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74-9.「空白の世紀」の始まる頃に箸墓古墳が築造された [74.「記紀」で解く「空白の世紀」の150年]

「空白の世紀」の150年(270年~420年)について、これまで、倭国の高句麗・百済・新羅など朝鮮半島との関わりを「倭の五王」の登場から時代を遡って見て来た。それでは、この「空白の世紀」の150年に大和王権(ヤマト王権)が全国に勢力をどのように拡大して行ったかを、「空白の世紀」の始まりから時代を下りながら見て行く。『書紀』神功66年の記事に『晋書』起居注の引用文として、「武帝の泰始二年(266年)十月に倭の女王が貢献した」とある。『晋書』起居注は現存していないが、『晋書』武帝紀の泰始2年には、「十一月己卯、倭人が来たり、方物を献ずる」とあり、266年に倭の女王・壱与が晋の武帝に朝貢したのは確かであろう。この266年が「空白の世紀」の始まりである。

 

Z486.箸墓古墳.png2009年に国立民俗歴史博物館が桜井市箸中にある箸墓古墳(墳長276m)周辺から出土した土器に附着した炭化物をAMS法による炭素14年代測定し、土器の編年とマッチングさせ、箸墓古墳の築造年代を240年から260年であると確定した。古墳時代最初の大型古墳である箸墓古墳の築造年代が、「空白の世紀」の始まりの前夜であったのである。一方、『書紀』は崇神天皇10年に「倭迹迹日百襲姫を箸墓に葬った、その墓は、昼は人が造り、夜は神が造った。大阪山の石を運んで造った。」と記載している。箸墓古墳の後円部頂上に使われている石は二上山(大坂山)の山麓にある芝山(大阪府柏原市)の石が使用されており、『書紀』は史実を伝えているように思われる。「新縮900年表」では、箸墓が造られた崇神天皇10年は260年となる。崇神紀の箸墓築造と、炭素14年代測定の箸墓古墳築造年代と一致している。これらより、古墳時代が崇神天皇の時代から始まり、崇神天皇=御間城姫=壱与とする私の説が成り立ってくる。(この節以後も『書紀』の暦年は全て「新縮900年表」で表示する。)


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74-8.田道間守は新羅に国使として遣わされた [74.「記紀」で解く「空白の世紀」の150年]

『書紀』は、神功皇后が金・銀・彩色などの宝が沢山ある新羅を服従させようと決意したのは、神の啓示によるとしている。しかし、これは物語化されもので、実際はそれまでに新羅との接触があり、新羅の情報が伝わっていたのであろう。『書紀』で「新羅」の国名が初めて登場(神代を除いて)するのは、垂仁2年(275年)に「任那国の人蘇那曷叱智が帰国の際に、任那王に賜った赤絹百匹を新羅が奪った。両国の争いはこのとき始まった。」である。また、垂仁3年(276年)には「新羅の王子・天日槍が来た。持つて来た珠・槍・刀子・大刀・鏡を但馬国の神宝とした。」とある。(以後『書紀』の暦年は全て「新縮900年表」で表示する。)

 

275年に新羅は国として存在いたのであろうか?。『三国史記』の新羅本紀は「辰韓の斯蘆国」の時代(紀元前57年~)から含めて一貫した新羅の歴史としているが、史実性があるのは4世紀の第17代奈勿王(356~402年)以後であり、それ以前の個々の記事は伝説的なものであって史実性は低いとされる。中国の史書で「新羅」の国名が初めて登場するのは、『資治通鑑』の晋・孝武帝太元2年(377年)に「 高句麗、新羅、西南夷は皆な遣使して秦に入貢す。」とある。『資治通鑑』は中国北宋の司馬光が、1065年編纂したものであるが、豊富な資料に基づいて考証を加えており、有力な史料と目されている。好太王碑にも「新羅」の国名が出てくるが、それは391年以降のことである。

 

一方、高句麗について『三国史記』では、初代王の朱蒙(東明聖王)が紀元前37年に高句麗を建てたとされるが、文献史学的にも考古学的にも高句麗の登場はこれよりもやや古いと見られている。『三国史記』の高句麗紀は史実に基づいて書かれているとして、「新羅」が初めて登場する年代を調べた。高句麗東川王19年(245年)に「軍隊を派遣し、新羅の北部の辺境を侵した」とあり、東川王22年(248年)に「新羅が使者を派遣して国交をひらいた」とある。3世紀の半ばには、新羅は存在していたと考えられる。因みに、百済が高句麗紀に初めて登場するのは、高句麗故国原王39年(369年)「王は2万の軍隊を引きて、南進して、百済と雉壌で戦ったが破れた。」とある。高句麗と百済の間には、中国の出先機関である楽浪郡。帯方郡があった。この両郡が高句麗に滅ぼされたのは313年であった。高句麗と百済の接触が、新羅に比べて1世紀以上も後であるのはこのためであろう。245年ころ新羅国が存在したのは史実と考える。

 

