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73.日本の製鉄(製錬)の始まりは何時か? ブログトップ

73-1.垂仁天皇は剣一千口を造らせた [73.日本の製鉄(製錬)の始まりは何時か?]

『日本書紀』垂仁39年の条に「五十瓊敷命は、茅渟の菟砥の川上宮においでになり、剣一千口を造らされ、石上神宮に納めた。」とある。『古事記』の垂仁天皇記には「イニシキノイリヒコ命は鳥取の川上宮においでになって、大刀一千口を作らせて、これを石上神宮に奉納した。」とある。

この川上宮は大阪府の南部の阪南市にあったと考えられている。阪南市には鳥取が付く地名が現在も残っている。奈良時代の法隆寺の『伽藍縁起并 流記資材帳』には「和泉国日根郡鳥取郷」とあり、鳥取は古来からあった地名であることが分る。

 

古代の製鉄工程は、鉄鉱石や砂鉄から荒鉄(生鉄・鉧・銑鉄)を取り出す「製錬」、荒鉄から不純物を取り除き炭素調整をして鉄素材を造る「精練鍛冶」、鉄素材を鍛造成形や熱処理をして鉄製品を造る「鍛錬鍛冶」に分けられている。垂仁天皇が造らせた剣一千口が史実とするならば、それは鉱石から製錬・精錬・鍛錬の工程を経て造られたことを伝えている。

 

阪南市の北端を流れる男里川は菟砥川と山中川に分れ、山中川の山間部は山中渓谷と呼ばれ、熊野古道紀伊路が通っていたところで、古来から和歌山市に通じる道があった。山中渓谷を3km遡った標高80m程度の所には、今はもう無くなったが昔は大阪の奥座敷と呼ばれた山中渓温泉があった。温泉は「川の傍らに冷泉が沸く」言い伝えられていたそうだ。川上宮はこの冷泉と関わる地にあったように思われる。菟砥川は後世に付けられた名前であろう。

 

阪南市の男里川・山中川を挟んでほぼ接しているのが泉南市。泉南市教育委員会のウエブサイト「せんなんのたからもの」には、壺石が泉南市信達岡中で昭和30年代に採取されたことが載っている。壺石は鳴石・鈴石あるいは高師小僧と呼ばれる、水酸化鉄の集合体である褐鉄鉱の一種で、形成のメカニズムには、水中の鉄イオンの沈殿による無機説や鉄バクテリアがかかわる有機説などが提唱されている。イギリスの古代の製鉄は、そのほとんどが湖沼鉄(Bog Iron)と呼ばれる褐鉄鉱をの原料として製錬している。この壺石(褐鉄鉱)は製鉄の原料として成りえるのである。

泉南市壺石.png

 

壺石が採取された泉南市信達岡中は山中川に沿った地域である。川上宮があったと推定される地域で、大刀一千口を造らせたとする鉄の原料となる褐鉄鉱の壺石が多量に存在していたことは製錬を伴なう製鉄が行われていたのではないかと想像できる。後は製鉄の製錬があったと思われる鉄滓や羽口が出土する遺跡があれば、記紀の記述が証明できたことになる。菟砥川と山中川に挟まれた阪南市自然田に亀川遺跡がある。亀川遺跡は、弥生・古墳前期・古墳後期・奈良時代を通じて存在していた息の長い遺跡である。しかし、亀川遺跡からは製鉄が行われたという鉄滓や羽口の出土はなく、「鳥取の川上宮においでになって、大刀一千口を作らせた。」ということが史実であったことは証明出来ない。

 

前章の「72-11.神武天皇は三角縁神獣鏡を携えて東征した」で示した「記紀年表」からすると「垂仁39年」は303年にあたる。我が国の製錬を伴なう製鉄が行われたのは古墳時代後期の6世紀中半から後半にかけてというのが通説である。古墳時代前期・中期、5世紀以前に製錬を伴なう製鉄が行われたということを見つける旅に出発する。 


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73-2.景行天皇は鉄を求めて行幸した [73.日本の製鉄(製錬)の始まりは何時か?]

『日本書紀』景行4年(314年)に、景行天皇は美濃に行幸され泳宮に滞在している。美濃への行幸の目的が何であったかは記載されていないが、この地で美人の誉れの高い弟媛を召され、姉の八坂入媛を妃としている。八坂入媛の第1子稚足彦が成務天皇である。泳宮(くくりのみや)は岐阜県可児市久々利にあったとされている。万葉集にも泳宮は「百岐年三野之國之高北之八十一隣之宮尓・・・(ももきね 美濃の国の 高北の 泳宮に・・・)と詠まれている。「八十一隣之宮」が何故「くくりのみや」なのか調べてみたら、掛け算で九✕九=八十一、「八十一隣之宮」は「九九隣之宮」であった。万葉集が成立した8世紀に、掛け算の九九が使われていたことは驚きである。

 

奈良県飛鳥池遺跡出土の木簡に「加尓評久々利五十戸丁丑年十二月次米三野国」とある。飛鳥浄御原宮の時代の木簡で、干支「丁丑」は天武6年(677年)にあたる。三野国加尓評久々利(美濃国可児郡久々利)は飛鳥時代には存在していたことが分る。可児市は“かにし”と呼ばれているが、「加尓評」の「尓」は“ニ”と呼ばれていたか“ジ”と呼ばれていたか定かではない。私は加尓評はカジ評で、“鍛冶(かじ)”に由来する地名であると思っている。なお、平城京から出土した木簡に「国司従五位下鍛冶造大隅」「間食一升鍛治相作料」とあり、“鍛冶(かじ)”も古くから使われていた言葉である。景行天皇は鉄を求めて美濃の泳宮に行幸したと想像する。可児市にある次郎兵衛塚1号・5号、稲荷塚2号からは鉄滓が出土している。これらの古墳は横穴式石室を伴ない、古墳後期のものである。残念ながら可児市には景行天皇の時代、古墳前期の製鉄遺跡や遺物は発見されていない。

 

Z452.景行天皇九州遠征.png『日本書紀』景行12年に、景行天皇は「熊襲がそむいて貢ぎ物を奉じなかった」と筑紫(九州)遠征をし、周芳の婆麼(山口県防府市佐波)から筑紫に向かっている。防府市の佐波川河口から約50Km遡った地点から栃山峠を越えた山口市阿東町地福に突抜遺跡がある。突抜遺跡の弥生時代末~古墳時代初頭の住居跡から鉄器・鉄滓・砥石が出土している。鉄滓の分析値からすると、鍛錬鍛冶に使用された鉄素材の始発原料は鉱石であった。突抜遺跡のある阿東町徳佐には時代不詳の小南製鉄遺跡がある。遺跡は後谷堤(河川跡)に流れ込む小川の右岸および堤の斜面に鉄滓と炭が円形に散乱していた。鉄滓の分析値から鉱石を原料とする製錬が行われていたことが分る。小南製鉄遺跡の近くには弥生環濠集落の宮ヶ久保遺跡があり、弥生中期中葉~末の土器や弥生時代末~古墳時代初頭の土器が出土している。突抜遺跡の鉄素材は小南製鉄遺跡で製錬された鉄塊が使用された可能性は十分ある。小南製鉄遺跡出土の炭の14C炭素年代測定をすれば、弥生時代の鉄製錬の存在が証明されると思われる。景行天皇は周防で鉄が取れることを知っていたのかも知れない。


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73-3.景行天皇の時代に弁辰の鉄の供給が途絶えた [73.日本の製鉄(製錬)の始まりは何時か?]

Z452.景行天皇九州遠征.png景行天皇の行程は図Z452に示すように、周芳の婆麼から船で豊前国の長狭県に渡り行宮を建て、その地を京(福岡県京都郡・行橋市)と呼んでいる。それから碩田国の速見邑(大分県速水郡・別府市)に至り、禰疑野(竹田市菅生)にいる土蜘蛛を討伐しようと、直入県の来田見邑(大分県直入郡・竹田市)に向かっている。稲葉の川上(稲葉川:竹田市)で、海石榴(つばき)の木で作った椎(つち)で土蜘蛛を討った。椎を作った所を海石榴市、血の流れた所を血田という。『豊後風土記』では、海石榴市も血田も大野郡(大野川中流域)にあるとしている。その後、景行天皇は日向国の高屋宮(西都市)の行宮に入られた。景行天皇は日向で大隅半島の襲国(鹿児島県曾於郡)を平定したあと、九州巡幸を行っている。その道中で玉杵名邑(熊本県玉名市)で土蜘蛛を殺し、阿蘇国(熊本県阿蘇町)を巡り、御木(福岡県三池郡高田町)の高田の行宮に着かれている。熊本県玉名市から阿蘇町に行くには菊池川を遡り、鹿本町から支流の合志川を遡上し、大津町に出て阿蘇外輪山が途切れる立野より阿蘇谷(阿蘇盆地北部)の阿蘇町に入るルートと考えられる。景行天皇の九州遠征経路図を見て、不思議に思うことがある。それは、大分県側と熊本県側から阿蘇山に向かって内陸部に行っていることだ。

Z453.弥生時代の鉄器.png
表Z453は『邪馬台国と玖奴国と鉄』菊池秀夫(2010)に記載された、弥生時代の九州の武器類鉄器の遺跡ベスト20を示したものである。⑤の徳永川の上遺跡は福岡県京都郡豊津町に在る。大分県では、⑫の守岡遺跡と⑬の下郡遺跡は大分市を流れる大分川下流の川沿いにある。⑰の小園遺跡と⑱の上菅生B遺跡は竹田市の大野川上流域近くにある。⑲の二本木遺跡、⑥の高添遺跡と⑮の高松遺跡は大野川中流域にある。そして、宮崎県では②の川床遺跡は西都市に隣接する新富町にある。熊本県では、⑦の方保田東原遺跡は菊池川沿いにあり、①の西弥護免遺跡は大津町にある。③の狩尾湯ノ口遺跡、④の池田・古園遺跡と⑧の下山遺跡は阿蘇町にある。図Z452にある
はこれらの遺跡である。景行天皇の行程は武器類鉄器の主要な遺跡がある地域を巡っている。弥生時代の九州の武器類鉄器の遺跡ベスト20のうち14遺跡が、景行天皇の九州遠征経路に入っている。

