除かなければならない。エクセルSheet2のデータをコピーしてSheet4に貼り付ける。皇紀80年の綏靖天皇元年から皇紀563年の開化天皇崩御までを切り取りSheet5に貼り付ける。「欠史8代」が484年間であると確認できる。Sheet4を「皇紀」で並び替え、表Z218で「記事有」が「0」になっている記事については、Sheet4のH列「記事有」の「1」を「0」に変更する。これで『書紀』が延長している年数をあぶり出す準備が整った。

Z218.挿入記事.png

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63-7.『書紀』は900年歴史(編年)を延長している [63.『日本書紀』の編年をエクセルで作る]

『書紀』は、神武天皇を釈迦より昔に我が国を建国した天皇であるとするために、綏靖天皇から開化天皇の崩御までの「欠史8代」と呼ばれる天皇を創作して、484年間を挿入している。それでは、10代の崇神天皇から19代の允恭天皇までの歴史(編年)が延長された時代は、何を目的に延長したのであろうか。『書紀』は、神武天皇を「始馭天下之天皇」(始めに国を統一した天皇)とし、崇神天皇を「御肇国天皇」(始めに国を治めた天皇)としている。崇神天皇の元年、紀元前97年も意味のある年のはずである。『書紀』が記した日本(倭国)の歴史で、朝鮮半島の三国(新羅・高句麗・百済)との関係が随所に出てくる。この三国の建国は、新羅が紀元前57年、高句麗が前37年、百済が前18年である。「御肇国天皇」とする崇神天皇元年を、朝鮮の三国で最も古い新羅の建国より前にしている。崇神天皇から允恭天皇までに、歴史(編年)が延長されているのは、このためであると考える。

 

『書紀』に記載された記事のうち、欠史8代と挿入記事を取り除いた記事には、潤色はあるだろうが、伝承されてきた事柄が記載されていると思う。『書紀』に記載された記事を信じるが、編年された年月は信用出来ない。この矛盾を解決する解は、記事と記事の間の空白期間で編年を延長していると考えることだ。空白期間を短くすることだけならば、『書紀』に記載された記事を恣意的に選別することなく、全ての記事を含んだ編年を作成することが出来る。

 

空白期間を調べる作業に取り掛かる。Sheet4のJ列の先頭行に「記事無」の見出しを付け、A列からJ列までをドラッグして、「並び替えフィルター」の「ユーザー設定並び替え」を選択。「先頭行をデータの見出しとして使用」にチェックをいれ、最優先キーに「記事有」を選び、「OK」をクリックする。すると「記事有」が「1」と「0」、そして「スペース(空白)」の3グループに分かれる。「0」と「スペース」のグループの「記事無」のJ列に「1」を書き込み、そのあと最優先キーを「皇紀」、順序を「昇順」にとして並び替える。K列の先頭行に「空白年数1」の見出しを入れ、2行目(皇紀1年)に「0」を書き込み、3行目に「=IF(J3=1,K2+1,0)」の命令をインプットし、それをコピーして最後の行(皇紀1357年)まで貼り付ける。K列をコピーして、どこかの列に値だけ貼り付け、その列を切り取ってK列に貼り付け固定化する。

 

A列からK列までをドラッグして、最優先キーに「皇紀」、順序を「降順」にして並び替えを行う。L列の先頭行に「空白年数2」の見出しを入れ、2行目(皇紀1357年)に「0」を書き込み、3行目に「=IF(J3=1,L2+1,0)」の命令をインプットし、それをコピーして最後の行(皇紀1年)まで貼り付ける。L列をコピーして、どこかの列に値だけ貼り付け、その列を切り取ってL列に貼り付け固定化する。最優先キーに「皇紀」、順序を「昇順」にして並び替えを行う。  

 

