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72-5.神功皇后が実在した証拠は「寐錦(むきん)」 [72.『古事記』と『日本書紀』の編年を合体]

『古事記』『日本書紀』に記載された天皇の中で、歴史・考古学者がその存在を全く信用していない天皇は、神武天皇と神功皇后であるといっても過言ではない。『書紀』は、神功皇后が新羅の国に攻め込んで、新羅が降伏した時の様子を「新羅王波沙寐錦(はさむきん)、微叱己知波珍干岐(みしこちはとりかんき)を人質とし、金・銀・彩色・綾・絹を沢山の船にのせて、軍船に従わせた」と書いている。

 

日本および東洋の思想史研究に大きな業績を残し、文化勲章を受ておられる津田左右吉氏は、『書紀』の「新羅王波沙寐錦」について、「新羅王波沙寐錦は、王として三国史記などに見えない名である。『波沙寐』は多分新羅の爵位の第4級『波珍』の転訛で、『錦』は尊称ではなかろうか。もしそうとすれば、これは後人の付会であって、本来王の名として聞こえていたのでは無い。・・中略・・この名およびこの名によって語られている人質の派遣と朝貢との話は後に加えられたものであることが、文章の上から、明らかに知られるようである」と述べており、神功皇后の新羅征伐はもちろんのこと、神功皇后の実在を否定されておられる。

 

4世紀末から5世紀の朝鮮半島の三国(高句麗・百済・新羅)ならびに倭との関係を記した有名な広開土王碑(好太王碑)がある。この石碑の第3面の2行目には「新羅寐錦」の刻字がある。ただ、「新羅寐錦」と読まれたのは近年のことで、それまでは「新羅安錦」と読まれていた。

 

Z442.中原高句麗碑.png「寐錦」が新羅王を表すということを歴史学者(日本・韓国・中国)が知ったのは、1978年に韓国の忠清北道忠州市(ソウル南東100km)で発見された中原高句麗碑からである。 碑は、高さ2m、幅0.55mの石柱の四面に刻字があり、5世紀前半の高句麗の碑石であることが判明した。この碑文の中に「新羅寐錦」の文字がある。「高麗太王」と「新羅寐錦」の関係は「如兄如弟」とあり、新羅寐錦は新羅王を指していることが分る。1988年に慶尚北道蔚珍郡竹辺面で石碑が発見され、蔚珍鳳坪碑と名付けられ国宝となった。この碑は新羅の法興王11年(523年)に建立されたもので、新羅が高句麗から奪回した領地に「寐錦」の視察があったことが刻字されている。

 

『日本書紀』の神功紀には「新羅王波沙寐錦」とあり、広開土王碑・中原高句麗碑・蔚珍鳳坪碑に刻字された「寐錦」という文字が、新羅王を表わす君主号であることと一致している。「寐錦」と言う言葉は、史実の伝承として後世に残らなかった言葉であり、決して後世の人が付け加え出来る言葉ではない。『書紀』は津田氏や歴史学者より、「寐錦」の言葉を正確に伝えており、神功皇后が実在し、新羅征伐が史実であった証拠であると考える。

 

『古事記』にも、神功皇后の新羅征伐を行ったこと、そのときお腹の中には応神天皇が宿っていたこと、お腹の御子が産まれないようにと石を腰に付けたこと、その石が筑紫の伊斗村にあることなど『書紀』とストーリーは同じである。『古事記』の崩御干支から導く編年には、『書紀』の神功皇后の全ての記事(『魏志』『百済記』等も引用記事を除いて)を収められなければならないと思う。

 

『書紀』の記事には、誇張があったり、勝負・正悪・清濁・譲奪が反対であったり、時代考証なしで後世の言葉を使っていたりする。また編年においても、記事と記事の間の空白の期間で歴史を延長し、『魏志倭人伝』や『百済記』などから引用挿入して、その延長された歴史があたかも正確であるように見せかけている。だからといって、史料批判という名のもとに全て排除したのでは我が国の歴史は姿を現さないと考える。神武天皇についても『古事記』と『書紀』のストーリーは大筋同じである。神武天皇は創作された人物とせず、歴史の編年を行ってみる。


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72-4. 崇神天皇の崩御干支の戊寅は318年か! [72.『古事記』と『日本書紀』の編年を合体]