 

話は変わるが『魏志東夷伝』弁辰条には、「国には鉄が出て、韓、濊、倭がみな、従ってこれを取っている。諸の市買ではみな、中国が銭を用いるように、鉄を用いる。また、二郡にも供給している。」とある。この弁辰の鉄が、弥生時代の後期後半、3世紀にわが国に入って来た鉄素材の斧状鉄板(板状鉄製品)である。4世紀に入り西晋(280~316年)が弱体化すると、朝鮮半島の勢力図は一変する。北部にあった高句麗は南下政策を取り、313年に楽浪郡を、その翌年には帯方郡を滅ぼした。また、4世紀初め頃には馬韓から百済が興り、辰韓から新羅が興っている。4世紀初め頃には、弁辰の鉄の我国への供給はストップしたと考えられる。


私の編年した「記紀年表」によれば、景行12年は315年となる。弁辰の鉄の供給がストップしたことは、大和王権にとっては重大なことであり、阿蘇地域で製鉄が行われていたことを伝え聞いていた景行天皇は、鉄の素材を求めて九州遠征を行ったと考える。景行天皇が九州遠征を行ったこと、弥生時代に阿蘇地域で製鉄が行われていたことは史実であると考える。

 

2012年の日本考古学協会福岡大会の第1分科会「弥生時代後半期の鉄器生産と流通」の報告書の最後に、「弥生時代の鉄製錬に関しても熊本県阿蘇周辺の弥生時代後期に鉄器を大量に出土する遺跡が、リモナイトの分布地域と一致することなどは事実として指摘できるが、直接両者を結びつけることのできる遺跡はまだ確認できていない。」と記載している。阿蘇地域には弥生時代後期の鉄器や鉄滓などが出土した遺跡は10ケ所ほどあり、その中で狩生・湯ノ口遺跡、池田・古園遺跡、幅・津留遺跡からは多くの鉄滓が出土している。しかし、これらの鉄滓の組成を分析した報告は何故だか見当らない。弥生時代の鉄製錬の存在の有無に大きく関わることだけに残念ことだ。


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73-4.銅鐸を鋳造する技術レベルは鉄の製錬が可能 [73.日本の製鉄(製錬)の始まりは何時か?]

我国の最古の製鉄遺跡とされているのは、岡山県総社市の千引カナクロ谷製鉄遺跡で、年代は出土した須恵器より6世紀後半と判断されている。6世紀後半といえば、古墳時代後期後半で欽明天皇の時代である。我が国の製鉄の始まりがそれほど遅いのかの疑問に、これより以前の製鉄遺跡が出土していないからと言われればそれまでだが、それよりも製鉄技術は非常に高度なもので、弥生・古墳前期・古墳中期の技術レベルでは鉄を造り出すことは出来ないという、先入観に囚われているのではないかと思える。

Z455-1 アフリカの鉄製錬.png
ヨーロッパで鉄の歴史を研究されている学者は、アフリカの原住民の製鉄に興味を持っている。それは、原始的な製鉄方法が垣間見られるからであろう。You Tubeの「Smelting Iron in Africa」の映像がある。この映像は西アフリカのBurkinaで撮られたものであるが、この地方には紀元前にNok Cultureが栄え、製鉄(製錬)が行われていたそうだ。この映像を見ると、目から鱗、日本の考古学者が考えているような炉・炉床がなくとも、鉄の製錬は出来ると推察できる。

 

Z455-2 アフリカの鉄製錬.png

炉を造る材料として粘土を採取し(7)、水を加えてスサ(8)を練りこむ。スサは木の葉(青い人の後ろにある)を利用している。炉の芯はヨシのような枝分かれしていな草の茎の下部の部分を、細い上部の部分で包んで作る(9)。下が大きく、上が小さい炉の形となる。

 

Z455-3 アフリカの鉄製錬.png

 炉の芯を立て表面に粘土を貼り付けて行く(10)。1m程度の高さまで貼り付けたら表面をなで(11)、スサを貼り付け(12)、そして粘土をもう一層貼り付ける。炉の強度を確保するためにはスサが重要である。

Z455-4 アフリカの鉄製錬.png

粘土が乾燥し強度が出てきたら炉芯に使っていた茎を抜き(13)、下部に炉口を切る(14)。炉芯に使っていた茎などを燃やし、炉を乾燥させる。これで炉本体(15)の完成である。

Z455-5 アフリカの鉄製錬.png

丸棒にスサ入りの粘土を巻き付け、羽口(16)・送風管(17)・フイゴ本体(18)を作る。  

Z455-6 アフリカの鉄製錬.png

炉に羽口・送風管・フイゴ本体を取り付け(19,20)、フイゴに革を張る(21)

Z455-7 アフリカの鉄製錬.png

炉に木炭を満杯に詰め、炉口より着火する(22)。木炭に火が付いたら羽口と炉口の隙間を粘土でふさぐ。木炭が燃え炉の頂上に隙間が出来ると、鉄鉱石と木炭を一籠ずつ交互に入れる(23,24)

 

Z455-8 アフリカの鉄製錬.png

 フイゴの操作は一人が右手と左手で交互に行い(25)、人を交代させながら休みなく行われ、木炭・鉄鉱石・オークストーンの投入が行われる。所定の投入が終わると、羽口の周辺に覗きの口を開け、中の様子を伺いながら送風を行い、時期を見てノロ(鉄滓)が流し出さされる(26)。その後、もう少し送風を続け温度を上げると、鉄塊(Bloom)が半溶融状態となる(27)。操業開始から約10時間程度である。

Z455-9 アフリカの鉄製錬.png

製錬の工程が終わると鍛冶の工程にはいる。送風を止め、鉄塊を取り出す。取り出された鉄塊の表面はノロや木炭が付き凸凹している(28)。鉄塊を鉄床の上に置き、鏨を鉄鉗で挟んで鉄槌で打ち切り分ける(29)。表面は黒くなっていても中は赤く、溶岩とおなじである(30)

 

弥生時代に造られた銅鐸で一番大きなものは、滋賀県野洲市大岩山出土の大岩山1号銅鐸と呼ばれているもので、高さ135cm、裾幅49cm×43cm、厚さ約3mmで、重量は45kgである。金属成分を銅鐸の平均的な組成の銅・錫・鉛(85:8:7)の青銅と考えると、比重は8.93で融点は約950である。銅鐸を造るに必要な45kg青銅の体積は5000㎤で、一辺17㎝の立法体の大きさである。鋳込みに必要な溶融温度は融点の10%程度上とされているが、高さ135cm、厚さ約3mmの銅鐸を鋳込むためには、湯(溶融青銅)の流動性を良くしておく必要があり、溶融温度は融点の200程度上の1150℃は必要と思われる。

 

たたら製鉄における炉内温度は1300℃前後である。また、西アフリカの製鉄の映像にあった円筒の炉で製錬された鉄塊の大きさは、一辺17㎝の立法体程度の大きさである。一方、銅鐸を鋳込むとき青銅を溶融させる炉は、鉄の製錬が行われる炉内よりもオープンで温度をあげ難いと思われる。これらを考えると、弥生時代の銅鐸を造る技術(炉・フイゴ・炭)は、製鉄に必要な高温を確保するにレベルにあることが分かる。原料の選別(砂鉄・磁鉄鉱・渇鉄鉱)、炉の構造、製鉄方法を知れば、弥生・古墳前期・古墳中期に原始的な方法で製鉄を行うことが出来ただろうと思える。


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73-5.行者塚古墳の鉄鋌40枚は百済の肖古王の下賜品 [73.日本の製鉄(製錬)の始まりは何時か?]

『日本書紀』神功46年には、卓淳国(韓国大邸市)に遣わされた斯摩宿禰は卓淳の王から百済王が倭国と交流したいと願っていることを聞き、従者の爾波移を百済国に遣わした。百済の肖古王は大変喜んで厚遇され、倭国の使者に五色の綵絹(色染めの絹)各一匹、角弓箭(角飾りの弓)鉄鋌40枚を与えている。百済の肖古王の在位は346~375年であり、神功46年は書紀の編年に従うと246年で年代が合わない。『書紀』の神功46年から応神41年までの百済・新羅・高麗および呉と関連する記事は、干支2廻り繰り上げられており、神功46年は干支2廻り繰り下げた366年で、「記紀年表」では応神5年となる。

 

百済の肖古王は372年、応神11年(神功52年:252+120)に使者久氐を倭国に遣わし、七枝刀一口、七子鏡一面、および種々の重宝を奉ったとある。この七枝刀が奈良県天理市の石上神宮にある国宝の七支刀で、表の金象嵌には泰和4年(東晋太和4年:369年)に七支刀が造られたことを記し、裏の象嵌には百済王が倭王のために造ったことを記している。石上神宮の七枝刀は百済の肖古王が369年に造り、372年に倭国の応神天皇に献じたものであることが分かる。

 

七枝刀を奉ったとき、百済の使者久氐は、「わが国の西に河があり、水源は谷那の鉄山から出ています。その遠いことは七日間行っても行きつきません。まさにこの河の水を飲み、この山の鉄を採り、ひたすらに聖朝に奉ります」と口上している。肖古王の時代、百済の都は漢城(ソウル)であった。ソウルを通って黄海に流れる漢江の上流のに忠州市がある。忠清北道忠州市にある弾琴台土城の発掘調査が2007年に行われ、鉄鋌40枚が出土している。同時に出土した土器は4世紀のものが多く、5世紀初頭までのものであった。