M列の先頭行に「空白期間」の見出しを書き込み、2行目に「=K2+L2」の命令をインプットし、コピーして最後の行(皇紀1357年)まで貼り付ける。A列からM列までをドラッグして、最優先キーに「空白期間」で順序「降順」、次に優先キーに「皇紀」で順序「昇順」として並び替えを行う。この作業によって、記事と記事の間の空白年数の大きい順に並ぶことになる。私は、空白の期間が4年以上(M列の値で5以上)は編年を延長している期間であると考えた。M列の値が「5」以上のものを切り取ってSheet6に貼り付ける。

Z220.編年延長の空白期間.png

 
Z219.延長された空白期間.pngheet6のJ列「記事無」の最後に「=SUM(J2:J417)」の命令を入れると416の答えが出て、延長された空白期間の合計が416年であることが分かる。Z219に天皇ごとの延長された空白期間を示す。「欠史8代」の期間が484年間で両者を合わせると、『書紀』が歴史(編年)を延長した年数は、驚くことに丁度900年となる。900年は干支の60で割り切れる値であり、偶然に積み上がった数字ではなく、『書紀』の編纂者が意図的に積み上げた数字であると思う。


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63-8.神武建国は241年、辛酉の年 [63.『日本書紀』の編年をエクセルで作る]

『書紀』編年の原点というべき、900年の延長の期間を除いた年表の作成に取り掛かる。Sheet4のA列からM列までをドラッグして、最優先キーを「皇紀」に「昇順」に並び替える。B列「西暦」、C列「干支」、D列「年号」をコピーしてN列・O列・P列に貼り付け、表題を「新西暦」・「新干支」・「新年号」に変更し、N列・O列・P列の値を皇紀1年から皇紀1200年(欽明元年)の行まで消しスペースにしておく。N列の皇紀1200年行に「=Nxx-1」(xxは皇紀1201年の行No)の命令をインプットして、コピーして2行(皇紀1)まで貼り付ける。

 

Z221.エクセル作成年表.pngそうすると、神武元年(皇紀1年)が241年となる。241年の干支は「辛酉」である。皇紀1201年のO列の干支が「辛酉」であるので、「辛酉」から「庚申」まで(皇紀1201~1260)コピーして、皇紀1から貼り付ける。5回貼り付ければ欽明元年の干支が「庚申」となる。P列の2行目に「1」を書き、3行に「=P2+1」と命令をインプットし、コピーして皇紀1200年まで貼り付け、各天皇の元年に「1」を書き込むと、各天皇の「新年号」が出来る。空位の期間が生じるのは、神武天皇3年、成務天皇1年、応神天皇2年、反正天皇1年、継体天皇2年である。N列・O列・P列をコピーして、どこかの列に「値」だけ貼り付け、それを切り取りもとの位置に貼り付け固定化する。A列からP列までドラックして、最優先キーを「元年/崩御」にして、並び替え、F列に元年・譲位・崩御の記載がある行をコピーして、Sheet7に貼り付け整理すると、表Z221の「エクセル作成の年表」が出来る。ただし、皇極天皇の在位4年、孝徳天皇の在位10年、天武天皇の在位15年は書き改める。

 

邪馬台国の卑弥呼は景初3年(239年)に魏に使者を遣わし朝貢している。正始元年(240年)魏の明帝は使者に詔書や印綬をもたせ、倭国に遣わしている。私は、魏志倭人伝に書かれた方角と距離の通り辿ることにより、邪馬台国は日向にあるとした。その日向より、234年(甲寅)に磐余彦尊は東征に出発し、241年(辛酉)に橿原宮で建国し、即位して神武天皇となっている。なんとも出来すぎの編年である。しかし、この編年を導き出した操作は、エクセルの機能を使って行われたもので、恣意的な選定が入る余地は全くない。「事実は小説より奇なり」まさにこの通りであった。


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63-9.「縮900年表」で「倭の五王」を解明 [63.『日本書紀』の編年をエクセルで作る]