『書紀』垂仁90年(302年)には、天皇は田道間守に命じて常世国に遣わして非時の香果を求められた。いま橘というのはこれである。垂仁99年(303年)天皇は纏向宮で崩御になり、菅原の伏見陵に葬った。翌年、田道間守が帰国し、垂仁天皇が崩御されているのを知り、非時の香果を持ち帰るののに10年経ってしまったと、天皇の陵の前で泣き叫び死んだ」とある。『三国史記』新羅本紀基臨王3年(300年)には、「倭国と国使いを交換した。」とある。垂仁2年(275年)記事には、新羅の王子・天日槍の玄孫(やしゃご)が田道間守であるとしている。田道間守が遣わされた常世国は新羅国であったと考える。田道間守は新羅に国使として遣わされた。当時としては非常に珍しい橘(みかん)を土産に持ち帰ったのに、天皇が亡くなっておられたことで、遠くはるかな常世国に10年かけて行って来たという物語が出来たのであろう。

 

但馬国、兵庫県豊岡市三宅に、田道間守を祭神とする中嶋神社がある。橘を持ち帰った田道間守をお菓子の神様「菓祖神」として、全国の菓子業の人々が崇拝している。平安時代に撰述された『国司文書』には、中嶋神社は推古天皇15年(606年)、田道間守命の7世の子孫である三宅吉士が、祖神として田道間守命を祀ったのに創まるといい、「中嶋」という社名は、田道間守命の墓が垂仁天皇陵の池の中に島のように浮かんでいるからという。垂仁天皇陵の周濠にある小島が田道間守の墓であるということは、史実かどうか分からないが、平安時代にその説話が出来ていたようだ。

Z485.田道間守.png

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74-7.神功皇后は実在し、新羅に攻め込んだのは史実 [74.「記紀」で解く「空白の世紀」の150年]

『古事記』『日本書紀』の歴史学としての研究は、江戸時代の新井白石・本居宣長に始まり明治から昭和の多くの学者によりなされた。なかでも、大正時代早稲田大学教授の津田左右吉氏は、記紀の緻密な分析を行い、神話は大和朝廷の役人が天皇の地位を正当化するために創作したものであり、伝承されてきた歴史ではない。神武天皇から応神天皇までは史実かどうか疑わしいととなえた。満州事変が起こり自由主義的な言論が弾圧されると、津田氏の著書に対しても皇室の権威を冒涜するものと圧迫が加えられた。第二次大戦後、津田氏の説は華々しく蘇り、多くの学者の支持を受け史学会の常識となり、さらに「推古朝以前は歴史の対象ではない」と、記紀の記載した歴史は葬りさられてしまった。

 

『書紀』には、神功皇后が新羅の国に攻め込んで、新羅が降伏した時の様子を「新羅王波沙寐錦(はさむきん)、微叱己知波珍干岐(みしこちはとりかんき)を人質とし、金・銀・彩色・綾・絹を沢山の船にのせて、軍船に従わせた」と書いている。津田氏は『書紀』の「新羅王波沙寐錦」について、「新羅王波沙寐錦は、王として三国史記などに見えない名である。『波沙寐』は多分新羅の爵位の第4級『波珍』の転訛で、『錦』は尊称ではなかろうか。もしそうとすれば、これは後人の付会であって、本来王の名として聞こえていたのでは無い。この名およびこの名によって語られている人質の派遣と朝貢との話は後に加えられたものであることが、文章の上から、明らかに知られるようである」と述べており、神功皇后の新羅征伐はもちろんのこと、神功皇后の実在を否定している。

 

4世紀末から5世紀の朝鮮半島の高句麗・百済・新羅の三国ならびに倭との関係を記した有名な広開土王碑(好太王碑)がある。この石碑の第3面の2行目には「新羅寐錦」の刻字がある。ただ、「新羅寐錦」と読まれたのは近年のことで、それまでは、中国・韓国・日本の歴史学者は「新羅安錦」と読んでいた。

 

Z484.中原高句麗碑.png「寐錦」が新羅王を表すということを中国・韓国・日本の歴史学者が知ったのは、1978年に韓国の忠清北道忠州市(ソウル南東100km)で発見された中原高句麗碑からである。 碑は、高さ2m、幅0.55mの石柱の四面に刻字があり、5世紀前半の高句麗の碑石であることが判明した。この碑文の中に「新羅寐錦」の文字がある。「高句麗太王」と「新羅寐錦」の関係は「如兄如弟」とあり、新羅寐錦は新羅王を指していることが分る。また、1988年に慶尚北道蔚珍郡竹辺面で石碑が発見され、蔚珍鳳坪碑と名付けられ国宝となった。この碑は新羅の法興王11年(523年)に建立されたもので、新羅が高句麗から奪回した領地に「寐錦」の視察があったことが刻字されている。 

 

