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14-4.須恵器の故郷は伽耶諸国 [14.大田田根子の謎を解く]

須恵器生産の一代中心地が大阪府の泉北丘陵一帯の「陶邑」と呼ばれる地域であり、須恵器の遺跡や窯跡が沢山出土している。これらの遺跡の中で最も古いとされたのが栂(TG)地区にある大庭寺遺跡で、TG231・TG232の初期須恵器の窯跡が検出している。大庭寺遺跡から出土した須恵器は、朝鮮半島南部、特に伽耶諸国の陶質土器に見られる、沢山の透かしをあけた高杯や器台、把手付きの椀などの形状、波状文・鋸歯文・組み紐文など文様と良く似ている。それ故、須恵器の故地は伽耶諸国ではないかと考えられている。 

4世紀後半に倭国と伽耶国・百済国との接触があった事を書紀は記載している。
366年の「斯摩宿禰が卓淳国(大邱)に行き、百済に使者を派遣。百済の肖古王から、五色の綵絹各一匹、鉄鋌四十枚を貰う」。372年の「肖古王は倭国に朝貢し、七枝刀一口と七子鏡一面を奉った」などである。 

奈良県橿原市に五世紀前半と推定されている南山4号墳がある。この古墳からは鉄鋌20枚に共伴して朝鮮半島南部の伽耶系陶質土器が出土している。肖古王から貰った鉄鋌でないかと想像する。
奈良県天理市の石上神社の御神宝の七支刀があり、その金象嵌には泰和四年(大和四年:369年)の銘がある。これらは、4世紀後半に始まった伽耶国・百済国との接触が史実であったことを示している。 

陶津耳命を須恵器の祖とするならば、崇神紀に書かれている大田田根子の素生「父を大物主大神、母を活玉依姫といいます。陶津耳の女です。」から、大田田根子の母・活玉依姫は、やはり陶邑の須恵器に関係があったと考えることが出来る。4世紀後半、倭国と伽耶国・百済国が接触した時期に、伽耶国の陶工が倭国に来たに違いない。陶工・陶津耳も家族共々やって来たのであろう。陶津耳の娘は美人の誉れが高かったと想像する。

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藤井游惟

初めまして
私は藤井游惟(ゆうい)と申し、もう13年も前になりますが、「白村江敗戦と上代特殊仮名遣い」という論考を上梓した者です。
私が小学生時代を過ごしたのは、まさに大阪府堺市の旧須恵邑の故地であり、卒業した小学校の名前は「東陶器小学校」、子供時代は須恵器の破片を手裏剣がわりに投げ合って遊んでいました。

↑のURL第一章をご覧いただければお分かりになりますが、私の説は伽耶の陶工が多数やってきて須恵邑で須恵器を作っていた、などというちっぽけな説ではなく、倭王朝(大和朝廷)そのものを打ち立てたのが伽耶渡来の王であったという説です。
拙論は、2001年国語学会春季全国大会、2002年日本音声学会全国大会、2010年日本中国語学会拡大関東部会、2010年朝鮮学会言語部会、2014年朝鮮史学会、と5度に亘って正統的アカデミズムの学会で発表している説であり、よくある「古代史妄想史観」の類ではありません。
URLをご一読いただき、ご好評頂ければ幸いに存じます。
by 藤井游惟 (2020-10-03 02:39) 

t-tomu

藤井游惟様 
コメントありがとうございました。奇遇にも貴方様が子供時代に過ごした地の周辺で、私は青春・壮年時代を過ごしました。須恵器の取り持つ縁でしょうか。
さて、『白村江敗戦と上代特殊仮名遣い』に興味を持ち、東京図書出版に注文致しましたが残念ながら在庫切れになっておりました。堺市の図書館も蔵書されて
おりません。
「倭王朝(大和朝廷)そのものを打ち立てたのが伽耶渡来の王であった」との説には、たぶん同感出来ないと思いますが、「応神天皇」が伽耶渡来の王であると
言われると、心当たりが無くはありません。中古本でも探し、読ませていただきます。




by t-tomu (2020-10-05 16:17) 

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