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70-7.『書紀』α群の述作者は唐人の続守言ではない [70.新元号「令和」の深層]

「甲類九州風土記」と『日本書紀』との先後関係を明らかにするために、視点を変えて『書紀』の述作者を明らかにすることから試みる。森博達氏は、漢文で書かれている『書紀』の言葉と表記(音韻・語彙・語法)を分析し、『書紀』30巻をα群・β群・巻30に三分した。α群は唐人が正音・正格漢文で執筆し、β群は倭人が倭音・和化漢文で述作したとしている。

 

そして、α群は持統朝(687~696年)に書かれたとし、α群B1(雄略紀~崇峻紀)の述作者は、660年の唐と百済の戦いで百済の捕虜となり、661年に献上されて来朝し、音博士(漢音による音読法を教える)として朝廷に仕えた唐人の続守言(しょくしゅげん)、α群B2(皇極紀~天智紀)を唐人の薩弘恪(さつこうかく)としている。また、β群(神代・神武紀~安康紀・推古紀~舒明紀・天武紀)は文武朝に山田史御方が撰述したとしている。

 

『日本書紀』欽明13年(552年)の仏教伝来の記事の仏を広く礼拝する功徳をのべた文章に、唐の義浄が長安3年(703年)に漢訳した『金光明最勝王経』が引用されている。552年の記事に703年に漢訳された経文が引用されており、年代に齟齬があることから仏教伝来の記事の信憑性が疑われている。

『日本書紀』

「是法於諸法中最爲殊勝難解難入。周公・孔子、尚不能知能生無量無邊福德果報乃至成辨無上菩提

「この法は諸法の中で最も勝れております。解かり難く入り難くて、周公・孔子もなお知り給うことが出来ないほどでしたが、無量無辺の福徳果報を生じ、無情の菩提を成し。」

『金光明最勝王経』

「金光明最勝王経、於諸経中 最爲殊勝難解難入。聲聞獨覚、所不能知能生無量無邊福德果報 乃至成辨無上菩提

 

森博達氏の説からすると、この『金光明最勝王経』が引用されている欽明紀はα群B1に属し、その述作者は唐人の続守言で持統朝(687~696年)に書かれたことになる。森氏は、続守言は692年12月14日から700年6月14日までの間に引退もしくは死亡したと推測している。持統朝には『金光明最勝王経』は成立しておらず、森博達氏の説は成り立たないと思う。


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70-6.粟田真人は「甲類九州風土記」を編述した [70.新元号「令和」の深層]

上智大学教授の瀬間正行氏は『風土記の文字世界』(2011年)の「『豊後国風土記』・『肥前国風土記』の文字表現」で、『豊後』『肥前』の両書はその共通する特徴から、大宰府で一括編集されたとする通説に相反しない。両書の文辞・用字の酷似するという点は、やはり同一人物の筆と見るべきに傾くが、両所の間で微妙な表現の差異があることから、大宰府の指令と監督者の下に異なる編述者により筆録編述されているとした上で、両書の「総記」の前半部は、同一人に拠って書き下ろされた可能性が高いとしている。そして、両書は現存する他の三つの古風土記及び『日本書紀』β群に勝る漢語漢文能力をもった編述者の手になることが確認された。

 

『日本書紀の謎を解くー述作者は誰がー』(1999年)を書かれた森博達氏は、漢文で書かれている『書紀』の言葉と表記(音韻・語彙・語法)を分析し、『書紀』30巻をα群・β群・巻30に三分した。α群は唐人が正音・正格漢文で執筆し、β群は倭人が倭音・和化漢文で述作したとしている。瀬間氏によると、『豊後』『肥前』の両書は、β群に勝る漢語漢文能力をもった編述者によって書かれているとしている。β群は、神代、神武~安康紀、推古・舒明紀、天武紀を記述しており、森氏はその述作者を山田史御方としている。

 

山田史御方は唐への留学経験は無いが、学僧として新羅に留学し、帰国後還俗して大学で教え大学頭となっている。また、文章に優れ、文武天皇の慶雲4年(707年)には「優學士也」として褒賞されている。β群は仏典や仏教漢文の影響を受けており、山田御方の経歴はβ群の特性とも合致するとしている。 この山田御方より漢語漢文能力が優れている人は、唐への留学経験がある者に限られるであろう。それからすると、『豊後』『肥前』の両書は、大宰府で唐への留学経験がある者一人に拠って書き下ろされたことになる。