日本の古代史を明らかにする手がかりは、二冊の中国の歴史書に求められている。その一冊が「卑弥呼」の登場する『魏志』倭人伝であり、そしてもう一冊が、「倭の五王」が登場する『宋書』倭国伝である。『宋書』は513年に没した沈約の撰によるもので、中国の南北朝時代の南朝に起こった宋(420~478年)の史書であり、五世紀に倭より中国に朝献した倭国王「讃・珍・済・興・武」、通称「倭の五王」について詳しく書いてある。この「倭の五王」については、江戸時代の新井白石・本居宣長に始まって、明治・大正・昭和の多数の学者・研究者が「魏志倭人伝」と同様『宋書』宋書倭国伝の解釈に頭を悩まし続けてきたが、まだ明確な「解」は見つかっていない。「エクセル作成の年表」が何の矛盾も無く通用するかが試される登竜門である。

 

「エクセル作成の年表」による「倭の五王」について検討する前に「エクセル作成の年表」を1ヶ所だけ、允恭元年444年を443年と手直しする。「エクセル作成の年表」の年代に従って『書紀』を読めば、442年1月に反正天皇が崩御したあと、群卿は反正天皇の同母弟であった稚子宿禰皇子(允恭天皇)に皇位に付くよう懇願したが、皇子は「国家を任されることは重大なことである。自分は病いの身で、とても堪えることは出来ない。」と承知しなかった。妃の忍坂大中媛命の懇願で皇位に付いたのが444年12月であり、443年は空位となっている。

 

稚子宿禰皇子の皇位辞退は胡散(うさん)臭さを感じる。そもそも、反正天皇が即位のあと何の記事もなく、在位5年で突然崩御されていること自体が不自然で、反正天皇が允恭天皇によるクーデターで亡くなった感じがする。それを隠すための美化が、稚子宿禰皇子の皇位辞退の物語であると想像する。反正・允恭天皇の父親である仁徳天皇も、皇位継承が美化されている。応神天皇は大鷦鷯尊(仁徳天皇)の弟・菟道稚郎子を寵愛し皇太子とした。応神天皇が崩御したあと、菟道稚郎子は「兄を越えて位をつぎ、天業を統べることは出来ない。兄は仁孝の徳もあり、私は不肖でとても及ばない。」と皇位を大鷦鷯尊に譲ろうとした。大鷦鷯尊は「先帝は明徳な人を選び皇太子に立てられた。私は不肖で、先帝の命に背いて、弟王の願いに従うことは出来ない。」と辞退し続けた。空位が3年経ち、菟道稚郎子は「兄の志が変らないことを知った。天下を煩わすのは忍びない。」と自殺している。これらは仁徳天皇のクーデターを隠すための美化された物語であると考える。

 

Z222.縮900年表.png仁徳天皇・允恭天皇の皇位継承についての美化された物語は、『書紀』の編纂者が行ったのではなく、伝承されていたものと思われる。反正天皇が崩御したのが442年1月で、同年の12月に允恭天皇が即位し、允恭元年は443年となる。即位が元年の前年にあることは、良くある事例である。この手直しした年表Z222を「縮900年表」と呼ぶ。

 

「縮900年表」と『宋書』倭国伝に記載された「倭の五王」と比較し、「讃」は仁徳天皇、「珍」は反正天皇、「済」は允恭天皇、「興」は安康天皇、「武」は雄略天皇に比定した。仁徳天皇は在位の途中で朝貢を始めたのであるが、反正・允恭・安康天皇については、元年の年または翌年に朝貢している。しかし、雄略天皇は14年経っての朝貢となっている。武は上表文の中で「高句麗が百済の征服を図り、朝貢の使者を派遣しても目的達することが出来なかった」と言い訳をしており、雄略元年の年代と矛盾しない。

