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19.天皇陵の古墳年代を解く ブログトップ

19-1.前方後円墳の出現 [19.天皇陵の古墳年代を解く]

3世紀の中頃、突如出現した前方後円墳は、1世紀もたたない間に全国各地に広がり、古墳時代の黄金期を築くのである。古墳時代は円墳・方墳を含めたいわゆる墳丘墓を含める説と、前方後円墳から古墳時代とする説がある。私は、最古の前方後円墳である箸墓の埋葬者が、邪馬台国の女王卑弥呼であり、卑弥呼の後を継いだ壱与が崇神天皇であるとした。そして、前方後円墳こそが大和王権の勢力拡大、古墳時代の幕開けであったと理解している。 

大型の前方後円墳の出現は、近年3世紀後半が学会の定説であった。平成21年5月に考古学協会において、国立歴史民俗博物館の研究グループが、纏向遺跡を中心とした土器に付着した炭化物の炭素14年代測定を行い、日本産樹木から得た較正曲線と照らし合わせて、弥生式(Ⅴ~Ⅵ)土器、庄内式(0~3)土器、布留式(0~2)土器の年代を比定し、最古の大型前方後円墳である箸墓の製作年代を240~260年と発表した。
 

この発表は、大型前方後円墳の出現時期を30~40年時代を繰り上げるものであり、大きな論争となった。C14炭素年代の測定については、その値の環境による影響や、測定値のバラツキで、単独の値では信頼性に欠けるが、歴博の行った測定は、考古学会が緻密に行って来た土器の相対編年を組み込んだものであり、私は信頼出来るものと考える。
 
図51畿内古墳群.jpg
畿内には図51に示すように、磯城・佐紀・古市・百舌鳥の前方後円群があり、これら前方後円墳のなかに多くの天皇陵がある。前方後円墳の形態をとる天皇陵は、崇神天皇陵から敏達天皇陵までで、敏達天皇で前方後円墳が終わったのは、仏教伝来で死後の世界感が変わったためであろう。これら天皇陵は現在宮内庁により管理されているが、宮内庁の管轄下には陵墓参考地として、天皇陵に治定されていない前方後円墳もある。
 
                     (図をクリックすると大きくなります)

天皇陵の所在地は古事記・日本書紀に記載されている。その所在地は天皇の年代により、磯城→佐紀→古市⇔百舌鳥と変化している。一方、考古学上の前方後円墳の編年でも、古墳の年代は磯城→佐紀→古市⇔百舌鳥となっている。個々の天皇陵の治定が正しいかどうかは別として、古事記・日本書紀に書かれた天皇陵の場所は概ね正しいと言える。

19-2.天皇陵の墳丘長と古墳年代 [19.天皇陵の古墳年代を解く]

平成18年6月に堺市で行われたシンポジウム「大王のふるさと百舌鳥古墳群」で、白石太一郎氏が「百舌鳥・古市両古墳群の意味するもの」で使われた資料には、前方後円墳の編年が前方後円墳の大きさを伴った図形入りで示されている。この編年表より著者の本意でないかもしれないが、前方後円墳の図形で前方と後円の交わるくびれ部の年代を、前方後円墳が造営された「古墳年代」として採用した。 

表16天皇陵.jpg表16に天皇陵と治定されている前方後円墳を示す。表には元年表とそれに基づいて決定した天皇の崩御の年と在位年数、また前方後円墳の墳丘長と古墳年代を示している。
 

現在の神武天皇陵は江戸時代に90年に渡る論争の末、尊王攘夷の真っただ中、明治維新の5年前の文久3年に治定され、一万二千両の費用を費やしてやして、現在の八角が修復されている。神武天皇陵は前方後円墳でないため、表16から除いている。この他、雄略天皇等前方後円墳でないものについても同様に除いている。                                                

                                          (表をクリックすると大きくなります)
 

19-3.天皇陵は寿陵か [19.天皇陵の古墳年代を解く]

