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67.古墳時代は前方後円墳の時代 ブログトップ

67-1.全国の前方後円(方)墳は6305基 [67.古墳時代は前方後円墳の時代]

古墳時代は前方後円墳が造られた時代と定義されており、その総数は約5200基ともいわれている。ウエブサイトの「遺跡ウォーカー」には、約10万基の古墳の情報が収められているが、その中から全ての前方後円()墳の遺構・遺物の情報を抽出することを試みた。抽出できた前方後円墳は5802基、前方後方墳503基、総計6305基であり、一般的にいわれていた5200基を上まわる数であった。都道府県別にみると、最も多かったのは千葉県の793基、そして茨城県・群馬県・栃木県と続き、岡山県346基、奈良県344基となる。(今後“前方後円墳”の言葉には“前方後方墳”を含む)

 

Z296.前方後円墳の分布.png前方後円墳が存在していない地域は、北海道・沖縄県と青森県・秋田県で、岩手県は1基、高知県は2基である。青森県・秋田県・岩手県の北東北は大和王権と敵対した蝦夷の支配地である。最北端の前方後円墳は岩手県奥州市胆沢区にある墳長46mの角塚古墳で、円筒埴輪(Ⅴ式?)、器財埴輪、動物埴輪、人物埴輪が出土している。この地は平安時代の802年に、征夷大将軍の坂上田村麻呂が蝦夷征伐で胆沢城を築いている。一方、関西では高知県の前方後円墳が二基と少なく、徳島県南部の太平洋側には皆無で、熊野灘沿岸地方の熊野の地には那須勝浦町に1基あるのみである。大和王権にとって太平洋沿岸地方は隔絶した地であったのであろう。因みに、最南端の前方後円墳は鹿児島県の大隅半島の肝付町の塚崎古墳群にある花牟礼古墳(墳長67m)である。塚崎古墳群には5基の前方後円墳がある。なお、薩摩半島には前方後円墳は存在していない。


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67-2.全ての前方後円墳の年代を求める [67.古墳時代は前方後円墳の時代]

「64.古墳の年代をエクセルで決める」で記したように、143種の遺構・遺物の編年を定め、古墳の遺構・遺物と照らし合わせて、古墳の年代を決めてきた。6305基の全ての前方後円墳について、一基ずつその年代を決めるのは気の遠くなるような作業となる。そこで一挙に全ての古墳の年代と年代を決めた要素をエクセルで見つけるプログラムを開発した。プログラムのポイントは、古墳の年代(○○年〜ⅩⅩ年)を導き出すに、開始年(○○年)と終了年(ⅩⅩ年)の二つの古墳コードを作ることにあった。開始年の古墳コードの作成は、編年表の遺構・遺物の開始年を遅い順に並べ、古墳の遺構・遺物の情報よりSearch命令でその有無(1,0)をコードにする(「64-4.古墳の遺構・遺物の有無をコード化」参照)。最初の有(1)の順番をSearch命令で探し、Lookup命令でその年代・要素を導きだす。終了年の古墳コードの作成は、編年表の遺構・遺物の終了年を早い順に並べ、後は同じである。6305基の古墳名称、所在地、遺構・遺物情報の一覧から、1分以内で全ての前方後円墳の年代と年代を決めた要素を示すことが出来た。

Z297.遺構遺物矛盾古墳.png

前方後円墳の全ての年代を導きだしたが、その年代が終了年より開始年が遅いという矛盾が生じたのはZ297に示す29基のみで、その矛盾が生じた原因も、副葬品として普及する以前に海外から持ち込まれたと考えられる「舶載異常」、本来その古墳の副葬品でない後世のものが副葬品として混入した「遺物混入」、古い古墳の上に新しい古墳が築かれた「新旧混合」である。横穴式石室からは複数の型式の須恵器が出土するが、最も古い型式とそれに続く1型式のみ築造時のものとし、2型式以上離れているものは追葬時のものと仮定した。古い型式とそれに続く1型式で年代決定に矛盾が生じたのは「追葬混入」とした。名称が同じで別種と考えられる「同名別種」、前世の遺物が何らかの要因で後世の古墳に副葬品として供えられた「伝世」、型式や品目の判定に疑問がある「判定」などがあり、それを取り除くと正常な年代が決定できた。これらより、私が編年した143種の遺構・遺物の年代に矛盾が無いことが証明できた。




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67-3.箸墓の年代を基準に編年表を作成 [67.古墳時代は前方後円墳の時代]

古墳時代最初の大型古墳である箸墓古墳の築造年代は、2009年に国立民俗歴史博物館が箸墓古墳周辺から出土した土器に附着した炭化物を炭素14年代測定し、240年から260年であると確定した。また、『書紀』は崇神10年に箸墓を造ったと記している。『書紀』の編年を900年短縮した「縮900年表」によれば、崇神10年は260年にあたる。古墳時代最後の大型古墳である見瀬丸山古墳は、571年に崩御された欽明天皇の陵墓と考える。見瀬丸山古墳の築造年代は、石室内より出土したTK43型式(550〜579年)より570年に比定する。箸墓古墳の年代を260年、見瀬丸山古墳の年代を570年として、これら二つを原点に古墳年代を決めれば、考古学と歴史学が一致してくると考える。

 

箸墓古墳は陵墓参考地として宮内庁の管轄下にあり、考古学的な調査はできないが、宮内庁書陵部が収集した埴輪は都月型特殊器台形埴輪、宮山型特珠器台、特殊壺形埴輪、壺形埴輪であると報告されている。私の遺構・遺物の編年表から箸墓古墳の年代を決めると、年代の決め手は都月型埴輪(260〜289年)となり、箸墓古墳の築造年代は275年±15年となる。箸墓古墳の年代を260年とすると、編年表の年代の代表値は15年も異なってくる。そこで、箸墓古墳の年代を260年するべく、都月型埴輪の年代を250年〜269年とし、それに合わせて前期に関わる遺構・遺物の一部の編年を見直し、より精度を上げるため編年項目も増加した。

 

Z247.前方後円墳の形態1.png考古学者の方は、古墳の年代を決めるに当たっては、古墳の遺構・遺物はもちろんのこと、古墳のプロポーションを参考にしていることが多い。出現期の前方後円墳は前方が撥(ばち)形に開いており、箸墓古墳のプロポーションがまさにこれに当たる。図Z247、前方後円墳のくびれ幅と前方幅の関係を示したグラフである。直線Bはバチ形というタイプで、前方幅がくびれ幅の2倍であることを示している。次に登場する古墳は直線Aの柄鏡形というタイプで、くびれ幅と前方幅が同じである。桜井茶臼山古墳・メスリ山古墳などがこれである。
の出現期古墳は直線Aと直線Bの間に点在してあり、また直線A・直線Bの近くに中期や後期の古墳があり、バチ形・柄鏡形だけで、出現期の古墳だと断定できない。


Z246 前方後円墳の形態2.png図Z246は墳丘長と後方幅の関係を示したものである。出現期の前方後円墳
は㊥の枠内だけで、㊧や㊤の部分には存在しないので、編年の指標に使用できると考えた。㊧の部分は前方部が短い前方後円墳で帆立貝形という名称で呼ばれており、編年表にも載せていた。しかし、墳長に対する前方部の割合を調べてみると、45%でも帆立貝形と称しているのがあるかと思えば、15%でも帆立貝形との名称が付いていないものがあり、古墳の詳細情報にある帆立貝形の呼称の信頼性がないことが分かった。そこで前方長が後円径の半分(墳長/後円径<1.5)以下のものを帆立貝形と定義し、年代を300〜599年として使用することとした。この値は帆立貝形前方後円墳の研究者の考えと一致している。前方幅が後円径より広い㊤の部分は墳形の名称をテルテル坊主形として編年表に加え、前方幅/後円径>1.1の場合に年代を370〜579年として適用することにした。

 

Z250.後前高差.png出現期の前方後円墳は後前高差が大(後円部が高く前方部が低い)と言われている。図Z250は図Z247の㊥の枠で囲まれた古墳の後前高差を調べたものである。墳丘が50m(目盛3.9)以上において、後前高差が-2m以下に前期の古墳が集中していることは確かだが、中期・後期の古墳があり、前期の古墳だと断定出来ないことが分かる。そこで図Z246の◎のピンクの枠内の範囲(2.0≧墳長/後円径≧1.5、1.0>後方幅/後円径)で、墳長が75m以上、後前高差が-2.5mより大きな差(-.5≧後前高差)がある場合、墳形名称を後前高差形として、年代を250〜399年として適用することにした。

 

埴輪は盗掘にあう事がないため破片等の依存率は高い。また、墳丘の発掘調査が出来ない天皇陵からも収集されることがある。そこで、靫(ゆぎ)形埴輪(330〜569年)・草摺(くさずり)形埴輪(300〜459年)・翳(さしば)形埴輪(370〜519年)と孔のある壺形埴輪・二重口縁などを底部穿孔(300〜359年)として追加した。鏡・剣()・勾玉がセットで出土した場合は三種の神器(270〜549年)の項目も指標に繰り入れた。古墳年代を確定する遺構・遺物は表298に示すように148項目になった。なお編年表には参考として、土師器の型式別の年代、布留0式(240〜269年)、布留1式(270〜319年)、布留2式(320〜359年)、布留3式(360〜399)を示している。この編年表をもとに、全国6305基の古墳年代を決めたが、矛盾を起し年代が決められなかったのは前章で記した29基より、5基増えただけであった。また、年代幅30年以内である古墳は54基増えて438基となった。それらを表299に示している。 0-


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Z298.148遺構・遺物編年.png

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Z299-1.年代幅30年古墳.png

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Z299-2.年代幅30年古墳.png

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Z299-3.年代幅30年古墳.png
Z299-4.年代幅30年古墳.png

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67-4.古墳の規模(墳長)は階層性を表わす [67.古墳時代は前方後円墳の時代]

Z300.古墳の階層性.png6305基の全ての前方後円墳(含む前方後方墳)の墳長について調査した。
古墳の規模(墳長)は階層性を表わすと言われており、その分布がヒエラルキー
(ピラミット型の段階的構造)になるよう墳長を区分し、規模別の古墳数を表
Z300に示した。墳長が125m未満から25m以上では、25m毎の区分
間隔で、規模が1ランク下がるごとに古墳数は2〜3倍になっており、古墳の
規模(墳長)は階層性を表わすことは明確である。

 
Z301.古墳の階層性2.png大阪大学名誉教授であられた都出比呂志氏は前方後円墳体制と称して、図Z301のような古墳の階層性を唱えている。都出氏の著書『古代国家はいつ成立したか』には、「古墳時代を通じて墳形には前方後円墳、前方後方墳、円墳、方墳の四つの基本形があります。それぞれの墳形の最大のものを比べると、図に示すように左のものほど優位に立っています。しかし、同じ墳形にも規模の差があります。したがって、被葬者の身分は墳形と規模との二重の基準で表現されたと思います。」とある。

 

私はこの考えに疑問を持っている。それは、前方後方墳は表Z300 に示すように前方後円墳の8%でヒエラルキーの構造になってなく階層性はないと思える。もちろん身分制度において、小集団が差別化されることはあるが、前方後方墳がある特定の集団であるようには見受けられない。それよりも、九州南部の鹿児島・宮崎・熊本・大分と中国西端の山口には前方後方墳が全く無く、前方後方墳の比率の高いのは日本海側の山形25%・新潟55%・富山42%・石川34%・島根29%と東北の太平洋側の宮城24%・福島23%で地域性が強いことが分かる。前方後方墳は前方後円墳の変形の一つと言える。また、方墳は円墳の10%割程度で階層性がなく、方墳は円墳の変形の一つと言える。前方後円()墳に対して円()墳の数は20倍程あり、円()墳が下位にある階層性が認められるのはもちろんのことである。