崇神天皇の崩御干支の戊寅は、通説では318年に比定されており、多くの歴史・考古学者がそれを支持している。しかし、258年という異説もあり、318年で問題ないか検証した。崇神天皇の崩御干支の戊寅を318年とした場合、誕生時父年齢と即位年齢が18歳~60歳の範囲を満足させる天皇の年齢が存在するかを調べたのがZ440の「記通説+5年表」である。表の編年の欄にある修崩御年齢は、崩御年齢から延長年齢を引いたものである。

 

Z440.崇神崩御318年.png

全ての天皇において、誕生時父年齢と即位年齢が18歳~60歳の範囲を満足させる天皇の年齢が存在した。仲哀天皇の誕生時父年齢が15歳であるが、仲哀天皇は成務天皇の異母兄倭建命(日本武尊)の息子であり、倭建命が成務天皇より3歳程度年上ならば問題ない。応神天皇の即位が4歳になっている。仲哀天皇が筑紫で崩御され、神功皇后が新羅征伐した後に、応神天皇が筑紫で生まれている。その後神功皇后が大和に帰り摂政になっており、応神天皇の即位が4歳は問題はない。

 

Z441. 書紀記事年数.png崇神天皇の崩御干支の戊寅を318年に比定した場合、誕生時父年齢と即位年齢に問題を起こさない最適年齢が設定できた。しかし、私には気になることがある。それは垂仁天皇と景行天皇の在位が17年・15年と『日本書紀』の記事年数より少ないことだ。崇神天皇から雄略天皇までの、古事記の編年「記通説+5年表」の在位年数と『書紀』の記事年数(記事が記載されている年数)と空白年数(記事が書かれていない年数)の関係をZ441に示した。ただし、記事年数には魏志倭人伝・百済記・百済新撰・百済本記などの引用記事やそれに付帯してある記事は省いている。

 

「72-.『古事記』の編年と倭の五王」で示したように、応神天皇から安康天皇の崩御の年に5年プラスすれば、『宋書』倭国伝と帝紀に記載された倭の五王は、讚は仁徳天皇、珍は反正天皇、済は允恭天皇、興は安康天皇、武は雄略天皇の年代がピッタリ一致した。これら5名の天皇については全て古事記の編年に記事が収まる。履中紀のマイナス1年は許容の範囲内であろう。応神紀の場合は神功紀の記事を含めても応神記の編年内に収まる。これらに比較して垂仁紀のマイナス5年、景行紀のマイナス11年は異常である。成務紀のマイナス2年は両天皇の影響を受けたものであろう。垂仁紀では、記事年数が22年、空白年数が77年である。景行紀では、記事年数26年、空白年数34年である。『古事記』の編年において、崇神天皇の崩御を318年に比定した場合、垂仁記には『書紀』の垂仁紀の5年分の記事が収まらず、景行記には景行紀の11年分の記事が収まらない。

 

『古事記』の景行記と『書紀』の景行紀を対比すると、景行天皇とその息子の倭建命(日本武尊)(やまとたけるのみこと)の行動に大きな違いがある。古事記では、倭建命が熊襲征伐・出雲建討伐・東国征伐を行っている。『書紀』では、景行天皇自身が日向国に赴き襲国を平定し、筑紫の国を巡幸している。そして、帰京後に熊襲が再び背いたので、日本武尊を熊襲征伐に派遣し、その後に東国征伐に向かわしている。倭建命が出雲討伐した話は、『書紀』には記載されてなく、景行天皇が九州遠征した話は、古事記には記載されていない。

 

しかし、『古事記』と『書紀』が示す我が国の歴史は大筋では同じでり、『書紀』の記事の根底には史実があると確信する。だからこそ『古事記』の崩御干支から導く編年には、『書紀』の記事の全てを包含できなければならないと思う。その意味において、垂仁紀と景行紀の記事の書かれた年が、『古事記』の崩御干支から導く編年に収まらないのは、編年が違っていると思わざるを得ない。崇神天皇の崩御干支の戊寅は318年ではないと考える。


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72-3. 『古事記』の天皇年齢は2倍暦ではない [72.『古事記』と『日本書紀』の編年を合体]

10代崇神天皇から21代雄略天皇の12名の天皇についてみると、『古事記』は崩御干支については9名の天皇の記載があるだけだが、崩御の年齢については全員の記載がある。『古事記』の編年解読に、年齢を活用すればよいと思われるが、12名の内うち5名が100歳以上であり、編年の情報としては信頼することが出来ない。

 