『日本書紀』の神功紀には「新羅王波沙寐錦」とあり、広開土王碑・中原高句麗碑・蔚珍鳳坪碑に刻字された「寐錦」という文字が、新羅王を表わす君主号であることと一致している。「寐錦」と言う言葉は、史実の伝承として後世に残らなかった言葉であり、決して後世の人が付け加え出来る言葉ではない。『書紀』は津田氏や歴史学者より、「寐錦」の言葉を正確に伝えており、神功皇后が実在し、新羅征伐が史実であった証拠であると考える。

 

「新縮900年表」で、神功皇后が新羅に攻め込んだのは、仲哀天皇が崩御された年の346年である。『三国史記』新羅本紀346年、「倭軍が突然風島を襲い、辺境地帯を掠め犯した。さらに進んで金城を包囲し激しく攻めた。・・・門を閉じて兵を出さなかった。賊軍は食料が亡くなり退却しようとしたので、追撃し敗走させた。」とある。戦いの勝敗は『書紀』と『三国史記』では反対であるが、倭軍が新羅の王都・金城に攻め込んだというのは同じである。、神功皇后が新羅に攻め込だのは史実である。


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74-6.百済の肖古王は倭国に新しい文化をもたらせた [74.「記紀」で解く「空白の世紀」の150年]

Z483.国宝七支刀.png奈良県天理市にある石上神宮には、左右に段違いに三つずつの枝剣があり、剣身を入れると七つの枝に分かれる特異な形をした、国宝の七支刀がある。この七支刀には、表と裏に60余文字の金象嵌がある。一般的には次のように読み下している。
表「泰和四年五月十六日、丙午正陽に百練鋼の七支刀を造る。百兵を避け、侯王に供する宣し。口口口作」。

裏「先の世以来、未だこの刀は有らず。百済(滋)王の世子貴須(奇生)聖音は倭王旨の為に造る。後世に伝え示せ。」


神功52年に、次のような文章がある。「久氐らは千熊長彦に従ってやってきた。そして七枝刀一口、七子鏡一面、および種々の重宝を奉った。そして、『わが国の西に河があり、水源は谷那の鉄山から出ています。その遠いことは七日間行っても行きつきません。まさにこの河の水を飲み、この山の鉄を採り、ひたすらに聖朝に奉ります。』と申し上げた。そして、孫の枕流王に語って、『今わが通うところの海の東の貴い国は、天の啓かれた国である。だから天恩を垂れて、海の西の地を割いてわが国に賜った。これにより国の基は固くなった。お前もまたよく好を修め、産物を集めて献上することを絶やさなかったら、死んでも何の悔いもない』といった。それ以後毎年相ついで朝貢した。」

 

『書紀』に記載された七枝刀は、間違いなく石上神宮所蔵の七支刀である。この七支刀が製作され倭王に供された年は、金象嵌はその年を「泰和4年」と示している。中国の年代で「泰和」という年号はなく、東晋の太和4年(369年)であろうと言われている。一方、神功52年は、『書紀』の編年に120年プラスした372年で、「新縮900年表」で応神19年にあたる。七枝刀は、百済の肖古王が369年に造って、372年に応神天皇に献上したものであることが分かる。『三国史記』によると肖古王の薨去375年となっており、七支刀の献上は死の3年前である。『書紀』に記載された、肖古王が孫の枕流王に「死んでも何の悔いもない」と語ったのは遺言で、史実であると考える。

 

話しは変わるが、私は古墳3294基(前方後円墳1922基)のデータを集め、130種の古墳の遺構・遺物の編年を行い、古墳の年代を決定した。そのなかで、古墳時代中期の始まりを380年としている。380年を境に、円筒埴輪は埴輪の焼成が野焼きから窖窯(あながま)に変り、須恵器・馬具・鋲留短冑が登場する。そして、「73.日本の製鉄(製錬)の始まりは何時か?」では、製鉄の開始は古墳時代中期の始まりであることを証明した。肖古王は346年から375年、応神天皇が354年から390年である。倭国と百済の交流が始まった366年から肖古王が薨去した9年間に、応神天皇は窖窯・須恵器は伽耶から、馬具・鋲留短冑・製鉄は百済の 肖古王から、新しい技術を導入し、そして、三角縁神獣鏡、石製装飾品(石釧・鍬形石・車輪石)、筒形・巴形銅器の古来の文化を捨て去ったのである。


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74-5.百済の肖古王は応神天皇に良馬2匹を献上 [74.「記紀」で解く「空白の世紀」の150年]

「新縮900年表」で、応神天皇崩御が390年、仁徳天皇の元年は392年、仁徳天皇崩御は430年に比定した。それでは、応神元年は西暦何年かに迫ってみよう。『古事記』応神記には「百済の国主照古王、牡馬壱疋・牝馬壱疋を阿知吉師に付けて貢上りき。また横刀と大鏡とを貢上りき。また百済国に『若し賢しき人あらば貢上れ』とおほせたまひき。かれ、命を受けて貢上りひと、名は和邇吉師、すなはち論語十巻・千字文一巻、并せて十一巻をこの人に付けてすなはち貢進りき。また手人韓鍛名は卓素、また呉服の西素を貢上りき。」とある。