粟田真人は学問僧として12年間の留学経験を持ち、大宝2年(702年)6月に遣唐使執節使として唐に赴き、則天武后に「真人は好く経史を読み、文章を解し、容姿は穏やかで優美」と言わしめている。粟田真人の漢文の能力は中国人の知識人と同等以上で、『日本書紀』β群に優る漢語漢文の書記能力を有していると思われる。粟田真人が筑紫大宰師として大宰府に在任中の和銅6年(713年)5月に、諸国に風土記の編纂を命ずる「詔」が出されていることから、『豊後国風土記』『肥前国風土記』の両書を含む「甲類九州風土記」は、粟田真人よつて書かれたとするのが最適解だと思われる。

 

粟田真人が筑紫大宰師(長官)として大宰府に在任していたのは、和銅元年(708年)3月から、霊亀元年(715年)6月頃までである。『肥前国風土記』・『豊後国風土記』などの「甲類九州風土記」編纂に粟田真人が関わっていたとするならば、養老4年(720年)に撰上された『書紀』より「甲類九州風土記」が先に成立したことになり、『書紀』は「甲類九州風土記」に記載されていた天皇名を採用したことになる。こんなことがあり得るのだろうか。


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70-5.「甲類九州風土記」と『日本書紀』との先後関係 [70.新元号「令和」の深層]

「甲類九州風土記」の記述には、『日本書紀』と記述がほとんど同一の文章がある。その一例が『書紀』の景行天皇12年の「柏峽大野の蹶(くえ)石」の記事であり、『豊後風土記』の「蹶(くえ)石野」の記事である。
『日本書紀』 
天皇初將、次于柏峽大野。其野有石長六尺廣三尺厚一尺五寸天皇祈土蜘蛛者、將蹶茲石如柏葉而焉。因蹶之。則如柏上於大虛。故號其石、曰蹈石也。」
『豊後風土記』
天皇土蜘蛛之、幸於柏峡大野。々中長六尺廣三尺厚一尺五寸天皇祈曰、當蹶玆石、譬如柏葉而。即蹶之。騰如柏葉。因曰蹶石野」
黄色のマークが全く同じ文字で、その他にも「賊」と「土蜘蛛」の置き換え、「討」と「伐」や「舉」と「騰」の書き換えがある。これらを考慮すると同一の文章であることが分かる。


『豊後風土記』の「蹶(くえ)石野」の記事には、「蹶石野 柏原の郷の中にあり」との前書きがあり、柏原郷は直入郡の4郷の一つとなっている。この「柏原」は現存し、今は竹田市に編入されているが、以前は直入郡荻町柏原であった。『書紀』には「石室の土蜘蛛を襲ひて、稲葉の川上に破りて」、「柏峡の大野において」とある。九住山を源とする稲葉川は竹田市街地で大野川に合流する。この辺りは阿蘇外輪山麓で凝灰岩ということもあって、川が蛇行して曲所に切り立った断崖を作り、その崖には洞穴がある。「石室の土蜘蛛」とは断崖の洞穴に住む人々を指し、「柏峡」は柏原の峡谷を意味していると思われる。 それにしても『書紀』の記述した地名と地勢は現状と合っている。

 

Z428.甲類九州風土記天皇名.png『書紀』が述作されたのは大和である。大和にいる者が、阿蘇山麓の地名と地勢について、これほど正確に書くことができるだろうかとの疑問が湧く。これらからすると『豊後風土記』を参照にして『書紀』が書かれたと考える方が合っていると思える。一方、表Z428に逸文を含めた「甲類九州風土記」の天皇名と宮名を示しているが、「甲類九州風土記」の天皇名・宮名は『書紀』と一致している。天皇名からすると、『書紀』を参照して「甲類九州風土記」が書かれたと考える。「甲類九州風土記」と『日本書紀』との先後関係については、『書紀』を先とする説、両者を兄弟関係とする説、「甲類」を先とする説があるが、『書紀』を先とする説が定説で、「甲類」を先とする説は少数派である。