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67-5.前方後円墳の被葬者は誰か [67.古墳時代は前方後円墳の時代]

Z302.古墳の被葬者.png前方後円墳が造られた時代は250年から600年までの350年間で、その間の天皇は崇神天皇から欽明天皇まで20代である。Z302において規模別の古墳数Aを20代で割り、天皇一代当たりの古墳数を出したのがBである。古墳時代の地方組織は国と県で、地方に造られた前方後円墳は国造・県主の墓であると考えられる。『日本歴史地図 原始・古代編下』には「国造一覧」「県・県主一覧」が掲載されている。これを見ると国造は104国、県主は114県であった。Bの古墳数を100で割ったのがCである。

 

墳長が200m以上の墓は、天皇一代当たり全国で2基であり、被葬者は天皇と皇后の墓のレベルである。125m以上の被葬者は皇子や政権に近い国造の墓であろう。125m未満から25m以上のCの合計が2.02で、これらの規模の被葬者は国造・県主の墓であると予想できる。50m以上の墓は国造の墓で、50m未満は国造・県主の墓であろう。前方後円墳が盛んに造られたのは、北海道・青森・秋田・岩手・高知・沖縄を除く41都府県である。これからすると、国造・県主の墓は都府県に2〜3基存在したことがわかる。古墳の規模(墳長)は明らかに階層性を表わしている。

 

Z303.古墳規模の変遷.png6305基の前方後円墳の年代を調べ、前期(250〜400年)、中期(400〜470年)、後期(470〜600年)に層別した。ただし、古墳の年代幅の2/3以上がその期に属していることを条件としている。前期・中期・後期で古墳の規模の変化を表Z303に指す。中期は前期に比べ中型(124〜75m)の古墳の割合が減少し、大型古墳(125m以上)・小型古墳(74〜25m)の割合が増加している。大型古墳の増加は古墳文化が前期より発展したことを示し、小型古墳の増加は後期の萌芽の時期でもあることを示している。後期は大型の古墳が減少し、小型の古墳が増加していることがわかる。後期は大型の古墳が減少したのは、横穴式石室の登場し追葬が行われるようになったためであろう。小型の古墳が増加したのは、大国が分割されて小国が生まれたこと、国造の下部組織が整い郡や邑の制度が整ったことなど、大和王権の全国支配の社会構造の変化があったことが伺える。

 


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67-6.豊城命の東国治政は史実 [67.古墳時代は前方後円墳の時代]

前期と後期の前方後円墳の規模(墳長)別分布を図Z304に示す。前期と後期の分布を比較すると、前方後円墳の分布の範囲はほぼ同じであり、前期の段階から大和王権の覇権は古墳前期に全国(北東北を除く)に及んでいたことが分かる。大和王権が全国を支配するまでは、倭国は連合国であり、連合の盟主国は奴国・邪馬台国・大和国と変遷した。奴国は福岡平野にあり、邪馬台国は日向にあり、大和国は奈良盆地にあった。卑弥呼を共立した連合の国々は、吉備(岡山)と出雲(島根)以西の中国地方・九州地方(除く大隅)で、大和国の壱与(崇神天皇)を共立した連合の国々も邪馬台国の時代と同じであった。これが私の持論である。大和国が勢力を拡大し全国を支配する大和王権となる第一歩は、連合の国々を制圧することでなく、連合以外の国々を自分の支配下に置くことにあったと思われる。

 

Z304.前期後期前方後円墳分布.png

『書紀』崇神10年[260年]([ ]は「縮900年表」による編年)、箸墓が築造された年に、崇神天皇は四道将軍を北陸・東海・西海(四国と解釈)・丹波(丹後を含む) の諸国に派遣している。これらの国々は連合国に属していない国々であった。前期古墳の分布を見ると125mを越える前方後円墳が、北陸では福井県坂井市の手繰ヶ城山古墳(墳長128m、310〜330年)、六呂瀬山1号墳(墳長140m、330〜360年)、東海では岐阜県大垣市の昼飯大塚古墳(墳長150m、355〜365年)、西海では香川県さぬき市の富田茶臼山古墳(墳長139m、360〜400年)、丹後では京都府謝野町の蛭子山1号墳(墳長145m、330〜360年)、丹後町の神明山古墳(墳長190m、330〜400年)が築造されている。

 

『書紀』崇神48年[264年]には、「豊城命(崇神天皇の皇子)に東国を治めさせた。これが上毛野君・下毛野君の先祖である。」とある。「上毛野」は後の上野国で群馬県、「下毛野」は後の下野国で栃木県に相当する。また、景行55年[329年]、「豊城命の孫の彦狭島王は東山道十五国の都督に任じられたが病で亡くなった。東国の人民は悲しみ、密かに王の屍を盗み出し上野国に葬った。翌年、息子の御諸別王が東国を治め善政をしいた。」とある。前期古墳の分布を見ると群馬県に前期の大型の前方後円墳が多数あり、最も早い年代は前橋市の前橋八幡山古墳(前方後方墳、墳長130m:295〜305年)で、最も大きな前方後円墳は太田市の太田天神山古墳(墳長210m:360〜400年)である。この他に125mを越えた前期の前方後円墳は、高崎市の浅間山古墳(墳長172m:360〜370年)、太田市の別所茶臼山古墳(墳長165m:355〜365年)、前橋市の前橋天神山古墳で(墳長130m:310〜360年),伊勢崎市の御富士山古墳(墳長125m:360〜400年)である。大和王権が勢力を拡大したのは北関東の地であり、前方後円墳が北関東に多いということは、その証拠であると考える。


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67-7.日本武尊の蝦夷征伐は史実 [67.古墳時代は前方後円墳の時代]

景行40年[321年]、日本武尊は蝦夷征伐に出発した。駿河の焼津で賊の火攻めにあい、伊勢神宮で倭媛命から授かった天叢雲剣で難を逃れた。相模から上総へ海を渡るとき暴風にあい、弟橘姫が海に身を投じ無事に着いた。上総から大きな鏡を船に掲げて、海路から葦浦・玉浦を回って陸奥国の竹水門に入った。蝦夷の首領は王船を見てその威勢に恐れ服従した。日本武尊は陸奥で蝦夷を平定した後、常陸・甲斐・武蔵・上野・信濃・美濃・尾張を通り帰国の途についたが、景行43年[324年]に伊勢の能煩野で病死している。図Z305の前期古墳の分布と図Z306日本武尊の東征経路図を比較すると、日本武尊の経路には前期の大型前方後円墳が存在する。

 

Z305.前期前方後円墳分布.png


Z307.入の沢遺跡.png日本武尊は宮城県石巻市近くまで北上したとされているが、宮城県の名取市(仙台市の南隣)に雷神山古墳(墳長168m:300〜360年)がある。前期前方後円墳の最北端は宮城県大崎市にある青塚古墳(墳長100m:300〜370年)である。2014年に大崎市の北25kmにある栗原市の入の沢遺跡で焼失した竪穴建物跡39棟と大溝が出土した。住居跡から二重口縁壷、珠文鏡・重圏文鏡、刀剣などの鉄製品、ガラス製小玉、水晶製棗玉、琴柱形石製品など、近畿文化の影響を受けた遺物が出土している。入の沢遺跡の年代は、出土土器が布留2式併行期で4世紀中葉の年代と見られ、二重口縁壷(280369)、琴柱(300399)水晶(310)から導く310〜370年と一致する。

 

奈良時代には大和朝廷が蝦夷を制圧するための多賀城が宮城県多賀市(仙台市の北隣)に設置されていたが、古墳前期には多賀城より北にある入の沢遺跡が蝦夷に対峙する最前線の砦であったのであろう。入の沢遺跡の竪穴建物が焼失しているのは、蝦夷の反撃にあったと思われる。景行55年[329年]の記事に「翌年、豊城命の曾孫の御諸別王が東国を治め善政をしいた。そのとき蝦夷が騒いだので兵を送り討った。蝦夷の首領はその領地の全てを献上した。こうして東国は久しく事なきを得た。」とあるのと年代的に一致する。

 

雷神山古墳・青塚古墳からは入の沢遺跡と同じ二重口縁壷が出土しており、両古墳の年代も300〜370年頃に絞り込むことができる。日本武尊の経路にある茨城県(常陸)の水戸市には水戸愛宕山古墳(墳長137m:360〜400年)、石岡市には舟塚山古墳(墳長186m:300〜360年)があり、山梨県(甲斐)の甲府市には甲斐銚子塚古墳(墳長169m:320〜360年)がある。日本武尊の東征により、大和王権は古墳前期に宮城県(陸奥)まで勢力範囲を拡げている。その先駆けとなったのが、崇神朝の豊城命による東国治世であろう。

 


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67-8.三種の神器は大和王権への忠誠を示す [67.古墳時代は前方後円墳の時代]

三角縁神獣鏡は日本全国から約500面(舶載375面、仿製128面)も出土しているが、古墳から出土したことが確認されているもののほとんどが前期古墳からであり、前期古墳の指標の一つとなっている。三角縁神獣鏡が出土した古墳・遺跡の分布を図Z308左に示している。分布の中心が奈良県にあること、また、奈良県天理市の黒塚古墳からは33面、京都府山科町の椿井大塚山古墳からは32面の三角縁神獣鏡が出土し、その同型鏡が関東から九州まで全国各地から出土していることを考えると、大和王権が三角縁神獣鏡を配布したことは間違いないと思われる。『書紀』には天皇が諸国に鏡を配布した記事は無い。しかし、景行40年[321年]、日本武尊が蝦夷の討伐に東征したとき、船に大きな鏡を掲げて上総から陸奥に向かっている。鏡は権威の象徴であったのであろう。

 

Z308.三角縁神獣鏡と三種神器.png


景行12年[308年]の記事には、景行天皇が熊襲を征伐するため筑紫に向かったとき、周防の娑麼(山口県佐波)で、その国の首長が船の舳に立てた賢木に八握剣・八咫鏡・八坂瓊勾玉を飾り天皇に参じている。同様のことが、仲哀8年[345年]、仲哀天皇が筑紫を巡幸されたとき、岡県主の先祖の熊鰐と伊都県主の先祖の五十迹手は、船の舳に立てた賢木に白銅鏡・十握剣・八坂瓊勾玉を飾り、天皇をお迎えしている。三種の神器は大和王権への忠誠を示す印であったのであろう。図Z308右は三種の神器(鏡・剣・勾玉)が出土した前期古墳の分布図である。三角縁神獣鏡と三種の神器の分布は全く同じで、大和王権に忠誠を誓う象徴として地方の豪族に配布されたのであろう。

 

『書紀』成務5年[339年]の記事には「諸国に令して国郡に造長を立て、県邑に稲置をおき、それぞれに盾矛を賜って印とした。」とある。これが史実かどうか確かめるために、前期古墳から出土した盾・矛を調べてみた。盾が出土した前方後円墳はただの3基だけで、あと2基からは漆塗りの盾らしきものが出土している。盾の材質が皮製であったため、残存しているものが少ないのだと想像する。矛が出土したのは30基で、矛の材質は全て鉄矛であった。

