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18-1.讃・珍・済・興・武の比定 [18.倭の五王を解く]

日本の古代史を明らかにする手がかりは、二冊の中国の歴史書に求められている。その一冊が「卑弥呼」の登場する「魏志倭人伝」であり、そしてもう一冊が、「倭の五王」が登場する「宋書倭国伝」である。 宋書は513年に没した沈約の撰によるもので、中国の南北朝時代の南朝に起こった宋(420~478年)の史書であり、五世紀に倭より中国に朝献した倭国王「讃・珍・済・興・武」、通称「倭の五王」について詳しく書いてある。

倭の五王については、「宋書」より後に書かれた「梁書」「南斉書」「晋書」にも記載されてあるが、宋書の倭国伝の、資料的価値が一番高いと考えられている。この五王については、江戸時代の新井白石・本居宣長に始まって、明治・大正・昭和の多数の学者が「魏志倭人伝」と同様「宋書倭国伝」の解釈に頭を悩まし続けてきた。私は第1章の「日本書紀の編年を解く」で、日本書紀に隠されていた「元年表」を見つけ出す事が出来た。そして第1章7節「日本書紀原典の証明」で、元年表と宋書倭国伝に記載された、倭の五王に関する記述が一致することを証明し、讃を仁徳天皇、珍を履中天皇、済を允恭天皇、興を安康天皇、武を雄略天皇に比定した。
 
天皇 即位の年  倭王  朝貢の年    記載事項      
--------------------------------------------------------------
仁徳 383年  讃  421年  倭王讃朝貢し叙綬を賜う
履中 435年  珍  438年  讃死し弟珍立つ。珍遣使貢献
允恭 443年  済  443年  済遣使貢献す      
安康 461年  興  462年  済死す。世子興。遣使貢す
雄略 464年  武  478年  興死し弟武立つ。武遣使上表   

ウイリアム・ジョージ・アストンは在日英国公使館に勤務する外交官であったが、明治に倭の五王に関する研究発表を行い、倭の五王の条件について中国史書から、次の様なまとめ方をしている。 
王  系譜   即位の年    崩御の年
-------------------------------------------
讃  ?    420年以前  425年以後
珍  讃の弟  425年以後  443年以前
済  ?    443年以前  451年以後                                                462年以前
興  済の子  451年以後        
                462年以前  478年以前
武  興の弟  478年以前  502年以後  

元年表より特定した倭の五王が系譜・即位・崩御について、ウイリアムのまとめた表と合致しているか比較してみた。 
天 皇       系 譜         即位の年       崩御の年
-----------------------------------------------------------
仁 徳       -----       383年     434年 
履 中       讃の子    ×   435年     440年 
允 恭       珍の弟       443年     460年 
安 康       済の子       461年     463年 
雄 略       興の弟       464年     486年  ×

宋書倭国伝より求めた倭の五王と、元年表より決めた天皇について、系譜・即位・崩御の十五の条件の内、合致しなかったのは2件だけであった。それでは合わなかった条件について、ひとつひとつ検討してみる。

18-2.一文字の間違いで3百年未解決 [18.倭の五王を解く]

系譜で合致しなかったのは、新年表より履中天皇と定めた珍が、宋書では仁徳天皇と定めた讃の弟となっているが、日本書紀では、履中天皇は仁徳天皇の子であり、「弟」と「子」の違いがある点である。応神天皇から雄略天皇までの系譜は次のようになっている。          

                          |--履中天皇
                          |
  応神天皇-----仁徳天皇--|--反正天皇                                                |             |--安康天皇                                   |--允恭天皇---|                                                                         |--雄略天皇 

「讃が死し弟の珍が立った」記述と「興が死し弟の武が立った」記述を、宋書の原文で示す
死弟遣使貢献 自稱使持節都督倭百済新羅任那泰韓慕韓国諸軍事安東大将軍倭国王」
死弟立 (空白はない)自稱使持節都督倭百済新羅任那泰韓慕韓国諸軍事安東大将軍倭国王」
  
二つの文章は、黄枠の所を除けばまったく同じであり、両方の文章の間には155文字・6行あるだけ、ミスが発生し易い状態にある。本文作成の途中、原稿からの書き写し時、あるいは写本の途中で、「讃死珍立」と書くべき所が、六行後ろの「興死武立」の影響を受けて、「讃死珍立」と、「子」と「弟」とを間違ったのではあるまいか。 