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70-4.粟田真人は風土記編纂の詔を受ける [70.新元号「令和」の深層]

『翰苑』の全巻を太宰府に寄贈した粟田真人は、唐から帰国した4年後の和銅元年(708年)3月から、霊亀元年(715年)6月頃まで筑紫大宰師として大宰府に在任している。筑紫大宰師として在任中の和銅6年(713年)5月に、諸国に風土記の編纂を命ずる「詔(みことのり)」が出されている。『古事記』が撰上された翌年のことである。「詔」は「解」と呼ばれる官命であり、好字を着けた郡・郷の地名、郡内の産物の品目、土地の肥沃の状態、山川原野の名前の由来、伝承されている旧聞異事 5項目について、史籍(歴史を記述した書物)に書いて報告しなさいというもので、地誌の編纂を諸国に要求している。

この官命に対して諸国が提出したであろう史書が、『風土記』として5つが写本として現存している。『出雲国風土記』は完本として、『常陸国風土記』・『播磨国風土記』・『肥前国風土記』・『豊後国風土記』が一部欠損して残っている。また、その他にも後世の書物に引用された、逸文と呼ばれる風土記が20ヶ国ある。ただし、逸文とされるものには奈良時代の風土記の記述であるかどうか疑わしいものも存在している。

 

和銅5年(712年)に『古事記』が撰上され、和銅6年(713年)に風土記の編纂を命ずる「詔」が出され、養老4年(720年)に『日本書紀』が撰上されている。これらから、「古事記→風土記→日本書紀」の順番に成立したと考えることが出来る。しかし、そうは言えない決定的な証拠がある。『出雲国風土記』の巻末の奥書に、「天平五年二月卅日 勘造」の文章がある。「勘造」は筆録編纂すると言う意味であり、『出雲国風土記』は天平5年(733年)に成立したことが分かる。 

昭和の初め国文学者の井上通泰氏は、九州地方の風土記(以後「九州風土記」と呼ぶ)が甲類・乙類・甲乙以外の三種に分類出来ると発表した。甲類は『豊後国風土記』・『肥前国風土記』・同種の風土記逸文で、行政区分が「郡・郷・里」、天皇名は『日本書紀』の表記と同じである。乙類は行政区分「縣」で、天皇名は『古事記』『日本書紀』と違っている。その他は天皇名に奈良時代の天平宝字6年(762年)頃に淡海三船により命名された漢風諡号(崇神・景行・応神)を使用している。

 

風土記編纂の官命と行政区分の推移(郡里制→郡郷里制→郡郷制)を基準にすると、『肥前国風土記』・『豊後国風土記』の成立は715年(或いは718年)から740年の間で、「古事記→風土記」であることは分かるが、『日本書紀』との前後関係は定かではない。井上通泰氏は『豊後』『肥前』の両書(以後「甲類九州風土記」と呼ぶ)の体裁が全く一緒で、文辞・用字の酷似することから、大宰府で同一人により一括編纂されたと主張し、これが通説となっている。風土記編纂の詔を受けた大宰府長官の粟田真人は、甲類九州風土記の編纂にどう関わったのであろうか。


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70-3「梅花の宴」のヒントは『翰苑』から得た [70.新元号「令和」の深層]

「梅花の宴序」の背景には、書聖と称された中国東晋の王羲之の「蘭亭序」がある事が昔から指摘されている。唐の太宗(626~649年)は、王羲之の書をこよなく愛し、部下に命じて王羲之の書を収集した。特に「蘭亭序」に対する執着はすさまじく、自ら陵墓に副葬品として入れさせたと言われている。これらからすると、『翰苑』に王羲之の「蘭亭序」が掲載されていたと考えることが出来る。「蘭亭序」は王羲之が催した「曲水の宴」で詠われた詩をまとめたものが「序」として記されており、この始めの部分の意訳を下記に示す。