 

盾と矛の両方が出土した前期古墳は、大阪府和泉市の黄金塚古墳(墳長85m:360〜370年)の1基のみである。黄金塚古墳の東槨から革製漆塗盾と鉄矛が、三角縁盤龍鏡・画文帯四神四獣鏡などと共に出土している。同時合葬と思われる中央槨から出土した画文帯四神四獣鏡には「景初三年」の銘文が刻まれていた。「景初三年」は邪馬台国の女王・卑弥呼が魏に朝貢し鏡百枚を賜った年である。三角縁盤龍鏡・「景初三年」銘の画文帯四神四獣鏡は大和王権から賜ったものと思われる。黄金塚古墳の南南西6Kmに、前期では和泉で最大の摩湯山古墳(墳長200m:300〜360年)がある。摩湯山古墳・黄金塚古墳は和泉の国造に繋がる王の墓であろう。


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67-9.古墳の編年の年代観は正しいか? [67.古墳時代は前方後円墳の時代]

『全国古墳編年集成』(石野博信編・1995年・雄山閣出版)には、日本列島の主要古墳の編年が、旧58ヶ国を51名の執筆者によって網羅されている。この本に掲載されている前方後円墳と、私の編年で年代幅が30年以内であった前方後円墳とを付き合わせると、296基の年代を比較することが出来た。なお、『編年集成』の古墳の年代は、前方後円墳の図のくびれ部の年代とし、私の編年の年代は年代幅の中央値とした。図Z309の横軸は私の編年による前方後円墳の年代で、縦軸は『編年集成』記載の年代である。

 

Z309.古墳編年比較.png45度の黒線は、私の編年と同じ年代観であることを示している。青丸の分布と黒線を比較すると、黒線は460年頃を境として、それ以前は分布の下限にあり、以後は分布の中心であることが分かる。460年は允恭天皇が崩御した年で、それ以前の『書紀』の編年は歴史を延長していると考えられる期間であり、それ以後は『書紀』の編年と歴史が一致していると思われる期間である。前方後円墳の始まりを大和王権の始まり捉えたとき、私の編年は大和王権の始まりを古く捉えている考古学者に近いということになる。

 

図Z309の赤線はPython(パイソン)というAI(人工知能)などを作るプログラムで計算した回帰直線(中心的な分布傾向を表す直線)である。回帰直線の右端は古墳時代の終焉を示し、『編年集成』も私も590年頃とほぼ近い。回帰直線の左端が前方後円墳の始まりを示す年代で、最古の大型前方後円墳である箸墓古墳の年代でもある。私の編年では260年で、『編年集成』では320年となっている。

 

2009年5月の考古学協会総会で国立民俗博物館(歴博)は箸墓古墳周辺から出土した土器に附着した炭化物を炭素14年代測定により、箸墓古墳の築造年代が240年から260年であると発表している。『全国古墳編年集成』が発行された1995年は、歴博が箸墓の年代を250年±10年と発表する14年前である。赤線は、この頃考古学者は箸墓の年代を320年頃と考えていたことを示している。歴博が箸墓の築造年代を発表した時の考古学会の総会は紛糾したようで、研究者にとっては“激震”であったことが図の赤線からも想像できる。発表から10年経つが、古墳時代の始まりを3世紀中ごろまで繰り上がることは認められてきたようだ。


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67-10. 古墳研究の大御所と私の編年との比較 [67.古墳時代は前方後円墳の時代]

Z310.白石氏古墳編年.png近つ飛鳥博物館の館長であられる白石太一郎氏は「畿内における大型古墳の編年」を作成されている。その最新版(図Z310は平成30年2月の講演会で配布されたもの)に掲載された古墳のなかで、私の編年で年代幅30年以内に比定出来た前方後円墳について、両者の年代を比較したのが図Z311である。白石氏の年代は前方後円墳の図Z310のくびれ部の年代とし、私の編年の年代は年代幅の中央値とした。図Z311はX軸を私の年代、Y軸を白石氏の年代としている。なお、図を見ると白石氏の編年がバラツイテいるように見えるが、それは錯覚でX・Y軸を反転させれば、私の編年がバラツイテいるように見える。図は両者の違いを表したに過ぎない。

 

Z311.白石編年比較.png赤線はPythonで導いた中心的な分布傾向を表す回帰直線であり、45度の黒線は私の編年とほぼ同じ年代観であることを示している。赤線と黒線とを対比してみると、白石氏と私の年代観はほぼ同じであることが分かる。これは編年の根幹をなす埴輪と須惠器の型式編年において、私の編年は近つ飛鳥博物館の編年をもとに作成していることによるからであろう。また、白石氏も私も箸墓の年代を国立民俗博物館が示した240年から260年を採用していることも大きな要因である。黒線とを比較すると、その多くは±25年の範囲にあるが、470年あたりの3点(鳥屋ミサンザイ、宇治二子塚古墳、狐井城山古墳)と300年あたりの2点(燈篭山古墳、妙見山古墳)とが50年近く離れている。

 

鳥屋ミサンザイ古墳(橿原市)は宣化天皇陵に治定されている墳長138mの前方後円墳である。造出付近からTK23またはTK47型式の須恵器が出土していることより、480年(470〜490年)と編年した。近つ飛鳥博物館の編年でもTK23・TK47型式は五世紀後半とされている。白石氏は530年と編年しているが宣化陵(539年歿)を意識したのであろうか。宇治二子塚古墳(宇治市)は墳長約112mの前方後円墳である。大正時代に後円部が破壊されたが、横穴石室があったと考えられている。年代は朝顔形埴輪Ⅳ式と埴輪Ⅴ式の出土から470年±5と考えられ、墳丘盛土内か出土したらTK23あるいはTK47の須恵器杯からは480年±10が考えられる。どちらも470年から480年を示している。白石氏の編年は525年であるが、その理由は分からない。狐井城山古墳(香芝市)は墳長140mの前方後円墳である。円筒埴輪Ⅴ式と長持形石棺から470年±5と編年した。古墳後期の指標である埴輪Ⅴ式・横穴式石室を持つ古墳は1379基ある。この中で長持形石棺が出土しているのは4基のみであり、狐井城山古墳は後期の始まりに造られたといえる。後期の始まりを私は470年と考えているが、白石氏は通説の500年として、505年と編年したのであろう。

 

300年あたりで編年に大きな差があった燈篭山古墳(天理市)と妙見山古墳(向日市)は両者とも(朝顔形)円筒埴輪Ⅰ式である。私は300年頃と編年し、白石氏は340年頃としている。同じ埴輪Ⅰ式でも平尾城山古墳と寺戸大塚古墳の場合は両者とも310年前後で大差ない。また、埴輪Ⅱ式が出土した東殿塚古墳は両者とも310年前後、東大寺山古墳と宝塚古墳の場合は両者とも350年頃で大差ない。燈篭山古墳と妙見山古墳の年代を340年頃とすると、埴輪Ⅰ式と埴輪Ⅱ式が30年間も共存していることになる。近つ飛鳥博物館の埴輪型式の編年では、埴輪Ⅰ式を3世紀後半4世紀、埴輪Ⅱ式を4世紀中葉としており、埴輪Ⅰ式と埴輪Ⅱ式の境は考古学的に明確でないのかも知れない。いずれにしろ、148項目の遺構・遺物の編年から導き出した古墳年代は、古墳研究の大御所白石氏と年代観は一致しており、考古学でも通用するものと確信する。


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67-11.古墳の年代が「縮900年表」の正当性を証明 [67.古墳時代は前方後円墳の時代]

Z312.箸墓古墳.png国立民俗歴史博物館は箸墓古墳周辺から出土した土器に附着した炭化物を炭素14年代測定し、箸墓古墳の築造年代が240年から260年であると確定した。箸墓古墳(墳長276m、全国11位)が古墳時代最初の大型前方後円墳とすると、最後の大型前方後円墳は奈良県橿原市にある見瀬(五条野)丸山古墳(墳長318m、全国6位)となる。見瀬丸山古墳は江戸時代には長らく天武・持統合葬陵とされていたが、新たに発見された資料により、天武・持統陵は野口王墓古墳(八角墳:東西58m)に治定され直され、見瀬丸山古墳は現在陵墓参考地となっている。見瀬丸山古墳を欽明天皇陵と考える研究者は多い。欽明天皇の陵墓は『書紀』に檜隈坂合陵と記され、推古20年(612年)の記事には「皇太夫人堅塩媛を檜隈大陵に改葬した。この日、軽の往来で誄(しのびごと)の儀式を行った。」とある。この「軽」の地は、見瀬丸山古墳の北側の橿原市大軽町とされ、町内には飛鳥時代の軽寺跡がある。

 

平成3年、見瀬丸山古墳の石室の内部の写真が新聞に公表された。これは近くに在住の人が偶然石室の中に入り、写真に撮ったものである。翌年に宮内庁書陵部による開口部の閉塞工事にあわせて簡単な実測調査が行われ、埋葬施設は自然石を用いた両袖式横穴石室で、石室長は横穴式石室としては最大の28.4mであり、石室には二つの石棺が安置されていることが確認された。なお、採集された須恵器片はいずれもTK43型式のものであった。見瀬丸山古墳は墳長・石室規模・二つの石棺や年代から欽明天皇の陵墓と考え、その年代をTK43型式より565年(550〜580年)とする。古墳時代最初の大型前方後円墳である箸墓古墳の築造の250年(240〜260年)から、古墳時代最後の大型前方後円墳である見瀬丸山古墳の築造までに315年(250〜565年)の年月が経過している。

 

崇神10年は『書紀』の編年では紀元前87年になる。一方、欽明32年(571年)4月に欽明天皇が崩御し、5月に河内の古市で殯があり、8月に新羅が弔使を派遣してきて殯に哀悼を表し、9月に檜隈坂合陵に葬られたとある。『書紀』の編年に従えば、箸墓と檜隈坂合陵の間は658年間(BC87〜571年)である。考古学から見ると、箸墓古墳の築造から見瀬丸山古墳の築造までに315年の年月が経過しており、『書紀』の編年は崇神10年の箸墓築造から欽明32年の欽明天皇崩御までを343年(658-315)延長していることが分かる。

 

私は、『書紀』は900年歴史を延長しているとして「縮900年表」を作成した。その延長は2代から9代の欠史8代の天皇は全ての期間、その他の天皇は記事と記事の空白の年が4年以上の期間である。延長された期間は神武天皇が69年、欠史8代で484年、そして崇神天皇から欽明天皇までが347年である。天皇ごとの延長期間は、崇神45年・垂仁69年・景行29年・成務53年・仲哀5年・神功62年・応神16年・仁徳36年・允恭25年・継体7年である。箸墓の築造年代と欽明天皇陵(見瀬丸山古墳)の築造年代とを見ると、『書紀』の編年は崇神10年の箸墓築造から欽明32年の欽明天皇崩御までを343年延長していた。全く無関係な二つの計算方法から、ほぼ同じ答えを導き出した。箸墓・見瀬丸山古墳の考古学上の年代が、『書紀』は900年延長して編年していると云う「縮900年表」の正当性を証明している。古墳時代最初の大型前方後円墳である箸墓古墳は260年(崇神10年)に築造され、古墳時代最後の大型前方後円墳である見瀬丸山古墳は欽明天皇陵で570年に築造されたと比定する。


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67-12.天皇陵古墳の比定と築造年代 [67.古墳時代は前方後円墳の時代]