 

一方、『書紀』応神15年には「百済王は阿直岐(あちき)を遣わして良馬二匹を奉った。・・・天皇は上毛野君の先祖の荒田別・巫別を百済に遣わして王仁を召された。」とある。『古事記』と『書紀』の記事は、百済国主=百済王、牡馬壱疋・牝馬壱疋=良馬二匹、阿知吉=阿直岐、和邇=王仁であり、両者は全く同じ話である。『書紀』には百済国王の名がないが、『古事記』は百済王を照古王としている。百済の肖古王が牡馬と牝馬の二匹を応神天皇に献上したことが分かる。

 

「新縮900年表」では、百済の肖古王が良馬良馬2匹を献上した応神15年は368年にあたる。『三国史記』によると、368年に百済は新羅に良馬2匹を献上したとある。『書紀』には「367年(神功47年)、百済王は久氐を倭国に遣す。貢物を新羅が奪う。」とあり、「369年(神功49年)、倭国は新羅を破り七ヶ国平定。躭羅を百済に与える。」とある。百済の肖古王は新羅には懐柔策を取り、倭国には後ろ盾となって、新羅と戦うことを願ったのであろう。その作戦はみごと的中した。百済の肖古王が良馬2匹を献上した応神15年は368年で間違いはないであろう。

 

『書紀』応神紀では、応神元年から応神15年までは、記事が書かれていない空白の年は、応神4年・8年・10年・12年である。これらからすると、応神15年を368年ならば、応神元年は354年となり、「縮900年」と同じである。仁徳天皇の元年の見直しで、仁徳紀の在位期間を「縮900年表」より12年間短くした。「新縮900年表」では、この12年間を応神15年から応神崩御の間で、4年以上の空白の期間で削除していた、応神21年から応神31年の間と、応神31年から応神40年にそれぞれ6年間の空白を設けることで吸収した。

 

Z482.応神天皇陵と鞍金具.png

応神天皇陵(誉田御廟山古墳)の前方部の近くに陪塚の誉田丸山古墳(円墳:墳径50m)がある。この古墳から江戸時代に金銅透彫鞍金具が前輪・後輪の対で2具分出土し、誉田八幡宮に納められ国宝となっている。両具共に龍をアレンジした唐草模様の透かし彫りで、朝鮮半島や中国東北地域との関わりが推定されている。私は丸山古墳から出土した鞍は、『書紀』応神15年に百済の肖古王から応神天皇に奉った牡馬と牝馬の二匹に装着していた鞍で、いかり肩のような角ばった1号鞍が牡馬用、なで肩のように丸みをおびた2号鞍が牝馬用のものであったと想像している。


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74-4.仁徳天皇は好太王と百済・新羅の覇権を争った  [74.「記紀」で解く「空白の世紀」の150年]

Z481.好太王碑.png中国の歴史に倭国の名が登場しない、空白の150年間(267年~412年)の間で、古代朝鮮の好太王碑に倭国の名が登場してくる。好太王碑は現在の中国の吉林省集安県の鴨緑江中流域の江畔、およそ1キロメートルの所にある。碑は好太王のものと言われる将軍塚と大王陵の中間にあり、その昔高句麗の王都、丸都城のあった地域である。好太王の諡号を省略した「広開土王」という称号が、朝鮮の史書『三国史記』には用いられている。この碑は1880年この地の農民が発見し、1884年(明治17年)に日本陸軍の酒勾景信大尉が、日清戦争の諜報活動の最中に見つけ、この碑文の拓本を得て日本に持ち帰り、参謀本部で読解が行われた。

 

中国の史書は歴史資料として価値が高いが、現在まで伝わっているのは原本でなく写本である。この写本には脱字・脱行・あるいは別の字との置き換わりがなされた可能性がある。この点から考えると、好太王の碑文は古代に刻まれたそのままが残っており、歴史資料としては、一級のものといえる。しかしながら、碑文の倭国に関する事項が、明治から昭和にかけて日本の覇権主義者にとって、都合の良い内容であり、まして、最初の関係者が軍人であったことなどから、改ざんが行われたのではないかと言う説もある。

 

この碑は高句麗の好太王の業績を讃えるため、没後2年に息子の長寿王により、414年に建てられたものである。好太王碑は高さ6.m、幅1.4~1.m。碑には約12cm四方の大きさで、深さ6mm程度の文字が、四面に渡って約1800字刻まれている。碑文は三段からなり、第一段は高句麗の開国伝承と建碑の事情、第二段は王の功績、第三段は墓守(はかもり)りに関するものである。

 

倭国に関する記述があるのは第二段で、好太王が四方に領土を拡大した業績を讃美した部分の中にある。一番初めは「百済と新羅とは、元来(高句麗の)属民であって、もとより朝貢していた。ところが、倭は辛卯の年(391年)に、海を渡って来て百済を破り、東方では新羅を□し、臣民にした。」である。「以辛卯年来渡海」については、従来「辛卯の年に海を渡って来て」と解釈されていたが、「辛卯の年よりこのかた海をわたり」との解釈が西嶋定生氏によりとなえられた。