Z456. 弾琴台鉄綖.png

Z457. 行者塚古墳鉄鋋.png我国の5世紀の古墳から鉄鋌と呼ばれる両端がバチ形に広がる鉄板でが、西は福岡・大分から、東は群馬・千葉までの地域から出土している。圧倒的に多いのは近畿地方で、奈良県奈良市のウワナベ古墳の培冢の大和6号墳からは872枚、大阪府羽曳野市の墓山古墳の培冢の野中古墳からは130枚が出土している。鉄鋌が出土した古墳の中で、最も古いのが5世紀初頭とされている兵庫県加古川市の行者塚古墳で、鉄鋌40枚が出土している。行者塚古墳は墳長100m、後円径68mの帆立貝形前方後円墳で盾形の周濠を有し、造出が両くびれ部と後円部左右の4ヶ所にある特異な古墳である。後円部中央に埋葬施設があり3基の粘土槨が据えられている。円筒埴輪はIII(340379)で、ひれつき(280419)のものもあり、盾形埴輪・蓋形埴輪・短甲形(三角板革綴)埴輪(350469)・草摺形埴輪(280459)の器財埴輪、家形埴輪、囲形埴輪が出土している。出土した遺物には、金銅装帯金具(380559)・巴形銅器(290379)の青銅製品、円形鏡板付轡・長方形鏡板付轡・鎮轡の3点の鉄製馬具(380年~ )、鉄刀・鉄鏃・鍬先・鉄鋌の鉄製品がある。なお、(  )に示す数字は3294基の古墳データ(前方後円墳1922基)より、143種の遺構・遺物の編年を行った値である。

 

『書紀』神功46年の記事では、366年に百済の肖古王が倭国の使者爾波移に鉄鋌40枚を賜ったとあり、韓国忠州市にある弾琴台土城からは鉄鋌40枚が出土し、その年代は4世紀から5世紀初頭である。また、5世紀初頭とされている兵庫県加古川市の行者塚古墳から出土した鉄鋌40枚と、3者が40枚と合致していることに興味を覚える。行者塚古墳の築造年代は、埴輪はIII(340379)・巴形銅器(290379)と金銅装帯金具(380559)・鉄製馬具(380年~ )から375~385年であると考える。行者塚古墳の被葬者は斯摩宿禰、あるいは従者の爾波移で、埋納されていた鉄鋌40枚は、366年に百済の肖古王から賜ったものであると想像する。

 

「弁辰と加耶の鉄」(東潮:2003)によると、鉄鋌は4世紀中葉ごろ百済・新羅・加耶の地域で出現する。初期の鉄鋌の形状はバチ形で、6世紀になると小型化し、6世紀中葉ごろには鉄鋌という形の鉄素材が出土資料として認識できなくなるとある。また、我が国の鉄鋌の出現は5世紀の初めで(4世紀中葉頃の流入の可能性も示唆)、古墳への副葬は6世紀中葉頃には無くなっている。8世紀初めに編纂された『書紀』が“鉄鋌”について記載し、その年代が考古学な知見と合致していることは、366年に百済の肖古王が鉄鋌40枚を倭国の使者に賜ったという記事が、史実であったことを証明している。


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73-6.百済からきた卓素は製鉄技術を伝えた [73.日本の製鉄(製錬)の始まりは何時か?]

『古事記』応神記には「百済の国主照古王、牡馬壱疋・牝馬壱疋を阿知吉師に付けて貢上りき。また横刀と大鏡とを貢上りき。また百済国に『若し賢しき人あらば貢上れ』とおほせたまひき。かれ、命を受けて貢上りひと、名は和邇吉師、すなはち論語十巻・千字文一巻、并せて十一巻をこの人に付けてすなはち貢進りき。また手人韓鍛名は卓素、また呉服の西素を貢上りき。」とある。一方、『書紀』応神15年には「百済王は阿直岐(あちき)を遣わして良馬二匹を奉った。・・・天皇は阿直岐に『お前よりも優れた学者がいるかどうか』といわれた。『王仁(わに)というすぐれた人がいます』と答えた。上毛野君の先祖の荒田別・巫別を百済に遣わして王仁を召された。」とある。『古事記』と『書紀』の記事は、百済国主=百済王、牡馬壱疋・牝馬壱疋=良馬二匹、阿知吉=阿直岐、「賢しき人あらば」=「優れた学者がいるかどうか」、和邇=王仁であり、両者は全く同じ話である。『古事記』は百済王を照古王(しようこおう)とあるが、『書紀』には百済国王の名がない。倭国は応神天皇(362~390年)で、百済は肖古王(346~375年)の時代である。「記紀年表」によれ応神15年は373年となる。Z458.丸山古墳鞍金具.png

 

応神天皇陵(誉田御廟山古墳)の前方部の近くに陪塚の誉田丸山古墳(円墳:墳径50m✕高さ7m)がある。この古墳から江戸時代に金銅透彫鞍金具が前輪・後輪の対で2具分出土し、誉田八幡宮に納められ国宝となっている。両具共に龍をアレンジした唐草模様の透かし彫りで、朝鮮半島や中国東北地域との関わりが推定されている。私は丸山古墳から出土した鞍は、応神15年(373年)に百済の肖古王から応神天皇に奉った牡馬と牝馬の二匹に装着していた鞍で、いかり肩のような角ばった1号鞍が牡馬用、なで肩のように丸みをおびた2号鞍が牝馬用のものであったと想像している。

 

『記紀年表』による応神5年(366年)から応神12年(373年)の百済との交流により、倭国の文化は大きく変わった。私の「古墳の遺構・遺物の編年表」によれば、380年より古墳中期になり、円筒埴輪は野焼きから窖窯(あながま)での焼成となり、須恵器・馬具・鋲留短甲が新たに登場している。当時、倭国が最も欲した技術は、製錬を伴なう製鉄の技術であったと考えられ、百済からやって来た「手人韓鍛名は卓素」がその技術を伝えたのではないかと想像する。


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73-7.始発原料(砂鉄・鉱石)判定の信頼性は99% [73.日本の製鉄(製錬)の始まりは何時か?]

我国最古の製鉄遺跡は岡山県総社市の千引カナクロ谷製鉄遺跡で、年代は出土した須恵器より6世紀後半と判断されている。これらより、我が国で製錬を伴なう製鉄が行われたのは、6世紀後半以降となっている。私がこの通説を覆す証拠を見つけることが出来るのは、鉄滓の分析値からのみである。鉄滓の始発原料(砂鉄・鉱石)が何であるか、また製鉄工程(製錬・精錬・鍛錬)の何が行われたかを分析値から判定する基準は明確でなく、その判定は金属学に精通した分析の専門家に委ねられている。信頼性のある明確な判定の基準を設定して、5世紀以前に製錬を伴なう製鉄が行われたという証拠を示したい。

 

Z459.始発原料の判定.png「66-10.鉄滓の始発原料の見分け方」で記載したように、鉄滓の分析データを整理している中で、原料・製錬滓・精錬鍛冶滓・鍛錬鍛冶滓・鉄塊に含まれる二酸化チタン(i2)と酸化マンガン(n)の両者の比率はそれほど変わらないことに気がついた。そして、Ti2/MnOが2.5以上であれば始発原料は砂鉄、2.5以下であれば鉱石と判定できることを発見した。図459は、分析者と私の判定が合致したものについて、原料・鉄滓・鉄塊のTi2/MnOと全鉄量(Total Fe)の関係を表したものである。なお、が砂鉄でが鉱石であり、グラフを見やすくするために縦軸は対数目盛にしている。Ti2/MnOの指標が有効であることが一目瞭然である。なお、全鉄量(Total Fe)が20%以下の鉄滓は、炉床・炉壁の粘土と反応しガラス質になっており、粘土の成分の影響を受けており、始発原料判定の対照から外す必要がある。

 

この指標の信頼性を確かめるには、原料の判定が一番である。私が集めた原料のデータは130点で、砂鉄が75点、鉱石が55点である。Ti2/MnOが2.5以上であれば始発原料は砂鉄、2.5以下であれば鉱石とする判定基準で原料を判定すると、砂鉄を鉱石と判定したものが3点、鉱石を砂鉄と判定したものが1点であった。砂鉄の判定を間違えた3点は真砂砂鉄と呼ばれる砂鉄で、その中でも日本刀の原料となる特に不純物の少ないものであった。真砂砂鉄は磁鉄鉱系を主成分とする砂鉄で、不純物の少ない優れた鉄源で産出地は山陰側の一部に限られてる。この真砂砂鉄を見分ける方法として、砂鉄の特有のバナジュウム()を指標に取り入れることにした。新たに定めた指標では、砂鉄の条件はTi2/MnOが2.75以上、またはTi2/MnOが1.5以上でバナジュウム()が0.1以上である。この判定基準では真砂砂鉄も全て合致し、不合致だったのは岡山県赤磐郡瀬戸町の池尻遺跡から出土した鉄鉱石1点のみであった。この鉄鉱石はTi2・V・Cr・Al23・MgOなどの不純物の多い特徴をもったものであったため、鉱石を砂鉄と判定したものであった。

 

Z460.始発原料判定結果.png私は全国(北海道・沖縄除く)の248遺跡の1019点の原料・鉄滓・鉄塊の分析値をデータベースに持っている。私の判定基準に従えば1019点全ての始発原料(原料を含めて)を判定することができる。鉄滓・原料・鉄塊の始発原料について分析者の判定と私の判定を比較したのが表460である。表の製鉄工程は分析者によるもので、椀形滓は精錬滓・鍛錬滓に分類していなかったもののみを示している。原料・製錬滓・精錬滓では合致率は99%以上と高い。鍛錬滓・鉄塊で合致率が低くなっているのは、分析者と私のどちらが間違っているのであろうか。分析者の始発原料の判定指標は、二酸化チタン(i2)の含有率を第一にしている。そのため、二酸化チタン(i2)の含有率が少なくなる鍛錬滓や鉄塊では、その判定が困難となる。表Z460の鍛錬滓や鉄塊の未定率が44%,39%と高くなっているのはそのためである。一方、私の判定基準の基本であるTi2/MnOの値は、製錬滓・精錬滓と鍛錬・鉄塊とあまり変わらない。鍛錬・鉄塊の始発原料の判定は、私の判定の方が正しいのではないかと思っている。Ti2/MnOが2.75以上、またはTi2/MnOが1.5以上でバナジュウム()が0.1以上が砂鉄という判定基準の信頼性は99%あると自負している。


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73-8.鉄滓の製鉄工程(製錬・精錬・鍛錬)の分類 [73.日本の製鉄(製錬)の始まりは何時か?]