天皇陵の所在地は『日本書紀』『古事記』に記載されており、その所在地は両者がほとんど一致している。これらからすると、帝紀・旧辞が作られたであろう欽明朝に、伝承に基づいて陵墓の治定がなされたと考える。記紀記載の天皇陵の所在地は大まかにみると、大和・柳本古墳群から佐紀古墳群へ、そして古市・百舌鳥古墳群と移行しているが、それらは考古学の古墳群の変遷と一致しており、記紀が伝承に基づいて陵墓の地を記載していると言える。現在の天皇陵の治定は、その多くが江戸時代になされたもので、現在の考古学からすると、その治定に問題のある天皇陵もある。欽明天皇陵については、前章に記したように見瀬丸山古墳(墳長310m)と考える研究者が多い。見瀬丸山古墳の年代の決めては須恵器TK43(550〜579年)であり、欽明天皇崩御は571年であることより、欽明天皇陵(見瀬丸山古墳)の年代は570年とした。

 

継体天皇陵は『書紀』は藍野陵、『古事記』は三島の藍陵としており、大阪府茨木市にある大田茶臼山古墳(墳長226m)に治定されているが、須恵器のON46(440〜459年)が出土している。継体天皇の崩御は『書紀』の編年も、「縮900年表」も共に531年であり、大田茶臼山古墳の年代とかけ離れており、多くの研究者により高槻市にある今城塚古墳(墳長186m)であるとされている。今城塚古墳の年代の決め手は須恵器のTK10(520〜549年)で、継体天皇崩御531年と合っており、継体天皇陵(今城塚古墳)の年代は530年とする。

 

仲哀天皇陵は『書紀』は河内国の長野陵、『古事記』は河内国の恵賀の長江と記しており、大阪府藤井寺市の岡ミサンザイ古墳(墳長242m)に治定されている。古墳からは埴輪Ⅴ式が出土しており、埴輪Ⅳ式が出土した応神天皇陵・仁徳天皇陵よりも新しい古墳といえ齟齬がある。古市古墳群の最古の大型前方後円墳である津堂城山古墳(墳長208m)が相応しいという見解が多い。古墳年代は埴輪Ⅱ式(300〜359年)と三角板革綴短甲(370〜469年)から365年±5である。なお、近つ飛鳥博物館は津堂城山古墳の埴輪型式はⅢ式(360〜399年)の初め(Ⅲ-Ⅰ期)としており、年代の判定は合っている。仲哀天皇陵(津堂城山古墳)の年代は365年とする。

 

Z313.仁徳陵古墳.png天皇陵古墳は宮内庁の管理下にあって発掘調査されることはなく、古墳の年代を決める情報は少なく、墳丘や造出から出土する埴輪や須恵器が主体となる。仁徳天皇陵は『書紀』に陵地を河内の石津原(百舌鳥耳原)に定めたとあり、堺市大仙町にある大仙古墳(墳長476m)に治定されている。仁徳陵古墳は明治5年に風雨によって前方部前面の斜面が崩壊し石室が発見され、長持形石棺・横矧板鋲留短甲・小札鋲留眉庇付冑が出土している。墳丘・周豪から出土したものには、円筒埴輪Ⅳ式・馬形埴輪がある。平成10年には仁徳陵古墳の東側造出から須恵器の大甕(ON46型式)が採取され、年代決定の決め手となり440年〜459年と判定している。

允恭天皇陵は『書紀』に河内の長野原陵、『古事記』は河内国の恵賀の長枝とあり、仲哀天皇陵の表記とほぼ同じで、藤井寺市の市野山古墳(墳長230m)に治定されている。古墳からはⅣ式の円筒埴輪の他に、人物埴輪・家形埴輪・盾形埴輪・蓋形埴輪・鶏形埴輪などの形象埴輪が出土し、また堤盛土内からTK208型式の須恵器が出土している。TK208型式の須恵器は仁徳陵古墳から出土したON46型式と同じ年代(440年〜459年)である。宋書倭国伝に記載された「倭の五王」では「讃」は仁徳天皇「済」は允恭天皇に比定されている。438年の「讃死し弟珍立つ」、462年の「済死す、世子興遣使貢す」からすると、仁徳天皇が歿して允恭天皇が歿するまでの間は25年間程度であることが分かる。なお、「縮900年表」では30年間である。これらから仁徳天皇陵(大仙古墳)の年代をON46型式の初めの440年、允恭天皇陵(市野山古墳)をTK208型式の終わりの460年と比定する。

 

応神天皇陵は『古事記』に河内の恵賀の裳伏崗にあるとあり、羽曳野市の誉田御廟山古墳(墳長415m)に治定されている。古墳からはⅣ式の円筒埴輪の他に、家形埴輪・草摺形埴輪・盾形埴輪・靫形埴輪・蓋形埴輪・馬形埴輪などの形象埴輪が出土している。『書紀』の雄略紀には誉田陵に埴輪の馬が立っていると記載している。応神陵古墳の年代は埴輪Ⅳ式(400〜469年)での最も遡る時期のものであるとされている。また、外堤外側の溝からTK73型式からON46型式くらいの須恵器が見つかっていることから、TK73型式(400〜419年)の年代と推測されている。「縮900年表」では仁徳天皇の治世は50年間であることを考慮して、応神天皇陵(誉田御廟山古墳)の年代を埴輪Ⅳ式の初めの400年度に比定する。

 

崇神天皇陵は『書紀』に山辺道上陵、『古事記』は山辺道の勾岡のほとりとあり天理市柳本町の行燈山古墳(墳長242m)に、景行天皇陵は『書紀』に山辺道上陵、『古事記』は山辺道のほとりとあり、天理市渋谷町の渋谷向山古墳(墳長300m)に治定されている。行燈山古墳・渋谷向山古墳の両古墳からは円筒埴輪Ⅱ式(300〜359年)が出土している。「縮900年表」では、崇神天皇が歿して景行天皇が歿するまでの間(垂仁天皇治世+景行天皇治世)は62年間である。これらより、崇神天皇陵(行燈山古墳)の年代を円筒埴輪Ⅱ式の初めの300年、景行天皇陵(渋谷向山古墳)の年代を円筒埴輪Ⅱ式の終わりの360年に比定する。


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67-13.崇神天皇陵(行燈山古墳)の年代が歴史を解明 [67.古墳時代は前方後円墳の時代]

「67-11.古墳の年代が「縮900年表」の正当性を証明」では、古墳時代最初の大型前方後円墳である箸墓古墳は260年(崇神10年)に築造され、古墳時代最後の大型前方後円墳である見瀬丸山古墳は欽明天皇陵で570年に築造されたと比定した。近つ飛鳥博物館の館長であられる白石太一郎氏の「畿内における大型古墳の編年」から読み取ると、箸墓古墳の年代は255年、見瀬丸山古墳の年代は570年である。前章では古墳の遺構・遺物による編年と「縮900年表」の付き合わせから、継体天皇陵(今城塚古墳)530年(520年)、允恭天皇陵(市野山古墳)460年(455年)、仁徳天皇陵(大仙古墳)440年(430年)、応神天皇陵(誉田御廟山古墳)400年(415年)、仲哀天皇陵(津堂城山古墳)365年(370年)、景行天皇陵(渋谷向山古墳)360年(355年)、崇神天皇陵(行燈山古墳)300年(330年)であると、天皇陵古墳の比定と築造年代の決定をおこなった。赤字は白石氏の編年である。

 

Z314.天皇陵古墳編年.png図Z314は横軸を「縮900年表」による天皇の崩御の年として、縦軸にその天皇陵古墳の年代をプロットしている。青丸が私の編年で、赤丸が白石氏の編年である。黒線は「縮900年表」による天皇の崩御の年と古墳年代が一致していることを示し、かつ古墳時代の最初の大型前方後円墳の箸墓古墳と最後の大型前方後円墳である見瀬丸山古墳を結んだ線でもある。私の編年と白石氏の天皇陵の編年は、崇神天皇陵(行燈山古墳)以外はほぼ同じである。また、天皇陵古墳のプロットをみると仁徳陵古墳を中心として、それ以後の天皇陵古墳のプロットは黒線上にあり、それ以前の天皇陵古墳のプロットは青線(黒線の約20年上)にあることが分かる。

 

『日本書紀』『古事記』が記載する天皇の中で、実在したと考えられている最も古い天皇は崇神天皇である。崇神天皇の陵墓に治定されている行燈山古墳の年代について白石氏は、箸墓古墳の年代を285年前後(『古代を考える 古墳』白石太一郎、1989年)と考えていた頃も、また255年前後と考えられるようになった現在でも同じ330年前後である。箸墓古墳の年代が30年ほど繰り上げられたとき、行燈山古墳の年代を繰り上げられなかったのは、崇神天皇の没年は『古事記』が記載している「戊寅」として318年と考えるのが通説であること、『晋書』の泰始2年(266年)に倭の女王(壱与)が晋に朝献したことの両方が影響し、崇神天皇と壱与を同じ時代の人とする訳にはいかないと考えたと推察する。考古学といえども、実年代の決定には文献史学が影響を及ぼしている。崇神天皇陵(行燈山古墳)の年代が、古墳時代の歴史を解明する上でのキーポイントとなると思われる。


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67-14.「縮900年表」と天皇陵古墳の年代が合致 [67.古墳時代は前方後円墳の時代]

『書紀』崇神10年の記事に、「倭迹迹日姫命は御諸山を仰ぎ見て座りこんだとき、箸で陰部を突いて死んでしまわれた。それで大市に葬った。ときの人はその墓を名付けて箸墓という。その墓は、昼は人が造り、夜は神が造った。大坂山の石を運んで造った。山から墓に至るまで、人民が連なって手渡しに運んだ。」とある。箸墓古墳の後円部頂上に使われている石は二上山(大坂山)の山麓にある芝山(大阪府柏原市)の石が使用されており、史実が根底にあると思われる。「崇神10年」は別として、崇神天皇の時代に箸墓が築造されたと考えられる。国立民俗歴史博物館は箸墓古墳周辺から出土した土器に附着した炭化物を炭素14年代測定し、箸墓古墳の築造年代が240年から260年であると確定した。崇神天皇の時代に箸墓が築造され、その築造年代が240年から260年であるとするならば、崇神天皇の没年が通説の318年(戊寅:『古事記』記載)になることの可能性はほとんど無く、300年以前になることは確実である。

 

皇學館大学の学長であられた田中卓氏は、崇神天皇の没年は通説より干支一廻り前の258年とされている。田中氏の論拠は『住吉大社神代記』に「活目入彦命(垂仁天皇)は彌麻帰天皇(崇神天皇)の子、巻向の玉木の宮に大八嶋國御宇し、五十三年辛未に崩る。」とあることから、垂仁天皇の没年を311年(辛未)と捉え、53年前の258年を崇神天皇の没年としている。垂仁天皇の没年を干支一廻り後の371年(辛未)としたのでは、垂仁天皇の時代が百済の肖子王の時代となり、応神天皇が肖子王から馬二頭を献上されたと記載する『古事記』の記述と齟齬をきたすからであろう。田中氏は、邪馬台国は筑紫の山門郡にあったと考えておられ、壱与と崇神天皇が同時代の人であっても齟齬をきたさない。

 