 天皇  元年   倭王  朝貢の年    記載事項     

 仁徳 381年  讃  421年  倭王讃朝貢し叙綬を賜う

          讃  425年  讃、表を奉りて方物献ず

 履中 432年

 反正 438年  珍  438年  讃死し弟珍立つ。珍遣使貢献

 允恭 443年  済  443年  倭国王済、遣使貢献す

          済  451年  倭王済、号を安東大将軍に進む      

 安康 461年  興  462年  済死す。世子興。遣使貢献す

 雄略 464年  武  478年  興死し弟武立つ。武遣使上表   

 

系譜でみると、「済」と「興」、允恭天皇と安康天皇、両方とも親子で合っており、「興」と「武」、安康天皇と雄略天皇、両方とも兄弟と合っている。しかし、問題は「讃死し弟珍立つ」である。「縮900年表」で讃を仁徳天皇、珍を反正天皇としたとき、讃と珍の関係は親子であり、兄弟の関係にはない。これに関しては、私は次のように考える。438年反正天皇の使いが宋に朝貢して、「昨年、兄の前王(履中天皇)が亡くなり、弟(反正天皇)が王に即位した。倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国の諸軍事安東大将軍倭国王の称号を頂きたい」と要求した。宋は王(反正天皇)を「珍」と称し、「安東将軍倭国王」の称号を与えている。

 

宋からすれば、天子(皇帝)が倭国王を冊命するのだから、一度も朝貢しなかった履中天皇の存在は認知しておらず、兄の前王は讃と理解し、「倭王讃死し、弟珍立つ、珍遣使献ず」の文章が記録されたと考える。本来「子」と記載すべきところが「弟」となったのは、履中天皇が一度も宋に朝貢していなかったことに因る。江戸時代から現在までの300年間、「倭の五王」の比定が解決しないのは、「讃死し弟珍立つ」の文章のためであると言っても過言ではない。しかし、「縮900年表」が示す履中・反正・允恭・安康天皇の年代から、最難関のハードルをすんなりと越える答えを導き出すことが出来た。それにしても、珍・済・興の朝貢が反正・允恭・安康天皇の元年または翌年とする「縮900年表」の正確さは驚きである。


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63-10.『書紀』に書かれた宋への朝献 [63.『日本書紀』の編年をエクセルで作る]

「倭の五王」の時代、中国は南北朝の時代と言われ、南朝と北朝の二つに分かれていた。北朝は三国時代の魏の領地を支配し、南朝は呉・蜀の領地を支配していた。南朝は東晋(317~420年)を滅ぼした武帝が建国した宋(420~479年)から始まり、斉・梁・陳の国が起こり、その後隋(581~618年)が南北朝を統一している。文末に示す表Z223は、『書紀』の全ての記事の年代を「縮900年表」の年代に変換している。これをみると、宋の時代は仁徳天皇から雄略天皇の時代にあたる。Z224に示すように、「縮900年表」の天皇の元年・崩御の年は、『宋書』倭国伝・帝紀に記され記事と密接に関係している。『書紀』では宋は「呉」と呼ばれ、しばしば登場している。『宋書』に登場する「倭の五王」の記事が、『書紀』にどのように記載されているか、「縮900年表」の年代をもとに探ってみた。なお、『書紀』の記事の年代は、断らないかぎり「縮900年表」による年代である。

 

Z224.倭の五王.png『宋書』倭国伝では、倭王が最初に宋に朝貢した記事は、永初2年(421年)「倭王讃朝貢し叙綬を賜う」とある。一方『書紀』の仁徳58年(421年)の記事は「呉国・高麗国が朝貢した」とあり、呉国(宋)が文帝の即位(420年)に際して、高麗国と一緒に倭国に使者を派遣して、「宋に朝貢せよ」との上表書を持ってきたと考えることが出来る。そう考えると、仁徳天皇は倭国を訪れた宋の使者に付けて、朝貢の使者を派遣したことになる。『書紀』は強弱・正悪・主従を反対にしている場合があり、仁徳58年の記事は、「倭国が高麗国と一緒に呉国に朝貢した」ということの潤色であるのかも知れない。いずれにしても『書紀』は、『宋書』倭国伝永初2年(421年)の記事の通り、仁徳天皇(讃)が呉(宋)に朝貢したことを記載している。