 Z427.蘭亭曲水図.png

「永和九年(353年)癸丑の歳の3月初め、會稽山のかたわらの蘭亭において、禊ごとをおこなった。多くの賢者たちがやって来て、若い人から年長者まで皆集まった。この地には、高い山や険しい嶺、生い茂った林や竹林があり、また清流や激しい早瀬があって、景観があたりに映り合っている。この流れを引いてきて盃を流す曲水をつくり、その縁に並んで座った。

 

琴や笛、楽器の賑わいこそ無いが、盃を含み、詩を作るという趣は、深い自然の情感を述べるには十分である。この日は、空は晴れわたり、大気も澄みきって、心地よい風が、おだやかに吹いている。空を仰いでは宇宙の大きさを感じ、下を眺めれば盛んに活動しているものが目に入る。これらは目を楽しませ、思いを果てし無く想像させ、耳目の楽しみの極まるところである。まことに楽しく愉快である。・・・・・」

 

大伴旅人はこの「蘭亭序」を読み、「梅花の宴」を催したと思える。「梅花の宴序」の「もし翰苑にあらずは、何をもちてか情を述べむ。詩に落梅の篇を紀す、古今それ何ぞ異ならむ。よろしく園梅を賦して、いささかに短詠を成すべし。」の文章を、「もし『翰苑』を読むことがなかったら、このような詩会を催すことはなかったであろう。『翰苑』の落梅の篇には漢詩が載っている。梅の花を見て詠む詩は、古今東西異なるものではない。庭園に咲き誇る梅を眺めながら、しばらくの間和歌を詠んでみよう。」と解釈した。大伴旅人は遣唐使が持ち帰る唐の文化に敬服しつつも、自分が営む、自然を愛で心情を詠う、詩の世界においては、唐の文化に負けるものではないとの想いから、「梅花の宴序」を書いたと思われる。

 

花見の起源は、奈良時代の貴族の行事だと言われている。奈良時代の花見で鑑賞されたのは、中国から伝来したばかりの梅であり、平安時代になってから、それが桜に変わっている。『万葉集』(783年成立)では桜を詠んだ歌が40首に対し、梅を詠んだ歌は100首程度であるが、平安時代の『古今和歌集』(905年成立)ではその数が逆転している。大伴旅人の「梅花の宴」が、花見の起源であったのではないかと考える。旅人はその着想を『翰苑』に掲載されていた「蘭亭序」にある「曲水の宴」から得たのである。「曲水の宴」では、川上から杯が流れ着くまでに詩を作り、もし詩が出来なければ、罰として大きな杯に3杯の酒を飲まされるという、大伴旅人は「梅花の宴」で、どのような趣向を凝らしたのであろうか。


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70-2. 『翰苑』は粟田真人が大宰府に寄贈 [70.新元号「令和」の深層]

Z426.翰苑.png『翰苑(かんえん)』とは、唐の時代の顕慶5年(660年)頃に張楚金によって書かれた類書である。類書とは、各種の書籍より資料を集め、分類順または韻順に編集し、検索の便をはかった参考図書のことで、一種の百科事典のようなものだ。『翰苑』は中国では早く散失したが、我が国の太宰府天満宮に第30巻の蕃夷部(匈奴・烏桓・鮮卑・倭国・西域)が残っており、現在国宝となっている。

 

『翰苑』が張楚金により編纂されたのが、唐の時代の顕慶5年(660年)頃である。大伴旅人が「梅花の宴」を大宰府で開いたのが天平2年(730年)である。このことからすると、『翰苑』が中国から大宰府にもたらされたのは660年から730年の間で、遣唐使の船ということになる。この間で書物等を持ち帰り出来た可能性があるのは、天智6年(667年)・慶雲元年(704年)・養老2年(718年)の3回の帰国船であると考える。私は、粟田真人が執節使となり大宝2年(702年)6月に出国し、慶雲元年(704年)7月に五島列島福江島に漂着帰国した遣唐使であると考えている。

 

『宋史』日本伝には「粟田真人を遣わし、唐に入り書籍を求めしめ」とあり、粟田真人が『翰苑』の全巻を我国に持ち帰り、太宰府に寄贈したと思われる。粟田真人は唐から帰国した4年後の和銅元年(708年)3月から、霊亀元年(715年)6月頃まで筑紫大宰師として大宰府に在任しており、その時に『翰苑』を太宰府に持ち込んだのかも知れない。粟田真人の遣唐使には山上憶良も乗船しており、山上憶良が『翰苑』に書かれている「蘭亭序」を、大伴旅人に教えたとも考えられる。