私は学生時代から長らく、仁徳天皇陵の近くで生活していたが、以前から仁徳陵に関して一つの疑問を持っていた。それは「仁徳天皇陵は誰が作ったか」と言うことである。これは「大仙古墳は仁徳天皇の陵であるか」と言う疑問ではない。大仙陵を作ったのは、仁徳天皇かそれとも次の履中天皇かと言う疑問である。こんな単純な疑問の答えも、意外と専門書を読んでも書かれていない。 

建築会社・大林組の計算によれば、日本最大の前方後円墳・仁徳天皇陵を復元するとすれば、15年8ヵ月の歳月と、延べ680万人の人力で、総工費約8百億円の土木工事であるという。このような大事業を前王の偉業を讃えて造ったであろうか。政権の交代には争いが行われ、クーデターもあったに違いない。前王のためにということで、日本各地に前方後円墳は出現し得ないと思う。
 

「中国歴代の皇帝陵」羅哲文著には、前漢の墓葬制度は皇帝の即位の翌年から、国の税収の三分の一を出して、自分の巨大な陵を造営した「寿陵」であったと記載している。日本においても、前方後円墳の時代は生前から墳墓を造っておく、いわゆる寿陵であったと考える。寿陵としても簡単な話ではない。即位の翌年から自分の墓を造るとなると、誰しもその墓の規模は大きなものを考えるであろう。自分の政権が数年か持たないと考える者はいない。前方後円墳に葬られている王は、天寿をまっとうして亡くなったばかりでなく、その多くは病死や政権の抗争による死で、突然の死も多かったであろう。生前に造っていたとするならば、未完成のものが存在してもよいはずである。しかしながら未完成の天皇陵は存在していない。
 

天皇陵は生前から作った寿陵であると考える。前方後円墳製作のシステムは次のようであったと推定する。王が政権に着くと新しい都の建設に取りかかる。その遷都の目的は新しい田地の開発であった。日本書紀にも池を掘ったり、溝を掘ったりして新しい田地の開発が行われたことが載っている。これらの土木作業と並行して、前方後円墳が造られる。その製作にあたっては、三段築成される前方後円墳の一段目と二段目をまず造営して行く。だから在位期間が長いほどその規模は大きくなる。王が亡くなると、後任の王が古墳の周りに濠を掘り、その土で三段目の造営を行い、前王の埋葬を行うと共に、即位の儀式・大嘗祭が行われたのであろう。

19-4.天皇の在位年数と墳丘長 [19.天皇陵の古墳年代を解く]

図52 在位年数と墳丘長.jpg前方後円墳を前述のシステムで造営すると、前方後円墳の大きさと在位年数の間には、一定の関係が成立するはずである。図52に元年表による天皇の在位年数と墳丘長の関係を示した。バラツキはあるものの、グラフは在位年数と墳丘長に一定の関係があることを示している。在位年数に比較して、非常に大きな古墳に治定されているのが履中天皇陵であり、非常に小さな古墳に治定されているのが欽明天皇陵である。この二つの天皇陵について検討して見る。

現在堺市では百舌鳥古墳群を世界遺産にしようという動きがある。百舌鳥古墳群の中心である大仙古墳がエジプトのクフ王のピラミッド、中国の秦の始皇帝陵を上まわる規模の古墳というだけではインパクトがない。やはり古事記・日本書紀に記載してある仁徳天皇陵だとしなければ、古墳の価値が半減するに違いない。その運動の一環として、著名な考古学者を招いてのシンポジウムが開かれている。しかし、そんな思いで開かれたシンポジウムでも、先生方から大仙古墳が仁徳陵だという答えは引き出すことは出来ていない。その一番の原因は、履中陵とされている上石津ミサンザイ古墳にある。上石津ミサンザイ古墳は、古墳規模から見ると全国第3位の大きさであるが、円筒埴輪や前方後円墳の形態から、応神陵とされている誉田御廟山古墳より古い古墳であると、多くの研究者から認められている。 

古墳の古い順にみれば、履中陵、応神陵、仁徳陵となっており、一方、天皇の系譜から見れば、古い順に応神天皇、仁徳天皇、履中天皇となっている。墳丘長と在位年数の関係で見ても履中陵は大きく外れている。履中天皇陵は百舌鳥古墳群にあって陵墓参考地となっている御廟山古墳ではないかと私は思っている。御廟山古墳は墳丘長が186メートルで、履中天皇の在位年数6年と合う。御廟山古墳の古墳年代は450年、履中天皇崩御の年の440年とほぼ合っている。
 