魏志倭人伝に倭人の年齢は「百歳あるいは八、九十歳」とあり、文末注に「魏略曰く、その俗、正歳四節を知らず。ただ春耕秋収を計って年紀と為す。」の記述があることから、記紀の天皇の年齢は1年で2歳年をとると二倍年暦で計算した結果であるとの説がある。『古事記』の天皇の年齢は2倍年暦で換算されているか、天皇誕生時の父(前天皇)の年齢と即位の年齢を指標に検証した。何故、この二つの指標にしたかというと、前天皇との系譜が親子関係であるときは、「即位年齢=皇子年齢+1=前天皇年齢―誕生時父年齢+1」が成り立ち、即位年齢と誕生時父年齢は相反の関係があり、答えが絞られてくるからである。また、特別の事情が無い限り誕生時父年齢と即位年齢は18歳~60歳の範囲にあると判定基準が想定できるためである。

 

Z439.2倍年暦.png

表Z439にその結果を示す。表の中で黄色は『古事記』崩御干支の通説と変更したところで、応神天皇から安康天皇までは前章で示したように倭の五王の年代とピッタリ一致しているプラス5年を採用した。垂仁天皇と景行天皇の崩御西暦は、私の推定値である。誕生時父年齢で見ると、応神天皇・履中天皇・安康天皇・雄略天皇が15歳以下であり、特に応神天皇の値はマイナスのあり得ない値である。また、即位年齢では仁徳天皇が10歳で異常値が出ている。これらより、『古事記』記載の天皇の年齢は二倍年暦で換算されたものでないことが分る。


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72-2.『古事記』の編年と倭の五王 [72.『古事記』と『日本書紀』の編年を合体]

歴史・考古学者は『古事記』の崩御干支を基に古代天皇の年代を定めている。その崩御干支の暦年への変換の通説は、天皇と天皇の間は干支一」廻り以内との原則で決められたいる。『古事記』の示す各天皇の崩御の年代(通説)の精度がどれ位のものであるか知るために、『宋書』倭国伝と帝紀に記載された倭の五王の年代と比較した。倭の五王については、江戸時代から現在に至るまで、多くの学者・研究者により検討されているが、未だ『宋書』記載の讃・珍・済・興・武の倭の五王が、どの天皇に当たるか定説がない状態にある。

 

倭の五王の比定は江戸時代の儒学者松下見林によって扉が開かれた。松下見林は倭の五王の名と天皇の諱(いみな)とを字の意味と字の形について比較し、讚は履中天皇、珍は反正天皇、済は允恭天皇、興は安康天皇、武は雄略天皇に比定した。著名な儒学者の新井白石は字の音の類似を比較し、松下見林と同じ結論に達している。そして、国学者の本居宣長は『日本書紀』の紀年から、五王の遣使は天皇の事績ではないとして、讚・珍・済は允恭天皇の代、興と武は雄略天皇の代のことであるとした。

 

明治時代には、那珂通世が『書紀』の神功・応神紀に記された百済王は,干支二廻り(120年)り下げると年代が一致することを見つけた。そして自らの年代論をもとにして、讚は履中天皇、珍は反正天皇、済は允恭天皇、興は安康天皇、武は雄略天皇と江戸時代の儒学者と同じ比定を行っている。政府の修史局(歴史編纂事業)にいた星野恒は、「崇神帝以後の年代は古事記に従えば大差なきに近し」と紀年表を発表した。これを見た那珂通世は讚を履中天皇から仁徳天皇へと修正すると発表している。また、修史局にいた菅政友は、『宋書』の「済死す。世子興遣使」の世子とは日嗣(ひつぎ)の皇子を意味するとして、興は履中天皇の第一皇子の市辺押磐皇子であるとの説を発表した。興については、修史局にいた久米邦武が、允恭天皇の長男で同母妹の軽大娘皇女と通じたとして次男の穴穂皇子(後の安康天皇)によって廃された木梨軽皇子であるという新説を出している。明治時代には、讚は仁徳天皇、珍は反正天皇、済は允恭天皇、武は雄略天皇であることは固まっている。

 

昭和時代の戦後、東洋史学者の前田直典は『宋書』倭国伝の武の上表文にある祖禰にも注目し、讚は応神天皇という説を発表している。この説は一時定説になった感があったが、数年後には橋本増吉、近藤啓吾、丸山二郎、井上光貞などの著名な歴史学者の反論に会っている。倭の五王の比定は今にいたっても定説がないという状態である。

 