Z461.天辰分類.png遺跡から出土した鉄滓が、製錬・精錬・鍛錬の何れの製鉄工程で発生したものであるかを知るために化学分析がなされ、その組成から製鉄工程の分類が行われている。ただ、その判別は大澤正己氏等の金属学に精通した分析の専門家に委ねられているのが現状である。天辰正義氏が「出土鉄滓の化学成分評価による製鉄工程の分類」の論文を平成16年に発表している。論文には二酸化チタン(i2)と全鉄量(Total Fe)の関係から、製鉄工程の分類を求める図表が示されてあり、分析の専門家外のものでも理解できるようになった。図461が天辰氏が示した出土鉄滓の工程分類図である。〇付着滓(ガラス質滓)、が砂鉄製錬滓、▲が砂鉄精錬滓、■が鉱石製錬滓、△が鍛錬鍛冶滓(砂鉄・鉱石)である。天辰氏は鉱石精錬滓の領域を定めていないが、鉱石製錬滓と鍛錬鍛冶滓にまたがった領域と推定される。これからすると、i2とT-eの指標では、砂鉄製錬滓は分類できるが、鉱石製錬滓は鉱石精錬滓や鍛錬滓(砂鉄・鉱石)と混じり合い、製鉄工程の分類が出来ない欠点があるのではないかと思える。分析の専門家は顕微鏡下で、製錬・精錬・鍛錬の工程で固有の相・組織を観察して、製鉄工程の分類が行っている。

 

私は始発原料の判定指標にTi2/MnOの値を基本として使用した。それは、砂鉄にはTi2が多く、鉱石にはMnOが多いからである。これらからTi2含有量の評価を小さくし、MnO含有量の評価を大きくして合計したものを指標とすれば、砂鉄製錬滓領域と鉱石製錬滓領域が同じレベルになり、鍛錬滓(砂鉄・鉱石)と明確に区別できることに気が付いた。そして(Ti2/5+MnO*2)とT-eの指標が製鉄工程の分類に有用であることを発見した。ただ指標としては、SQRT(Ti2/5+MnO*2)を使用している。平方根(SQRT)を使用したのは、10以上の大きい値を小さく、1以下の値を大きくして図表を見やすくするためである。なお、この製鉄工程判定指標を今後“製鉄指標”と表記する。

 

Z462.鉄滓の製鉄工程分類.pngこの製鉄指標で、製錬滓・精錬滓・鍛錬滓の分類を何れの値にすれば、分析専門家の判定と相違が少なくなるかを調べ、決定したのが図462である。Aが製錬滓、Bが精錬滓、Cが鍛錬滓の領域である。(AB)領域では製錬滓と精錬滓が共存し、斜線はY=0.04X-0.75Y=0.04X-1である。(BC)領域では製錬滓と鍛錬滓が共存し、横線はY=0.75Y=0.6である。Ⅾ1・Ⅾ2の領域は、鉄滓が炉床・炉壁の粘土と反応し、ガラス質の新たな組成の鉄滓に変質する領域で、分類が出来ない領域とした。これならば、鉄滓の分析値があれば、その全ての製鉄工程の分類が誰にでも出来る。


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73-9.鉄滓の製鉄工程分類の信頼性は88%以上 [73.日本の製鉄(製錬)の始まりは何時か?]

Z463.製鉄工程判定VS.png前節では、鉄滓の分析値があれば、製鉄工程の分類が誰にでも出来る製鉄指標を示した。問題はこの指標の信頼性が高いものであるかどうかである。私はこの指標でもって、全国(北海道・沖縄除く)の217遺跡の718点の全ての鉄滓(砂鉄・鉱石)の製鉄工程を分類した。この鉄滓の中には、工程の判別が出来ないⅮ領域の鉄滓が43点あり、分類出来たのは675点あった。この判定が分析者の分類と相違があるかどうかを調べたのが表463である。合致率は製煉滓の不合致率が響き88%であった。合致した578点の分布を図464の左に砂鉄、右に鉱石を示した。が製錬滓、が精錬滓、が鍛錬滓である。

 

464.砂鉄鉱石工程分類.png

製鉄工程の分類が合致しなかった82点の鉄滓の分布図を図465に示した。合致しなかった鉄滓の中で、BC(精練滓+鍛錬滓)領域の近くに集中してある製煉滓が気になった。図466は原料の分布図で、が砂鉄、が鉱石である。原料を製錬すると、その製錬滓は原料の左上または左の組成となり、出来た精錬系鉄塊は右下または下の組成になることが予想される。BC領域の近く製煉滓は、図466の右下にあるTi2とMnOの少ない原料を製錬して出来たものと考えられる。これらの製錬滓に鉱石系のものが多いのがそれを証明している。合致率が88%と上がらなかったのも、これらが大きく影響していた。

 Z465.466NG・原料分布図.png

私の目的は5世紀以前に製錬を伴なう製鉄が行われたという証拠の鉄滓を分析値から見つけることである。もしも、製煉滓のみならず精錬滓もその証拠になるのであれば、合致しなかった鉄滓をプロットした図465の製錬領域にある精錬滓も、精錬領域にある製錬滓も、その証拠となる鉄滓となる。5世紀以前に製鉄が行われた証拠を、製鉄指標が0.75以上の鉄滓としたとき、製錬滓・精錬滓を選別する信頼性は95%(鉄滓435点中20点が鍛錬滓)あると言える。なお、原始的な製錬方法は直接製錬と言われ、1150前後の低温で錬鉄(海綿鉄)を造り、鍛打して鉄塊にしている。原料としては鉄の含有率の高い、不純物(Ti2,MnO)の少ない鉱石・砂鉄が用いられる。これらからすると、直接製錬の製錬滓は図表465の▲●のように精錬領域にあることが多く、その意味でも製鉄が行われた証拠には、製錬滓と精錬滓の両者を選別しておく必要がある。


 


 

 


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73-10.古墳時代に朝鮮半島から流入した鉄素材は何か [73.日本の製鉄(製錬)の始まりは何時か?]

図Z467は「弥生時代の鉄」(藤尾真一郎:2004)に掲載されている古代の製鉄工程を示した図である。藤尾氏は製錬・精錬・鍛錬鍛冶について、考古学的見地から分りやすく説明している。

Z467.古代の製鉄工程.png

 

製錬:原料である酸化鉄を還元し金属鉄を作り出す工程であるが、古代の場合は滓をよく分離した鉄を作ることは出来ない。考古学的には製錬系鉄塊が製品で、かすとして製錬滓が排出される。実際には滓と鉄がかみあった状態で排出されることがほとんどである。

精錬:滓と金属鉄が混ざり合っている製錬系鉄塊から、滓などの不純物を除去する工程である。その意味では二次製錬に近い。製品は精錬系鉄塊で、かすとして精錬鍛冶滓が排出される。

鍛錬鍛冶:2つの工程に分かれる。Aは精錬系鉄塊を鍛打して鉄中の不純物を除去する工程で製品は鉄鋌などの鉄素材、かすとして鍛錬鍛冶滓Aが排出される。Bは鉄素材を鍛打して鉄器を作る工程で、かすとして鍛錬鍛冶滓Bが排出される。

 

なお、藤尾氏の図Z467では、4世紀の沖塚遺跡(千葉県)・博多遺跡(福岡県)・纏向遺跡(奈良県)から精錬滓が出土しているとしている。精錬滓も製煉を伴なった製鉄の証拠となり得るとの見解からすれば、4世紀に我国では製鉄が行われていたことになる。しかし、私の判定では沖塚遺跡の鉄滓はT-e61%、製鉄指標0.71で精錬滓or鍛錬滓、博多遺跡59次(4世紀)の鉄滓はT-e59%、製鉄指標0.33で鍛錬滓である。纏向遺跡の鉄滓の組成はしらないが、これら3遺跡の鉄滓が4世紀に我国で製鉄がなされた証拠にはならないようだ。

 

『魏志東夷伝』弁辰条には、「国には鉄が出て、韓、濊、倭がみな、従ってこれを取っている。諸の市買ではみな、中国が銭を用いるように、鉄を用いる。また、二郡にも供給している。」とある。二郡とは楽浪・帯方のことで、帯方郡が設置されたのは204年であり、弥生時代後期後葉にあたる。「弁辰と加耶の鉄」(東潮:2003)によると、銭のように用いていた鉄とは、斧状鉄板(板状鉄製品)で、3世紀を中心として三韓地域に分布する。この斧状鉄板は、貨幣の役割を持つ鉄素材として流通していたのであろうとしている。板状鉄製品は福岡の西新町遺跡、熊本県の二子塚遺跡、島根の上野Ⅱ遺跡・板屋Ⅲ遺跡、鳥取の妻木晩田遺跡、徳島の矢野遺跡、埼玉の向山遺跡などの弥生後期の遺跡から出土している。