日本書紀によると、欽明天皇は檜隈坂合陵に葬ったとある。また、推古天皇の記述には、欽明天皇の妃の堅塩媛を檜隈大陵に改め葬ったともある。現在欽明陵に治定されているムメヤマ古墳の近くにある、全国第6位の規模の見瀬丸山古墳の石室の写真が十数年前に新聞に公表された。これは近くに在住の人が偶然石室の中に入り、写真に撮ったものである。この写真には、石室の中に二つの石棺が写っている。日本書紀の通り、石室の中に二つの石棺があったことから、見瀬丸山古墳の被葬者が欽明天皇であるという考えが強まってきている。欽明天皇の在位年数は32年、見瀬丸山古墳の墳丘長は318メートルで、在位年数と墳丘長の関係は満足されている。欽明天皇陵の古墳年代は575年となっており、欽明天皇の崩御の年571年とほぼ合っている。


19-5.天皇崩御の年と古墳年代 [19.天皇陵の古墳年代を解く]

図53古墳年代.jpg図53に天皇崩御の年と古墳年代のグラフを示す。横軸が私の元年表による天皇崩御の年、縦軸は白石太一郎氏の大型古墳編年図から得た古墳年代の代表値である。私の年表で259年に箸墓古墳(古墳年代260年)に葬られた倭迹迹日百襲姫命を卑弥呼とした。魏志倭人伝によると卑弥呼は248年に亡くなっている。また、日本武尊の白鳥陵は元年表より329年に亡くなり、宮内庁治定の前ノ山古墳としてプロットした。神功皇后は元年表より389年に亡くなったとした。これらの関係から、大きく外れているのが日本武尊陵、仲哀天皇陵、神功皇后陵、継体天皇陵である。


仲哀天皇陵は岡ミサンザイ古墳であるが、古墳年代が480年と仲哀天皇陵崩御の年、353年と大きく違っている。仲哀陵は古市古墳群で津堂城山古墳に次いで古いとされる仲ツ山古墳に比定する。仲ツ山古墳の古墳年代は390年であり、仲哀天皇の崩御353年より、古墳年代の方が37年新しくなっている。この事については次節で説明する。仲ツ山古墳は、現在応神天皇の皇后であり、神武天皇の母である仲姫の陵に治定されているが、その可能性のないことが次節で明らかになるであろう。仲ツ山古墳の墳丘長は286メートルと、仲哀天皇の在位5年にしては大きいものであるが、これは神功皇后の権勢の影響があったものと考える。
 

神功皇后の陵墓は、現在佐紀古墳群で最も古いとされている、五社神(ごさし)古墳に治定されている。五社神古墳の古墳年代は345年で、神功皇后の亡くなった389年と比較すると、古墳年代の方が44年古くなっている。平成20年2月22日、宮内庁は陵墓として初めて神功皇后陵に研究者の立ち入り調査を認めた。そのシンポジウム「陵墓研究のいま・・神功皇后陵から五社神古墳へ・・」が4月5日に行われている。注目すべきことは、墳丘を覆っている葺き石より外側に円筒埴輪が認められたことから、前方部の両側に造り出し部が存在した可能性があるとし、神功皇后陵は中期古墳を規定した古墳である、4世紀末から5世紀初めの古墳と推測された。五社神古墳が神功皇后陵である可能性が出て来た。五社神古墳の古墳年代を400年として扱う。
 
 

19-6.日本武尊の白鳥陵の解明 [19.天皇陵の古墳年代を解く]

日本武尊の白鳥陵は、伊勢の能褒野、倭の琴弾原、河内の古市邑の三陵あると書紀に記載している。河内の古市邑の白鳥陵は宮内庁により前ノ山古墳に比定されている。前ノ山古墳は全長188メートルの第43番目の規模であるが、古墳年代が460年で、日本武尊の亡くなった329年とは、大きくかけ離れている。 