人間は「ミス」をするものだと考えていた方が間違いない。特に同じような繰り返しの作業の中で、少しだけ異なった所があるときは、思い込みによるミスの発生がおおくなる。歴史の文献を、全て金科玉条のように、正しいとしてしまっても、歴史が歪曲される場合もあるだろう。しかし、間違いがどこかにあると言って、自分に都合の良い所を「転記ミス」としたのでは、どんな説でも正解になってしまう。私は史書の文章を「転記ミス」として勝手に変えたくない。それがあったからこそ、邪馬台国が日向にあった事や、日本書紀に隠されていた元年表を見つけ出すことが出来た。しかし、宋書の「讃死弟珍立」の「弟」の一字だけは、「子」の間違いだったとする

「倭の五王」の証明において、「弟」一文字を「子」に書き替えなければならなかったのは残念なことであった。しかし、「倭の五王」関する中国の史書が、全て正しく記載されていたならば、江戸時代から現在に至るまでの300年間、倭の五王が特定出来ず、諸説が入り乱れる事はなかったであろう。
 

崩御の年で倭の五王の条件に合わなかったのは、武と特定した雄略天皇であつた。新年表では雄略天皇が崩御したのが486年、ウイリアムスの条件では武が崩御したのが502年以降になっている。ウイリアムスの条件は、梁書・武帝紀に「天監元年(502年)四月戌辰。鎭東大将軍倭王武、號を征東将軍に進め」とあるためである。梁書・武帝紀の502年の記述は、倭王だけでなく、百済王・高麗王についても位が上がったことが記載されている。 

梁書・武帝紀では百済王に「鎭東大将百済王餘大、號征東将軍に進め」とある。百済王餘大は、東城王の「牟大」の事である。牟大は501年に崩御しており、502年の朝貢はないと考える。502年に建国した南朝の梁は、北朝の北魏を意識して、高句麗・百済・倭国などの外藩諸国といかに册封関係を築くかに腐心していた。そこで外藩諸国に対して、前王朝の斉の時の位から一方的に昇進させたと考える。だから、百済国や倭国では、その位を上げた王はすでに亡くなっていたのである。これが雄略天皇を「武」としたとき、486年の雄略天皇崩御の年と、ウイリアムの「武」の崩御の年の条件とが合わない理由である。

それにしても、私の新年表が非常に精緻で、宋書に書かれてある倭の五王の記述と、あまりにもピッタリ合致する事に驚きを禁じ得ない


18-3.書紀に書かれた仁徳天皇の朝貢 [18.倭の五王を解く]

倭の五王の時代、中国は南北朝の時代と言われ、南朝と北朝の二つに分かれていた。北朝は三国時代の魏の領地を支配し、南朝は呉・表14倭の五王讃.jpg蜀の領地を支配して、南朝には宋・斉・梁・陳の国が起こった。日本書紀にある呉とは南朝を指している。それでは、「讃」が仁徳天皇であることを日本書紀に求めてみる。日本書紀に書かれている呉との関わりがある出来事についての元年表の年代と、晋書・宋書の「讃」の記述とを比較し表14示した。 
                            (表をクリックすると大きくなります)
倭の五王が南朝に朝献するようになったのは、仁徳天皇と特定した讃王が、413年に晋に朝献したときに始まっている。三国史記によると、413年に高句麗の長寿王が晋の安帝に朝献して「高句麗王・楽浪公」に封じられている。高句麗は自ら晋に朝献したが、これは北朝の魏と国を接しており、その牽制の意味を込めていたのであろう。南朝の晋も、百済・倭国など外藩の諸国を册封体制に組み入れようと必死であつた。413年の晋書にある倭国の晋への朝献は、晋が高句麗に倭国への仲立ちを頼んだのであって、倭国の朝献が実際にあったのではないと考える。
 

