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74-14.古墳の年代決定に「データサイエンス」 [74.「記紀」で解く「空白の世紀」の150年]

「空白の世紀」を解き明かすには、考古学的には古墳の年代決定の精度を上げなければならない。考古学の編年は、遺構・遺物の型式と地層累重の法則(地層の下のもほど古い)より、その年代の前後関係が決められている。それは緻密で精緻ではあるが暦年代(絶対年代)には弱いという欠点を持つ。近年、その編年に年輪年代測定、炭素14年代測定を取り入れ、暦年代も精緻となってきている。因みに、2006年3月に宇治教育委員会と奈良文化財研究所は、宇治市街遺跡から出土した須恵器が最も古い型式の「大庭寺式」で、一緒に出土した板材の年輪年代測定、炭素14年代測定で389年と導かれたと発表し、須恵器の登場を5世紀前半としてきた定説を覆している。また、2009年5月には国立民俗歴史博物館が、最初の大型前方後円墳とされている箸墓古墳周辺から出土した土器に附着した炭化物をAMS法による炭素14年代測定し、土器の編年とマッチングさせ、箸墓古墳の築造年代を240年から260年であると確定し、古墳時代の始まりは4世紀の初めとされていた通説を覆した。年輪年代測定、炭素14年代測定は古墳の年代決定に有用な手段であるが、古墳出土の遺物においては、直接測定できる資料が少ないのが難点である。

 

古墳の年代は遺構・遺物の編年より決められる。遺構・遺物の編年は○○年以後~△△年以前と、登場する時期と消滅する時期が分からなければならない。遺構・遺物が始めて登場する時期は、2~3個の同じ資料があればよく、年輪年代測定、炭素14年代測定はその年代を精緻に示してくれる。しかし、その遺構・遺物が消滅する時期を求めるのは簡単ではない。「ある事実・現象が全くない」ということを証明することは、非常に困難で「悪魔の証明」と呼ばれている。消滅する時期を決めることは多くのデータから紐解くしか無いのである。

 

今年2月3日の日本経済新聞によると、今春の大学では「データサイエンス」系学部・学科の新設ラッシュであるそうだ。「データサイエンス」とは、数学や統計学、機械学習、プログラミングなどの理論を活用して、莫大なデータの分析や解析を行い、有益な洞察を導き出す学問のことことだそうだ。私はアマチュアであるがゆえに、古墳の年代を決める遺構・遺物(古墳形態・埋葬施設・副葬品)の編年を行おうとすれば、入手出来るのはデータしかない。私は10年前頃から「データサイエンス」的概念で、古墳の編年に取り組んでいる。

 

古墳編年の最初の取り組みは、2014年11月の「42.古墳時代の編年」に掲載したが、データベース化した1739基の古墳について39要素(遺構・遺物)の有無でコード化した。また、円筒埴輪型式・須恵器型式を基に要素の共伴関係を調べることにより、10年単位で遺構・遺物の編年表を作成して、それをコード化した。そして、古墳のコードと遺構・遺物の編年コードから、パソコンで瞬時に年代が決められるソフトを作り上げた。古墳の年代をパソコンソフトで決めて行く過程で、編年表の39要素の間に矛盾があれば、年代が決定出来ない(年代幅がマイナス)古墳が出て来る。そのたびに編年表を修正して、やり直すという作業を繰り返し、編年表の精度を高めていった。2018年2月の「63.古墳年代をエクセルで決める」では、パソコンのエクセルソフトを使い、古墳出土の遺構・遺物の編年表から古墳年代を決めるソフトを公開した。この時、対象とした古墳は3294基、遺構・遺物は143要素であった。そして、「74.記紀で解く空白の世紀の150年」を記載している資料は、古墳9092基(前方後円()墳:6243基)、遺構・遺物は152要素である。

 

9092基の古墳データーで、遺構・遺物の編年が矛盾し年代が決定出来ない(年代幅がマイナス)古墳はたったの25基(舶載異常1基、異物混入6基、新古混合1基、同名別種8基、伝世3基、型式判定?6基)であり、152種の遺構・遺物の編年に整合性が取れていることを示している。なお、横穴式石室には追葬の須恵器が置かれている場合が多く、その場合は一番古い型式の須恵器を年代判定に用いている。この遺構・遺物は、古墳時代最初の大型前方後円墳が箸墓古墳で、その年代が240~260年であることをベースにしており、「箸墓250編年2003」と名付けている。本節末尾にその編年表を示す。

 

古墳研究の第一人者であられる近つ飛鳥博物館館長の白石太一郎氏は「畿内における大型古墳の編年」を作成されている。その最新版(左図は平成30年2月の講演会で配布されたもの)に掲載された古墳のなかで、「箸墓250編年」で編年した年代幅30年以内に比定出来た前方後円墳について、「箸墓250編年」で編年した古墳年代を軸に、白石氏の古墳年代をY軸にプロットし、両者の年代を比較したのが右図である。白石氏の年代は前方後円墳のくびれ部の年代とし、私の編年の年代は年代幅の中央値としている。赤線は白石氏の古墳年代をPython(パイソン)というAI(人工知能)などを作るプログラムで計算した回帰直線(中心的な分布傾向を表す直線)であり、白石氏の古墳年代観である。黒線は私の古墳年代観と一致したことを示す45度の線である。