藤井寺市津堂に、古市古墳群の中で最も古い大型の前方後円墳である津堂城山古墳がある。津堂城山古墳は室町時代に城として利用されたこともあり、古墳の形が崩れており、明治始めに行われた陵墓治定作業から外れていたが、明治の終わり頃、その後円部から巨大な石棺や勾玉・鏡・刀剣が出土し、宮内庁は陵墓参考地に追加治定した。津堂城山古墳は全長208メートルで、規模・形態・出土品から、天皇陵に相当する古墳であると考えられている。
 
図54水鳥埴輪.jpg
津堂城山古墳の内濠の中には、一辺が17メートルほどの島状遺構があり、そこに3体の水鳥形埴輪が据えられていた。図54にその写真を示す(藤井寺市ホームページより)。大きい2体が1m10cm、小さい方が80cmであり、水鳥はコハクチョウではないかと考えられている。この水鳥形埴輪は国の重要文化財に指定されている。
 


日本武尊の第二子が仲哀天皇である。書紀の仲哀元年の記事に「自分はまだ二十歳にならぬ時、父の王はすでに亡くなった。魂は白鳥となって天に上った。慕い思う日は一日もやすむことはない。それで白鳥を陵のまわりの池に飼い、その鳥を見ながら父を偲ぶ心を慰めたいと思う」とある。
 

「白鳥を陵のまわりの池に飼い」とは、まさに津堂城山古墳の内濠の島状遺構に据えられた水鳥形埴輪の事を言っているのであろう。津堂城山古墳が日本武尊の白鳥陵に比定する。書紀に記載された天皇陵の所在地は天皇の年代により、磯城→佐紀→古市⇔百舌鳥と変化している。書紀によれば、古市に始めて築造されたのが、河内の古市邑の白鳥陵である。
津堂城山古墳が古市古墳群の中で最も古い大型の前方後円墳であることと一致している。津堂城山古墳の古墳年代は375年で、日本武尊の亡くなった329年とは、古墳年代の方が45年新しくなっている。この事については次節で説明する。

19-7.継体陵は今城塚古墳か [19.天皇陵の古墳年代を解く]

継体天皇陵は現在茨城市太田にある太田茶臼山古墳に比定されている。太田茶臼山古墳は全長227メートルで第20番目の大きさで、在位19年の継体天皇にとっては相応しい古墳である。しかし、古墳年代が450年と、継体天皇崩御533年とは大きく離れている。考古学者のほとんどが太田茶臼山古墳から東1.5キロメートルの高槻市にある、今城塚古墳を継体天皇の陵であると考えておられる。今城塚古墳の古墳年代は520年となっているからだ。 

考古学者が今城塚古墳を継体天皇の陵と比定したその理由は、今城塚古墳から出土する須恵器の多くはTK10型式のものであり、それと同じ型式の須恵器が福岡県の筑紫君磐井の墓と想定される岩戸山古墳から出土している。日本書紀に筑紫君磐井は没年が528年と書かれ、継体天皇の崩御は531年(元年表533年)と時代が一致したためだ。
 

一方、太田茶臼山古墳は継体天皇陵に治定され、その出土品は少ないものの、埴輪が高槻市の新池遺跡A期に造られたものであることが分かっている。A期の窯や工房・集落で出土する須恵器はON46型式である。A期の窯の地磁気の測定では、AD450±10年と出ているそうだ。
太田茶臼山古墳からもON46型式の須恵器が出土している。今城塚古墳の円筒埴輪には船のヘラ記号がついたものがあるが、新池遺跡のC期の窯や井戸・溝から同じヘラ記号がついた円筒埴輪が出土しており、今城塚古墳の埴輪で製作されていることが確認されている。また、新池遺跡の船のヘラ記号の円筒埴輪とMT15の須恵器が共存している。 

須恵器の編年からすると、ON46→TK208→TK23→TK47→MT15→TK10である。太田茶臼山古墳はON46の時代、今城塚古墳はMT15~TK10の時代である。須恵器の絶対年の編年は、まだ確定してないと思われるが、MT15~TK10は6世紀前半と考えられており、今城塚古墳の古墳年代は520年と合致している。今城塚古墳の墳丘長は190メートルで、在位年数と墳丘長の関係からみると、許容範囲の範疇にはある。継体天皇陵は定説通り、今城塚古墳と扱って行く。