Z437に応神天皇崩御から雄略天皇崩御までの、『古事記』記載の情報を示した。なお、安康天皇については、崩御干支の記載がないが、安康天皇が皇后長田大郎女の前夫の7歳の子供の目弱王(眉輪王)に殺されたの話が『書紀』と同じであることから、『書紀』の在位3年を採用している。また、在位については崩御間の値(空位含む)を算出している。

 

Z438.倭の五王の比定.png

『古事記』の天皇崩御干支の通説は、応神天皇の甲午は394年、雄略天皇の己巳は489年で、『宋書』倭国伝・帝紀では、讃が初め貢献したのが421年、武が最後に貢献したのが478年である。これからすると、倭王の5人は、仁徳・履中・反正・允恭・安康・雄略の6人の天皇で、誰か一人の天皇が貢献していないことになる。倭の五王、讃・珍・済・興・武の年代と『古事記』の編年が一致するか比較したのがZ438の表である。

 

「古事記干支」の欄を見れば、倭の五王、讃・珍・済・興・武の比定が江戸時代から現在に至るまで、諸説が乱立し定説が定まらなかったことが理解できると思う。「プラス5年」の欄は、応神天皇から安康天皇までの崩御年にプラス5年した(5年繰り下げた)年代との比較である。応神天皇から安康天皇の崩御年にプラス5年すると、『宋書』倭国伝と帝紀に記載された倭の五王の讃・珍・済・興・武の年代とピッタリ一致し、讚は仁徳天皇、珍は反正天皇、済は允恭天皇、興は安康天皇、武は雄略天皇であることが一目瞭然である。「プラス5年」は「プラス4年」でも、「プラス6年」でもダメで、「プラス5年」でなければならない。これは江戸時代から現在にいたるまでの学者・研究者が知らなかった大発見かも知れない。こんなことが起こるのは、『古事記』の天皇崩御干支は伝承されたものではなく、『書紀』と同じように編年されたものであるからだろう。


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72-1.『古事記』と『日本書紀』の編年比較 [72.『古事記』と『日本書紀』の編年を合体]

『古事記』は和銅5年(712年)1月に太安万侶により元明天皇に献上されている。推古天皇までが書かれているが、編年の分かるのは天皇崩御の干支だけである。『古事記』の8年後に成立した『日本書紀』は、持統天皇までが書かれており、各天皇の元年に記載されている太歳干支と年号により、編年が分かるようになっている。表Z435の『書紀』の崩御干支は、元年の太歳干支と年号から求めたものである。『古事記』の崩御干支の暦年の通説は、干支と干支の間は干支一廻り60年以内として定めている。崇神天皇の崩御干支の戊寅は、通説では318年とされているが、干支二廻り前の258年ではないかとする学者もいる。『書紀』と『古事記』の崩御干支の年代差が1年以下の所に黄色、20年以上の所に赤のマークを付けてまた、天皇の年齢が100歳以上の所には水色のマークを付けている。

 

Z435.天皇崩御年比較.png

歴史・考古学者は『古事記』の崩御干支を基に古代天皇の年代を定めており、その年代は天皇陵古墳の年代比定にも大きく影響を及ぼしている。Z310は古墳研究の第一人者であられる近つ飛鳥博物館館長の白石太一郎氏が作成した近畿地方の大型古墳の年代である。この表から、『古事記』に崩御干支が記載されている天皇陵の年代を求めた。年代は前方後円墳のくびれの位置とした。Z436は、横軸を『古事記』の天皇崩御干支の年代、縦軸を天皇陵古墳の年代としている。なお、崇神天皇陵(行燈山古墳)、応神天皇陵(誉田御廟山古墳)、仁徳天皇陵(大仙陵古墳)、允恭天皇陵(市の山古墳)は宮内庁比定の通りであるが、仲哀天皇陵は津堂城山古墳、継体天皇陵は今城塚古墳と考古学者の比定に従っている。

Z436.崩御年と陵墓年代.png

 

天皇陵古墳の年代は『古事記』の崩御干支の通説の年代にほぼ近いことが分かる。古墳の年代は円筒埴輪と須恵器の型式の年代によって決定されることが多い。考古学は遺構や遺物の相対年代(型式の年代順位)には非常に強いが、絶対年代(暦年代)には弱い。年輪年代測定法や放射性炭素C14年代測定法などの理化学的な手法で絶対年代を決めるようにになったのは近年のことである。この円筒埴輪と須恵器の型式の年代を決めるにあたって、『古事記』の崩御干支の分かった天皇陵が参考にされたのではないかと感じられる。もし、崇神天皇の崩御干支の「戊寅」の年代が通説の318年でなく、干支一廻り遡った268年であれば、歴史学も考古学も日本の古代史の考えを変えなくてはならなくなる。