416年晋の安帝は、使者を百済に派遣して、王を册命して「鎭東将軍・百済王」の称号を与えている。晋が使者を百済に派遣して称号を与えたのは、高句麗の仲立ちがあったと考える。413年以降、好太王が亡なり長寿王になってから、高句麗と百済・倭国の争いはない。仁徳35年(417年)に高麗の王が使者を派遣してきた上表文に「高麗王、日本国に教える」とあるのは、「晋に朝献せよ」と言うことであったと考える。南朝への朝献は、倭国としても気になる所であったので、420年宋が建国されると、その翌年仁徳天皇(讃)は宋に朝貢し、叙授を賜った。
 

書紀の仁徳42年(424年)に「呉国・高麗国が朝貢した」とある。これは呉国(宋)が文帝の即位に際して、高麗国と一緒に大和朝廷に使者を派遣して、「宋に朝貢せよ」との上表書を持ってきたと考える。425年の宋書倭国伝に記載された「讃又遣司馬曹達 奉表献方物」は、通説では「讃が司馬曹達を宋に遣わし、上表貢献した」としている。しかし、「司馬」の姓は晋王朝に連なるものであり、宋の使者であったと思われる。424年に宋の使者・司馬曹達が倭国に上表書を持ってきて、司馬曹達が宋に帰国したのが425年であったと考える。
 

426年、仁徳天皇は司馬曹達の要請に応え、阿知使主を宋に派遣した。書紀は「阿知使主・都加使主を呉に遣して、縫工女を求めさせた。阿知使主らは高麗に渡って、呉に行こうと思ったが道が分らず、道を知っているものを高麗に求めた。高麗王は久礼波・久礼志の二人をつけて道案内させた。これによって呉に行くことが出来た。呉の王は縫女の兄媛・弟媛・呉織・穴織の四人を与えた。」と書いている。430年に阿知使主は、呉の王から授かった四人の縫女を伴い筑紫に帰国した。430年の宋書の倭国王の朝献の記述は、阿知使主の帰国の事を言っていると思われる。
 

434年仁徳天皇崩御し、翌年履中天皇が即位したことと、438年の「倭王讃死して、弟(子)珍立つ。使いを遣わして貢献す。」は、全く一致している。もちろん、「弟」を「子」に替えての話である。元年表を基にして、書紀の仁徳紀の呉国との交流記述と、宋書の讃王の朝献記述を比較すると見事に一致している。ただ、晋や宋が朝献要請の使者を派遣した事も、倭国が朝献してきたごとくの表現をしているように思える。

18-4.倭王武の上表文 [18.倭の五王を解く]

宋書倭国伝のなかで、最も注目に値する記載内容は、478年倭王武が宋の孝武帝に奉じた上表文であろう。この現代訳を、中央公論出版・井上光貞著「日本の歴史・神話から歴史へ」から引用する。 

「皇帝の册封を受けたわが国は、中国から遠く偏って、外臣としてその藩屛となっている国であります。昔からわが先祖は、みずから甲胄をつらぬき、山川を跋渉し、安んずる日もなく、東は毛人を征すること五五国、西は衆夷を服すること六六国、北のかた海を渡って平らげること九五国に及び、強大な一国家をつくり上げました。王道はのびのびとゆきわたり、領土は広く広がり、中国の威ははるか遠くに及ぶようになりました。
 

わが国は代々中国に仕えて、朝貢の歳をあやまることがなかったのであります。自分は愚かなものではありますが、かたじけなくも先代の志をつぎ、統率する国民を(か)りひきい、天下の中心である中国に帰一し、道を百済にとって朝献すべく船をととのえました。ところが、高句麗は無道にも百済の征服をはかり、辺境をかすめおかし、殺戮をやめません。そのため朝貢はとどこおって良風に船を進めることも出来ず、使者は道を進めても、かならずしも目的を達しないのであります。
 

わが亡父の済王は、かたきの高句麗が倭の中国に通じる道を閉じふさぐのを憤り、百万の兵士はこの正義に感激して、まさに大挙して海を渉ろうとしたのであります。しかるに丁度その時、にわかに父兄を失い、せっかくの好機を無駄にしてしまいました。そして喪のために軍を動かすことができず、けっきょく、しばらくのあいだ休息して、高句麗の勢いをくじかないままであります。いまとなっては、武備をととのえ、父兄の遺志を果たそうと思います。正義の勇士としていさおをたてるべく、眼前に白刃をうけるとも、ひるむとこではありません。もし皇帝のめぐみをもって、この強敵高句麗の勢いをくじき、よく困難をのりきることができましたならば、父祖の功労への報いをお替えになることはないでしょう。みずから開府儀同三司の官を名のり、わが諸将にもそれぞれ称号をたまわって、忠節をはげみたいとおもいます。」
 