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70-1. 大伴旅人が催した「梅花の宴」 [70.新元号「令和」の深層]

平成31年4月1日に新元号「令和」の発表が行われた。「令和」の典拠は『万葉集』の「梅花の歌三十二首并せて序」の序文にある「初春の月にして気淑よく風らぎ」から二文字をとったものであった。この序文を書いたのが大伴旅人である。大伴旅人は728年から730年11月まで大宰府長官を勤めたが、730年(天平2年)の正月に、管轄下の国司や高官を招いて「梅花の宴」を開いた。出席者の一人が筑紫守であった山上憶良である。その序文の全文を紹介する。

 

「天平二年の正月の十三日に、師老の宅に萃まりて、宴会を申ぶ。時に、初春の月にして、気淑く風ぐ。梅は鏡前の粉を披く、蘭は珮後の香を薫す。しかのみにあらず、曙の嶺に雲移り、松は羅を掛けて蓋を傾く、夕の岫に霧結び、鳥はうすものに封ぢらえて林に迷ふ。庭には舞ふ新蝶あり、空には帰る故雁あり。

ここに、天を蓋にし地を坐にし、膝を促け觴を飛ばす。言を一室の裏に忘れ、衿を煙霞の外に開く。淡然自ら放し、快然自ら足る。もし翰苑にあらずは、何をもちてか情を述べむ。詩に落梅の篇を紀す、古今それ何ぞ異ならむ。よろしく園梅を賦して、いささかに短詠を成すべし。」

 

現代語訳、「天平2年の正月の13日、師老(大伴旅人)の邸宅(太宰府)に集まって宴会を行った。折しも、初春の佳き月で、空気は清く澄みわたり、風はやわらかくそよいでいる。梅は佳人の鏡前の白粉のように咲いているし、蘭は貴人の飾り袋の香にように匂っている。そればかりか、明け方の山の峰には雲が行き来して、松は雲の薄絹をまとって蓋(きぬがさ)をさしかけたようであり、夕方の山洞には霧が湧き起こり、鳥は霧の帳(とばり)に閉じこめられながら林に飛び交っている。庭には春に生まれた蝶がひらひら舞い、空には秋に来た雁が帰って行く。

 

そこで一同、天を屋根とし、地を座席とし、膝を近づけて盃をめぐらせる。一座の者みな恍惚として言を忘れ、雲霞の彼方に向かって、胸襟を開く。心は淡々としてただ自在、思いは快然としてただ満ち足りている。

ああ文筆によるのでなければ、どうしてこの心を述べ尽くすことができよう。漢詩にも落梅の作がある。昔も今も何の違いがあろうぞ。さあ、この園梅を題として、しばし倭の歌を詠むがよい。」(『新版 万葉集 ― 現代語訳付き』、伊藤 博、角川ソフィア文庫、引用) 。なお今後、「梅花の歌三十二首并せて序」の序文を「梅花の宴序」と表記する。

 

「梅花の宴序」の「もし翰苑にあらずは、何をもちてか情を述べむ」について現代語訳する人のほとんどが、「文筆(詩歌・詩文)によるのでなければ、どうしてこの心を述べ尽くすことができよう。」と約している。訳文には全くの違和感がないが、『翰苑』は太宰府天満宮が保持し、国宝となっている中国唐時代の書籍であり、上記の現代語訳が大伴旅人の気持ちを表しているかといえば疑問が残る。もっと深い意味がこめられているように感じる。


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69-16.桑原遺跡の八角形墳は中臣鎌足の初葬墓 [69.須恵器の型式をAIで判定する]