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71-6.仏教伝来の年は『日本書紀』に軍配 [71.聖徳太子を解けば仏教伝来の年が分かる]

聖徳太子は用明天皇と穴穂部間人皇后の長男として生まれた。聖徳太子は後世の尊称で『古事記』『日本書紀』ともに上宮厩戸豊聡耳皇子(厩戸皇子)としている。宮殿の南の上宮(桜井市上之宮)に住まわれたこと、間人皇后が厩の戸にあたられた拍子に難なく出産されたこと、一度に十人の訴えを聞かれても誤らなかったことから来ている。

 

『法王帝説』は聖徳太子の誕生については、初めの方で「池邊天皇の皇后、穴太部間人王、厩戸に出でし時に、忽ちに上宮王産れます。」とあるが、ここには生年の干支は記していない。『法王帝説』は最後の行に「上宮聖徳法王、又は法主王と云す。甲午の年に産まれし、壬午の年の二月廿二に薨逝しぬ。」と聖徳太子の生年と薨年を記している。生年も薨逝も「午」の年である。生年干支が何故最後に書かれてあるのか作為を感じる。

 

『書紀』には厩戸皇子の生年については記載がないが、蘇我馬子が用明2年(587年)に物部守屋を滅ぼした戦に、束髪於額(ひさごはな:十五、六歳の小年の髪型)の厩戸皇子が加勢したと記載している。これからすると、厩戸皇子の誕生は572年前後となるが、574年が甲午の年となり、『法王帝説』の生年干支に齟齬は起こらない。

 

Z434.法隆寺薬師如来像.png『法王帝説』には法隆寺の金堂に座す薬師像の光背銘、「池邊大宮治天下天皇(用明天皇)が病気になり、丙午年(586年)に大王天皇(推古天皇)と太子を召し、病気平癒のために薬師像を請願したが、そのまま亡くなってしまった。そこで、大王天皇と東宮聖王(聖徳太子)が丁卯年(607年)になってこれを完成した。」を掲載している。ここにも丙午の年と「午」が登場している。

 

『法王帝説』には「戊午の年の四月十五日、小治田天皇(推古天皇)、上宮王(聖徳太子)に請いて勝鬘経を講ぜしむ。その儀は僧の如し。」とあり、聖徳太子が勝鬘経を講話した年を戊午(598年)の「午」の年としている。『法王帝説』には「志癸嶋天皇(欽明天皇)の御世、戊午の年10月12日、百済国の主明王(聖明王)、始めて渡りきて仏像・経典、併せて僧等を奉る。」とあり、仏教伝来を戊午(538年)と「午」の年としている。

聖徳太子薨逝 勝鬘経講話 薬師像請願 聖徳太子誕生 仏教伝来

   壬午     戊午    丙午    甲午    戊午

  622年   598年  586年  574年  538年

 

聖徳太子薨逝・勝鬘経講話・薬師像請願・聖徳太子誕生・仏教伝来の全てが「午」の年である。干支では「午」の年は12年ごとに訪れるが、あまりにも出来すぎた「午」の年である。これらの「午」は、聖徳太子が厩戸皇子と呼ばれていたこと、薨逝した年が壬午であったこと、父の用明天皇が病気平癒を願って薬師像請願したのが 丙午の年であったことから、『法王帝説』は聖徳太子の誕生を甲午と推定し、勝鬘経講話の戊午の年と、仏教伝来の戊午を創作したのだと考える。仏教伝来は、欽明13年(壬申:552年)10月に、百済の聖明王が仏像と経論を献じたと記載している『書紀』に軍配を挙げる。


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71-5.聖徳太子薨日は『法王帝説』に軍配 [71.聖徳太子を解けば仏教伝来の年が分かる]

Z433.法隆寺釈迦三尊像.png『書紀』は、聖徳太子の薨日を推古29年(辛巳:621年)2月5日としている。しかし、平安初期に成立した『法王帝説』と『補闕記』は推古30年(壬午:622年)2月22日となっており、『書紀』と1年違っている。『法王帝説』は法隆寺の釈迦三尊像光背銘、中宮寺の天寿国繍帳銘にある聖徳太子の薨日と同じである。また、『法隆寺東院縁起』には、天平8年(736年)2月22日の聖徳太子の忌日に、太子のために法隆寺で法華経講会がはじめて開催していることより、聖徳太子の薨日は推古30年(622年)2月22日が定説化している。

