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74-5.百済の肖古王は応神天皇に良馬2匹を献上 [74.「記紀」で解く「空白の世紀」の150年]

「新縮900年表」で、応神天皇崩御が390年、仁徳天皇の元年は392年、仁徳天皇崩御は430年に比定した。それでは、応神元年は西暦何年かに迫ってみよう。『古事記』応神記には「百済の国主照古王、牡馬壱疋・牝馬壱疋を阿知吉師に付けて貢上りき。また横刀と大鏡とを貢上りき。また百済国に『若し賢しき人あらば貢上れ』とおほせたまひき。かれ、命を受けて貢上りひと、名は和邇吉師、すなはち論語十巻・千字文一巻、并せて十一巻をこの人に付けてすなはち貢進りき。また手人韓鍛名は卓素、また呉服の西素を貢上りき。」とある。

 

一方、『書紀』応神15年には「百済王は阿直岐(あちき)を遣わして良馬二匹を奉った。・・・天皇は上毛野君の先祖の荒田別・巫別を百済に遣わして王仁を召された。」とある。『古事記』と『書紀』の記事は、百済国主=百済王、牡馬壱疋・牝馬壱疋=良馬二匹、阿知吉=阿直岐、和邇=王仁であり、両者は全く同じ話である。『書紀』には百済国王の名がないが、『古事記』は百済王を照古王としている。百済の肖古王が牡馬と牝馬の二匹を応神天皇に献上したことが分かる。

 

「新縮900年表」では、百済の肖古王が良馬良馬2匹を献上した応神15年は368年にあたる。『三国史記』によると、368年に百済は新羅に良馬2匹を献上したとある。『書紀』には「367年(神功47年)、百済王は久氐を倭国に遣す。貢物を新羅が奪う。」とあり、「369年(神功49年)、倭国は新羅を破り七ヶ国平定。躭羅を百済に与える。」とある。百済の肖古王は新羅には懐柔策を取り、倭国には後ろ盾となって、新羅と戦うことを願ったのであろう。その作戦はみごと的中した。百済の肖古王が良馬2匹を献上した応神15年は368年で間違いはないであろう。

 

『書紀』応神紀では、応神元年から応神15年までは、記事が書かれていない空白の年は、応神4年・8年・10年・12年である。これらからすると、応神15年を368年ならば、応神元年は354年となり、「縮900年」と同じである。仁徳天皇の元年の見直しで、仁徳紀の在位期間を「縮900年表」より12年間短くした。「新縮900年表」では、この12年間を応神15年から応神崩御の間で、4年以上の空白の期間で削除していた、応神21年から応神31年の間と、応神31年から応神40年にそれぞれ6年間の空白を設けることで吸収した。

 

Z482.応神天皇陵と鞍金具.png

応神天皇陵(誉田御廟山古墳)の前方部の近くに陪塚の誉田丸山古墳(円墳:墳径50m)がある。この古墳から江戸時代に金銅透彫鞍金具が前輪・後輪の対で2具分出土し、誉田八幡宮に納められ国宝となっている。両具共に龍をアレンジした唐草模様の透かし彫りで、朝鮮半島や中国東北地域との関わりが推定されている。私は丸山古墳から出土した鞍は、『書紀』応神15年に百済の肖古王から応神天皇に奉った牡馬と牝馬の二匹に装着していた鞍で、いかり肩のような角ばった1号鞍が牡馬用、なで肩のように丸みをおびた2号鞍が牝馬用のものであったと想像している。


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