 

『宋書』倭国伝の元嘉2年(425年)に「讃又遣司馬曹達 奉表献方物」とあり、『宋書』文帝紀の元嘉7年(430年)に「倭国王使いを遣わし方物を献ず」とある。『書紀』の応神37年(426年:306+120)には「阿知使主・都加使主を呉に遣して、縫工女を求めさせた。阿知使主らは高麗に渡って、呉に行こうと思ったが道が分らず、道を知っているものを高麗に求めた。高麗王は久礼波・久礼志の二人をつけて道案内させた。これによって呉に行くことが出来た。呉の王は縫女の兄媛・弟媛・呉織・穴織の四人を与えた。」とあり、応神41年(430年:310+120)の記事には、阿知使主が呉の王から授かった四人の縫女を伴い筑紫に帰国したと記している。『宋書』の元嘉2年と元嘉7年の倭王讃の朝貢の記事と、『書紀』の応神37年と応神41年の阿知使主が呉に遣わされた記事はその年代がほぼ合っている。

 

応神37年の阿知使主が呉に渡った記事を120年繰り下げて426年のこととして、『宋書』倭国伝の元嘉2年(425年)と結びつけた学者はいる。これにより、「讃」が応神天皇であると主張する学者もいれば、この記事を仁徳天皇の時代にスライドさせ、「讃」が仁徳天皇とする考えに合わせた学者もいる。私は後者の考えであるが、恣意的に仁徳天皇の時代に合わせたのではない。表Z223に示すように、神功紀・応神紀にある百済・呉との関連記事を120年繰り下げて「縮900年表」に戻すと、自動的に応神37年(426年)と応神41年(430年)の記事が仁徳朝の記事であったことになり、仁徳天皇(讃)が始めて宋に朝貢した仁徳58年(421年)の記事の後に収まってくる。「縮900年表」の正確さがここにも現れている。

 

『宋書』順帝紀、昇明元年(477年)には「倭国使いを遣わし方物を献ず。」とあり、倭国伝の昇明2年(478年)には「倭国王武、使いを遣わして方物を献ず。武を以て安東大将軍と為す」とある。『書紀』は、雄略天皇の治世の雄略6年と雄略8年に身狭村主青らを呉に遣わされているが、雄略10年(473年)には、まだ築素に滞在している。それは『三国史記』新羅本紀の474年の記事に「高句麗王が百済を攻めた。百済王は救援を求めてきた。新羅王は救援しようとしたが、到着する前に百済の王都は陥落し、百済王も殺害された。」見られるように、高句麗が百済を攻めたこともあって、身狭村主青らは呉国には渡っていないようだ。そして、雄略12年(475年)に身狭村主青らを呉に派遣したとあり、雄略14年(477年)に身狭村主青らが、呉国の使いと共に帰国したとある。『宋書』倭国伝の昇明2年の武の上表文には「高句麗が百済の征服を図り、朝貢の使者を派遣しても目的達することが出来なかった」と言い訳していることと、『書紀』が記す身狭村主青らの呉への派遣記事は、見事に一致している。

 

雄略12年に呉国に遣わされ、雄略14年に呉国から帰国した身狭村主青を、『宋書』順帝紀・倭国伝にある武王の使いと考える学者は多くいる。しかし、『書紀』の編年に従えば、雄略14年は470年で『宋書』倭国伝の昇明2年(478年)とは8年も異なっており、この説を肯定する大きな壁となっていた。しかし、「縮900年表」の年代に従えば、その壁も一挙に乗り越えることが出来る。『書紀』は900年延長されていた。その中で歴史(編年)が史実であった時代、安康天皇以降の天皇紀で、延長がなされていたのは、26代の継体紀のみで、その延長された年数は7年であった。この7年は雄略天皇が「武」、安康天皇が「興」、允恭天皇が「済」であることを確定したばかりか、雄略天皇より呉国に遣わされ身狭村主青が、雄略天皇(武)の上表文を携えて宋に朝献した使いであることを明らかにした。