碑文では好太王が即位した年は明記されていない。ただ好太王の元号「永楽〇年」と干支が記載しており、永楽元年が391年(辛卯)である。『三国史記』では、好太王の元年は392年であるが、碑文の元号から推察できる391年が正しいのであろう。これからすると、「以辛卯年来渡海」については、「辛卯の年よりこのかた海をわたり」との解釈が正しいと思われる。

 

『宋書』倭国伝では、讃(仁徳天皇)が亡くなり438年に朝献した珍(反正天皇)は、「使持節・都督・倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国の諸軍事安東大将軍倭国王」の称号を求め、宋からは「安東大将軍倭国王」のみの称号を与えられている。反正天皇が朝鮮半島の五国に軍事的支配権を求めていることは、仁徳天皇の時代に、朝鮮半島に進出・侵出した実態があったからであろう。

 

仁徳天皇の在位は392年から430年である。高句麗の好太王の在位は392(391)年から413年である。好太王と仁徳天皇は、ほぼ同じ年に即位し、百済と新羅の覇権をめぐって、対峙してきたのであろう。好太王碑文と『書紀』の記事がそれを示している。

「好太王碑」
396年、王は軍を率いて百済国軍を討滅した。・・・百済王は跪き「今より以後、永く奴客と為らん」と誓う。

399年 、百済は誓いを破って倭と和通、高句麗王は平壌に出いた。
新羅の使いが、倭が新羅を壊滅させたと救援を請願した。

400年 、歩騎5万を遣わして新羅を救援。倭はあたり一帯に満ちていたが、官軍が到着する時には退却した。

『書紀』「新縮900年表」

397年、阿花王が立ち倭国に無礼をした。それで東韓の地を奪われた。そのため王子・直支を天朝に遣わして先王の好を修好した。

398年、新羅人の朝貢があった。そこで茨田の堤の役に使われた。

404年、新羅の朝貢なかった。砥田宿禰と賢遣臣を新羅に派遣し詰問。新羅人は恐れ入って貢ぎ物を届けた。貢物は80艘あった。


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74-3.阿知使主が呉から帰国の年に仁徳天皇が崩御 [74.「記紀」で解く「空白の世紀」の150年]

明治時代の歴史学者那珂通世氏は、『書紀』の神功紀と応神紀にある百済記から引用された記事の年月が、『三国史記』に記載された年月と比較すると干支2廻り、120年繰り上げられていることを発見している。私は「縮900年表」を作成の中で、干支2廻り、120年繰り上げられているのは、百済記から引用された記事だけではないことを発見した。その一例が、呉に派遣された阿知使主の記事である。

 Z479.阿知使主.png

応神37年「阿知使主を呉に遣わして縫工女を求めさせた。阿知使主は高麗国に渡ったが道がわからず、高麗王の付けた案内人よって呉にいくことが出来た。呉王は縫女の兄媛・弟媛・呉織.穴織の四人を与えた。」、応神41年「阿知使主らが呉から筑紫についた。兄媛を宗像大神に奉り、あとの三人の女を連れて津国の武庫についた時、天皇が崩御された。そこで三人を大鷦鷯尊に奉った。」。呉とは中国南北朝時代の南朝の宋である。宋の建国は420年で都は建康(南京)である。これからすると、阿知使主は420年以後に宋に遣わされたことになる。

 

阿知使主が呉に派遣された応神37年は、『書紀』の編年に従えば306年だが、干支2廻り、120年繰り下げると426年である。『宋書』倭国伝には元嘉2年(425年)に讃が司馬曹達を遣わして貢献したとあり、1年の違いがあるが『書紀』と『宋書』倭国伝は一致している。また、阿知使主が帰国した応神41年は430年にあたる。『宋書』武帝紀には「元嘉七年(430年)春正月、倭国王使いを遣わしいて方物を献ず。」とある。阿知使主が帰国する年の正月に、皇帝の朝賀の儀に参列したことを示している。

 

Z480.仁徳陵古墳.png私は『古事記』記載の仁徳・履中・反正・允恭天皇の崩御年の通説にプラス5年すると、『宋書』倭国伝・帝紀の記載と矛盾なく、讚は仁徳天皇、珍は反正天皇、済は允恭天皇、興は安康天皇、武は雄略天皇に比定できることを発見した。これらからすると、宋に阿知使主を派遣した天皇は仁徳天皇となる。『書紀』応神41年の記事では「阿知使主が帰国し津国(摂津国)の武庫に着いた時、天皇(応神天皇)が亡くなり、呉王より賜った3人の縫女を大鷦鷯尊(仁徳天皇)に奉った。」とあるが、亡くなったのは仁徳天皇であったのである。阿知使主が呉から帰国した430年に仁徳天皇が崩御した。「新縮900年表」では仁徳天皇の崩御を430年とした。両者はピッタリ一致している。