Z314.天皇陵古墳編年.png私は、壱与と崇神天皇は同一人物で、崇神天皇の没年は273年(「縮900年表」)であると考えている。一方、古墳の遺構・遺物による編年から、崇神天皇陵(行燈山古墳)の築造年代を300年と編年した。崇神天皇の没年と崇神天皇陵(行燈山古墳)の築造年代には27年間の開きがある。図Z314の青線を20年引き下げると、崇神天皇陵(行燈山古墳)、景行天皇陵(渋谷向山古墳)、仲哀天皇陵(津堂城山古墳)、応神天皇陵(誉田御廟山古墳)が箸墓古墳と欽明天皇陵(見瀬丸山古墳)を結ぶ黒線に近づいてくる。青線を20年引き下げる編年を試みた。おおげさに言えば、近つ飛鳥博物館の編年からの脱却を試みたのである。

 

Z315.埴輪型式の編年.pngまず、埴輪Ⅱ式を280〜339年に、埴輪Ⅳ式を380〜469年に20年引き下げた。表Z315の上枠に近つ飛鳥博物館と筆者の埴輪型式の編年を示す。両者の最も違う点は埴輪Ⅰ式とⅡ式の型式継続期間で、両者は全く逆になっている。6305基の前方後円()墳の内、円筒埴輪・朝顔形埴輪が出土したのは1576基であり、その内埴輪型式が判明しているのは62%の977基である。表315の下枠には型式別の古墳数を載せ、それらを近つ飛鳥と筆者の型式継続期間で割った値を示している。筆者の編年では、埴輪Ⅱ式はⅢ・Ⅳ式とほぼ同じで、Ⅰ式のほぼ2倍である。それに比べ近つ飛鳥の編年では、埴輪Ⅱ式はⅢ式の1.5倍、Ⅳ式の2倍、そしてⅠ式の15倍近くになっている。このことは、近つ飛鳥編年のⅠ式とⅡ式の期間が異常であることを示しており、新しく設定した埴輪型式の編年の信憑性が高いことが確認できた。

 

Z316.天皇陵古墳編年完.pngつぎに中期の始まりを380年として、それに伴う遺構・遺物の編年の変更を行った。また、須恵器の最も古い型式TK232を380〜389年に編年し、TK73を390〜409年、ON46を430〜449年と10年引き下げた。これらの変更においては、6305基の前方後円墳で編年に矛盾がおこらないかチェックした。そして、仁徳天皇陵(大仙古墳)はON46型式の最も古い430年、応神天皇陵(誉田御廟山古墳)は埴輪Ⅳ式の最も古い380年、仲哀天皇陵(津堂城山古墳)は埴輪Ⅱ式と三角板革綴短甲より345年、景行天皇陵(渋谷向山古墳)は埴輪Ⅱ式の最も新しい340年、崇神天皇陵(行燈山古墳)は埴輪Ⅱ式の最も古い280年に編年した。図Z316に示すように『書紀』から導き出した「縮900年表」と考古学的な古墳の編年とを合致させることが出来た。

 

記紀は崇神天皇と景行天皇の御陵は山辺道にあると記載している。山辺道にある巨大前方後円墳は埴輪Ⅰ式の西殿塚古墳と埴輪Ⅱ式の行燈山古墳と渋谷向山古墳である。行燈山古墳が崇神天皇陵、渋谷向山古墳が景行天皇陵に治定されているが、幕末以前は逆であったそうだ。どちらにしろ、崇神天皇陵は埴輪Ⅱ式の初め頃、景行天皇陵は埴輪Ⅱ式の終わり頃の年代になる。埴輪Ⅱ式の初め頃が300年を遡ることになれば、田中卓氏の説のように邪馬台国の壱与は大和以外の地に居たことになるか、私の説のように壱与と崇神天皇は同一人物であることになる。埴輪Ⅱ式の編年が古代史を解明するといっても過言ではない。埴輪Ⅱ式が出土する古墳は、北は福島県から南は熊本県まで拡がっている。年輪年代測定法や炭素14年代測定法などの科学的な測定で埴輪Ⅱ式の実年代が決定される日がくることを楽しみに待っている。

 

表「縮900年表」をZ317に、「縮900年表」に対応する古墳出土の遺構・遺物の編年表を表Z318に、それで導き出された年代幅が30年以内の古墳一覧を表Z319に示した。

1-

Z317.「縮900年表」.png

2-

Z318.古墳の遺構・遺物編年完.png

3-

Z319-1.古墳の年代2019完.png

4-

Z319-2.古墳の年代2019完.png

5-

Z319-3.古墳の年代2019完.png

6-

Z319-4.古墳の年代2019完.png

7-



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67-15.壱与と崇神天皇を結び付けた龍文透彫帯金具 [67.古墳時代は前方後円墳の時代]

Z320.葛城の古墳.png前節で掲げた「縮900年表」に対応する古墳出土の遺構・遺物の編年表(Z318)を「箸墓260編年」と呼ぶことにする。この「箸墓260編年」を通して、壱与と崇神天皇は同一人物であることを探ってみたい。奈良盆地の西側にあって、金剛山から二上山に連なる山並の東側山麓は葛城の地である。図Z320見るように葛城の北部の馬見古墳群とその周辺には前期の大型前方後円()古墳が多い。年代順に見ると、新山古墳(墳長:137m)からは埴輪Ⅰ式が、巣山古墳(204m)・宝塚古墳(119m)・ナガレ山古墳(112m)からは埴輪Ⅱ式が、新木山古墳(200m)・乙女山古墳(130m)からは埴輪Ⅲ式が出土している。馬見古墳群の中で最も古い新山古墳は、箸墓古墳より新しく、崇神天皇陵(行燈山古墳)より古い古墳である。

 

新山古墳は前方後方墳で、明治18年に後方部の竪穴石室が発見され、銅鏡34面をはじめとする管玉・車輪石・石釧・帯金具・刀剣などの遺物が多数出土した。銅鏡の中には9面の三角縁神獣鏡が含まれており、三角縁鏡の権威である福永伸哉氏の型式では、舶載A段階:1面、B段階:2面、C段階:1面、D段階3面、倣製Ⅰ段階:1面、Ⅱ段階:1面である。新山古墳は「大塚陵墓参考地」として宮内庁の管轄下となったが、昭和56年には橿原考古学研究所が宮内庁の管轄外で、後方部端を画する溝を検出し、その外側に七基の円筒棺を発見した。棺に使用した埴輪は埴輪Ⅰ式であった。新山古墳の「箸墓260編年」による年代は、埴輪Ⅰ式(260〜279年)と三角縁神獣鏡の舶載D段階・倣製Ⅱ段階(290〜379年)より、280〜290年としている。

 

新山古墳からは金銅製帯金具が出土している。この龍文透彫帯金具は中国の西晋時代(265〜316年)と類似性が高いとされている。『晋書』武帝紀の泰始2年(266年)には、「11月己卯、倭人が来たり、方物を献ずる」とあり、『書紀』神功66年(266年)の記事に『晋書』起居注の引用文として、「武帝の泰始2年10月に倭の女王が貢献した」とある。『晋書』起居注は現存していないが、266年に倭の女王・壱与が晋の武帝に朝貢したのは確かであろう。新山古墳の金銅製帯金具は壱与が晋の武帝より賜ったものと考えることができ、新山古墳の築造年代280〜290年とピッタリ合っている。

 

『書紀』神武2年の記事には、「天皇は論功行賞を行われた。・・・剣根という者を葛城国造とした。」とある。「国造」は後世の語句を使った潤色であるが、剣根が葛城の地を与えられたという史実があったと考えられる。「縮900年表」によれば、神武2年は242年にあたる。馬見古墳群の前方後円墳は、剣根およびその子孫の墓と考えられ、新山古墳に葬られたのは剣根であり、剣根が崇神天皇から金銅製帯金具を賜ったと考えることが出来る。

 

新山古墳から出土した金銅製帯金具は、壱与と崇神天皇は同一人物であることを証明している。「縮900年表」と「箸墓260編年」は、江戸時代の新井白石や本居宣長から始まって現代まで『日本書紀』を研究してきた学者が、誰も予想だにしなかった、壱与と崇神天皇が同一人物であることを証明した。「縮900年表」は、『日本書紀』の編年を解明しており、我国の古墳時代の歴史を明らかにしている。

 

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さて、私はこれまで1週間に1回ブログに投稿し、その記事を書くためにテーマを設け、古代史の調査・探究を楽しんできました。そのテーマは多岐に渡ってきましたが、ここに来て次のテーマを見つけることが出来ず、一週間に1回の投稿が難しくなりました。次回から1ヶ月2度、第1金曜日と第3金曜日に投稿したいと思います。次回は6月21日(金)です。よろしくお願い致します。

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67-16.室宮山古墳の被葬者は葛城襲津彦か? [67.古墳時代は前方後円墳の時代]

埴輪型式の編年の見直しで、「箸墓260編年」では埴輪Ⅲ式が340〜379年となり、中期の始まりが380年となった。葛城の南部、御所市にある室宮山古墳(墳長238m)は全国第16位の前方後円墳である。室宮山古墳は埴輪型式がⅢ式で、三角縁神獣鏡を出土していることから、明らかに前期の古墳であり、年代は三角板革綴短甲(350〜469年)を出土していることより、350〜379年となる。「縮900年表」では仁徳元年は381年で、中期の始まりと重なる。これからすると、室宮山古墳の被葬者は、仁徳元年にはすでに埋葬されていたことになる。

 

室宮山古墳の被葬者は、葛城襲津彦であるとする研究者が多い。それは、

『日本書紀』に引用されている『百済記』にある「沙至比跪」と襲津彦が同一人物と見られ、実在を確実視できる最古の人物と見られているからである。その記事は、神功62年、新羅が朝貢しなかった。その年襲津彦を遣わして新羅を討たせた。――百済記に述べている、壬午の年、新羅が朝貢をしなかつた。日本は沙至比跪(さちひこ)を遣わして討たせた。新羅人は美女二人を飾って、港に迎え欺いた。沙至比跪はその美女を受け入れ、反対に加羅国を討つた。・・・天皇は大いに怒られ、木羅斤資を遣わして、兵士を率いて加羅に来たり、その国を回復されたという。

 

ある説によると、沙至比跪は天皇の怒りを知って、公には帰らず自ら身を隠した。その妹が帝に仕えることがあり、沙至比跪はこっそり使いを出し、天皇の怒りが解けたかどうか探らせた。妹は夢に託し、「今日の夢に沙至比跪を見ました」と申し上げた。天皇は大いに怒られ、「沙至比跪はどうしてやってきたのだ」といわれた。妹は天皇の言葉を報告した。沙至比跪は許されないことを知って、岩穴に入って死んだという。
Z321.武内宿禰系譜.png

『書紀』は、『百済記』の記事を干支2廻り遡らせて挿入しているから、神功62年の記事は382年(壬午)で、「縮900年表」で仁徳2年にあたる。『百済記』に登場する天皇は仁徳天皇であり、沙至比跪の娘が仁徳天皇に仕えていたことになる。古代「妹(いも)」は妻・恋人を表わす敬称とされているが、娘を表す敬称でもあったという見解もある。 葛城襲津彦の娘の磐之姫は、仁徳2年に仁徳天皇の皇后となっている。これらから襲津彦と沙至比跪は同一人物であることに間違いないといえる。それならば、葛城襲津彦は仁徳天皇の時代には、生きていたことは確かであり、室宮山古墳(350〜379年)の被葬者にはなり得ない。

 