 

『書紀』推古29年2月5日の聖徳太子の薨去の記事の後に、「この時、既に高麗に帰国していた恵慈が、上宮皇太子が薨じたことを聞き、僧を集め斎会を設け、経を説き請願した。『・・・(聖徳太子賛美の美辞麗句)・・・我は来年の2月5日に必ず死に、浄土に於いて上宮太子とお会いして、共に多くの人に仏の教えを広めよう。』と言った。そして、恵慈はその期日通りに亡くなったので、人々は『上宮太子だけでなく、恵慈もまた聖である。』と言った。」と記載されている。なお、この話は『法王帝説』『補闕記』にもあり、両者共に美辞麗句の部分を除き「来年の2月22日に必ず死に、浄土に於いて上宮太子とお会いする」となっている。恵慈が聖徳太子と前後して亡くなったのは史実であろう。

 

『書紀』推古33年1月に、高麗王が僧恵灌をたてまつったので僧上に任じたとある。僧恵灌が来日した時、上宮豊聡耳皇子が薨去されたと知り、「僧恵慈も上宮太子が薨去された1年前の2月5日にお亡くなりになっております。お二人はきっと浄土に於いてお会いしているでしょう。」と言ったことが、「恵慈が聖徳太子を追慕して、来年の太子の命日に必ず死に、浄土に於いて上宮太子とお会いする」との説話が生まれたと考える。推古29年(辛巳:621年)2月5日に亡くなったのは恵慈と推察する。

 

『書紀』編纂者により、聖徳太子の薨日と僧恵慈の命日のすり替えが行われ、聖徳太子の薨日を推古29年2月5日とし、恵慈が聖徳太子を追慕して「来年の2月5日に必ず死に、浄土に於いて上宮太子とお会いする」という文言が作りだされ、史実を物語化して偉大なる聖人としての聖徳太子を演出したと思える。聖徳太子の薨日は、『法王帝説』『補闕記』、法隆寺の釈迦三尊像光背銘、中宮寺の天寿国繍帳銘にある推古30年(壬午:622年)2月22日が史実だと考える。


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71-4.聖徳太子勝鬘経講話の年は『補闕記』に軍配 [71.聖徳太子を解けば仏教伝来の年が分かる]

『日本書紀』の推古14年(丙寅:606年)に「天皇は皇太子を招き、勝鬘経を講ぜしめられた。三日間かかって説き終えられた。この年皇太子はまた法華経を岡本宮で講じられた。天皇はたいそう喜んで、播磨の国の水田百町を皇太子におくられた。太子はこれを斑鳩寺(法隆寺)に納められた。」とある。

 

『法王帝説』『補闕記』には、「〇〇年の四月十五日、小治田天皇(推古天皇)、上宮王(聖徳太子)に請いて勝鬘経を講ぜしむ。その儀は僧の如し。」とある。〇〇年は干支で、『法王帝説』は「戊午」で推古6年(598年)にあたり、『補闕記』は「丁丑」で推古25年(617年)にあたる。『書紀』と『法王帝説』『補闕記』、それぞれ勝鬘経を講じた年月は異なるが、三日間かかったこと、天皇より播磨の国の水田を賜り法隆寺の地としたことは三者同じである。。勝鬘経はインド大乗仏教中期の経典で,王女の勝鬘夫人が悟りを説いた経であり、女帝の推古天皇は大いに興味を持たれたのであろう。

 

Z432.斑鳩寺.png兵庫県の西播磨地域に太子町がある。この地は「鵤荘(いかるがのしょう)」と呼ばれ、平安時代に法隆寺の荘園があり、斑鳩寺が建立されていた。聖徳太子が推古天皇に勝鬘経を講じた話は史実であった。聖徳太子が勝鬘経を講話した年月は、『法王帝説』が推古6年(598年)、『書紀』が推古14年(606年)、『補闕記』が推古25年(617年)である。どの書物が史実を伝えているのだろうか。

 

聖徳太子が勝鬘経を講話した年月で、『法王帝説』の推古6年(598年)が成り立つためには、高麗の僧恵慈あるいは百済の僧恵聡がが勝鬘経の経典を持ってきたことになる。『書紀』推古3年(595年)には、「高麗の僧恵慈が帰化した。皇太子はそれを師とされた。この年百済の恵聡が来た。この二人が仏教を広め、併せて三宝の棟梁となった。」とある。「三宝」とは仏(仏像)・法(経典)・僧(僧侶)のことである。

