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74-8.田道間守は新羅に国使として遣わされた [74.「記紀」で解く「空白の世紀」の150年]

『書紀』は、神功皇后が金・銀・彩色などの宝が沢山ある新羅を服従させようと決意したのは、神の啓示によるとしている。しかし、これは物語化されもので、実際はそれまでに新羅との接触があり、新羅の情報が伝わっていたのであろう。『書紀』で「新羅」の国名が初めて登場(神代を除いて)するのは、垂仁2年(275年)に「任那国の人蘇那曷叱智が帰国の際に、任那王に賜った赤絹百匹を新羅が奪った。両国の争いはこのとき始まった。」である。また、垂仁3年(276年)には「新羅の王子・天日槍が来た。持つて来た珠・槍・刀子・大刀・鏡を但馬国の神宝とした。」とある。(以後『書紀』の暦年は全て「新縮900年表」で表示する。)

 

275年に新羅は国として存在いたのであろうか?。『三国史記』の新羅本紀は「辰韓の斯蘆国」の時代(紀元前57年~)から含めて一貫した新羅の歴史としているが、史実性があるのは4世紀の第17代奈勿王(356~402年)以後であり、それ以前の個々の記事は伝説的なものであって史実性は低いとされる。中国の史書で「新羅」の国名が初めて登場するのは、『資治通鑑』の晋・孝武帝太元2年(377年)に「 高句麗、新羅、西南夷は皆な遣使して秦に入貢す。」とある。『資治通鑑』は中国北宋の司馬光が、1065年編纂したものであるが、豊富な資料に基づいて考証を加えており、有力な史料と目されている。好太王碑にも「新羅」の国名が出てくるが、それは391年以降のことである。

 

一方、高句麗について『三国史記』では、初代王の朱蒙(東明聖王)が紀元前37年に高句麗を建てたとされるが、文献史学的にも考古学的にも高句麗の登場はこれよりもやや古いと見られている。『三国史記』の高句麗紀は史実に基づいて書かれているとして、「新羅」が初めて登場する年代を調べた。高句麗東川王19年(245年)に「軍隊を派遣し、新羅の北部の辺境を侵した」とあり、東川王22年(248年)に「新羅が使者を派遣して国交をひらいた」とある。3世紀の半ばには、新羅は存在していたと考えられる。因みに、百済が高句麗紀に初めて登場するのは、高句麗故国原王39年(369年)「王は2万の軍隊を引きて、南進して、百済と雉壌で戦ったが破れた。」とある。高句麗と百済の間には、中国の出先機関である楽浪郡。帯方郡があった。この両郡が高句麗に滅ぼされたのは313年であった。高句麗と百済の接触が、新羅に比べて1世紀以上も後であるのはこのためであろう。245年ころ新羅国が存在したのは史実と考える。

 

『書紀』垂仁90年(302年)には、天皇は田道間守に命じて常世国に遣わして非時の香果を求められた。いま橘というのはこれである。垂仁99年(303年)天皇は纏向宮で崩御になり、菅原の伏見陵に葬った。翌年、田道間守が帰国し、垂仁天皇が崩御されているのを知り、非時の香果を持ち帰るののに10年経ってしまったと、天皇の陵の前で泣き叫び死んだ」とある。『三国史記』新羅本紀基臨王3年(300年)には、「倭国と国使いを交換した。」とある。垂仁2年(275年)記事には、新羅の王子・天日槍の玄孫(やしゃご)が田道間守であるとしている。田道間守が遣わされた常世国は新羅国であったと考える。田道間守は新羅に国使として遣わされた。当時としては非常に珍しい橘(みかん)を土産に持ち帰ったのに、天皇が亡くなっておられたことで、遠くはるかな常世国に10年かけて行って来たという物語が出来たのであろう。

 

但馬国、兵庫県豊岡市三宅に、田道間守を祭神とする中嶋神社がある。橘を持ち帰った田道間守をお菓子の神様「菓祖神」として、全国の菓子業の人々が崇拝している。平安時代に撰述された『国司文書』には、中嶋神社は推古天皇15年(606年)、田道間守命の7世の子孫である三宅吉士が、祖神として田道間守命を祀ったのに創まるといい、「中嶋」という社名は、田道間守命の墓が垂仁天皇陵の池の中に島のように浮かんでいるからという。垂仁天皇陵の周濠にある小島が田道間守の墓であるということは、史実かどうか分からないが、平安時代にその説話が出来ていたようだ。

Z485.田道間守.png

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