室宮山古墳は墳長238mの天皇陵に匹敵する規模であり、埴輪は円筒埴輪・朝顔形埴輪・靫形埴輪・盾形埴輪・短甲形埴輪・草摺形埴輪・蓋形埴輪・切妻造家形埴輪・四柱造家形埴輪と多種である。そして、竪穴石槨は大きくないが、立派な長持形石棺が収められている。副葬品には三角縁神獣鏡など鏡が7面、鉄剣7本、勾玉・管玉多数、その他に色々ある。天皇の怒りをかい、こっそりと埋葬された墓ではない。室宮山古墳の被葬者を葛城襲津彦とする研究者は、『百済記』の沙至比跪の名前だけを史実と認め、記事の内容は史実ではないと思っているのだろうか。


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67-17.室宮山古墳の被葬者は武内宿禰 [67.古墳時代は前方後円墳の時代]

武内宿禰は景行天皇・成務天皇・仲哀天皇・神功皇后・応神天皇・仁徳天皇に仕え、『書紀』の編年の通り計算すると年齢が265歳余りとなり、伝説上の人物とされている。一方、『新撰姓氏録』は平安時代に編纂された古代氏族名鑑であり、日本古代史の研究に欠かせない史料であるが、武内宿禰あるいはその息子を始祖と仰ぐ65氏族が掲載されており、実在の可能性も伺える。

 

『書紀』で武内宿禰が最後に登場するのは、仁徳50年(413年)の記事で、「河内の人が『茨田堤に雁が子を産みました。』と奏上した。天皇は『朝廷に仕える武内宿禰よ。あなたこそこの世の長生きの人だ。あなたこそ国一番の長寿の人だ。だから尋ねるのだが、この倭の国で、雁が子を産むとあなたはお聞きですか。』と歌を詠まれて、武内宿禰に問われた。武内宿禰は『わが大君が、私にお尋ねになるのはもっともなことですが、倭の国では雁が産卵することは、私は聞いておりません。』と歌を返した。」とある。

 

この歌謡は万葉仮名で書かれており、天皇が詠まれた歌の出だしの原文は「多莽耆破屢 宇知能阿曾」で、訓下し文は「たまきはる 内の朝臣」である。「たまきはる」は「内」にかかる枕詞で、「阿曾」が「朝臣」である。「朝臣」を「阿曾」と表記する例は万葉集に3首ある。「朝臣」の文字が登場する初見は、天武13年(684年)の八色姓の詔である。『書紀』は時代考証をしていないため、本文には後世の用語を用いることが多い。しかし、歌謡は伝承そのものであり、『書紀』の述作者が後世の用語を差し挟む余地はない。後世の用語があるとしたら、その歌謡はその用語が使われた時代に詠われたものである。そう考えると、仁徳50年の歌謡は史実でなく、413年に武内宿禰が存命していたことにならない。

 

応神紀で武宿禰の名前が出てくる最後の記事は、応神9年(362年)の武宿禰に謀反の嫌疑がかけられた記事である。武宿禰を筑紫に遣わして百姓(人民)を監察させた。その時、武宿禰の弟の甘美宿禰が兄を廃しようとして、天皇に「武宿禰は常に天下望む野心があります。今筑紫において、『筑紫を割いて、三韓を招き、自分に従わせれば、天下が取れる』と密に謀っている」と讒言した。そこで天皇はただちに使いを遣わして、武宿禰を殺すことを命じた。その時、武内宿禰に容姿が似ていた壹伎直の祖の眞根子が身代わりとなって自決した。武宿禰は筑紫を脱出し、朝廷に参上して罪の無いことを弁明した。天皇は武宿禰と甘美宿禰とを対決させて問われたが、決着がつかなかった。天皇の勅命により、探湯が行われて武宿禰が勝った。武宿禰は甘美宿禰を殺そうとしたが、天皇の勅命で許され、紀伊直等の先祖に賜ったとある。武宿禰が362年には生存していたことは確かである。

 

神功51年に、百済の肖古王が久氐を遣わし朝貢した。皇太后は太子と宿禰に「わが親交する百済国は、珍しいものなど時をおかず献上してくる。自分はこの誠を見て、常に喜んで用いている。私の後々までも恩恵を加えるように」と仰せられたとある。肖古王の記事は干支2廻り遡らせて挿入しているから、神功51年の記事は371年(応神19年)の記事となる。この記事が史実かどうか疑わしい面もあるが、武宿禰が371年頃に生存していたのであろう。

 

武内宿禰の年齢を「縮900年表」に基づき計算してみる。成務3年の記事には、「成務天皇と武内宿禰は同じ日に生まれた」とある。成務前紀には、「成務天皇は景行天皇46年(325年)に24歳で皇太子となった。」とあることからすると、成務天皇と武内宿禰が生まれたのは302年となり、武内宿禰は371年で丁度70歳であり、年齢からして実在の人物であると言える。

 

Z322.室宮山古墳.png允恭5年(448年)の記事には、「葛城襲津彦の孫である玉田宿禰が殯(もがり)の職務を怠り葛城で酒宴をしていた。それを葛城に遣わされた尾張連吾襲に見つかり、その発覚を恐れて吾襲を殺し、武内宿禰の墓域に逃げ込んだ。」とある。この葛城の武内宿禰の墓こそ室宮山古墳(350〜379年)と考える。武内宿禰は371〜379年に葬られたと思われる。


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67-18.佐紀陵山古墳は皇后日葉酢媛命の陵墓 [67.古墳時代は前方後円墳の時代]

奈良盆地の北端には標高100m程度の平城山(ならやま)丘陵が連なっている。その南山麓に佐紀古墳群がある。佐紀古墳群には墳長が200メートルを越える巨大前方後円墳が7基ある。その中で最も古い古墳であると見られているのが佐紀陵山古墳である。宮内庁は佐紀陵山古墳を垂仁天皇皇后の日葉酢媛命の陵に治定しているが、陵墓としては古墳の遺構・遺物の情報が非常に多い。それは大正年間に大掛かりな盗掘事件が発生し、出土遺物は回収され復旧工事が行われて、その時の調査・記録が残っていたためである。

 

佐紀陵山古墳は墳長207m、後円径131m、後方幅87mの前方後円墳である。佐紀古墳群の7基の巨大前方後円墳の中で、後円径に対する前方幅の割合(66%)が最も小さく、前方部の高さが後円部の高さより最も低い(-9m)、柄鏡形と言われる前期の前方後円墳である。後円部の中央にはひれ付を含む円筒埴輪で囲まれた方形壇(約16m四方)があり、その上に数個の蓋形埴輪・盾形埴輪や家形埴輪が立っており、中央の最高所にあった蓋(きぬがさ)形埴輪は高さ1.5m、横幅2mと非常に大きく、4個のヒレの部分には直弧文が描かれていた。円筒埴輪の型式はⅡ式である。

 

方形壇の地下には縄掛突起を持った5枚の天井石で覆われた竪穴式石室(長さ8.5mx幅1mx高さ1.5m)があり、天井石の上に屋根形石(長さ2.6mx幅1mx高さ0.5m)が置かれていた。天井石にある縄掛突起は長持形石棺などに付けられるものであり、屋根形石は家形石棺の蓋石と考えられ、石室内にあった石棺と推定されることもあるが、石棺直葬に通じる石棺を模した石室と考えられる。

 

石室は大正時代以前にも盗掘されていたようだが、出土遺物としては大型仿製鏡が三面、石製装飾品(車輪石3、鍬形石3、石釧1、琴柱形石2、合子1)、石製模造品(刀子3、斧1、高杯2、椅子1)があった。佐紀陵山古墳の築造年代は、 埴輪Ⅱ式(280〜339年)の年代であり、縄掛突起のある天井石は長持形石棺(290〜469)の年代と通じ、屋根形石の存在は石棺直葬(290〜)に通じており、これらから佐紀陵山古墳の築造年代は290〜339年の範囲にあると考えられる。


 

『書紀』垂仁32年の記事には、垂仁天皇の皇后日葉酢媛命が亡くなられたとき、野見宿禰が出雲国の土部百人をよんで、埴土で人や馬や色々の物の形を造って、日葉酢媛命の墓に立て殉死者の替りとした。この土物を名付けて埴輪といった。天皇は「今から後、陵墓には必ずこの土物を立てて、人を損なってはならぬ」と云われたとある。垂仁32年は「縮900年表」では291年になり、佐紀陵山古墳の築造年代(290〜339年)と整合性は取れており、佐紀陵山古墳を皇后日葉酢媛命の御陵で築造年代を290年と考える。

 

Z323.蓋形埴輪.png『書紀』は、「人や馬の形を造って」とあるが、人物埴輪・馬形埴輪の登場は古墳中期以降(380年〜)であり、形象埴輪を表現するための執筆者の潤色であろう。出現当初の器財埴輪は、墳頂部の円筒埴輪によって囲まれた方形区画の内側で、家形埴輪を取り囲むように配置されていた。佐紀陵山古墳では方形壇の最高所にあったのは巨大な蓋形埴輪であった。蓋形埴輪はその形状からして器財埴輪の象徴と言える。蓋形埴輪は埴輪Ⅰ式の時代に登場するが、京都府相楽郡山城町にある平尾城山古墳(280〜290年)1基のみである。古墳の築造年代は佐紀陵山古墳とほぼ同時期であり、日葉酢媛命の墓が蓋形埴輪の始まりと言っても過言ではないだろう。『書紀』が日葉酢媛命の墓が埴輪の始まりとしているのは、巨大な蓋形埴輪が人々の印象に残ったためであろう。

 

佐紀陵山古墳の後円部墳頂にある方形壇を取り囲んで立てられいるのがひれ付円筒埴輪である。ひれ付円筒埴輪は人垣を連想させ、殉死者の替りに埴輪を立てたとの伝承が生まれたのであろう。ひれ付円筒埴輪は埴輪Ⅱ式から登場することから、佐紀陵山古墳がその始まりといえる。垂仁28年(287年)の記事には、天皇の母の弟の倭彦命が亡くなったとき、近習のものを集めて、全員を生きたままで、陵のめぐりに埋めたと殉死の話が載っている。奈良県北葛城郡広陵町にある新山古墳は、墳長137mの前方後円墳で、「大塚陵墓参考地」として宮内庁の管轄下にある。橿原考古学研究所は宮内庁の管轄外で、後方部端を画する溝を検出し、その外側に7基の円筒棺(埴輪Ⅰ式)を発見している。陵のめぐりに殉死者を埋める習俗があったのは史実であったのかも知れない。


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67-19.ウワナベ古墳は皇后八田皇女の陵墓 [67.古墳時代は前方後円墳の時代]

Z324.佐紀古墳群東部.png佐紀古墳群の東端にウワナベ古墳(墳長270m)があり、その隣
にコナベ古墳(204m)、そしてヒシアゲ古墳(219m)とカタ
カナ名の大型前方後円墳が並んでいる。宮内庁は、ウワナベ古墳を
仁徳天皇皇后の八田皇女の宇和奈辺陵墓参考地とし、コナベ古墳を
仁徳天皇皇后の磐之媛命の小奈辺陵墓参考地としている。そして、
ヒシアゲ古墳を仁徳天皇皇后磐之媛命の平城坂上陵に治定している。

 