19-8.天皇陵の古墳年代の解明 [19.天皇陵の古墳年代を解く]

表17見直し天皇陵.jpg表17に前節で見直した天皇陵、古墳年代を示した。なお、これら新たに比定した天皇陵はすべて、日本書紀に記載してある、天皇陵のある地域に存在している古墳である。卑弥呼が亡くなったのは、魏志倭人伝によると248年であるが、箸墓が築造されたのが元年表で259年であ
図55古墳年代解明.jpgり、崩御年の欄は259年とした。
 

表16と表17を基に天皇崩御の年と古墳年代のグラフを図55に示す。横軸は元年表による天皇の崩御の年、縦軸は天皇陵に比定された前方後円墳の古墳年代を示す。表17に記載している陵については、天皇名をカッコで囲み、元の陵はプロットしていない。天皇が崩御されて2~3年の後に天皇陵が完成したと仮定すると、元年表による天皇崩御の年が正しく、天皇陵の治定が正しく、古墳年代の編年が正しいとすると、プロットは45度の直線に乗ってくるはずである。
 

図55を見て一番に気が付くことは、卑弥呼と仁徳天皇陵以後の天皇陵は下部の45度の実線付近に並んでいることだ。安閑天皇崩御(535年)以降は、古事記および日本書紀の天皇崩御年が一致していることから、暦年が明確であるため実線に乗って来る。倭の五王の時代の仁徳(讃)・履中(珍)・允恭(済)も暦年が明確なため実線に乗っている。箸墓古墳の築造年代は、4世紀の初めと言われていたのが、280年頃となり、歴博の炭素14Cの測定により260年と比定され、箸墓が卑弥呼墓と認められるようになり、古墳年代が科学的に解明され実線に乗ってきたのである。神功陵は古墳年代を見直したため実線上に乗って来ている。景行陵が実線上にきたのは偶然であろう。
 

応神天皇陵以前の天皇陵が、実線上部の点線の付近に並んでいるのも注目に値する。端的に言わせてもらうと、これは最古の大型前方後円墳である箸墓を4世紀始めとして、大型前方後円墳の編年を行って来た時のなごりである。箸墓の年代が遡るに従い、崇神陵から応神陵までを遡らせばよいのであるが、そうはいかない理由があるのだ。
 

倭の五王について書いている宋書倭国伝・文帝紀によると、「讃」の名が初めて宋書に出てくるのは、421年の「倭王讃朝貢し、叙授を賜う」である。そして438年に「倭王讃死し、弟珍立つ」とある。仁徳天皇陵(大仙陵古墳)が古墳年代435年となっているのは、「讃」が仁徳天皇に比定され、大仙陵古墳の被葬者が仁徳天皇であると認めているためであろう。
 

仁徳天皇の前の天皇が応神天皇で、誉田御廟山古墳の被葬者が応神天皇とするならば、応神天皇陵の古墳年代は、宋書に基づき421年以前とならなければならず、応神天皇陵の古墳年代が430年は間違いとなってくる。考古学者の間で、誉田御廟山古墳を応神天皇陵と認められていないのはこのためである。誉田御廟山古墳の古墳年代が430年より以前に何故遡れないかを探ってみたい。
 

19-9.古墳時代の編年が解明される日 [19.天皇陵の古墳年代を解く]

考古学において、土器・須恵器・古墳など編年を組み立てる場合、その新旧を並べる相対年代は緻密に組み立てられている。しかし、O世紀の中頃とか、西暦OO年のように暦年代を決めるのは、暦年代が確かな定点を決め、そこから相対年代を積み上げている。図55を見ると、応神天皇陵を通る点線と、仁徳天皇陵を通る実線の二つの直線が存在する。応神天皇陵と仁徳天皇陵がその定点になっている。 