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74-2.応神天皇崩御の年が「空白150年」解明の第一歩 [74.「記紀」で解く「空白の世紀」の150年]

Z478.倭の五王.png私は、『書紀』の編年が900年延長していることを発見した。その延長の900年は、欠史8代の天皇で484年と、『書紀』に記載された『魏志倭人伝』『百済記』『百済新撰』などの引用記事を取り除いた後の、記事と記事の空白の期間が4年以上を合計した416年であった。これにより、『書紀』に記載された全ての記事を網羅する「縮900年表」を作成する事が出来た。「縮900年表」の仁徳天皇・履中天皇・反正天皇・允恭天皇の崩御年は、表Z478に示すように『古事記』崩御年プラス5年とほぼ同じ(違っても1年)で、『宋書』倭国伝とピッタリ一致している。しかし、応神天皇の崩御に関しては「縮900年表」が378年に対して、『古事記』の「甲午」の394年、あるいはプラス5年の399年と16年以上違っている。応神天皇の崩御年を明確にすることが、「空白の世紀」の150年間の編年を解明する第一歩であると考える。

 

書紀』の神功紀と応神紀にある『百済記』から引用された記事、あるいはそれらと関連する記事の年月は、干支2廻り120年繰り上げられている。これらの記事を120年繰り下げて、応神天皇の崩御年を境として振り分けた。「縮900年表」の応神崩御378年を境にすると、応神天皇側には、神功56年以前の8件の引用記事があり、仁徳側は神功62・64・65年の記事と応神3年以後の9件の引用記事がある。そこで、神功紀の引用記事は応神天皇在位中の出来ことで、応神紀の引用記事は仁徳天皇在位中の出来ことであるとの仮説を立てて編年を行った。この仮説に従えば、応神天皇の崩御・仁徳天皇の元年は、神功65年(385年)と応神3年(392年)の間になる。

 

「縮900年表」の仁徳天皇元年は381年であり、仁徳紀をもっと縮小しなければならない。「縮900年表」の編年にいおては、記事と記事の空白の期間が4年以上ある場合は、延長された期間として削除している。仁徳紀に限り、2年以上の空白の期間を延長された期間とした。こうすれば、仁徳紀にある全ての記事を削除することなく、年表が作成出来る。これによれば、応神天皇崩御が390年、仁徳元年は2年間の空位期間あり393年となり、仁徳天皇崩御は431年である。応神天皇崩御の年は『古事記』の394年と4年の違いとなった。

 

この仁徳元年の393年は、引用記事を振り分け定めた「応神天皇崩御・仁徳天皇元年は385年から392年の間」と比較すると1年オーバーしている。「2年以上の空白の期間を延長された期間」として作成した仁徳紀の年表の全体を1年繰り上げた。そうすると、応神天皇崩御が390年、仁徳元年は392年となり、仁徳天皇崩御は430年となった。

 

これで起こる問題は、応神天皇崩御と仁徳元年の間の2年間の空位期間が1年となり、仁徳天皇崩御と履中元年の間に1年間の空位が出来ることである。応神天皇が崩御したとき、皇太子の菟道稚郎子は即位することを拒み、また大山守皇子が皇太子を殺し帝位をとろうとした。このために生じた空位の期間が1年であっても、『書紀』の記す歴史は繋がっている。また、仁徳天皇が崩御したとき、皇太子の去穂別尊(履中天皇)を仲皇子が殺そうと太子の宮を焼くような争いが生じている。このために仁徳天皇が崩御し履中天皇が即位するまでに空位が1年生じたとしても、『書紀』の記す歴史は繋がっている。応神天皇崩御390年、仁徳天皇元年392年、仁徳天皇崩御430年としたものを「新縮900年表」と呼ぶ。


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74-1.「倭の五王」の比定は完結した [74.「記紀」で解く「空白の世紀」の150年]

日本の古代史を明らかにする手がかりは、二冊の中国の歴史書に求められている。その一冊が「卑弥呼」の登場する『魏志』倭人伝であり、そしてもう一冊が、「倭の五王」が登場する『宋書』倭国伝である。邪馬台国の卑弥呼が魏と交わったのが3世紀前半であり、倭の五王が中国の南朝と好を結んだのが5世紀である。3世紀半ばから5世初めまでのあいだ、すなわち、『晋書』武帝紀記載の「泰始二年(266年)、倭人来たり方物を献ず。」の記述から、同じく『晋書』安帝紀の「義熙九年(413年)、高句麗・倭国および西南夷銅頭大師並びに方物を献ず」の記述までの約150年間、中国の史書には倭国に関する記載事項はなく、「空白の世紀」と呼ばれている。

 

『宋書』 は513年に没した沈約の撰によるもので、中国の南北朝時代の南朝に起こった宋(420~478年)の史書であり、五世紀に倭より中国に朝献した倭国王「讃・珍・済・興・武」、通称「倭の五王」について詳しく書いてある。倭の五王については、「宋書」より後に書かれた「梁書」「南斉書」「晋書」にも記載されてあるが、宋書の倭国伝の、資料的価値が一番高いと考えられている。この「倭の五王に」ついては、明治・大正・昭和の多数の学者が「魏志倭人伝」と同様「宋書倭国伝」の解釈に頭を悩まし続けてきた。