 

『書紀』は時間軸を引き延ばしていたり、物語化していたり、誇張があったりして潤色されており、また後世に使われた語句を使用したりしていて、歴史書として信頼されていない。私は引き延ばされた時間軸を元に戻す作業を、エクセルを使用して行い、「縮900年表」を作成した。そして、この「縮900年表」で変換した『書紀』の記事の年代と、『宋書』倭国伝の記事の年代がピッタリと合致することを証明した。その正確さは、歴史・考古学者の考える編年をはるかに超えた精度であった。




Z223-1.年代変換表.pngZ223-2.年代変換表.png

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63-11.『書紀』は「好太王碑」と一致している [63.『日本書紀』の編年をエクセルで作る]

好太王碑.png中国の吉林省集安県の鴨緑江中流域、その昔高句麗の王都・丸都城のあったところにある好太王碑(広開土王碑)には、400年前後の高句麗・新羅・百済と倭国の関係が刻まれている。
 391年:辛卯の年よりこのかた、海を渡って来て百済を破り、
            東方では新羅を□し、臣民にした。
 399年:百済は誓いを破って倭と和通したので、(高句麗)王は
      平壌に出向いた。新羅の使いが、倭が新羅の国境に満ち
      ていると救援を請願した。
 
400年:新羅救援のため5万の歩騎を派遣した。新羅城には倭軍
      が満ちていた。官軍が到着すると倭軍は退却した。これ
      を追撃して任那加羅の従抜城に至る。
 404年:倭が帯方に侵入してきたので、王は平壌に討って出て大敗させた。

「縮900年表」によると、仁徳天皇の治世は381年から431年で、好太王碑に刻まれた朝鮮半島に進出した倭国王は仁徳天皇であることがわかる。好太王碑に刻まれた内容は『書紀』には次のように記載されている。西暦は「縮900年表」によるもので、仁徳紀は900年縮めた年代、応神紀は120年加算した年代である。なお、『三国史記』によると百済の阿華王の在位は392年~405年となっており、120年の加算と合っている。
 391年:(仁徳11年)新羅人の朝貢があった。そこで茨田の堤の役に使われた。
 392年:(応神3年)百済の辰斯王が倭国の天皇に対して礼を失することが多く、紀角宿禰等4名
      派遣。百済国は陳謝し、辰斯王を殺し阿花王を立てる。
 397年:(応神8年)阿花王が立って倭国に無礼をした。それで枕彌多礼、峴南、支侵、谷那・東韓
      の地を奪われた。そのため王子・直支を天朝に遣わして先王の好を修好した。
 397年:(仁徳17年)新羅が朝貢しなかった。砥田宿禰と賢遣臣を新羅に派遣し詰問。新羅人は
      恐れ入って貢ぎ物を届けた。貢物は80艘あった。
 405年:(応神16年)百済の阿花王が薨じた。天皇は直支王子に「国に帰り位につきなさい」と
      言われ、東韓の地を賜り帰国された。

『書紀』では397年に、百済は倭国に南部の地を奪われると、王子・直支を倭国に遣わし好を修好したと記し、新羅は倭国に朝貢しなかったと詰問されると、80艘の貢ぎものを倭国に届けたと記している。「好太王碑銘文」では399年に、百済は誓いを破って倭と和通したと記し、新羅は倭が新羅の国境に満ちていると救援を請願したと記している。「好太王碑」の391年から404年の銘文と、『書紀』の391年から405年の記事は同じ史実を述べているといえる。「縮900年表」を通してみると、『書紀』は「好太王碑銘文」と一致している。


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63-12.神功皇后は実在し新羅遠征を行った [63.『日本書紀』の編年をエクセルで作る]