 

藤尾氏は「弥生時代の鉄」の中で、3世紀代に我が国で出土する「板状鉄製品」は、朝鮮半島南部で作られた低炭素系鉄素材である。冶金学的には塊錬鉄系(直接製錬)の鉄素材で、鍛錬鍛冶A工程によって作られた半製品と考えられるとしている。我国ではこの錬鉄の斧状鉄板(板状鉄製品)を輸入して、900~800℃に加熱し、鍛造して武器・利器・工具を製作したのであろう。3世紀(弥生後期後葉)に全国的に鍛造品の鉄器化が進展したのは、弁辰の錬鉄を使用して鍛冶(鍛造鍛冶)が行われたと考える。

 

東氏は、4世紀中葉ごろ斧状鉄板と入れ替わり鉄鋌が百済・新羅・加耶の地域で出現する。初期の鉄鋌の形状はバチ形で、6世紀になると小型化し、6世紀中葉ごろには鉄鋌という形の鉄素材が出土資料として認識できなくなるとしている。我国の5世紀の古墳から鉄鋌と呼ばれる両端がバチ形に広がる鉄板でが、西は福岡・大分から、東は群馬・千葉までの地域から出土している。鉄鋌が出土した古墳の中で、最も古いのが5世紀初頭とされている兵庫県加古川市の行者塚古墳で、鉄鋌40枚が出土している。圧倒的に多いのは近畿地方で、奈良県奈良市のウワナベ古墳の培冢の大和6号墳からは872枚、大阪府羽曳野市の墓山古墳の培冢の野中古墳からは130枚が出土している。

 

大和六号墳(奈良市)より出土した鉄鋌の化学的調査によると、鉄鋌の炭素量は0.0540.71%と幅があるが低炭素系の鉄であり、Cuが高くTiが低いことから原料は鉱石であるとされ、顕微鏡観察により本試料が低温還元によって生産された鉄を鍛造して板状に成形したものであると推定されている。これらからすると、鉄鋌は3世紀代に我が国で出土する「板状鉄製品」と同じ、朝鮮半島南部で作られた低炭素系鉄素材であると考える。

 

板状鉄製品や鉄鋌を鉄素材として鍛練鍛冶し鉄製品を制作しても、その鍛冶炉の現場に発生するのは鍛冶滓でしかない。製煉系鉄塊が鉄素材として輸入されたと主張する学者もおられるが証拠は乏しい。我国の最古の製鉄遺跡とされているのは、岡山県総社市の古代山城として有名な鬼ノ城の麓にある千引カナクロ谷製鉄遺跡である。この製鉄遺跡からは、製鉄炉4基と「ナツメウナギ」と呼ばれる炭焼き窯が三基出土しており、年代は出土した須恵器より6世紀後半と判断されている。製煉滓・精錬滓が出土する5世紀以前の遺跡があれば、その地こそ、我が国で鉄製錬が最初になされた地でであると考える。


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73-11.最古の製鉄遺跡は何処か?小丸遺跡は疑問 [73.日本の製鉄(製錬)の始まりは何時か?]

私の集めた全国(北海道・沖縄除く)の217遺跡の718点の鉄滓から製鉄指標が0.75以上で、製錬滓あるいは精錬滓と判定した、5世紀末以前の遺跡を選び出したのが表Z468である。

Z468.5世紀以前の遺跡.png


縄文晩期とされている石川県加賀市にある豊町A遺跡の鉄滓は、砂鉄の製錬滓と判定した。加賀市豊町には中世の製鉄跡が多数あり、この鉄滓は中世のものの混入と考えられる。長崎県島原市有明町の下原下遺跡では2点の鉄滓が出土し、鉄滓が出土した層の下の層に縄文後期・晩期の遺物があり、縄文晩期の製鉄跡の可能性があると、1966年に有明町の教育委員会が報告している。鉄滓は砂鉄の製煉滓[精錬滓]と精錬滓と判定した。県教委のその後の調査で、鉄滓の出土したⅢ層の年代測定を行った結果、738年という数値が出ており、奈良時代の鉄滓であることが分かった。なお、その鉄滓の判定が分析者と異なる場合は、分析者の判定を[  ]で表記する。

 

福岡市早良区西新5丁目にある弥生中期後半の集落跡の西新町遺跡から椀形滓・鉄塊系遺物(含鉄鉄滓)・板状鉄斧が出土している。椀形鉄滓は鉱石の精練滓、鉄塊系遺物は砂鉄の精練滓[?]と判定した。一方、板状鉄斧(182x40x11mm)の始発原料は砂鉄[鉱石]と判定した。板状鉄斧は鉄素材で、鍛冶を行い鉄製品を作っても精錬滓が出来ることはない。西新町は博多湾近くであり、まさに弥生時代の朝鮮文化受け入れの津があったところである。朝鮮半島から板状鉄斧と共に製煉系鉄塊がもたらされ、それを精錬し精練滓が出来たとも考えられる。西新町遺跡の鉄滓が精錬滓であったことから、弥生時代に製煉があったとは言い切れないと思える。

 Z469小丸遺跡製鉄炉.png

広島県三原市八幡町の小丸遺跡出土の鉄滓は14点全てが始発原料が鉱石の製錬滓である。この遺跡は平成2年から平成3年に発掘調査がなされ、広島県埋蔵文化財調査センターは平成6年の発掘調査報告書で、同遺跡から出土した2基の製鉄炉を科学調査などで総合検討し、1号炉は鉄鉱石を使った3世紀の円形炉と公表し、これまでの学説から製鉄開始の年代が300年以上も遡ったことが話題となった。1号製錬炉は直径50cm、深さ25cmの円形土坑でその両側に鉄滓の詰まった円形土坑があり、さらに南東3m離れた所にも滓の入った円形土坑が2基確認されている。これらの遺構の南側斜面には滓・鉱石片・弥生土器の小破片が散布していた。

 

これに対し、国立歴史民俗博物館の藤尾慎一郎氏は「弥生時代の鉄」(平成16年)の中で、「1号炉の年代は、炉でない土坑から出土した木炭の年代(3世紀)と、南側斜面出土の弥生土器を根拠にしたもので、炉下層で見つかった木炭の年代(7世紀)は採用されていない。」と、その年代に疑問を呈している。埋蔵文化財調査センターが1号製錬炉を3世紀としたのは、地山も整形せずに、作業面も造らないという炉の築造方法が形式学的に古いということを重視したものであるようだ。これでは1号炉が3世紀のものか、7世紀のものか判断できない。

 

小丸遺跡の2号炉は、1号炉から約50m離れた地点にあり、直径45cmの円形土坑で炉の左右に幅20cmの溝が伸びていて、握り拳大の鉄滓が出土している。2号炉の年代は7世紀に比定されている。1号炉と2号炉の炉の大きさや構造はよく似ており、3百年以上の断絶があるようには見受けられない。1号炉は7世紀のものではないかと考える。


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73-12.最古の製鉄遺跡は何処か?北九州市小倉南区 [73.日本の製鉄(製錬)の始まりは何時か?]

福岡県北九州市小倉南区にある5世紀代の3ケ所の遺跡、潤崎遺跡・重留遺跡・長野A遺跡から製煉滓・精練滓が出土している。潤崎遺跡から出土の鉄滓は、T-eは34%、製鉄指標は2.43で典型的な製錬滓で、始発原料はTi2の成分が20%と高く典型的な砂鉄である。砂鉄の製錬滓であることは分析者と一致している。潤崎遺跡は曽根古墳群中に所存する埴輪窯跡で、窯跡に残る焼土の磁気年代測定の結果はAD410年±15年で、また炭素14年代測定では測定値は1640±75BPで、歴博の日本産樹木年輪による較正年代の値でみると410±75年の範囲にあり、年代は5世紀中頃と考えられている。ただ、多数の鉄滓は窯跡近くの土坑の直上を覆う土層から出土している。土坑は窯跡と同じ年代であるそうだが、鉄滓が同じ時代のものであるかどうかは定かでないようだ。潤崎遺跡の窯跡の近くで鉄の製錬が行われたことは確かだが、その時期が古墳時代中期中葉(5世紀中頃)という確証はないらしい。

 

潤崎遺跡の砂鉄製錬滓の成分は、島根県松江市美保関町の5世紀半ばの関谷遺跡出土の砂鉄系製錬滓の成分とほぼ同じである。関谷遺跡は焼土を伴う製鉄遺跡で、炭素14年代測定で440±90年という年代が出ている。5世紀半ばに、鉄の製鉄(製錬)技術は西日本に拡がっていた可能性が推察できる。鉄滓分析の第一人者である大澤氏は、1986年に古墳時代中期後半の潤崎遺跡の鉄滓の分析から、我国では古墳時代中期中葉(5世紀中頃)、北部九州などの一部で鉄製錬が開始されたと唱えたが、それに異論を唱える学者もいて、定説になるまでには至っていない。

 

潤崎遺跡の北北西6Kmにある重留遺跡は5世紀中葉の鍛冶工房跡で、内部から鍛冶炉・鉄滓・羽口・砥石が出土している。ガラス質椀形鍛冶滓は、T-e は24.6%、製鉄指標0.87で、鉱石の製錬滓[椀形鍛冶滓]と判定した。分析者は鍛錬が高温で行われガラス化した鍛錬滓が排出されると説明されている。潤崎遺跡と重留遺跡の中間にある長野A遺跡の5世紀前半~中頃の住居跡から鉄滓が出土している。T-e が50%、製鉄指標は0.99で鉱石の精錬滓[鍛錬滓]と判定した。潤崎遺跡・重留遺跡・長野A遺跡のある北九州市小倉南区の地域は、5世紀代に製錬を伴なう製鉄が始められたと考える有力候補地である。


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73-13.最古の製鉄遺跡は何処か?岡山県、造山古墳近辺 [73.日本の製鉄(製錬)の始まりは何時か?]

