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74-3.阿知使主が呉から帰国の年に仁徳天皇が崩御 [74.「記紀」で解く「空白の世紀」の150年]

明治時代の歴史学者那珂通世氏は、『書紀』の神功紀と応神紀にある百済記から引用された記事の年月が、『三国史記』に記載された年月と比較すると干支2廻り、120年繰り上げられていることを発見している。私は「縮900年表」を作成の中で、干支2廻り、120年繰り上げられているのは、百済記から引用された記事だけではないことを発見した。その一例が、呉に派遣された阿知使主の記事である。

 Z479.阿知使主.png

応神37年「阿知使主を呉に遣わして縫工女を求めさせた。阿知使主は高麗国に渡ったが道がわからず、高麗王の付けた案内人よって呉にいくことが出来た。呉王は縫女の兄媛・弟媛・呉織.穴織の四人を与えた。」、応神41年「阿知使主らが呉から筑紫についた。兄媛を宗像大神に奉り、あとの三人の女を連れて津国の武庫についた時、天皇が崩御された。そこで三人を大鷦鷯尊に奉った。」。呉とは中国南北朝時代の南朝の宋である。宋の建国は420年で都は建康(南京)である。これからすると、阿知使主は420年以後に宋に遣わされたことになる。

 

阿知使主が呉に派遣された応神37年は、『書紀』の編年に従えば306年だが、干支2廻り、120年繰り下げると426年である。『宋書』倭国伝には元嘉2年(425年)に讃が司馬曹達を遣わして貢献したとあり、1年の違いがあるが『書紀』と『宋書』倭国伝は一致している。また、阿知使主が帰国した応神41年は430年にあたる。『宋書』武帝紀には「元嘉七年(430年)春正月、倭国王使いを遣わしいて方物を献ず。」とある。阿知使主が帰国する年の正月に、皇帝の朝賀の儀に参列したことを示している。

 

Z480.仁徳陵古墳.png私は『古事記』記載の仁徳・履中・反正・允恭天皇の崩御年の通説にプラス5年すると、『宋書』倭国伝・帝紀の記載と矛盾なく、讚は仁徳天皇、珍は反正天皇、済は允恭天皇、興は安康天皇、武は雄略天皇に比定できることを発見した。これらからすると、宋に阿知使主を派遣した天皇は仁徳天皇となる。『書紀』応神41年の記事では「阿知使主が帰国し津国(摂津国)の武庫に着いた時、天皇(応神天皇)が亡くなり、呉王より賜った3人の縫女を大鷦鷯尊(仁徳天皇)に奉った。」とあるが、亡くなったのは仁徳天皇であったのである。阿知使主が呉から帰国した430年に仁徳天皇が崩御した。「新縮900年表」では仁徳天皇の崩御を430年とした。両者はピッタリ一致している。


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