この上表文を書かせた武王が雄略天皇で、文章に出てくる「わが亡父の済王」が允恭天皇であることは、諸学説の一致する所であり、私の新年表もその通りになっている。
 

18-5.上表文と書紀の記載は合致 [18.倭の五王を解く]

私の元年表によると、書紀は469年(雄略6年)「呉国が使いを遣わして貢物を奉った」とあり、呉国が朝貢の要請をして来ている。そして、471年(雄略8年)に「身狭村主青らを呉国に遣わされた」とあり、その要請に答えている。しかし、473年に身狭村主青が呉国から賜った鵞鳥を持って筑紫に行っていることから、身狭村主青は呉には行けなかったことが推察出来る。そして、475年4月(雄略12年)に身狭村主青らを再度呉に派遣し、477年身狭村主青らが呉の使いと共に帰国している。 

三国史記の高句麗・百済本紀には、475年9月に高句麗が百済を攻め、百済の王都が陥落し、百済王も殺害され、都を熊津に移したとある。これは上表文の「道を百済にとって朝献すべく船をととのえました。ところが、高句麗は無道にも百済の征服をはかり、辺境をかすめおかし、殺戮をやめません。そのため朝貢はとどこおって良風に船を進めることも出来ず、使者は道を進めても、かならずしも目的を達しないのであります。」と一致する。しかし、書紀の475年4月に派遣された身狭村主青が、上表文を持って呉に行ったとすると、上表文に百済の壊滅を書けるはずがない。
 

宋書には477年「
倭国使いを遣わして方物を献ず(宋書帝紀)」とあり、478年には「倭国王興死し、弟武立つ、武遣し上表す(宋書倭国伝)」とある。書紀の身狭村主青の呉への派遣と帰国の時期と比較すると2年程ズレている。 

私の作成した元年表は、一定のルールの基に作成し、個別の天皇について、年表を調整したことはない。ただ、天皇が崩御し、次の天皇が即位する間に、天皇不在の空白の期間があるかどうかは、書紀の文章から推量して決めている。雄略紀では空白の期間がないように書紀は表現しているが、実際は存在したのかも知れない。
 

日本書紀によると、允恭天皇は第一子の木梨軽皇子を皇太子にされていたが、允恭天皇が崩御されてから政変があり、木梨軽皇子は自殺されることになる。そして第二子の安康天皇が即位される。しかし、安康天皇も即位3年で、皇后の連れ子の眉輪王に殺されてしまう。このような変事の後、允恭天皇の第五子の雄略天皇が、即位を得る可能性のあった市辺押磐皇子を謀殺し、その後即位されている。上表文にある「にわかに父兄を失い」は、これらの事情を述べたものであり、書紀が史実を書いた書であることを示している。ただ、安康天皇崩御から雄略天皇即位の間に、2年間の空位があったとしてもおかしくない。463年の安康天皇崩御はそのままで、雄略天皇即位を466年とし、在位を21年間とすれば、他の天皇の年表に影響与えることなく、年表を作成することが出来る。表15に示す。

この年表によれば、倭王武の上表文と書紀の呉国への朝貢とは全く一致する。ただ、宋書には呉国(宋)が倭国に朝貢の要請の使いを遣わしたことは書いていない。三国史記には、430年に宋が百済に朝貢要請の使者を送っており、倭国に対して朝貢要請の使者を派遣してくることは十分可能性がある。書紀に呉国の使いが来たとあるのは、史実であると考えられる。

表15雄略紀.jpg


(表をクリックすると大きくなります)


18-6.書紀に書かれた雄略天皇の朝貢 [18.倭の五王を解く]

書紀によると、471年(雄略6年)呉国が使いを遣わしてきて貢物を奉っている。473年(雄略8年)に身狭村主青らを呉国に遣わされたが、474年に高句麗が百済に攻込み、呉に行くことが出来なかった。新羅本紀には、474年に高句麗が百済を攻め、救援を求めてきたとある。475年9月に百済の王都が陥落している。 

