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74-10.大和王権は古墳時代前期に全国に勢力を拡大 [74.「記紀」で解く「空白の世紀」の150年]

 

大和王権の権威の象徴は、考古学からみると前方後円墳(前方後方墳含む)である。私は、古墳時代中期の始まりを380年としている。380年を境に、円筒埴輪は埴輪の焼成が野焼きから窖窯に変り、須恵器・馬具・鋲留短冑などの新しい技術が導入されている。古墳時代前期(250~280年)は、「空白の世紀」(270年~420年)の3分の2を網羅している。

 

Z487.前期前方後円墳.png古墳時代前期のみに出土する遺物(数点の例外を除き)は、三角縁神獣鏡、石製装飾品(石釧・鍬形石・車輪石・合子・琴柱)、筒形・巴形銅器、割竹形石棺、特殊器台・器形埴輪・底部穿孔壺・二重口縁壺、方形板・竪矧板革綴短甲、銅鏃である。これらの指標を基に、全国の前期前方後円墳の分布を規模別にZ387に示した。大和王権のシンボル的な遺物と言えば、前方後円墳と三角縁神獣鏡・三種の神器ががあげられる。三角縁神獣鏡は日本全国から約500面(舶載375面、仿製128面)も出土しているが、古墳から出土したことが確認されているもののほとんどが前期古墳からであり、前期古墳の指標の一つとなっている。三角縁神獣鏡が出土した古墳・遺跡の分布を図Z388左に示している。分布の中心が奈良県にあること、また、奈良県天理市の黒塚古墳からは33面、京都府山科町の椿井大塚山古墳からは32面の三角縁神獣鏡が出土し、その同型鏡が関東から九州まで全国各地から出土していることを
考えると、大和王権が三角縁神獣鏡を配布したことは間違いないと思われる。

Z488.三角縁鏡と三種神器.png

 

景行12年(308年)の記事には、景行天皇が熊襲を征伐するため筑紫に向かったとき、周防の娑麼(山口県佐波)で、その国の首長が船の舳に立てた賢木に八握剣・八咫鏡・八坂瓊勾玉を飾り天皇に参じている。同様のことが、仲哀8年(345年)、仲哀天皇が筑紫を巡幸されたとき、岡県主の先祖の熊鰐と伊都県主の先祖の五十迹手は、船の舳に立てた賢木に白銅鏡・十握剣・八坂瓊勾玉を飾り、天皇をお迎えしている。三種の神器は大和王権への忠誠を示す印であったのであろう。図Z388右は三種の神器(鏡・剣・勾玉)が出土した前期古墳の分布図である。三角縁神獣鏡と三種の神器の分布は全く同じで、大和王権に忠誠を誓う象徴として地方の豪族に配布されたのであろう。前方後円墳(規模・数)、三角縁神獣鏡、三種の神器の3要素から見ると、大和王権の勢力の中心は、奈良盆地と大阪府及びその周辺であったことが分る。そして、西日本では岡山県、東日本では群馬県がこれに続く。

 


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