岡山県津山市には6C後半~7C初頭の大蔵池南製鉄遺跡があり、同遺跡からは砂鉄系製煉滓が出土している。また、6C末~7C初頭で砂鉄系製煉滓が出土したビシャコ谷遺跡、鉱石系製煉滓が出土した東蔵坊谷遺跡・狐塚遺跡、砂鉄系・鉱石系の双方の製煉滓が出土した大畑遺跡がある。津山市は6C後半~7C初頭にかけて、砂鉄・鉱石の製錬が盛んに行われた地である。

 

津山市の押入西1号墳(円墳)の周湟の須恵器の破片と同じ地層から出土した鉄滓は、砂鉄の精練滓である。発掘報告書によると、この須恵器の破片は大甕1個体分で、墳丘の主体部直上から周湟にかけて散布している。美作地方における古墳外表に土器類がおかれた例は10例が報告されており、5世紀後半から6世紀前半の限られた時期に比定される。須恵器の大甕が墳丘の主体部直上に祀られ、割られて周湟に散布されるまでにタイムラグを考えると、周湟から出土した鉄滓は、津山市で砂鉄・鉱石の製錬が盛んに行われた6世紀後半のものではないかと考える。

 

押入西1号墳の傍の押入西遺跡は弥生中期後半の遺跡で、そのSD2溝から出土した鉄滓は、T-e が42%、製鉄指標は3.16の砂鉄の製錬滓ある。始原料の砂鉄はMnOの成分がが4%高い特徴がある。私のデータベースでは、MnOが3%以上含有する砂鉄の製錬滓は201点中6点のみで、この内3点が、押入西遺跡SD2溝出土、押入西遺跡SB56溝(6C末~7C)出土、押入西遺跡から北東5Kmにある鮒付遺跡(6C末~7C初頭)出土のものである。これらからして、押入西遺跡SD2溝出土鉄滓は、SB56溝出土と同じ年代の6C末~7Cの製煉滓ではないかと考える。

 

岡山県総社市には最古の製鉄遺跡と言われている6世紀後半の千引カナクロ谷製鉄遺跡がある。その南5kmにある窪木薬師遺跡の5世紀前半の竪穴住居跡から鉄滓と鉄鋌が出土し、朝鮮半島系の軟質土器や陶質土器も共伴している。鉄滓はT-eは45%、製鉄指標は0.83で鉱石の製錬滓or精錬滓[鍛錬滓]と判定した。分析者は鉄素材の鍛接のための高熱作業時に粘土と反応して派生した鍛錬鍛冶滓と説明され、鉄鋌との結びつきは何とも云えないとしている。

 

窪木薬師遺跡の西1.kmにある高塚遺跡の角田区域にある5世紀末の竪穴住居跡から出土した鉄滓は、鉄滓のT-eは45%、製鉄指標は1.0で鉱石の製錬滓or精錬滓[鍛錬鍛冶滓]と判定した。分析者は、繰り返し折り曲げ鍛接の高温作業で排出された鍛錬鍛冶滓である。鉄器製作に係わる滓であり、赤熱鉄素材の酸化防止の粘土汁多用の証であるとしている。高塚遺跡のフロヤ地区からはT-eが28%、製鉄指標は0.76の鉱石の製煉滓が出土している。分析者も製錬滓と認めている鉄滓であるが、その年代は中世ではないかと見られている。窪木薬師遺跡・高塚遺跡の近くには前方後円墳で全国第4位の規模の造山古墳(4世紀末)があり、5世紀代に製錬を伴なう製鉄が始められたと考える有力候補地であると思っている。


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73-14.最古の製鉄遺跡は何処か?大阪府、百舌鳥古墳群近辺 [73.日本の製鉄(製錬)の始まりは何時か?]

大阪府には5C後半~6Cの時代の製錬滓・精錬滓が出土した枚方市の森遺跡、柏原市の大県遺跡、堺市の土師遺跡・陵南北遺跡がある。枚方市の森遺跡は生駒山地西麓北端部にあり、5C後半から6C紀代にかけての鍛冶遺構を伴なった遺構で、鍛冶炉9基、鉄滓27.Kg、フイゴ羽口破片231点が出土している。この遺跡のC地区の5世紀後半~6C後半の包含層から出土した椀形滓1点を鉱石の製煉滓[鍛錬鍛冶滓]と判定した。ただ、C地区から出土した鍛冶炉は1基のみで、その時期は6世紀前半頃と推定されている。なお、鍛冶炉周辺から出土した鉄滓は、鉱石の精錬滓or鍛錬滓[鍛錬鍛冶滓]の領域であった。森遺跡は5世紀代に製錬あるいは精錬を行っていた遺跡の候補からは外した。

 

大阪府下最大の鍛冶遺跡とされている柏原市の大県・大県南遺跡は、生駒山地西麓南端部で、奈良盆地からの大和川と南河内地方からの石川の合流地点から北に古大和川の東側にあり、川の西側には古市古墳群が広がる。隣接した両遺跡は東西0.Km、南北1.Km,鉄生産は5世紀から8世紀と長期間にわたり、鍛冶関連の遺構・遺物は、鍛冶炉19基、鉄滓約500Kg、フイゴ羽口約1000個と多量に出土している。大県遺跡(82-9 F区)の5C末~6Cの層から出土した鉄滓は、鉱石の精錬滓[鍛錬鍛冶滓]と判定した。この調査区からは5基の鍛冶炉が出土しているが、これらの遺構面は出土遺物より古墳時代後期(6世紀中葉~同世紀末)頃と考えられている。大県遺跡は5世紀代に製錬あるいは精錬を行っていた遺跡の候補からは外した。

 

堺市土師町の土師遺跡21街区出土の2点の鉄滓を製煉滓[鍛錬鍛冶滓]と判定した。堺市陵南町の陵南北遺跡出土の2点の鉄滓を精錬滓[鍛錬鍛冶滓]、1点を製煉滓or精錬滓[鍛錬鍛冶滓]と判定した。土師遺跡21街区と陵南北遺跡は500m程しか離れていなく、年代も5世紀後半と同じであり、同一の製鉄関連遺跡として捉えていく。陵南北遺跡からは7基の炉跡が出土しており、いずれかの炉で製錬が行われたと考える。

 

始発原料は陵南北遺跡の精錬滓1点が砂鉄で、その他は全て鉱石である。大阪府南部には鉄鉱石を産出する鉱山・鉱床はない。土師遺跡の東部で採掘した水酸化鉄が分析されている。全鉄量(T-e)が11.7%で製鉄原料となる代物ではない。褐鉄鉱・沼鉄鉱は水酸化鉄と酸化鉄からなり、高師小僧や壺石も同様である。「73-1.垂仁天皇は剣一千口を造らせた」で述べたように、阪南市で採れた壺石で製鉄が行われたと述べたが、土師遺跡東部で高師小僧・壺石が採取できたのではないかと考える。なお、高師小僧は愛知県豊橋市の高師原で採取され命名されている。陵南北遺跡のある陵南町はもと百済村で、遺跡は石津川支流の百済川の河原近くにあった。石津川の河口の海岸は高師浜と呼ばれ、『万葉集』に持統天皇が難波宮に行幸されたときの歌「大伴の高師の浜の松が根を枕に寝れど家し偲ばゆ」がある。百済といい、高師といい、5世紀後半に陵南北遺跡で製鉄が行われたことに因縁を感じる。


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73-15.5世紀の鉄滓の製鉄工程判定は定説を忖度 [73.日本の製鉄(製錬)の始まりは何時か?]

全鉄量(T-e )が20%以上で、製鉄指標(製鉄工程判別指標:SQRT(Ti2/5+MnO*2))が0.75以上の鉄滓は、95%の信頼性でもって、製煉滓あるいは精錬滓のどちらかであると言える。これを基にして、5世紀以前に製煉滓あるいは精錬滓が出土した遺跡を求めて来た。該当したのは表Z468に示す16遺跡、34点の鉄滓であった。これらの遺跡の発掘調査報告書等を精読し、石川県の豊町A遺跡・長崎県の小原遺跡・岡山県の押入西遺跡のように混入が考えられる遺跡、広島県の小丸遺跡のように遺跡の年代が疑われる遺跡、岡山県の押入西遺跡・大阪府の森遺跡・大県遺跡のように鉄滓の年代が5世紀を超えていると判断できる遺跡は候補からは外した。また、残った遺跡の中で福岡県の新西町遺跡と島根県の関谷遺跡は、単独の遺跡で単一の鉄滓であることから候補からは外した。

 

Z468.5世紀以前の遺跡.png

5世紀代に製錬を伴なう製鉄が始められたと考える候補地として、潤崎遺跡・重留遺跡・長野A遺跡のある福岡県北九州市小倉南区の地域、窪木薬師遺跡・高塚遺跡のある岡山県総社市の造山古墳周辺地域、そして土師遺跡・陵南北遺跡のある堺市の百舌鳥古墳群の南端地域を挙げた。これら候補地に掲げた8遺跡の11点の鉄滓の分析値を見ていて気付いたのは、その内の10点が製鉄指標が0.75~1.0の狭い範囲にあること、そして、分析者はその内の8点を鍛錬滓と判定していることだ。その8点の鉄滓の私の判定は、製煉滓2点、製煉滓or精錬滓3点、精錬滓3点である。

 