「縮900年表」によると381年、仁徳天皇は即位し、翌年葛城
襲津彦の娘の磐之姫命を皇后に迎えている。398年、仁徳天皇は
八田皇女を妃に迎えたいと皇后に語るが、皇后は承知しなかった。
翌年、磐之姫は留守の間に天皇が八田皇女を妃としていたことに嫉妬し、山城の筒城宮に別居した。八田皇女は仁徳天皇に皇位を譲り自殺した異母弟の莬道稚郎子の妹である。404年、磐之姫命が筒城宮で亡くなり、翌々年奈良山に葬った。407年、八田皇女を皇后とされている。431年、仁徳天皇は崩御している。

 

ウワナベ・コナベの名前の由来には、「うわなり・こなみ」説がある。一夫多妻のころの制度で、先に結婚した妻、前妻または本妻を“こなみ”と呼び、後妻を“うわなり”と呼んでいる。古事記にも、神武記の歌謡に「宇波那理」と出てくる。宮内庁が、ウワナベ古墳を仁徳天皇の皇后八田皇女の御陵としているのは、古墳の名称が“うわなり”に通じるためであろうか。そして、仁徳天皇皇后の磐之媛命の平城坂上陵をヒシアゲ古墳に治定しているにも関わらず、コナベ古墳を磐之媛命の陵墓参考地としているのは、“コナベ”が“こなみ”に通じるからであろうか。コナベ古墳から出土した円筒埴輪の型式はⅢ式(340〜379年)であり、磐之姫命の陵としては年代が合わない。ちなみに、ヒシアゲ古墳の年代は埴輪Ⅳ式(380〜469年)と草摺形埴輪(280〜459年)から380〜459年となり、皇后が奈良山に葬られた406年の範疇には入っている。

 

『書紀』は八田皇女がいつ亡くなったか、何処に葬ったかは記載していない。380年に、仁徳天皇は莬道稚郎子に妹の八田皇女を奉りたいと申し入れていることからすると、当時八田皇女は少なくとも10歳以上であったと考える。仁徳天皇の在位は51年と長く、八田皇女は仁徳天皇の在位中に亡くなったと思われる。八田皇女が陵墓に葬られたのは407〜431年位であろう。ウワナベ古墳の造出からTK216型式の須恵器が出土しており、ウワナベ古墳の築造年代は410〜429年となる。ウワナベ古墳の築造年代は、八田皇女の陵墓としてぴったり合っている。

 

ウワナベ古墳の陪塚である大和6号墳(径約30mの円墳)からは、872枚の鉄鋌が出土している。このことをもって、ウワナベ古墳の被葬者は男性であると主張する学者もいる。宮内庁は大和6号墳から出土した鉄鋌のうち大型の274点を詳細に調査している。そのうち94点については、複数の鉄材を接合して作られたものであることが分かった。これらより、国内で鉄のかけらなどから鉄鋌の形状に仕上げた可能性が高いと言われている。 宮内庁は「副葬品として被葬者の埋葬に間に合わせるために急造されたものと考えられる」としている。

 

古墳において、墳丘規模や埴輪は現世に誇示する威信財であり、石槨・石室・棺に副葬されている威信財は、黄泉の世界で誇示するための品々であろう。『魏志東夷伝』弁辰条には、「国には鉄が出て、韓、濊、倭がみな、従ってこれを取っている。諸の市買ではみな、中国が銭を用いるように、鉄を用いる。」とある。大和6号墳の872枚の鉄鋌は、仁徳天皇が、皇后の八田皇女が黄泉の国で使う貨幣として、造らせたものであろう。


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67-20.磐余彦尊の名と磐余の地名はどちらが先か [67.古墳時代は前方後円墳の時代]

初代の天皇は神武天皇であるが、「神武」の漢風諡号は淡海三船が奈良時代の天平宝字2〜4年(762〜764年)に選定したとされている。『日本書紀』は「神日本磐余彦尊」、『古事記』は「神倭伊波礼毘古命」と記して、どちらも「かむやまといわれびこのみこと」と読み、神代に出てくる幼名も同じである。しかし、『書紀』神代下の最後の「一書第一」に、「狭野尊、または神日本磐余彦尊という。狭野というのは年小の時の名で、後に天下を平らげて八州を治められた。それでまた名を加えて、神日本磐余彦尊というのである。」とあり、『書紀』神武元年の記事には、「始馭天下之天皇と申し、名付けて神日本磐余彦火火出見天皇と曰す。」とある。神日本磐余彦尊(神倭伊波礼毘古命)は建国後に付けられた名であることが分かる。

 

Z325.磐余.png「神日本」は大和国を建国したことによるものであり、「彦火火出見」は諱(いみな:実名)と記載してあるが祖父の名である。「磐余」は何故付けられたのであろうか。「磐余」は奈良盆地の東南端にある古代からの地名で、その範囲は諸説あるがZ325に示すように、東は桜井市上之宮を流れる寺川、西は橿原市の天香具山を通る古道の中ツ道、北はJR桜井線の香具山駅を東西に通る古道の横大路、南は明日香村飛鳥と山田道の出会い、これらに囲まれた範囲の中にある。この磐余の地には、神功皇后の磐余若桜宮(349年)、履中天皇の磐余稚桜宮(432年)、清寧天皇の磐余甕栗宮(487年)、継体天皇の磐余玉穂宮(526年)、用明天皇の磐余池辺雙槻宮(585年)などがあったと『書紀』は記している。なお、括弧内の年は「縮900年表」による宮の造営の年。

 

また、履中紀には「磐余池を作る」と記されてある。『万葉集』には「大津皇子、死を被りし時に、磐余の池の堤にて涙を流して作らす歌一首」と題し、「ももづたふ磐余池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ」と、磐余池が読み込まれている。大津皇子が謀反の疑いで処刑されたのは686年のことであった。Z325に記した八つ手形の池は現存しないが、池之内町(桜井市)、池尻町(橿原市)など池に由来する地名が残されいる。近年の発掘調査で池の遺構(東池尻・池之内遺跡)が出土している。

 

『書紀』神武紀の建国2年前の己未の年の記事に「磐余の地の名は、元は片居または片立であったが、皇軍が敵を破り、大軍が集まってその地に満(いわ)み居たことから、磐余とされた。またある人は、皇軍に滅ぼされた磯城の八十梟帥が屯聚(いわ)み居た[屯聚居、これを恰波瀰委(いはみい)という]から磐余邑と名付けたという。」とある。磐余の地名は、磐余彦尊の名前より先に存在していたと思える。狭野尊が何故、磐余彦尊になったのであろうか。


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67-21.メスリ山古墳は磐余彦尊の陵墓 [67.古墳時代は前方後円墳の時代]

『書紀』の天武紀にある壬申の乱(672年)の記述に、高市軍が金綱井に終結したとき、高市県主許梅が神がかりして、「神日本磐余彦天皇の陵に、馬や種々の武器を奉るがよい」と言い、許梅を参拝させ御陵に馬と武器を奉納したとある。また、「三輪君高市麻呂が上道の守りに当たっていて、箸陵のほとりで戦った」ともある。箸墓を「箸陵」と表現しているところからすると、磐余彦天皇の陵は金綱井の近くにある前方後円墳と考えられる。金綱井は畝傍山の北、橿原市今井町付近と考えられているが、所在は未詳である。壬申の乱の大和の戦いで武勲を立て恩賞を賜った将軍大伴吹負の行動を、Z326を参照しながら辿ることにより、「金綱井」の地を探りたい。

 

Z326.神武天皇陵は何処.png

吹負は百済(広陵町百済)①にあった自分の家を出て、中道より飛鳥寺(明日香村)②に進み、寺の西で飛鳥古宮の守りに当たっていた敵の軍営に攻め込んでいる。そこで勝利を得た吹負は奈良に向って進軍した。その途中、稗田(大和郡山稗田)③に至った時、河内の方から近江の軍勢が沢山やって来るという情報を得て、軍を竜田(三郷町)と、大坂道(香芝町逢坂)と石手道(竹内峠)に向かわせ守らせた。近江軍は大津道と丹比道を通ってやって来た。吹負の軍は防戦出来ず、戦いに敗れ退却を余儀なくされた。そして将軍吹負は、ただ一人二人の騎馬兵と墨坂(榛原町)④にまで逃げていく。そこで菟の軍と出会い、金綱井まで引き返して散り散りになった兵士を集めた。

 

高市県主許梅が神がかりして、「神日本磐余彦天皇の陵に、馬や種々の武器を奉るがよい」と言い、許梅を参拝させ御陵に馬と武器を奉納したのは、この時の事である。その後、近江軍が大坂道より来ると聞いて、吹負は軍を率いて西に向かい、当麻(当麻町)⑥で戦い、その後飛鳥の古宮の本営に帰っている。そこで伊勢街道から本隊がやって来たので、上道・中道・下道に軍を分け配置している。近江軍は中道からも上道からもやって来た。高市麻呂が箸陵のほとりで戦い大いに近江軍を破ったのは、この時のことである。その後、吹負は飛鳥の本営⑦に帰り、軍を構えたが近江軍は来なかった。 

 

金綱井は下道と横大路の交わった橿原市今井町付近と考えられているが、稗田で敗れ墨坂まで逃げた吹負が、散り散りになった兵士を集めるのに、この地は適切でない。兵士は中道からも上道からも逃げてくるであろうし、敵も追いかけてくるであろう。今井町付近では大坂道と下道から来る敵と中道や上道からの敵に対して挟まれてしまうし、敵の目標地の飛鳥の古宮が無防備になってしまう。私は「金綱井」は上道と横大路、そして伊勢街道の交わる桜井市金屋付近⑤であったと考えている。この地ならば、上道・中道・下道から逃げてくる兵士も集められ、背後は伊勢街道から墨坂通って本隊がやってくるため安全であり、飛鳥の古宮へは山田道が通じている。戦略上この上もない場所である。

 

Z327.メスリ山古墳.png金綱井に特定した桜井市金屋付近から、南に1.5キロメートル山に向かって進むと上の宮地区に至る。この地に全長224メートルの前方後円墳メスリ山古墳がある。この古墳は昭和34年に橿原考古学研究所により発掘調査が行われた。後円部の墳頂には、円筒埴輪列で囲まれた方形の区画があり、その地下に長さ8メートルにおよぶ竪穴主石室があった。円筒埴輪列(Z327)の106本の埴輪は直径50センチから1メートル、その高さは242センチで日本最大のものであり、この古墳が極めて荘厳なものであったかを物語っている。

 

石室はすでに盗掘にあっていて、玉杖を始めとする石製装飾品(石釧、車輪石、鍬形石、合子)と三角縁神獣鏡の銅鏡破片が残っていたのみであった。しかし、主石室の横に未盗掘の副石室があり、そこから他に類例のない長さ182センチの鉄製の弓と、長さ80センチの5本の鉄製矢、長さ115センチの刀1本、長さ18〜62センチの鉄槍先212本、銅鏃236本、石鏃50本などの武器や、多くの鉄製農工具(鋸・刀子・鑿・斧・鉇・鎌・針)が出土した。これらの出土品は、現在橿原考古学研究所付属博物館に展示されている。

 

メスリ山古墳の年代は円筒埴輪Ⅱ式(280〜339年)が指標となる。佐紀陵山古墳は後円部に円筒埴輪列で囲まれた方形区画を持ち、円筒埴輪の型式はⅡ式であった。そして、方形区画内には数個の器財埴輪(蓋形埴輪・盾形埴輪や家形埴輪)が飾られていた。それに対して、メスリ山古墳は方形区画の埴輪列は壮大であるが、器財埴輪は全くない。これらより、メスリ山古墳の年代は、円筒埴輪Ⅱ式でも佐紀陵山古墳(290年)より古い、280年頃と考えられる。高市県主許梅が神がかりして、「神日本磐余彦天皇の陵に、馬や種々の武器を奉るがよい」と言い、許梅を参拝させ、馬と武器を奉納した御陵こそ、このメスリ山古墳と考える。磐余彦尊は「戦の神」として崇められており、メスリ山古墳から出土した武器がそれを示している。