また、勝鬘経を講話の年が『書紀』の推古14年(606年)が成り立つためには、『隋書』倭国伝に記された開皇20年(600年)の第一回遣隋使で、勝鬘経の経典を持ち帰ったとしなければならない。そして、勝鬘経を講話の年が『補闕記』の推古25年(617年)が成り立つためには、勝鬘経を推古16年(戊辰:608年)4月に小野妹子が隋から持ち帰ったとしなければならない。

 

これらの解のカギを握るのが法華経であると考える。『書紀』と『法隆寺縁起資財帳』には、岡本宮で勝鬘経だけでなく法華経も講じられとある。『法王帝説』『補闕記』には法華経も講じられたという記載は無いが、史実は勝鬘経と法華経が聖徳太子により講じられたのであったと理解する。法華経の経典は推古16年(戊辰:608年)4月に小野妹子が隋から持ち帰ったとする『補闕記』の記述が史実であると考える。それならば、勝鬘経を講話の年は小野妹子の帰国の年以降で、『補闕記』の推古25年(617年)となってくる。


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71-3.御物『法華義疏』は小野妹子が持ち帰った経典 [71.聖徳太子を解けば仏教伝来の年が分かる]

明治11年に法隆寺から皇室に献上された御物の『法華義疏』四巻の巻子本は、『法隆寺東院資財帳』(761年)に記載されている、聖徳太子御製の『法華経疏』4巻・『維摩経疏』3巻・『勝曼経疏』1巻のうちの『法華経疏』4巻で、行信が「覓求奉納」したものと考える。

Z431.法華経.png
御物の『法華義疏』には、巻子本が作られた当時の表題と著者の署名が無く、第一巻の巻頭に別紙を張継いで「法華義疏第一」の表題が書かれてあり、その下に本文とは別筆で「此是大委国上宮王私集非海彼本」(これは日本の上宮王が創ったもので、海外から渡来したものではない)と書かれてある。また、本文の随所には本文と異なる人の手による書き直しがある。この『法華義疏』は、一般に聖徳太子自筆とされているが、7世紀前半の遺品であることについては研究者の間に異論がないが、聖徳太子の自筆であるか否かについては意見が分かれている。

 

中国敦煌出土の経本を研究した藤枝晃氏は、『法華義疏』の用紙が中国南朝隋系の黄褐色に染めた薄手麻紙であること、文字と文字の間の罫線がヘラで引かれてあり、敦煌・トルファンの隋代の巻子と同じように、隋代の巻子本の決まりを踏襲してあること、文字は職業写経生のそれであることが類推されることなどから、『法華義疏』は中国で書かれたものであって、聖徳太子の自筆ではないとしている。

 

『補闕記』には、「戊辰の年(推古16年:608年)9月15日、太子は大殿の戸を閉ざし、7日7夜誰も寄せ付けず、御膳も召さず籠られた。8日の朝、机の上に法華経があった。太子は『大隋國の僧は我が善知識なり。書を讀まずは君子と爲すに非ず』と口ずさんだ。太子が薨じた後、王子・山代大兄は日夜この經を禮拜した。癸卯の年(皇極2年:643年)10月23日の夜半に、この經が失せて分からなくなった。王子はいぶかみ憂いた。【今在る經は小野妹子の持たらせる所なり。事は太子傳に在り】。11月11日に蘇我入鹿等が軍を興し宮室を燒き滅ぼし、王子・王孫23王等が亡くなった。」とある。

 

『書紀』によれば、遣隋使として派遣された小野妹子が帰朝したのが推古16年4月である。『補闕記』はその年の9月に小野妹子が持ち帰った法華経の経典を聖徳太子が7日7夜かけて読みふけったとしている。また、『書紀』によれば、蘇我入鹿が斑鳩の山背大兄王等を急襲したのは、皇極2年11月1日である。山背大兄は4・5日間生駒山に逃れた後、斑鳩寺に帰り自決している。自決したのが11月11日と考えると、『補闕記』と『書紀』には全く齟齬は無い。これら2件については、『補闕記』は史実を記載しているように思える。

 