分析者はこれらの鍛錬滓について、「鍛錬が高温で行われガラス化した鍛錬滓」「鉄素材の鍛接のための高熱作業時に粘土と反応して派生した鍛錬鍛冶滓」「鍛接の高温作業で排出された鍛錬鍛冶滓で、赤熱鉄素材の酸化防止の粘土汁多用」と説明されている。5世紀代に製錬を伴なう製鉄が始められたと考える証拠とする鉄滓が、製錬滓あるいは精錬滓ではなく、そのほとんどが鍛錬滓であつたならば、今まで行ってきたことが水泡に帰す。

 

私のデータベースでは、T-eが20%以上で製鉄指標が1.0~0.75の範囲の鉄滓は128点あるが、その内、分析者が製鉄工程を製煉滓・精錬滓・鍛錬滓と明確に分類し、その年代が示されているのは111点であった。それらを“5世紀~(古墳中期)、“6世紀~(古墳後期)、“7世紀~(飛鳥時代以降)と年代を3分割し、その製鉄工程を調べたのが表Z470である。なお、年代幅が“5世紀~中世のように他の世紀に渡っても、“5世紀~とするように初めの世紀に分類している。表470の左側から分るように、“7世紀~では鍛錬滓の比率が8%と私の想定5%に近い値であるが、“6世紀~では14%で、“5世紀~では82%と不自然な値となっている。

 

Z470.5世紀の製鉄工程判定.png

表470の右側は、鉄成分(T-e)、造滓成分(SiO2Al2O3CaOMgO)、製鉄指数(TiO2MnO)の年代別の平均値を示した。当たり前のことであるが、製煉滓は鍛錬滓に比べて、鉄成分が少なく、造滓成分や製鉄指数が多い。それらからすると、鍛錬滓85%の“5世紀~の鉄滓と、鍛錬滓が8%の“7世紀~の鉄滓では、鉄成分・造滓成分・製鉄指数が異なるはずである。しかし、表470の右側を見ると、鉄成分は45%~47%、造滓成分は30%~33%、製鉄指数0.85~0.871と、“5世紀~、“6世紀~、“7世紀~の年代に関係なく、ほぼ等しいことが分かる。“5世紀~の年代の鍛錬滓の比率が82%と異常なのは、分析者の判定が間違っていることが明らかである。分析者は、我が国で製錬を伴なう製鉄が開始されたのは6世紀後半であるという定説に忖度し、それ以前の時代の鉄滓に対しては鍛錬滓と判定したのではないかと邪推してしまう。


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73-16.最古の製鉄遺跡は岡山市の高塚遺跡 [73.日本の製鉄(製錬)の始まりは何時か?]

73-16.最古の製鉄遺跡は岡山市の高塚遺跡

5世紀代に製錬を伴なう製鉄が始められたと考える候補地として、福岡県北九州市小倉南区の地域、岡山県総社市の造山古墳周辺地域、大阪府堺市の百舌鳥古墳群の南端地域を挙げた。最初に製鉄が行われたのは、3地域の何処か選ぶとするならば、私は岡山県の造山古墳周辺地域にある高塚遺跡(岡山市)のと考える。2000年に岡山県教育委員会が発行した『岡山県埋蔵文化財調査報告150 高塚遺跡・三手遺跡』を精読し、たぶん編纂者とは違った見解で、高塚遺跡こそ5世紀初めに我が国で最初に製錬を伴なう製鉄が行われた遺跡であるとの結論に至った。

 

高塚遺跡は足守川とその支流である砂川に挟まれた水田の下にあった。行政区分では岡山市高塚であるが砂川の対岸は総社市で、図Z471に示すように500m✕20~75mで、角田区・フロヤ区・塚廻り区の三区に分けて発掘調査が行われ、現在は岡山自動車道の下に眠っている。フロヤ区の弥生時代の地層からは、高さ58cmの完品の銅鐸が出土し、また中国の「新」時代の貨銭が25枚出土している。韓国系の陶質土器や軟質土器を多数出土していることからしても、弥生時代から先進文化地域であったことは間違いない。そして高塚遺跡の北北西5Kmには、最古(6世紀後半)の製鉄遺跡とされている千引カナクロ遺跡があり、製鉄が行われたとする環境は整った地でもある。

 

Z471.高塚遺跡調査区.png

埋蔵文化財調査報告書は1554ページにおよび、膨大な発掘資料をまとめているが、「鉄滓」については遺物としては“ままこ”扱いで出土品一覧にも記載なく、本文と付載の「高塚遺跡出土製鉄・鍛冶関連遺物の金属学的調査」から27点の鉄滓を拾い集めた。なお、その内の17点が化学分析がなされ、始発原料は全て鉱石で、その内の6点の製煉滓は分析者と私の判定は一致している。6点の製煉滓の年代をみると、5世紀前半or中世が1点、6世紀が2点、6世紀末が1点、中世が2点であった。化学組成表にある鉄滓の推定年代は分析者の見解ではなく、発掘調査および報告書作成を担当した岡山県古代吉備文化財センターの見解と思われる。この鉄滓の推定年代について挑戦した。鉄滓の推定年代は○世紀○半の絶体年代でなく、調査報告書に記載された津寺編年(古前Ⅰ・古前Ⅱ・古前Ⅲ・古中Ⅰ・古中Ⅱ・古後Ⅰ・古後Ⅱ・古後Ⅲ)で現した。

 

私が一番注目したのが、角田Ⅱ区から出土した高塚遺跡で唯一の鍛冶炉で、その年代は中世とされている。図Z472は角田区の古代~中世の遺構図(赤は加筆)である。角田Ⅱ区の遺構は河道を除くと、鍛冶炉1・柱穴P102P106・土坑473しかない。柱穴はP102P103P104P105の方向が角田Ⅲ区にある掘立柱建物の方向と同じであることから中世の掘立柱建物の遺構があったと考える。その遺構が削平され、削平面より下にあつた一部の柱穴が残ったものと考えられる。中世の遺構が削平で消失しているにも関わらず、地上にあった直径30cm✕深さ5cmの鍛冶炉1が残っているのはおかしい。鍛冶炉1は古墳時代の遺構と考える。

 

Z472.角田区中世遺構.png

角田Ⅱ区の古墳時代の遺構図Z473に鉄滓が出土した竪穴住居をカラーで色付けした。私の判定で製錬滓は赤、精錬滓は青、鍛錬滓は緑、ガラス滓はピンク、分析されていないものは黄色とした。判定が製錬滓or精錬滓のように二つに分かれる場合は左右に色分けし、製鉄工程が異なる2点の鉄滓が出土している場合は上下に色分けした。河道など単独で出土した鉄滓は△で示した。また、炉跡のある住居は灰色とした。

 

前述の鍛冶炉1で記載した。ピンク色にしたのは、ガラス質滓が出土しているためである。鍛冶炉1の周辺に、鉄滓が出土した古墳時代の掘立柱建物があり、鍛冶炉1が古墳時代のものであることが明白である。調査報告書は鍛冶炉1を何故中世のものとしたか疑問が沸く。河道9から出土した角田Ⅲ区の中世時代とされている製煉滓、角田Ⅰ区の平安時代とされている鍛錬滓も古墳時代の鉄滓として図に記載した。

 

鍛冶炉1は径30cm前後、深さ5cm余りで、被熱の影響を受けた部分は暗赤茶色を呈し、径50cm前後、厚さ4cm前後の広がりが確認されている。高塚遺跡で住居跡以外の屋外にある鍛冶炉はこの炉だけで、鍛冶炉ということに違和感を感じる。出土した鉄滓の化学分析はされていないが、分析者は「赤熱鉄素材の酸化防止の粘土汁多用によるガラス質滓」として鍛錬鍛冶滓としている。私は鍛錬鍛冶滓の説明に納得していない。何故なら、私が5世紀代の製煉滓あるいは精錬滓として掲げた製鉄指標が1.0~0.75の範囲にある10点の鉄滓に対して、分析者はその8点を鍛錬鍛冶滓として、「鍛錬が高温で行われガラス化した鍛錬滓」「鉄素材の鍛接のための高熱作業時に粘土と反応して派生した鍛錬鍛冶滓」「鍛接の高温作業で排出された鍛錬鍛冶滓で、赤熱鉄素材の酸化防止の粘土汁多用」と説明されていた。しかし、その鍛錬滓の判定は間違っていることを前節で証明している。

 

Z469小丸遺跡製鉄炉.png私は河道9から出土した製煉滓と住166から出土した製煉滓or精錬滓はこの炉で生成したものであり、鍛冶炉1は製鉄炉であると考える。鍛冶炉1ガラス質滓は製煉時に鉄滓が炉床・炉壁の粘土と反応して出来たものであり、住163のガラス質滓も製煉で生成したものである。図469は古の製鉄遺跡かと騒がれた広島県の小丸遺跡の製鉄炉の復元想定図であるが、カーボンベットを除いたら、高塚遺跡の鍛冶炉の姿になる。製錬が開始された時期は、住166と住163の年代である古墳中期Ⅱの段階である。


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73-17.高塚遺跡が最古の製鉄遺跡である証拠は隠されていた [73.日本の製鉄(製錬)の始まりは何時か?]

