SSブログ

73-18.製鉄の開始は古墳時代中期の始まり、4世紀後葉 [73.日本の製鉄(製錬)の始まりは何時か?]

『岡山県埋蔵文化財調査報告150 高塚遺跡・三手遺跡』の「まとめ」にある「古墳時代中期の土器」を読むと、フロヤⅠ区の製煉滓が出土した竪穴住居47、炉跡とがあったとされる竪穴住居28からは、土師器甕B1類が出土している。甕B1類は、大庭寺遺跡TG232号窯灰原の下層の土師器に類似しており、TG232号に近い時期と思われると記載してある。陶邑の田辺編年で初期須恵器はTG232・TK73・TK216である。高塚遺跡で製錬を伴なう製鉄が始まったのはTG232に近い時期、古墳時代中期の始まりの年代である。なお、古墳時代中期は円筒埴輪Ⅳ式(通説はⅢ式・Ⅳ式)と考えている。

 

私は3294基の古墳データ(前方後円墳1922基)より、143種の遺構・遺物の編年を行っている。私の「古墳の遺構・遺物の編年表」によれば、TG232は380~389年で、380年より古墳中期が始まることになる。因みに、高塚遺跡から2kmにある造山古墳は、墳長360mの前方後円墳で全国第4位の規模である。造山古墳からは円筒埴輪Ⅲ式(340-379年)と埴輪Ⅳ式(380-469年)が出土しており、埴輪の焼成が野焼きから窖窯(あながま)に変わった380年前後と考える。巨大な前方後円墳・造山古墳が築造された頃、その傍の高塚遺跡で我国初めての製鉄が行われた。古墳時代中期の始まりに、須恵器・馬具・鋲留短甲が新たに登場している。そして、当時倭国が最も欲しがっていたと推察される製錬を伴なう製鉄も、古墳墳中期の始まりに登場しているとすれば、大きな時代のうねりを感じる。

 

Z475.国宝七支刀.png奈良県天理市の石上神宮の御神宝である国宝の七支刀には金象嵌の60余字が彫られている。これらの金象嵌には「泰和四年五月十六日、丙午正陽に百練鋼の七支刀を造る。」「百済(滋)王の世子貴須(奇生)聖音は倭王旨の為に造る。」とある。七支刀が製作された年を「泰和四年」と示している。中国の年代で「泰和」という年号はないが、通説では東晋の太和四年(369年)と考えられている。369年と言えば、百済は肖古王(346~375年)の時代である。

 

『書紀』神功52年に「久氐らは千熊長彦に従ってやってきた。そして七枝刀一口、七子鏡一面、および種々の重宝を奉った。そして、「わが国の西に河があり、水源は谷那の鉄山から出ています。その遠いことは七日間行っても行きつきません。まさにこの河の水を飲み、この山の鉄を採り、ひたすらに聖朝に奉ります。」と申し上げた。そして、孫の枕流王に語って・・・それ以後毎年相ついで朝貢した。 」とある。この文章に出てくる「七枝刀」が、石上神宮の「七支刀」であることは、間違いないであろう。『書紀』の「孫の枕流王に語って」からすると、百済の王は枕流王の祖父の「肖古王」となる。

明治時代の歴史学者那珂通世氏は、『書紀』の神功紀と応神紀にある百済記から引用された記事の年月が、『三国史記』に記載された年月と比較すると干支2廻り、120年繰り上げられていることを発見している。『書紀』の編年に従えば「神功52年」は252年(壬申)である。これを干支2廻り繰り下げれば372年(壬申)となる。石上神宮の「七支刀」の金象嵌と『書紀』神功52年の記事を合わせると、百済の肖古王は、369年に七支刀を造り、372年に倭王に奉じたことが分かる。この時、倭国は百済で製錬を伴なう製鉄が行われていることを知ったのであろう。

 

『古事記』応神記には「百済の国主照古王、牡馬壱疋・牝馬壱疋を阿知吉師に付けて貢上りき。また横刀と大鏡とを貢上りき。また百済国に『若し賢しき人あらば貢上れ』とおほせたまひき。かれ、命を受けて貢上りひと、名は和邇吉師、すなはち論語十巻・千字文一巻、并せて十一巻をこの人に付けてすなはち貢進りき。また手人韓鍛名は卓素、また呉服の西素を貢上りき。」とある。一方、『書紀』応神15年には「百済王は阿直岐(あちき)を遣わして良馬二匹を奉った。・・・天皇は上毛野君の先祖の荒田別・巫別を百済に遣わして王仁を召された。」とある。『古事記』と『書紀』の記事は、百済国主=百済王、牡馬壱疋・牝馬壱疋=良馬二匹、阿知吉=阿直岐、和邇=王仁であり、両者は全く同じ話である。『書紀』には百済国王の名がないが、『古事記』は百済王を照古王としている。百済の肖古王が牡馬と牝馬の二匹を応神天皇に献上したことが分かる。

 

Z476.金銅透彫鞍金具.png応神天皇陵(誉田御廟山古墳)の前方部の近くに陪塚の誉田丸山古墳から江戸時代に金銅透彫鞍金具が前輪・後輪の対で2具分出土し、誉田八幡宮に納められ国宝となっている。両具共に龍をアレンジした唐草模様の透かし彫りで、朝鮮半島や中国東北地域との関わりが推定されている。私は丸山古墳から出土した鞍は、『書紀』応神15年に百済の肖古王から応神天皇に奉った牡馬と牝馬の二匹に装着していた鞍で、いかり肩のような角ばった1号鞍が牡馬用、なで肩のように丸みをおびた2号鞍が牝馬用のものであったと想像している。

 

