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43-6.沖ノ島岩上祭祀と神功皇后 [43.古墳年代の確定と古墳時代の解明]

340~350年頃、大和王権が沖ノ島で航海の安全を祈願する祭祀を執り行ったのは何の出来事であろうか。「謎の四世紀」と称されるように、倭国に関する4世紀の文献資料は少ない。奈良県石上神社の御神宝である七支の金象嵌には、369年に「百済王が倭国王のために百錬の七支刀作った」という旨のことが刻まれている。高句麗の好太王の業績を書いた「好太王碑」には、391年に「倭が海を渡ってきて百済・□□・新羅を臣民とした」とある。倭国が朝鮮半島に進出した資料は370年以降でしかない。

 

私が日本書紀を基にして作成した年表(「2.日本書紀原典の再現」参照)では、仲哀天皇が崩御された353年に、神託を受けた神功皇后が新羅に侵攻している。また、358年には葛城襲津彦が新羅に侵攻し捕虜を連れて帰っている。沖ノ島の巨岩の上で始まった祭祀(340~350年)は、神功皇后の新羅征伐に関わる遺跡であった考える。日本書紀では仲哀天皇が崩御された前年(352年)に、岡県主の先祖の熊鰐と伊都県主の先祖の五十迹手のそれぞれが、船の舳(とも)に大きな賢木(さかき)を立て、枝に白銅鏡と十握剣・八尺瓊(珠)をかけて天皇を迎えに来ている。沖ノ島の岩上祭祀遺跡である16号・17号・18号からは、鏡・鉄剣・勾玉が出土している。4世紀半ばの航海の安全の祈願には、鏡・鉄剣・勾玉の三種の神器を用いていたのであろう。

 

日本書紀に記載された天皇の中で、歴史・考古学者がその存在を全く信用していない天皇は、神武天皇と神功皇后であるといっても過言ではない。その神功皇后の時代に、沖ノ島の岩上遺跡の祭祀が行われたとするのは、荒唐無稽な話と思われるかも知れないが、私は神功皇后の新羅征伐を史実であったと思っている。日本書紀は神功皇后が攻め込んだ新羅の王の名を「波沙寐錦」と書いている。「新羅寐錦」が新羅王を表すということを歴史学者(日本・韓国・中国)が知ったのは、1978年に韓国の忠清北道忠州市で発見された中原高句麗碑からである。あの有名な好太王碑にも「新羅寐錦」の刻字があったが「新羅安錦」と読まれていた。日本書紀は歴史学者より「寐錦」の言葉を正確に伝えており、神功皇后の新羅征伐が史実であった証拠ではないかと考えている。

 

日本書紀は、葛城襲津彦が新羅より連れて帰った捕虜は、桑原・佐糜(佐味)・高宮・忍海の四つの村の漢人の先祖であるとしている。佐味・忍海の地名は現在でも葛城の地にある。葛城の地にある南郷遺跡群は約2平方キロメートルの集落遺跡で、その随所から大壁建物・韓式系土器・初期須恵器などが発見されており、渡来人が居住していたことも明らかになった。葛城襲津彦が新羅より捕虜を連れて帰ったということが、史実であったことを伺わせる。

 


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白壁

沖ノ島では五弦琴が出ていて、当時の中国には既に存在していなかったのか、倭国には五弦琴があるとして特記されていますから。正倉院には六弦琴しかないです。古墳時代に五弦琴は各地で出ているようですが、これはどう見ますでしょうか。
by 白壁 (2015-10-24 17:55) 

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