応神天皇陵の古墳年代が421年以前に比定できないのは、応神天皇陵の外堤外側から、初期の須恵器TK73型式とON46型式が見つかっていることだ。大阪府堺市から和泉市の泉北丘陵に造られた泉北ニュータウンは全国でも有数の規模のニュータウンである。この地は古代陶邑といわれる須恵器の生産地であった。ニュータウンの開発に伴い、至るところから須恵器の登窯跡が発掘され、その数は千基を超えている。泉北ニュータウン内にある泉北考古資料館には、この陶邑の須恵器は五世紀半から製作されたものであると、以前は須恵器の展示の説明に記載していた。「須恵器の発生は五世紀半」、この壁を破らなければ、おいそれと応神天皇陵を五世紀半以前に比定することは出来ないのだ。
 

この壁をぶち破ってくれるのが年輪年代法である。これは、
奈良文化財研究所の光谷拓実氏が1985年頃から実用化の道を切り開いたものだ。樹木の年輪は毎年一層ずつ形成される。その年輪の幅は気象条件によって、広い時もあれば狭い時もある。この年輪幅の長期の変動パターンを標準パターンとして作り、資料のパターンがどの年代の標準パターンと合致するかを調べ、最外周の年代を知る方法だ。現在ヒノキで紀元前912年から、スギで紀元前1313年からの標準パターンが出来ている。この年輪年代法では、樹皮のある資料ならその伐採された年が年単位で知ることができる。 

年輪年代法により、3世紀後半頃と言われていた古墳時代の始まりが、30~40年繰り上がり三世紀中頃と言われるようになってきた。須恵器についてはどうであろうか。奈良時代の首府・平城宮の地下には古墳時代の遺跡がある。この遺跡から応神天皇陵の外堤外側から出土した須恵器と同じ型式の、TK73型式の須恵器の破片が出土した。その近くの同じ地層から出た樹皮のあるヒノキ材の、年輪測定法による伐採年代は412年であり、須恵器の製作開始が五世紀の始めとなって来た。
 

平成18年3月、宇治市教育委員会と奈良文化財研究所は、宇治市街遺跡から出土した須恵器について、「四世紀後半のもので最古級とみられる」と発表した。一緒に出た板材の伐採年代が年輪年代測定法と炭素年代測定法により「389年」と導かれ、須恵器の様式も古い(大庭寺式)ことから判断したという。「渡来人が技術を伝えた須恵器の生産開始時期は五世紀前半とされてきたが、定説を遡る事になる」と記している。


須恵器のTK73型式に先行するTK232型式(大庭寺式)は389年に存在したこと、そして、TK73は412年に存在したことは、既に確認できている。応神天皇陵の古墳年代を400年以前に確定してもおかしくない資料が増えつつある。
 

近つ飛鳥博物館の常設展の年輪年代測定コーナーに、応神天皇陵の外堤から出土した笠形木製品が展示してある。その年輪年代は302年であった。この年代はあまりにも古いので、以前から気になっていた。年輪年代法を完成された光谷氏の講演を聞いた後、笠形木製品の年輪年代についての質問の手紙を送らせていただいた。するとご丁寧な葉書をいただいた。「笠形木製品の年代は伐採年代ではありません。その正確な年代を求めることは大変難しいことです。推定ではありますが、西暦400年あたりまで下ることはないと思われます。正しくは302年+αということでご理解ください」とあった。応神天皇陵の外堤はから出土した笠形木製品の年輪は、応神天皇陵が400年以前に造られた可能性があることを示している。
 

応神天皇陵の古墳年代の430年を40~50年繰り上げ、それに伴い応神天皇以前の天皇陵の古墳年代も同じように繰り上げると、全ての天皇陵が実線の付近に分布してくる。宮内庁は天皇陵の研究者による立ち入りを順次行っており、これから天皇陵の情報も増えてくるであろう。また、須恵器のTK73型式と樹皮のついた木材が一緒に出土することがあれば、年輪測定法が須恵器の絶対年を明らかにしてくれるであろう。
 

天皇陵の古墳年代が図55の実線の付近に直線的に確定されるときが、そう遠くない将来に必ずくると確信する。そのとき、私の元年表が正確であると、証明される日でもある。そして、日本書紀が歴史の表舞台に立ち、歴史・考古学が築かれて来た成果と互いに補完して、新しい視点にたった展開が開かれると確信する。

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