 

Z492.白石古墳年代.png

白石氏の回帰直線(赤線)の勾配と私の年代観を示す45度の勾配はよく似ている。これは、白石氏も私も、箸墓古墳の年代が240~260年であることを認めていることと、私の遺構・遺物の編年表のベースになる円筒埴輪型式・須恵器型式の編年は、近つ飛鳥博物館が作成した表を参考にして作成しているからであろう。ただ、古墳時代の始まり250年近辺で30年、古墳時代の終末の600年近辺で15年、私の方が古墳を古い時代に考えている。これは、円筒埴輪Ⅰ式の年代幅を近つ飛鳥博物館は83年間に対し私は20年間、円筒埴輪Ⅱ式の年代幅を近つ飛鳥博物館が33年間に対し私は60年間としていることから生じたものである。どちらが正確であるかは、何時の日か年輪年代測定、炭素14年代測定が答えを出してくれるであろう。

 

Z492.箸墓250編年2023.png

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74-15.景行天皇の時代に統一国家の基盤が出来上がる [74.「記紀」で解く「空白の世紀」の150年]

景行天皇は景行4年(307年)に美濃に行幸し、景行12年(308年)に熊襲が背いた筑紫とに向かった。襲の国を平らげると筑紫の国を巡行し 、景行19年(315年)に都に帰っている。そして、景行25年(317年)に武内宿禰を遣わして、北陸・東方の地形、人民の様子を視察させている。武内宿禰は2年後に帰り東国の蝦夷について報告し、土地は肥えており広大であると攻略することを勧めている。景行27年(319年)に熊襲が背き辺境を侵したので次男の日本武尊を筑紫に遣わし、熊襲を討たせている。翌年、日本武尊は熊襲を平らげたことを奏上した。


Z493.日本武尊東征経路.png景行40年(321年)、東国の蝦夷が背いて辺境が動揺したので、日本武尊は征夷の将軍に任じられた。纏向の日代宮を出発した日本武尊は寄り道をして伊勢神宮を参拝し、倭媛命から天叢雲剣を授かった。駿河では賊の火攻めにあったが、天叢雲剣で草を薙ぎ払い、迎え火をつくって難を逃れた。相模から上総へ海を渡るとき、暴風が起こり船は進まなかったが、皇子につき従ってきた弟橘姫が海に身を投じ、嵐はおさまり無事に着いた。上総から大きな鏡を船に掲げて、海路から葦浦に回り、玉浦を回って蝦夷の支配地である陸奥国に入っている。蝦夷の首領は竹水門で防ごうとしたが、王船を見てその威勢に恐れ服従した。日本武尊はその首領を手下にして蝦夷を平らげている。


奥国は福島県・宮城県・岩手県・青森県を指すが、日本武尊が何処まで北上したか葦浦・玉浦・竹水門の比定には諸説あり定かではない。『日本書紀』井上光貞編纂(1987年)では、図293に示す「日本武尊東征経路図」では宮城県石巻市に流れ込む旧北上川の支流の江合川までが経路として描かれている。日本武尊は陸奥で蝦夷を平定した後、常陸・甲斐・武蔵・上野・信濃・美濃・尾張を通り帰国の途についたが、景行43年(324年)に伊勢能煩野で病死している。


宮城県の大崎市には墳長100mの前方後円墳、青塚古墳がある。また、仙台市には墳長110mの前方後円墳、遠見塚古墳があり、南に隣接する名取市には墳長168mの前方後円墳、雷神山古墳がある。これらの古墳からは、底部穿孔(270~360年)の二重口縁壺(270~370年)が出土しており、古墳年代は270~360年である。前方後円墳は大和王権の象徴であり、4世紀の中葉には陸前までその覇権がおよんでいる。これは日本武尊の東征が物語化された面はあるが、史実であることをしめしている。

 

 

Z494.入の沢遺跡.png2014年に江合川の北側で岩手県との県境に近い宮城県栗原市の入の沢遺跡で、総長330mにおよぶ大溝と竪穴建物跡39棟が出土した。竪穴住居の大半が焼かれていたが、住居跡からは小型の高杯・鉢や大型の二重口縁壷などの土師器、珠文鏡・重圏文鏡・内行花文鏡片などの鏡、刀剣・鏃・斧・鋤などの鉄製品、ガラス製の小玉、碧玉製や滑石製の勾玉・菅玉、水晶製の棗玉、琴柱形石製品、水銀朱などの、近畿文化の影響を受けた古墳前期の遺物が出土している。入の沢遺跡の年代は出土土器が上総の布留2式併行期で4世紀後半と見られている。私の編年でも、珠文鏡(310~570年)と二重口縁壷(270~370年)から入の沢遺跡の年代を310年〜370年と割り出した。入の沢遺跡は蝦夷に対峙する最前線の砦であったと思われる。入の沢遺跡が焼き討ちにあっているのは、蝦夷の反撃にあったのであろう。

 

 



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