29-1.東北・関東の縄文ガラス [29.ガラスを透して古代を見る]
日本列島にガラス製品がいつ入って来たか。縄文時代にガラスが大陸から流入していたかと言う問題は、まだその資料数が少なく明確にされていないようだ。その4点の資料、青森県つがる市の亀ヶ岡遺跡、青森県八戸市の是川中居遺跡、埼玉県岩槻市の真福寺貝塚、山口県下関市の御堂遺跡を追いかけてみた。
遮光器土偶で有名な青森県つがる市の亀ヶ岡遺跡において、縄文晩期の大洞A’式土器を主体として含む包含層から、径4㎜、孔径1㎜、幅2.8㎜の淡い水色のガラス小玉1点が出土している。材質については化学分析がなされ、アルカリ石灰ガラスとされている。 歴博の炭素14較正年代からすると、大洞A’式土器は東日本の縄文晩期のBC550~400年にあたり、西日本では弥生前期後半の時期である。ガラスが舶載されたものと考えられ、亀ヶ岡遺跡のガラス小玉は弥生前期後半のガラスとして、取り扱つかわれている。
赤い漆塗りの木製品が多量に出土したことで有名な青森県八戸市の是川中居遺跡からガラス製の密柑玉1・丸玉1・小玉6が出土している。是川中居遺跡からは遮光器土偶が出土し、亀ヶ岡遺跡と同じ時代の縄文晩期遺跡である。また、同遺跡からは西日本の弥生時代前期に出土する遠賀川式土器が多量に出土している。東日本の縄文晩期が西日本の弥生前期という、歴博の年代観を証明する遺跡でもある。
是川中居遺跡の密柑玉と丸玉には黄色の横縞が見られる雁木玉(トンボ玉の一種)、小玉は白色・琥珀色・水色・深緑色と色々あり、ガラス製品としては時代が新しく、後世の混入でないかと疑われている。それは、これらガラス製品が表面採取されたものであることに起因している。是川中居遺跡から直線距離で20㎞も離れていない、岩手県軽米町の大日向Ⅱ遺跡からはガラス小玉が出土し、遠賀川土器と共伴していることから弥生前期のガラスとされている。是川遺跡のガラス玉も弥生時代に舶載されたガラス製品ではないかと考える。
埼玉県岩槻市真福寺貝塚から、昭和3年にガラス小玉が表面採取されている。真福寺貝塚は国史跡に指定された関東地方の縄文後期から縄文晩期にかけての遺跡である。そのガラス小玉については、「全体麗しい青緑色を呈し、白色波状線の象嵌を有する所謂雁木玉である。現存部は高さ0.8㎜の小玉の半片」、「若し之が石器時代住民の遺物であったなら、この微細な破片こそ、当時の文化、交通、及び年代を考察する上に、最も重要なる鍵といわねばならない。然し、その発見位置が貝塚表面であると云うことが、此品の考古学的価値を甚だしく減少せしめる。」「肯定、非定共に根拠薄弱なる今日にあっては、暫く疑問の品として将来の発見、及びこの玉自身の有する科学的成分の結果を待つことにしたい」と報告されている。真福寺貝塚からガラス小玉が発見されてから85年経つが、この問題は進展していない。
遮光器土偶で有名な青森県つがる市の亀ヶ岡遺跡において、縄文晩期の大洞A’式土器を主体として含む包含層から、径4㎜、孔径1㎜、幅2.8㎜の淡い水色のガラス小玉1点が出土している。材質については化学分析がなされ、アルカリ石灰ガラスとされている。 歴博の炭素14較正年代からすると、大洞A’式土器は東日本の縄文晩期のBC550~400年にあたり、西日本では弥生前期後半の時期である。ガラスが舶載されたものと考えられ、亀ヶ岡遺跡のガラス小玉は弥生前期後半のガラスとして、取り扱つかわれている。
赤い漆塗りの木製品が多量に出土したことで有名な青森県八戸市の是川中居遺跡からガラス製の密柑玉1・丸玉1・小玉6が出土している。是川中居遺跡からは遮光器土偶が出土し、亀ヶ岡遺跡と同じ時代の縄文晩期遺跡である。また、同遺跡からは西日本の弥生時代前期に出土する遠賀川式土器が多量に出土している。東日本の縄文晩期が西日本の弥生前期という、歴博の年代観を証明する遺跡でもある。
是川中居遺跡の密柑玉と丸玉には黄色の横縞が見られる雁木玉(トンボ玉の一種)、小玉は白色・琥珀色・水色・深緑色と色々あり、ガラス製品としては時代が新しく、後世の混入でないかと疑われている。それは、これらガラス製品が表面採取されたものであることに起因している。是川中居遺跡から直線距離で20㎞も離れていない、岩手県軽米町の大日向Ⅱ遺跡からはガラス小玉が出土し、遠賀川土器と共伴していることから弥生前期のガラスとされている。是川遺跡のガラス玉も弥生時代に舶載されたガラス製品ではないかと考える。