 

倭の五王の比定は江戸時代の儒学者松下見林によって扉が開かれた。松下見林は倭の五王の名と天皇の諱(いみな)とを字の意味と字の形について比較し、讚は履中天皇、珍は反正天皇、済は允恭天皇、興は安康天皇、武は雄略天皇に比定した。著名な儒学者の新井白石は字の音の類似を比較し、松下見林と同じ結論に達している。そして、国学者の本居宣長は『日本書紀』の紀年から、五王の遣使は天皇の事績ではないとして、讚・珍・済は允恭天皇の代、興と武は雄略天皇の代のことであるとした。

 

 明治時代には、那珂通世が『書紀』の神功・応神紀に記された百済王は,干支二廻り(120年)繰下げると年代が一致することを見つけた。そして自らの年代論をもとにして、讚は履中天皇、珍は反正天皇、済は允恭天皇、興は安康天皇、武は雄略天皇と江戸時代の儒学者と同じ比定を行っている。政府の修史局(歴史編纂事業)にいた星野恒は、「崇神帝以後の年代は古事記に従えば大差なきに近し」と紀年表を発表した。これを見た那珂通世は讚を履中天皇から仁徳天皇へと修正すると発表している。

また、修史局にいた菅政友は、『宋書』の「済死す。世子興遣使」の世子とは日嗣(ひつぎ)の皇子を意味するとして、興は履中天皇の第一皇子の市辺押磐皇子であるとの説を発表した。興については、修史局にいた久米邦武が、允恭天皇の長男で同母妹の軽大娘皇女と通じたとして次男の穴穂皇子(後の安康天皇)によって廃された木梨軽皇子であるという新説を出している。明治時代には、讚は仁徳天皇、珍は反正天皇、済は允恭天皇、武は雄略天皇であることは固まっている。

 

 昭和時代の戦後、東洋史学者の前田直典は『宋書』倭国伝の武の上表文にある祖禰にも注目し、讚は応神天皇という説を発表している。この説は一時定説になった感があったが、数年後には橋本増吉、近藤啓吾、丸山二郎、井上光貞などの著名な歴史学者の反論に会っている。倭の五王の比定は今にいたっても定説がないという状態である。

 

Z477.倭の五王の比定.png2021年7月の「72-.『古事記』の編年と倭の五王」で、私は『古事記』記載の仁徳・履中・反正・允恭天皇の崩御年の通説にプラス5年すると、『宋書』倭国伝・帝紀の記載と矛盾なく、讚は仁徳天皇、珍は反正天皇、済は允恭天皇、興は安康天皇、武は雄略天皇に比定できることを発見した。表Z477を見れば一目瞭然で、これは古代史解明の快挙であると自負している。


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73-18.製鉄の開始は古墳時代中期の始まり、4世紀後葉 [73.日本の製鉄(製錬)の始まりは何時か?]

『岡山県埋蔵文化財調査報告150 高塚遺跡・三手遺跡』の「まとめ」にある「古墳時代中期の土器」を読むと、フロヤⅠ区の製煉滓が出土した竪穴住居47、炉跡とがあったとされる竪穴住居28からは、土師器甕B1類が出土している。甕B1類は、大庭寺遺跡TG232号窯灰原の下層の土師器に類似しており、TG232号に近い時期と思われると記載してある。陶邑の田辺編年で初期須恵器はTG232・TK73・TK216である。高塚遺跡で製錬を伴なう製鉄が始まったのはTG232に近い時期、古墳時代中期の始まりの年代である。なお、古墳時代中期は円筒埴輪Ⅳ式(通説はⅢ式・Ⅳ式)と考えている。

 

私は3294基の古墳データ(前方後円墳1922基)より、143種の遺構・遺物の編年を行っている。私の「古墳の遺構・遺物の編年表」によれば、TG232は380~389年で、380年より古墳中期が始まることになる。因みに、高塚遺跡から2kmにある造山古墳は、墳長360mの前方後円墳で全国第4位の規模である。造山古墳からは円筒埴輪Ⅲ式(340-379年)と埴輪Ⅳ式(380-469年)が出土しており、埴輪の焼成が野焼きから窖窯(あながま)に変わった380年前後と考える。巨大な前方後円墳・造山古墳が築造された頃、その傍の高塚遺跡で我国初めての製鉄が行われた。古墳時代中期の始まりに、須恵器・馬具・鋲留短甲が新たに登場している。そして、当時倭国が最も欲しがっていたと推察される製錬を伴なう製鉄も、古墳墳中期の始まりに登場しているとすれば、大きな時代のうねりを感じる。

 