 

「縮900年表」では、崇神天皇の即位について、「247年卑弥呼亡き後、磐余彦尊(神武天皇)は倭国連合の王となろうとしたが、大和国が強国となることを恐れた国々の反対にあった。磐余彦尊は祖父の彦火火出見尊にならい、壱与(崇神天皇)に王位を譲り、壱与が倭国王に共立された。磐余彦尊は大彦命として崇神天皇を支えた。」としている。大彦命は四道将軍として崇神11年(261年)まで活躍しており、その陵墓が造られたのが280年頃であっても齟齬はない。大彦命が亡くなり、磐余の地に陵墓が造られ葬られた。それで、大彦命は磐余彦尊と呼ばれるようになった。神日本磐余彦火火出見天皇は死後につけられた諡号と考えられる。


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67-22.桜井茶臼山古墳の築造年代は270年 [67.古墳時代は前方後円墳の時代]

初瀬川が奈良盆地に流れ込み大和川と名を改める桜井市外山、「磐余」の地の北東端の外れに桜井茶臼山古墳がある。桜井茶臼山古墳は墳長207m、後円径110m、前方幅61mの柄鏡形の前方後円墳で、後円部には主軸に沿って竪穴式石室があり、石室は全長6.8m、幅1.3m、高さ1.7m、天井石は12枚である。竪穴式石室の上には、南北約11.7m、東西約9.2m、高さ約1m未満の方形壇があり、方形壇上の周囲には二重口縁壺が置かれていた。また、方形壇は直径30cm程度の丸太垣約150本で囲まれていたようだ。

 

Z328-Z329.桜井茶臼山古墳.png

竪穴式石室は板状の安山岩を積み上げ、その石材は全面水銀朱が塗られており、水銀の使用量は200Kg程度と推定され、国内の古墳では最大である。石室は盗掘を受けていたが、コウヤマキの木棺が据えられており、副葬品は鏡・玉製品・石製品・武器・利器の断片のみがあった。鏡は三角縁神獣鏡26面を含む81面が確認されている。鏡片の中に「是」の文字があり、3次元レーザー計測の結果、群馬県高崎市の蟹沢古墳出土の「正始元年」銘の三角縁神獣鏡と同じ鋳型から造られていることが分かった。正始元年(240年)は邪馬台国の女王・卑弥呼のもとに魏の使者が訪れた年である。桜井茶臼山古墳から碧玉製の玉杖が4本分出土しており、それはメスリ山古墳出土の4本の碧玉製玉杖と同じ鉄芯で連結された構造である。石製装飾品では石釧・車輪石・鍬形石があり、武器では鉄剣・鉄鏃・銅鏃が出土している。桜井茶臼山古墳には副室が2ヶ所あることが分かっているが未発掘である。メスリ山古墳では副室から多くの副葬品が出土しており、桜井茶臼山古墳の副室の副葬品にも期待される。

 

桜井茶臼山古墳の特徴は、墳丘に飾られたものが特殊器台や埴輪ではなく、二重口縁壷である点である。二重口縁壷にも色々なタイプがあるが、茶臼山型と称される二重口縁壷は、口縁の屈曲部がラッパのように外側に開き、太く短い頸部を持ち、製作時から底部に孔をあけている特徴を持っており、これと同じものが箸墓古墳の前方部から出土している。明治大学名誉教授の大塚初重氏は「箸墓古墳の後円部の特殊器台と前方部の埴輪(二重口縁壷)には、考古学的な時間差がある。まず、後円部で埋葬時に吉備の土器が供献され、5年か10年後、前方部で埴輪を置き墓前祭のような葬送儀礼が行われていたのではないか。」と指摘している。大塚氏の指摘に従えば、箸墓古墳の築造年代を260年としたとき、前方部から出土した茶臼山型二重口縁壷は270年頃に供献されたものであることになる。

 

桜井茶臼山古墳は二重口縁壺(270〜369年)、石製装飾品(270〜379)から前期の古墳と判定できるが、築造年代決定の決め手がない。桜井茶臼山古墳から1.7km離れたメスリ山古墳と比較すると、墳形はどちらも柄鏡式、副葬品の種類はその数量を別にすると似かよっている。メスリ山古墳の築造年代は、埴輪Ⅱ式(280〜339年)と佐紀陵山古墳(290年)の方形壇の構成比較から280年と比定した。これを基準とすると、桜井茶臼山古墳の後円部にある方形壇を取り囲む構造(二重口縁壷列+丸太垣)が、メスリ山古墳の円筒埴輪列より古く考えられ、桜井茶臼山古墳の築造年代270年と比定することが出来る。


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67-23.桜井茶臼山古墳の被葬者は姫蹈鞴五十鈴姫命 [67.古墳時代は前方後円墳の時代]

桜井茶臼山古墳は三輪山の頂上を真北に見上げる位置にある。御神体を三輪山と拝する大神神社は日本最古の神社であり、主祭神が大物主神、配祀神が大己貴神、少彦名神である。『日本書紀』神代上の出雲神話では、「大己貴神が幸魂奇魂を大和の三諸山(三輪山)に宮を造って住まわされた。これが大三輪の神である。この神のみ子は賀茂たち・大三輪の君たち、また姫蹈鞴五十鈴姫命である。」とある。『書紀』の一書には「大国主神は、大物主神とも、また大己貴神ともいう。」とある。三輪山・大神神社は出雲と関係が深いことが分かる。桜井茶臼山古墳から初瀬川を2km遡った地区は「出雲」という地名が残っている。

 

壬申の乱で高市県主許梅が神がかりして、「神日本磐余彦天皇の陵に、馬や種々の武器を奉るがよい」と言い、許梅を参拝させ、馬と武器を奉納した御陵こそ、このメスリ山古墳と考えた。桜井茶臼山古墳はメスリ山古墳から1.7km離れ、墳形が同じ柄鏡式で、副葬品の種類はその数量を別にすると似かよっており、古墳の築造年代も270年と280年と近似している。これらより、桜井茶臼山古墳の被葬者は神日本磐余彦天皇(神武天皇)の皇后である姫蹈鞴五十鈴姫命と考える。

 

桜井茶臼山古墳の後円部墳頂の方形壇上の周辺に飾られていた二重口縁壷のルーツは、弥生時代の終わりから古墳時代の初め頃、出雲を中心とする山陰地方の遺跡から出土する鼓形器台にあると考える。写真Z 340は、出雲市下古志遺跡の弥生時代後期後半の地区から出土した鼓形器台と丸底の甕・壺である。鼓形器台が丸底壺の口縁となれば、Z341の茶臼山型二重口縁壷が出来上がる。鼓形器台は纏向遺跡からも出土している。

 

Z340-Z341,鼓形土器と二重口縁壷.png


Z342.桜井茶臼山古墳石室.png桜井茶臼山古墳の竪穴式石室はZ342のように板状の安山岩を積み上げ、その石材は全面水銀朱が塗られており、水銀の使用量は200Kg程度と推定されている。この水銀朱の産地推定の試みが同位体分析法(硫黄同位体・水銀同位体・鉛同位体)を用いて行われ、その結果が橿原考古学研究所発行の「青陵」136号に記載されている。「硫黄同位体比分析と水銀同位体比分析では、中国産と日本産は明らかに異なった値が得られ、桜井茶臼山古墳出土朱は日本産の可能性が高いと考える。しかし、硫黄同位体比分析では徳島県水井鉱山産と奈良県大和水銀鉱山産が区別できず、桜井茶臼山古墳出土朱は両者のどちらか区別できなかった。一方、水銀同位体比分析では奈良県産の可能性が示唆された。さらに、奈良県産と徳島県産で値が異なった鉛同位体比二次元グラフからは、奈良県産もしくは三重県産(丹生鉱山)の可能性が示唆された。これらのことを考え合わせると、桜井茶臼山古墳出土朱は奈良県産の可能性が高い。」としている。

 

また、報告書では「桜井茶臼山古墳では多量の朱が用いられたと考えている。これだけの量の朱を用いるためには、長い年月をかけて多量の朱を精製し、保管していた可能性が高い。」とある。これは水銀鉱山の鉱脈から丹砂(辰砂・朱砂)を採りだし、朱を精製することを想定している。話しは変わるが、私はマレーシアの第三の都市イポーを訪れた事がある。イポーの空港に飛行機が着陸する時、眼下に青色した小さな池を沢山見た。これらの池は錫鉱石を採掘した跡だそうだ。イポーは錫の産地として有名で、山には錫鉱山が存在するが、平地にも、河川が運んだ錫鉱石(錫石:比重7)が堆積した所があり、それを採掘している。丹砂の比重は約8で岩石の2.5倍重い、錫石と同様に河川に流された丹砂は集積する。古代においては丹砂の鉱脈を山中で探すより、河川で丹砂を採取する方が簡単だったと思われる。

 

桜井茶臼山古墳から出土した朱の産地とされる大和水銀鉱山産は、宇陀市菟田野にあった鉱山で、明治時代に露頭(地表に現れた鉱脈)が発見され採掘が始まっている。大和水銀鉱山のある芳野川流域には、大和水銀鉱山以外にも6ケ所の水銀鉱山があり、隣の宇陀川流域にも2ヶ所の水銀高山があった。芳野川・宇陀川には太古の昔から丹砂が水の澱む所に集積していたと思われる。小さなバケツ(5リットル)に丹砂を入れると、砂は岩石の約3倍の嵩になるので5000x1/3x8=1333g、約1.3kgの重量となる。桜井茶臼山古墳の200Kgの朱は、異物の混入を考えれば、小さなバケツ約300杯の丹砂があれば良い。丹砂の集積があれば数ヶ月採集できる量である。

 

『書紀』神武紀の神武東征途中の宇陀の地で、「宇陀川の朝原で水の泡がかたまりつく所があった。」「沢山の平瓮で水なしに飴を作ろう、もし飴が出来ればきっと武器を使わないで天下を平定することが出来る。」「厳瓮を丹生の川に沈めよう。もし魚が浮いて流れたら、この国を平定出来る。」とある。これらの文章は、次のように解釈することが出来る。宇陀川の流れが澱む所に丹砂が集積していた。平瓮(平底の杯)でこれをすくい、ゆすって丹砂のみを採取した。丹砂を厳瓮(御神酒瓮)に入れて400度程度に加熱すると、水銀蒸気と亜硫酸ガスが発生した。厳瓮を川に沈めると、亜硫酸ガスが水に溶け魚が死んで浮かんできた。厳瓮の底には水銀が出来ていた。この水銀を平瓮に取り出すと、水飴のようであった。宇陀川の丹砂がベンガラ(酸化鉄)でなく、本物の水銀朱であれば、国中の豪族が求めるものであり、武器を使わないで天下を平定することが出来る。「縮900年表」では、磐余彦尊(神武天皇)が宇陀の地に辿り着いたのは238年(戊午)の年である。270年に築造された桜井茶臼山古墳、神武天皇の皇后姫蹈鞴五十鈴姫命の陵に宇陀で産出する朱が200kg使われているのも当然のことである。


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