「縮900年表」は、『書紀』の編年から「欠史8代」と呼ばれている綏靖天皇から開化天皇までの記事を取り除き、『魏志』倭人伝や『百済記』『百済新撰』『百済本記』から引用した記事と神功紀・応神紀にある百済・呉との関連記事を「挿入記事」として取り除き、そして記事と記事の間の空白の期間が4年以上のものを取り除いて、900年短縮して作成している。そして、神功紀・応神紀の「挿入記事」は『書紀』の編年に120年プラスして、900年短縮した「縮900年表」に戻している。

 

『書紀』の神功紀と応神紀にある百済記から引用された記事の年月が、『三国史記』に記載された年月と比較すると干支2廻り、120年違っていることは、明治時代の歴史学者、那珂通世氏により学問的に研究されて以来、定説となっている。一方、私が発見した900年の短縮は、『宋書』倭国伝や「好太王碑」銘文でも、その精度は干支2廻りの編年と同等であった。900年短縮した『書紀』の編年が語る歴史は、『書紀』は歴史書として信頼できないという従来の定説を覆す。『書紀』に記載された天皇の中で、歴史・考古学者がその存在を全く信用していない天皇は、神武天皇と神功皇后であるといっても過言ではない。その神功皇后がなした新羅征伐を信用する歴史学者は居ないであろう。しかし、「縮900年表」を通して『書紀』を読めば、意外な史実が浮かびあがってきた。

 

『書紀』神功前記(仲哀9年)には、「神功皇后が新羅に攻込んだ。新羅王の波沙寐錦は降伏し、人質と金銀や絹織物を差出し、馬飼いとして春秋に朝貢することを約束した。皇后は持っていた矛を新羅王の門に立て後世の印とした。高麗と百済は新羅が地図や戸籍を差し出して降伏したと聞いて、倭国の勢力を伺い朝貢を約束した。そこで屯倉を定めた。」とある。『古事記』も、神功皇后が新羅に攻込み新羅王が降伏したこと、新羅は馬飼いと定め、百済は海を渡った地の屯倉と定めたこと、新羅王の門に御杖を定めたことなど、ほぼ同じことを記載している。900年縮めた「縮900年表」では、仲哀9年は346年となる。

『三国史記』では、「346年、倭軍が突然風島を襲い、辺境地帯を掠め犯した。倭軍はさらに進んで金城を包囲し激しく攻めた。王は城を出て戦おうとしたが、家臣康世の勧めで籠城した。賊軍は食糧がなくなり、退却しようとしたので、康世に命じて、精鋭な騎馬隊を率いて追撃し敗走させた。」とある。『三国史記』と「縮900年表」を通した『書紀』とは、戦の勝敗は摩逆であるが、346年に倭国が新羅の金城まで攻め込んだということは一致している。神功皇后の新羅遠征は史実であるが、これ以降新羅と百済が倭国に朝貢するようになったとは思えない。


中原高句麗碑.png
『書紀』神功前記では、新羅王を波沙寐錦と記している。「寐錦」が新羅王を表すということを歴史学者(日本・韓国・中国)が知ったのは、1978年に韓国の忠清北道忠州市で発見された中原高句麗碑からである。あの有名な好太王碑にも永楽十年(400年)の記事に「新羅寐錦」の刻字があったが、日中韓の歴史学者は「新羅安錦」と読んでいた。『書紀』は歴史学者より「寐錦」の言葉を正確に伝えており、神功皇后の新羅遠征(346年)が史実であった証拠であると考えている。


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63-13.『古事記』と『書紀』が伝えていた史実 [63.『日本書紀』の編年をエクセルで作る]