当時、倭国が最も手に入れたかつた技術の一つが、製煉を伴なう製鉄の技術であった。応神天皇は百済の肖古王に製鉄技術者の派遣を要請したと推察する。それによって遣わされたのが韓鍛()の手人の卓素であった。その時期は、肖古王が倭王に七支刀を供した372年から、肖古王が薨去した375年の間であったと思われる。高塚遺跡の製鉄遺構から、製鉄が始まったのは古墳時代中期の始まり、380年頃としたが、卓素が我が国に到来した頃と一致する。卓素が我が国に製鉄技術を伝えたと考える。

 

応神陵古墳(誉田御廟山古墳)は墳長420mの前方後円墳で、全国第2位の規模である。築造年代は外堤外側から出土した須恵器TK73(390-409)により、390年~409年に絞り込めると考える。応神陵古墳の陪塚の一つだと確実視されているアリ山古墳は一辺45mの方墳で、応神陵古墳の二重濠外堤に接して築かれており、おびただしい量の鉄器(鉄斧134個、蕨手刀子151個、鉄鑿90個、鉄鎌201個、鉄鍬先49個、鈎状鉄器412本等)が出土している。これらの鉄器は、国内で製鉄された鉄素材から作られたものではないかと想像する。我国で製錬を伴なう製鉄が行われたのは、四世紀後葉の古墳時代中期の始まり(円筒埴輪Ⅳ式・須恵器の登場)の時期である。


nice!(2)  コメント(0) 

74-1.「倭の五王」の比定は完結した [74.「記紀」で解く「空白の世紀」の150年]

日本の古代史を明らかにする手がかりは、二冊の中国の歴史書に求められている。その一冊が「卑弥呼」の登場する『魏志』倭人伝であり、そしてもう一冊が、「倭の五王」が登場する『宋書』倭国伝である。邪馬台国の卑弥呼が魏と交わったのが3世紀前半であり、倭の五王が中国の南朝と好を結んだのが5世紀である。3世紀半ばから5世初めまでのあいだ、すなわち、『晋書』武帝紀記載の「泰始二年(266年)、倭人来たり方物を献ず。」の記述から、同じく『晋書』安帝紀の「義熙九年(413年)、高句麗・倭国および西南夷銅頭大師並びに方物を献ず」の記述までの約150年間、中国の史書には倭国に関する記載事項はなく、「空白の世紀」と呼ばれている。

 

『宋書』 は513年に没した沈約の撰によるもので、中国の南北朝時代の南朝に起こった宋(420~478年)の史書であり、五世紀に倭より中国に朝献した倭国王「讃・珍・済・興・武」、通称「倭の五王」について詳しく書いてある。倭の五王については、「宋書」より後に書かれた「梁書」「南斉書」「晋書」にも記載されてあるが、宋書の倭国伝の、資料的価値が一番高いと考えられている。この「倭の五王に」ついては、明治・大正・昭和の多数の学者が「魏志倭人伝」と同様「宋書倭国伝」の解釈に頭を悩まし続けてきた。

 

倭の五王の比定は江戸時代の儒学者松下見林によって扉が開かれた。松下見林は倭の五王の名と天皇の諱(いみな)とを字の意味と字の形について比較し、讚は履中天皇、珍は反正天皇、済は允恭天皇、興は安康天皇、武は雄略天皇に比定した。著名な儒学者の新井白石は字の音の類似を比較し、松下見林と同じ結論に達している。そして、国学者の本居宣長は『日本書紀』の紀年から、五王の遣使は天皇の事績ではないとして、讚・珍・済は允恭天皇の代、興と武は雄略天皇の代のことであるとした。

 

 明治時代には、那珂通世が『書紀』の神功・応神紀に記された百済王は,干支二廻り(120年)繰下げると年代が一致することを見つけた。そして自らの年代論をもとにして、讚は履中天皇、珍は反正天皇、済は允恭天皇、興は安康天皇、武は雄略天皇と江戸時代の儒学者と同じ比定を行っている。政府の修史局(歴史編纂事業)にいた星野恒は、「崇神帝以後の年代は古事記に従えば大差なきに近し」と紀年表を発表した。これを見た那珂通世は讚を履中天皇から仁徳天皇へと修正すると発表している。

また、修史局にいた菅政友は、『宋書』の「済死す。世子興遣使」の世子とは日嗣(ひつぎ)の皇子を意味するとして、興は履中天皇の第一皇子の市辺押磐皇子であるとの説を発表した。興については、修史局にいた久米邦武が、允恭天皇の長男で同母妹の軽大娘皇女と通じたとして次男の穴穂皇子(後の安康天皇)によって廃された木梨軽皇子であるという新説を出している。明治時代には、讚は仁徳天皇、珍は反正天皇、済は允恭天皇、武は雄略天皇であることは固まっている。

 

 昭和時代の戦後、東洋史学者の前田直典は『宋書』倭国伝の武の上表文にある祖禰にも注目し、讚は応神天皇という説を発表している。この説は一時定説になった感があったが、数年後には橋本増吉、近藤啓吾、丸山二郎、井上光貞などの著名な歴史学者の反論に会っている。倭の五王の比定は今にいたっても定説がないという状態である。

 

Z477.倭の五王の比定.png2021年7月の「72-.『古事記』の編年と倭の五王」で、私は『古事記』記載の仁徳・履中・反正・允恭天皇の崩御年の通説にプラス5年すると、『宋書』倭国伝・帝紀の記載と矛盾なく、讚は仁徳天皇、珍は反正天皇、済は允恭天皇、興は安康天皇、武は雄略天皇に比定できることを発見した。表Z477を見れば一目瞭然で、これは古代史解明の快挙であると自負している。


nice!(2)  コメント(0) 

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。