Z424.阿武山古墳と桑原遺跡.png飛鳥Ⅱ(Ⅲ-1、TK217新)の事例は少ない。他にないかと探して、行き当たったのが桑原遺跡である。桑原遺跡は中臣鎌足の墓ではないかと考えられている阿武山古墳のある阿武山の南西麓にある。A7号は無袖の横穴式石室を伴う小さな方墳で、石室が墳丘いっぱいを占め、奥壁が北側の墳丘裾の近くまである 。石室内からは、H坏身5点、G坏蓋10点が出土している。H坏身のAIによる全自動型式判定ではNo13が83%と最高得点で、Ⅲ-1(TK217新)の飛鳥Ⅱの年代の須恵器と判定した。ちなみに、G坏比率は67%で飛鳥Ⅱの値には少し足らなかった。

 

八角形墳のC3号墳は中臣鎌足の墓の可能性を指摘する声もある。C3号墳の石室からは、H坏身が1点とG坏蓋が5点出土している。H坏身のAI判定では、No13が100%(8点満点中8点)でⅢ-1(TK217新)の飛鳥Ⅱの年代の須恵器であった。ちなみに、G坏比率は83%で飛鳥Ⅱの範疇である。

 

八角形墳の天皇陵は舒明天皇陵(641年没)・天智天皇陵(671年没)・天武天皇陵(686年没)であり、また斉明天皇(661年没)の墓ではないかと考えられている牽牛子塚古墳も八角形墳である。C3号墳が八角形墳であることからして、飛鳥Ⅱの年代は、八角形墳が築かれ年代7世紀第3四半期の時代を示唆するものであった。私は飛鳥Ⅱ(Ⅲ-1、TK217新)の年代を640~669年としており、ピッタリあっている。

 

Z425.阿武山古墳の冠帽と玉枕.png『書紀』には中臣鎌足が薨去し、藤原の姓を賜ったのは天智8年(669年)とあり、八角形墳のC3号墳は中臣鎌足の初葬墓であった可能性が高いと思われる。冠帽や玉枕が出土し、中臣鎌足の墓ではないかと考えられている阿武山古墳からもH坏身1点とH坏蓋3点が出土している。H坏身のAI判定はNo12とNo13が100%(8点満点中8点)で、Ⅱ-(TK217古)またはⅢ-1(TK217新)の区別ができなかった。


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69-15.狭山池周辺の須恵器窯の型式 [69.須恵器の型式をAIで判定する]

Z422.狭山池須恵器窯型式.jpg須恵器の生産地である陶邑窯跡群の東端に狭山池がある。狭山池は『日本書紀』では崇神天皇紀に、『古事記』では垂仁天皇記に登場する古い池である。この狭山池周辺に多くの須恵器窯跡が存在している。狭山市立郷土資料館の図録「狭山池築造と須恵器窯」にある“狭山池の須恵器が操業した時期”の表を改変してZ422に示した。Z422をみると、狭山池2号窯の須恵器の型式がTK209,狭山池1号窯と東池尻1号窯がTK217古、狭山池4号窯がTK217新となっている。須恵器型式のAIによる全自動判定で、これらの型式の検証を行ってみた。なお、狭山池周辺の須恵器窯の内、TK43と判定されている大満池南窯、狭山池4号窯と同じTK217新と判定されているひつ池西窯の型式も全自動判定をおこなった。

 

測定したのは外径(OD)、器高(CH)、立上り(KH)であり、判定に用いた指標はOD、CHXOD、CH/OD、KHである。なお、外径(OD)と立上り(KH)は縮尺より実寸法を算出した。各窯の資料数は15~48個で、4指標の平均値()と標準偏差(σ)を求めた。a-σ、a、a+σの値がガウス曲線のA±σの範囲にあれば2点、A±σ~A±1.5σの範囲にあれば1点、それ以外は0点で、各型式の得点を計算した。その得点の割合(24点満点)が最も高い型式が、その坏身の型式となる。狭山池周辺の須恵器窯のAIによる全自動型式判定の結果をZ423に示す。

 