『書紀』の編年を900年の短縮した「縮900年表」の編年が、正しいことを証明する記事が『古事記』にあった。『古事記』応神記には「百済の国主照古王、牡馬壱疋・牝馬壱疋を阿知吉師に付けて貢上りき。また横刀と大鏡とを貢上りき。また百済国に『若し賢しき人あらば貢上れ』とおほせたまひき。かれ、命を受けて貢上りひと、名は和邇吉師、すなはち論語十巻・千字文一巻、并せて十一巻をこの人に付けてすなはち貢進りき。また手人韓鍛名は卓素、また呉服の西素を貢上りき。」とある。一方、『書紀』応神15年には「百済王は阿直岐(あちき)を遣わして良馬二匹を奉った。・・・天皇は阿直岐に『お前よりも優れた学者がいるかどうか』といわれた。『王仁(わに)というすぐれた人がいます』と答えた。上毛野君の先祖の荒田別・巫別を百済に遣わして王仁を召された。」とある。

 

『古事記』と『書紀』の記事は、百済国主=百済王、牡馬壱疋・牝馬壱疋=良馬二匹、阿知吉=阿直岐、「賢しき人あらば」=「優れた学者がいるかどうか」、和邇=王仁であり、両者は全く同じ話である。『古事記』は百済王を照古王(しようこおう)とあるが、『書紀』には百済国王の名がない。「縮900年表」によれ応神15年は368年となる。倭国は応神天皇(354~380年)で、百済は肖古王(346~375年)の時代である。『古事記』と『書紀』は、百済の肖古王が良馬2匹を応神天皇に献上したことを伝え、「縮900年表」は、それが368年のことであると解明した。

 七支刀.png

奈良県天理市にある石上神宮には、左右に段違いに三つずつの枝剣があり、剣身を入れると七つの枝に分かれる特異な形をした、国宝の七支刀がある。この七支刀には、表と裏に60余文字の金象嵌がある。その銘文を下記に示すが、表の象嵌は泰和4年(東晋太和4年:369年)に七支刀が造られたことをしるし、裏の象嵌は百済王が倭王のために造ったことをしるしている。
 「泰和四年五月十六日 丙午正陽 造百錬銕七支刀 生辟百兵宜供 供候王 □□□作」
 「先世以来 未有此刀 百滋王世□ 奇生聖音 故為倭王旨造 伝示後世」

『書紀』神功52年の記事には、「百済の肖古王が七枝刀一口と七子鏡一面、および種々の重宝を奉った。」とある。「縮900年表」は神功紀・応神紀の「挿入記事」は、『書紀』の編年に120年プラスして、900年短縮した「縮900年表」に戻している。神功52年は『書紀』の編年に従えば252年であり、「縮900年表」では120年プラスした372年となる。石上神宮の七枝刀は、『書紀』に記載された七枝刀で、百済の肖古王が369年に造り、372年に倭国の応神天皇に献じたものであることが分かる。

 

『三国史記』によれば百済の肖古王は、368年に新羅に良馬2匹を奉っている。369年には3万の歩兵・騎兵を伴って南進してくる高句麗と雉壌(平壌とソウルの中間)で戦い勝利した。371年には高句麗が大挙して攻めてきたが、肖古王はそれに勝利すると、3万の軍を率いて平壌を攻め、高句麗の国原王は流れ矢にあたって戦死したので、軍隊を引き上げている。372年には使者を晋に派遣し朝貢している。このことは『晋書』武帝紀に記載がある。

 

百済の肖古王は、新羅に良馬2匹を奉った368年に、倭国の応神天皇にも良馬2匹を献じている。また、晋に朝貢の使者を派遣した372年に、倭国の応神天皇に七枝刀一口と七子鏡一面、および種々の重宝を奉っている。これらは、南下してくる高句麗に対処するためであり、また一国に偏らず、四方の国と好を通じておこうとする百済の外交戦略の巧みさが伺われる。900年短縮した「縮900年表」は、『宋書』や『三国史記』の編年と合い通じる精度であり、『書紀』に記載された記事が、潤色や誇張はあるが史実に基づいていることを浮かび上がらせた。


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