Z475.国宝七支刀.png奈良県天理市の石上神宮の御神宝である国宝の七支刀には金象嵌の60余字が彫られている。これらの金象嵌には「泰和四年五月十六日、丙午正陽に百練鋼の七支刀を造る。」「百済(滋)王の世子貴須(奇生)聖音は倭王旨の為に造る。」とある。七支刀が製作された年を「泰和四年」と示している。中国の年代で「泰和」という年号はないが、通説では東晋の太和四年(369年)と考えられている。369年と言えば、百済は肖古王(346~375年)の時代である。

 

『書紀』神功52年に「久氐らは千熊長彦に従ってやってきた。そして七枝刀一口、七子鏡一面、および種々の重宝を奉った。そして、「わが国の西に河があり、水源は谷那の鉄山から出ています。その遠いことは七日間行っても行きつきません。まさにこの河の水を飲み、この山の鉄を採り、ひたすらに聖朝に奉ります。」と申し上げた。そして、孫の枕流王に語って・・・それ以後毎年相ついで朝貢した。 」とある。この文章に出てくる「七枝刀」が、石上神宮の「七支刀」であることは、間違いないであろう。『書紀』の「孫の枕流王に語って」からすると、百済の王は枕流王の祖父の「肖古王」となる。

明治時代の歴史学者那珂通世氏は、『書紀』の神功紀と応神紀にある百済記から引用された記事の年月が、『三国史記』に記載された年月と比較すると干支2廻り、120年繰り上げられていることを発見している。『書紀』の編年に従えば「神功52年」は252年(壬申)である。これを干支2廻り繰り下げれば372年(壬申)となる。石上神宮の「七支刀」の金象嵌と『書紀』神功52年の記事を合わせると、百済の肖古王は、369年に七支刀を造り、372年に倭王に奉じたことが分かる。この時、倭国は百済で製錬を伴なう製鉄が行われていることを知ったのであろう。

 

『古事記』応神記には「百済の国主照古王、牡馬壱疋・牝馬壱疋を阿知吉師に付けて貢上りき。また横刀と大鏡とを貢上りき。また百済国に『若し賢しき人あらば貢上れ』とおほせたまひき。かれ、命を受けて貢上りひと、名は和邇吉師、すなはち論語十巻・千字文一巻、并せて十一巻をこの人に付けてすなはち貢進りき。また手人韓鍛名は卓素、また呉服の西素を貢上りき。」とある。一方、『書紀』応神15年には「百済王は阿直岐(あちき)を遣わして良馬二匹を奉った。・・・天皇は上毛野君の先祖の荒田別・巫別を百済に遣わして王仁を召された。」とある。『古事記』と『書紀』の記事は、百済国主=百済王、牡馬壱疋・牝馬壱疋=良馬二匹、阿知吉=阿直岐、和邇=王仁であり、両者は全く同じ話である。『書紀』には百済国王の名がないが、『古事記』は百済王を照古王としている。百済の肖古王が牡馬と牝馬の二匹を応神天皇に献上したことが分かる。

 

Z476.金銅透彫鞍金具.png応神天皇陵(誉田御廟山古墳)の前方部の近くに陪塚の誉田丸山古墳から江戸時代に金銅透彫鞍金具が前輪・後輪の対で2具分出土し、誉田八幡宮に納められ国宝となっている。両具共に龍をアレンジした唐草模様の透かし彫りで、朝鮮半島や中国東北地域との関わりが推定されている。私は丸山古墳から出土した鞍は、『書紀』応神15年に百済の肖古王から応神天皇に奉った牡馬と牝馬の二匹に装着していた鞍で、いかり肩のような角ばった1号鞍が牡馬用、なで肩のように丸みをおびた2号鞍が牝馬用のものであったと想像している。

 

当時、倭国が最も手に入れたかつた技術の一つが、製煉を伴なう製鉄の技術であった。応神天皇は百済の肖古王に製鉄技術者の派遣を要請したと推察する。それによって遣わされたのが韓鍛()の手人の卓素であった。その時期は、肖古王が倭王に七支刀を供した372年から、肖古王が薨去した375年の間であったと思われる。高塚遺跡の製鉄遺構から、製鉄が始まったのは古墳時代中期の始まり、380年頃としたが、卓素が我が国に到来した頃と一致する。卓素が我が国に製鉄技術を伝えたと考える。

 

応神陵古墳(誉田御廟山古墳)は墳長420mの前方後円墳で、全国第2位の規模である。築造年代は外堤外側から出土した須恵器TK73(390-409)により、390年~409年に絞り込めると考える。応神陵古墳の陪塚の一つだと確実視されているアリ山古墳は一辺45mの方墳で、応神陵古墳の二重濠外堤に接して築かれており、おびただしい量の鉄器(鉄斧134個、蕨手刀子151個、鉄鑿90個、鉄鎌201個、鉄鍬先49個、鈎状鉄器412本等)が出土している。これらの鉄器は、国内で製鉄された鉄素材から作られたものではないかと想像する。我国で製錬を伴なう製鉄が行われたのは、四世紀後葉の古墳時代中期の始まり(円筒埴輪Ⅳ式・須恵器の登場)の時期である。


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