477年4月(雄略12年)に身狭村主青らを再度呉に派遣した。この派遣に際しては、上表文を携えて行った。武王の上表書は、文脈も非常にしっかりしたものである。471年に呉国から来て帰国出来ないでいた使いが、上表文を書いたと思われる。479(雄略14年)身狭村主等が呉の使いと共に帰国している。宋書の477年「
倭国使いを遣わして方物を献ず(宋書帝紀)」とあり、478年には「倭国王興死し、弟武立つ、武遣し上表す(宋書倭国伝)」とピッタリあってくる。 

書紀の雄略14年に「春1月13日、身狭村主青らは、呉国の使いと共に、呉の献った手末の才技、漢織・呉織と衣縫の兄媛・弟媛らを率いて、住吉の津に泊まった。この月に呉の来訪者のため道を作って、磯果の道に通じさせた。これを呉坂と名づけた。3月、臣連に命じて、呉の使いを迎えさせた。その呉人を桧隈野に住まわせた。それで呉原と名づけた。衣縫の兄媛を、大三輪神社に
奉った。弟媛を漢の衣縫部とした。漢織・呉織の衣縫は、飛鳥衣縫部、伊勢衣縫部の先祖である。」と記載している。 

平成13年、高取町清水谷で、床にオンドルを設けた5世紀後半の建物跡が見つかった。何本もの柱を壁土で塗り込めた「大壁」と呼ばれる構造で、朝鮮半島とそっくりである。伽耶諸国の土器も見つかり、町教育委員会は「東漢氏の拠点地域の一つ」と発表した。「その呉人を桧隈野に住まわせた。それで呉原と名づけた。」とある雄略14年は、年表では479年であり、5世紀後半とピッタリ一致する。呉原は現在の明日香村栗原と考えられており、
明日香村大字檜前のすぐ東側。建物跡が見つかった高取町清水谷とはかなり離れた位置にあるが、その付近まで桧隈だったと考える必要が出てきたのではないかという意見もある。書紀の記述を裏付ける発見と考えられている。  

倭の五王の研究者は、宋書に見られる記事から、倭国が中国の冊封体制に組み込まれ、時に応じて朝献を繰り返して来たと考えているが、倭国が行った「朝貢の歳をあやまらぬ」とは、呉国の皇帝の就任に対し祝賀の朝献をすることと、天皇の即位に対して就任の挨拶としての朝献を行ったものであると考えられる。ただ、就任の挨拶は皇帝から王位を授かるという形で行われた。これらの外交以外に、弔問外交というものもある。私の年表では460年春1月、允恭天皇が亡くなられた。新羅の王は天皇が亡くなられた事を聞き、多数の楽人と沢山の調をよこし、殯宮に参列した。冬11月に新羅の弔使らは、喪礼を終え帰っている。宋書孝武帝紀によると、460年12月「倭国使いを遣わして方物を献ず」とある。この記述は、宋から允恭天皇の崩御に対して、喪礼の弔使を派遣したことを示していると思われる。
 

宋書には、宋から倭国に使いを出したことも、倭国の朝献した使者が帰国する際に土産を賜ったことも、宋の使いが倭国から貢物を持ち帰った時も、すべて倭国が朝献したかの如く記載しているように思える。これは中華思想の表れであろう。一方倭国は倭の五王の時代、表面上は册封体制に入ったかの如く振舞いながら、南北朝の対立の弱みに付け込んで、したたかな外交を行っていたに違いない。

日本書紀は、宋書倭国伝に書かれた倭の五王の記事の一部を正確に記録している。ただ、その記録は900年歴史を延長するという作業の中で、また、それに伴う百済の歴史の一部を干支二廻り繰り上げる作業の中で、バラバラにされ組み込まれてしまった。それら絡み合った書紀の編年を、一つ一つ紐解いていくと、書紀原典に記録された、倭の五王の姿が見えてくる。それは、宋書という中国側から見た册封体制に組み込まれた倭国ではなく、高度な技術や品物を取り入れようとしている倭国の姿である。推古天皇より以前の日本書紀は、創作されたものであるとしてしまうと、そこからは何の史実も見えてこない。日本書紀には史実が隠されている。その史実を見つけ出す作業に、私の元年表が役立てば幸いである。


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