Z423.狭山池須恵器窯型式判定.png満池南窯はTK43、狭山池2号窯はTK209,狭山池1号窯と東池尻1号窯はTK217古と狭山市教育員会(含む郷土資料館)の報告書と同じであったが、狭山池4号窯とひつ池西窯は、私の判定はTK217古、狭山市教育員会の判定はTK217新とくい違がっている。狭山池周辺の須恵器の研究の第一人者であられる植田隆司の「TK217型式の類型化および他型式との相対評価」では、狭山池4号窯とひつ池西窯はTG10-(TK217古)とTG10-(TK217新)にかけて分布しているとあり、AIによる全自動判定もあながち間違ってはないのだろう。「69-11.飛鳥時代前半の須恵器編年は混沌」で述べたように、Ⅱ-6型式とされているTG17窯・TG64窯・TG206窯の坏の型式をⅢ-1としたことが影響していると思われる。

 

私は、飛鳥時代前半の須恵器の編年・年代は下記のようにまとめている。

中村編年  田辺編年  飛鳥編年 実年代   G坏比率

    Ⅱ-4 TK43        560589  0%
-5 TK209             590619年  0%

    Ⅱ-6 TK217古 飛鳥Ⅰ   620639年  075%

    Ⅲ-1 TK217新 飛鳥Ⅱ  640669年  75100%

    Ⅲ-2 TK46   飛鳥Ⅲ  670年~    100%

 

TK217古と判定した狭山池1号窯は、狭山池築造当初の堤の外側の斜面を利用して造られている。これからすると、狭山池1号窯は狭山池の堤の築造年代よりも後に操業したことになる。この堤の下層から導水のためのコウヤマキ製の樋管が出土している。この下層東樋と呼ばれる樋管の年輪年代測定で616年伐採と出た。狭山池1号窯の須恵器は616年以降に生産されたことが分る。616年にコウヤマキを伐採し樋管を作り、樋管を埋めて堤を造り、その堤に須恵器窯を築造した。そこで焼成した須恵器の型式はTK217古(Ⅱ-6)の飛鳥Ⅰで、年代は620~639年である。狭山池1号窯の須恵器の年代と樋管の年輪年代はピッタリあっている。


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69-14.須恵器型式のAIによる全自動判定 [69.須恵器の型式をAIで判定する]

Z417.はそうガウス曲線.pngこれまで須恵器の型式による形態変化をAIで作成したガウス曲線で見える化を計り、須恵器の図面・写真から得た指標と照らし合わせて型式の判定を行ってきた。「須恵器の型式をAIで判定する」と唱えたかぎりは、最後の型式判定までパソコンで行えるようにしなければならない。私が確立した須恵器型式のAIによる全自動判定システムについて、はそうの口径/胴径(MD/BD)のガウス曲線を例にとり説明する。ガウス曲線(Z417)の赤線が平均値(A)、緑帯が平均値±1σ、青帯が平均値±1.σである。統計的にみると、平均値±1σは基礎資料の68%を含み、平均値±1.σは87%を含む範囲である。

 

型式を判定するはそうMD/BDを平均値(a)が1.3、標準偏差(σ)が0.1であったと仮定する。赤点線が平均値、上の黒点線がa+1σ、下の黒点線がa-σである。Hen-No1~13において、赤点線・黒点線が緑帯の範囲にあれば2点、青帯の範囲にあれば1点、白の範囲にあれば0点と判定する。Z418にHen-No毎に得点の合計と比率を示した。これらをエクセルで自動計算するプログラムをZ419に示した。

 

Z418-Z419.型式自動判定.png

この方法ではそうの口径/胴径(MD/BD)、頸径/胴径(ND/BD)、頸長/胴長(NH/BH)、頸径/全長(ND/TH)の4指標について同じプログラムで行を揃えて横並びに作り、その最後に4指標の小計を合計する。4項目24点満点で、Hen-No毎にその得点比率を計算し、その比率の最も高かったHen-Noが、その資料の型式である。藤ノ木古墳出土のはそうの型式をAIで自動判定した結果をZ420に示した。

 

Z420.藤ノ木古墳はそう自動判定.png


須恵器の形状を示すガウス曲線の平均値(A)は器種・指標によって異なっているが、型式判定のプログラムは全ておなじである。Z421に、坏身・はそう・無蓋高坏・有蓋高坏のHen-No毎のガウス曲線平均値(A)と標準偏差(σ)を示した。この値をもとにすれば須恵器の型式を自動計算するプログラムがエクセルで作成できる。

Z421.機種別・指標別ガウス曲線.png

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