私は御物の四巻の『法華義疏』は、推古16年(戊辰:608年)4月に小野妹子が隋から持ち帰り、聖徳太子が9月15日から7日7夜誰も寄せ付けず、御膳も召さず読みふけった法華経の経典であると考える。そして、『法華義疏』にある手直しの文字は、聖徳太子の自筆であると思える。『補闕記』の「戊辰の9月15日、太子は大殿の戸を閉ざし、・・・・」の文章の前には「太子、慧慈法師に謂いて曰く、『法華經の中の此の句は字を脱せり。師の見る所は如何』と。法師答えて啓す、『他國の經もまた字の有ること無し』と。」とある。この文章こそ、聖徳太子が法華経の経典に手直ししたことを伝えている。

 

『法華義疏』には「これは日本の上宮王が創ったもので、海外から渡来したものではない」と書かれてある。わざわざ、こんなことを書いているのは胡散臭さを感じる。これは『法華義疏』を覓求奉納した法隆寺高僧の行信の仕業であると思える。行信は小野妹子が隋から持ち帰り、聖徳太子が手直し書き入れた法華経の経典を探し出し、第一巻の巻頭に別紙を張継いで「法華義疏第一」の表題と、「此是大委国上宮王私集非海彼本」を書き入れて、聖徳太子直筆の『法華義疏』であると見せかけて、上宮王院に奉納したと考える。


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71-2. 聖徳太子が著した『三経義疏』 [71.聖徳太子を解けば仏教伝来の年が分かる]

我国の仏教の基盤を築いたのは聖徳太子であると言っても過言ではない。聖徳太子によって著されたとされるのが『三経義疏』(さんぎょうぎしょ) で、『法華経疏』『維摩経疏』『勝曼経疏』の三経の注釈書(義疏)である。聖徳太子真筆の草稿とされる『法華義疏』のみが残存しており、明治11年に法隆寺から皇室に献上され御物となっている。『勝鬘経義疏』『維摩経義疏』に関しては後の時代の写本のみが伝えられている。

 

『日本書紀』には、聖徳太子が推古天皇14年(606年)に『勝鬘経』・『法華経』を講じたという記事があるが、『三経義疏』を著した話は記載されていない。平安時代初期に成立した『上宮聖德太子傳補闕記』には、「聖徳太子は己巳の年(推古17年:609年)に勝鬘經疏を書き始め、辛未の年(推古19年:611年)に完了した。維摩經疏は癸酉の年(推古21年:613年)に完了し、法華經疏は乙亥の年(推古23年:615年)に完了した。」とある。『三経義疏』の成立年代を記載している史料は『補闕記』のみである。

 

『傳補闕記』は、『法王帝説』と同じ頃成立しているが、聖徳太子の行実を調使(太子の従者)・膳臣(太子妃の実家)の家記にもとづいて記載している。『補闕記』には神秘的な内容や説話が多く盛り込まれており、『書紀』『法王帝説』に比べ史料としては重要視されていない。ただ、聖徳太子が経典を注釈・講話したことについては「補闕(ほけつ)」という題名の通り、『書紀』『法王帝説』には無い史料があり、私には史実が書かれてあるように思える。

 

Z430.座像行信.png『法隆寺縁起資財帳』(747年)には、聖徳太子御製の『法華経疏』3部各4巻・『維摩経疏』1部3巻・『勝曼経疏』1巻があることを記載している。そして、『法隆寺東院資財帳』(761年)には、聖徳太子御製の『法華経疏』4巻・『維摩経疏』3巻・『勝曼経疏』1巻が記載されてある。『法隆寺東院資財帳』は、正式には『上宮王院縁起并資財帳』であり、上宮王院は平安時代に法隆寺に取り込まれ法隆寺東院となっている。上宮王院は法隆寺の高僧行信の尽力により、天平9年(737年)から11年かけて聖徳太子の斑鳩宮跡に造営されている。行信は天平13年(747年)に大僧都になっている。

 

『法隆寺縁起資財帳』には『法華経疏』3部各4巻と記載されているが、「3部各4巻」の表現から、写本が3部あるように感じられる。また、『法隆寺東院資財帳』に記載の『法華経疏』の添え書きには「正本」とあり、また行信が「覓求奉納」したとある。「覓求奉納」とは探し求めて発見し奉納したことを意味している。これらから、上宮王院が落成した後に、聖徳太子の『三経経疏』のが法隆寺から上宮王院に施入されたと思われるが、『法隆寺東院資財帳』に記載されていた『法華経疏』は、『法隆寺縁起資財帳』とは異なるものであると考える。


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