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74-11.吉備に何故、前期前方後円墳が多いのか [74.「記紀」で解く「空白の世紀」の150年]

最も古い大型前方後円墳である箸墓古墳の築造年代が240~260年と歴博により比定された。『書紀』には箸墓は崇神9年に造られたとあり、「新縮900年表」では259年にあたる。『晋書』起居注には、266年に倭の女王・壱与が晋の武帝に朝貢したとある。これらより、崇神天皇=御間城姫=壱与という私の説が証明されたと考えている。それでは、壱与の出自について考えてみる。

『魏志倭人伝』には「卑弥呼が死んだので、続いて男王が立ったが国中が承服せず戦が起こり、千人余の人が亡くなった。そこで卑弥呼の宗女、十三歳の壱与(台与)を王に立てて国中が治まった」とある。このことを私は次のように解釈している。神武天皇が東征に成功し、241年に大和国を建国した。247年頃に卑弥呼が亡くなった後、神武天皇が倭国王として立つたが、大和国が強国になることを恐れた倭国連合の国々は承服せず戦が起こった。そこで神武天皇は、卑弥呼の宗女である13歳の壱与に大和国の王位を譲り、倭国連合の女王(崇神天皇)として立てることにより国中を収めた。なお、神武天皇は大彦命として、崇神天皇の後ろ盾となって活躍したと考えている。

 

壱与は、卑弥呼(玉依姫)の宗女(長男の娘)で、五瀬命の娘ということになる。五瀬命は弟の磐余彦尊と一緒に、日向より東征に出発して、その途中235年から3年間吉備に滞在した。その間に、吉備国王の娘との間に出来た子が壱与であると考える。崇神天皇の即位は251年であり、五瀬命が吉備を離れて14年目のことであり、壱与の年齢13歳と合っている。『書紀』では崇神天皇は御間城入彦五十瓊殖天皇と呼ばれ、皇后は御間城姫で天皇も皇后も同じ「御間城」の名が付いている。「御間城入彦」は「御間城姫」の入り婿であることを示している。251年に即位した崇神天皇(御間城姫)は女天皇であった。『書紀』は、神武天皇を「始駆天下之天皇」と称し、崇神天皇を「御肇国天皇」と称している。神武天皇が大和国を建国し、崇神天皇の代になって大和国が倭国の盟主国となったのである。

 

Z489.浦間茶臼山古墳.png崇神天皇の出自の吉備が初期の大和王権(ヤマト王権)に大きく大き影響を与えたのであろう。前方後円墳(規模・数)、三角縁神獣鏡、三種の神器の3要素から見て、奈良盆地と大阪府及びその周辺に次いで吉備が多いこと、また大和に存在する初期の前方後円墳には吉備発祥の特殊器台・特殊壺が据えられているのがその証拠である。吉備の最古の大型前方後円墳は岡山市の浦間茶臼山古墳(墳長138m)で、都月型埴輪(250~270年)と三種神器(260~570年)から260~270年に築造されたと考えられる。


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