高塚遺跡のフロヤ区からは、5点の製煉滓が出土している。鉄滓の出土状況を見える化するために、鉄滓が出土した竪穴住居をカラーで色付けした。私の判定で製錬滓は赤、精錬滓は青、鍛錬滓は緑、ガラス滓はピンク、分析されていないものは黄色とした。判定が製錬滓or精錬滓のように二つに分かれる場合は左右に色分けし、製鉄工程が異なる2点の鉄滓が出土している場合は上下に色分けした。また、炉跡のある住居は灰色とし、フロヤⅢ区の中世時代の畝状溝から出土した製煉滓も古墳時代の鉄滓として図Z474に記載した

 

Z474.高塚フロヤ古墳時代遺構.png

フロヤⅡ区の竪穴住居36・38には住居の中央に炉跡がある。両者とも年代は古墳時代の初め前期Ⅰの段階である。高塚遺跡から出土した鉄器は古墳前期のものは少ないが、弥生時代終わりの後期Ⅳ段階の竪穴住居跡や方形土壙から鏃・鉇(ヤリガンナ)・刀子などの鉄器が多数出土している。製鉄が行われる前から鍛冶の技術的下地があったのであろう。製煉滓は古墳時代の中期から後期の竪穴住居跡から出土しており、製煉を伴なう製鉄が長期に渡り行われていたことが推察される。

 

フロヤⅠ区の竪穴住居47から出土した鉄滓は、T-eが28%、製鉄指標は0.76の鉱石の製煉滓が出土している。分析者も製錬滓と認めている鉄滓である。この鉄滓について分析者は「鉱石製煉で排出された炉内滓の小割り破片である。5世紀4前半から中世にかけての層位からの出土であるが、後者の中世に属する鉄滓であろう。」としている。しかし、古代~中世の遺構図をみると、竪穴住居47の位置には室町時代の土壙186がある。土壙186の深さ11cmで、古墳時代の地層に混じり込むような穴は無い。製煉滓が出土した竪穴住居47からは初期須恵器が出土しており、年代は中期Ⅰ段階とされている。

 

フロヤⅡ区の竪穴住居28(中期Ⅰ段階)からは、楕円形の強く被熱した橙色焼土が2ケ所あり、その周囲に炭が分布しており炉跡と確認されている。その傍にある土壙169(中期Ⅰ段階)は、2.x.mの楕円形で深さは約8cm、底面には部分的に焼土が残存し、埋土には炭が含まれていた。私は土壙169に角田Ⅱ区から出土した鍛冶炉1と同様の製鉄炉があったのではないかと考える。これらの遺構からしても、竪穴住居47から出土した鉄滓は、中期Ⅰ段階のものであることが分かる。古墳中期Ⅰ段階は報告書の編年対比表を見れば5世紀の前半ということになる。

 

フロヤⅠ区の竪穴住居47から出土した製錬滓は中世のもの、角田Ⅱ区から出土し鍛冶炉1は中世のもの。角田Ⅲ区の河道9から出土した製煉滓は中世のもの。高塚遺跡で製錬に伴うものは、全て中世のものとされている。しかしながら、中世の建物跡からは製鉄関連遺物は一切出土していない。製鉄関連遺物が出土する建物跡は、古墳時代だけである。調査報告書は、何故か高塚遺跡で古墳時代に製鉄が行われたことを葬り去ろうとしているように思える。報告書は高塚遺跡の北北西5Kmにある最古(6世紀後半)の製鉄遺跡とされている千引カナクロ遺跡に忖度して、竪穴住居47から出土した鉄滓を中世のものにしたのではないかと邪推する。


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73-18.製鉄の開始は古墳時代中期の始まり、4世紀後葉 [73.日本の製鉄(製錬)の始まりは何時か?]

『岡山県埋蔵文化財調査報告150 高塚遺跡・三手遺跡』の「まとめ」にある「古墳時代中期の土器」を読むと、フロヤⅠ区の製煉滓が出土した竪穴住居47、炉跡とがあったとされる竪穴住居28からは、土師器甕B1類が出土している。甕B1類は、大庭寺遺跡TG232号窯灰原の下層の土師器に類似しており、TG232号に近い時期と思われると記載してある。陶邑の田辺編年で初期須恵器はTG232・TK73・TK216である。高塚遺跡で製錬を伴なう製鉄が始まったのはTG232に近い時期、古墳時代中期の始まりの年代である。なお、古墳時代中期は円筒埴輪Ⅳ式(通説はⅢ式・Ⅳ式)と考えている。

 

私は3294基の古墳データ(前方後円墳1922基)より、143種の遺構・遺物の編年を行っている。私の「古墳の遺構・遺物の編年表」によれば、TG232は380~389年で、380年より古墳中期が始まることになる。因みに、高塚遺跡から2kmにある造山古墳は、墳長360mの前方後円墳で全国第4位の規模である。造山古墳からは円筒埴輪Ⅲ式(340-379年)と埴輪Ⅳ式(380-469年)が出土しており、埴輪の焼成が野焼きから窖窯(あながま)に変わった380年前後と考える。巨大な前方後円墳・造山古墳が築造された頃、その傍の高塚遺跡で我国初めての製鉄が行われた。古墳時代中期の始まりに、須恵器・馬具・鋲留短甲が新たに登場している。そして、当時倭国が最も欲しがっていたと推察される製錬を伴なう製鉄も、古墳墳中期の始まりに登場しているとすれば、大きな時代のうねりを感じる。

 

Z475.国宝七支刀.png奈良県天理市の石上神宮の御神宝である国宝の七支刀には金象嵌の60余字が彫られている。これらの金象嵌には「泰和四年五月十六日、丙午正陽に百練鋼の七支刀を造る。」「百済(滋)王の世子貴須(奇生)聖音は倭王旨の為に造る。」とある。七支刀が製作された年を「泰和四年」と示している。中国の年代で「泰和」という年号はないが、通説では東晋の太和四年(369年)と考えられている。369年と言えば、百済は肖古王(346~375年)の時代である。

 

『書紀』神功52年に「久氐らは千熊長彦に従ってやってきた。そして七枝刀一口、七子鏡一面、および種々の重宝を奉った。そして、「わが国の西に河があり、水源は谷那の鉄山から出ています。その遠いことは七日間行っても行きつきません。まさにこの河の水を飲み、この山の鉄を採り、ひたすらに聖朝に奉ります。」と申し上げた。そして、孫の枕流王に語って・・・それ以後毎年相ついで朝貢した。 」とある。この文章に出てくる「七枝刀」が、石上神宮の「七支刀」であることは、間違いないであろう。『書紀』の「孫の枕流王に語って」からすると、百済の王は枕流王の祖父の「肖古王」となる。

明治時代の歴史学者那珂通世氏は、『書紀』の神功紀と応神紀にある百済記から引用された記事の年月が、『三国史記』に記載された年月と比較すると干支2廻り、120年繰り上げられていることを発見している。『書紀』の編年に従えば「神功52年」は252年(壬申)である。これを干支2廻り繰り下げれば372年(壬申)となる。石上神宮の「七支刀」の金象嵌と『書紀』神功52年の記事を合わせると、百済の肖古王は、369年に七支刀を造り、372年に倭王に奉じたことが分かる。この時、倭国は百済で製錬を伴なう製鉄が行われていることを知ったのであろう。

 

『古事記』応神記には「百済の国主照古王、牡馬壱疋・牝馬壱疋を阿知吉師に付けて貢上りき。また横刀と大鏡とを貢上りき。また百済国に『若し賢しき人あらば貢上れ』とおほせたまひき。かれ、命を受けて貢上りひと、名は和邇吉師、すなはち論語十巻・千字文一巻、并せて十一巻をこの人に付けてすなはち貢進りき。また手人韓鍛名は卓素、また呉服の西素を貢上りき。」とある。一方、『書紀』応神15年には「百済王は阿直岐(あちき)を遣わして良馬二匹を奉った。・・・天皇は上毛野君の先祖の荒田別・巫別を百済に遣わして王仁を召された。」とある。『古事記』と『書紀』の記事は、百済国主=百済王、牡馬壱疋・牝馬壱疋=良馬二匹、阿知吉=阿直岐、和邇=王仁であり、両者は全く同じ話である。『書紀』には百済国王の名がないが、『古事記』は百済王を照古王としている。百済の肖古王が牡馬と牝馬の二匹を応神天皇に献上したことが分かる。

 

Z476.金銅透彫鞍金具.png応神天皇陵(誉田御廟山古墳)の前方部の近くに陪塚の誉田丸山古墳から江戸時代に金銅透彫鞍金具が前輪・後輪の対で2具分出土し、誉田八幡宮に納められ国宝となっている。両具共に龍をアレンジした唐草模様の透かし彫りで、朝鮮半島や中国東北地域との関わりが推定されている。私は丸山古墳から出土した鞍は、『書紀』応神15年に百済の肖古王から応神天皇に奉った牡馬と牝馬の二匹に装着していた鞍で、いかり肩のような角ばった1号鞍が牡馬用、なで肩のように丸みをおびた2号鞍が牝馬用のものであったと想像している。

 

当時、倭国が最も手に入れたかつた技術の一つが、製煉を伴なう製鉄の技術であった。応神天皇は百済の肖古王に製鉄技術者の派遣を要請したと推察する。それによって遣わされたのが韓鍛()の手人の卓素であった。その時期は、肖古王が倭王に七支刀を供した372年から、肖古王が薨去した375年の間であったと思われる。高塚遺跡の製鉄遺構から、製鉄が始まったのは古墳時代中期の始まり、380年頃としたが、卓素が我が国に到来した頃と一致する。卓素が我が国に製鉄技術を伝えたと考える。

 

応神陵古墳(誉田御廟山古墳)は墳長420mの前方後円墳で、全国第2位の規模である。築造年代は外堤外側から出土した須恵器TK73(390-409)により、390年~409年に絞り込めると考える。応神陵古墳の陪塚の一つだと確実視されているアリ山古墳は一辺45mの方墳で、応神陵古墳の二重濠外堤に接して築かれており、おびただしい量の鉄器(鉄斧134個、蕨手刀子151個、鉄鑿90個、鉄鎌201個、鉄鍬先49個、鈎状鉄器412本等)が出土している。これらの鉄器は、国内で製鉄された鉄素材から作られたものではないかと想像する。我国で製錬を伴なう製鉄が行われたのは、四世紀後葉の古墳時代中期の始まり(円筒埴輪Ⅳ式・須恵器の登場)の時期である。


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