埼玉県岩槻市真福寺貝塚から、昭和3年にガラス小玉が表面採取されている。真福寺貝塚は国史跡に指定された関東地方の縄文後期から縄文晩期にかけての遺跡である。そのガラス小玉については、「全体麗しい青緑色を呈し、白色波状線の象嵌を有する所謂雁木玉である。現存部は高さ0.8㎜の小玉の半片」、「若し之が石器時代住民の遺物であったなら、この微細な破片こそ、当時の文化、交通、及び年代を考察する上に、最も重要なる鍵といわねばならない。然し、その発見位置が貝塚表面であると云うことが、此品の考古学的価値を甚だしく減少せしめる。」「肯定、非定共に根拠薄弱なる今日にあっては、暫く疑問の品として将来の発見、及びこの玉自身の有する科学的成分の結果を待つことにしたい」と報告されている。真福寺貝塚からガラス小玉が発見されてから85年経つが、この問題は進展していない。
29-2.御堂遺跡の縄文ガラスの検証 [29.ガラスを透して古代を見る]
本州の最西端、山口県下関市の日本海側の海を響灘と呼んでいる。この響灘に面する沿岸に、縄文時代晩期の御堂遺跡がある。この遺跡の2基の土坑から、塊状(最大長さ28㎜・最大幅13㎜・最大厚み12㎜)と棒状(長さ12㎜・径3~4㎜)の、風化による劣化も少ない、透明度の高い淡青色のガラス塊が出土している。ガラスの専門学者は、縄文晩期の御堂遺跡出土のガラス塊を、近代ガラスが方含層に混入したと結論付けている。
二つのガラス塊の非破壊分析がなされ、Al2O3の含有量が極めて多く、CaOも比較的多い、名古屋市の白山藪古墳出土の小玉と成分が類似しているとしている。御堂遺跡出土のガラス塊の成分の詳細は知らないが、白山藪古墳の小玉と同じ組成であると仮定して検証してみる。これらの組成のガラスを、高アルミナ中石灰ソーダガラス(H.Al-M.Ca-SG)と表記する。
SiO2 Na2O K2O CaO MgO Al2O3
白山藪古墳小玉 60% 15% 3.7% 6.7% 0.42% 12%
ソーダガラスは、(K2O+MgO)/Na2Oの値で、原料にナトロン(天然Na2CO3)を使用したか、それとも植物灰を使用したかが分かる。ここではK2OとMgOを分けて検証してみた。高アルミナ中石灰ソーダガラスは、K2Oでは植物灰ソーダガラスに近く、MgOではナトロンに近いことが分かった。ガラスの専門学者が、縄文晩期の御堂遺跡出土のガラス塊を、近代ガラスが方含層に混入したと結論したのも、このような一般的には考えられない組成 のためであろう。
ナトロン 植物灰 H.Al-M.Ca-SG
K2O/Na2O 0.04 0.11 0.25
MgO/Na2O 0.04 0.22 0.03
話は変わるが、北海道の十勝地方は黒曜石の産地としては有名で、旭川市博物館では黒曜石の研究が盛んに行われている。その研究の一つに、縄文人は黒曜石を加熱処理する事により、黒曜石の表面に釉薬を塗ったようにコーティングを施し、表面の微細な傷を埋め、黒曜石全体の強度を高めていたと考え、その実証実験を行っている。そして、黒曜石を単に加熱しただけでは何の変化もないが、木灰の中に入れ300~400℃の温度で2~3時間加熱すれば、黒曜石の表面にコーティング層が形成されることを見つけている。
注目すべきことは、木灰を被せた黒曜石の表面は、図40に見られるように、時間と共にNa2Oの比率が高いコーティング層が形成されて行く事だ。この現象はNa2Oの成分のみに顕著に現れ、Al2O3・CaO・K2Oの成分はあまり変化していない。これらの現象は、黒曜石から選択的にNa成分が表層部に溶出し、コーティング層を形成しているとされているが、それでは滑らかなコーティング層は出来ない。私は、黒曜石が木灰にあるNa2Oを優先的に取り込み、コーティング層を形成したと考える。ただ木灰のNa2O成分はK2O
に比べて非常に少なく、どうしてこんな現象がおこるのか
不思議である。
高アルミナ中石灰ソーダガラスは、黒曜石がNa2Oを優先的に取り込む性質を利用して作られたと考える。黒曜石を細かく砕き木灰と混ぜ、300~400℃で24時間加熱し、それを水簸で分離し、10%の木灰と混ぜ、1000℃以上に加熱してガラスを作ったと考える。ただし、加熱処理した黒曜石は芯までNa2Oの拡散は行っておらず、平均すればその半分であったと仮定した。木灰の成分はオーク(コアラ・ミズナラ・カシワ)を採用した。これらから出来るガラス成分をみると、K2O/Na2Oの値は0.39、MgO/Na2Oの値は0.03とH.Al-M.Ca-SGに近い値となる。高アルミナ中石灰ソーダガラスは、黒曜石と木灰から出来たと考える。
SiO2 Al2O3 CaO MgO K2O Na2O
①黒曜石 78% 13 % 0.73% 0.15% 4.7% 3.53%
②24hr(木灰+黒曜) 60% 11% 1.10% 0.15% 3.5% 24%
③木灰(オーク) 7.0% 1.9% 63% 4.18% 15% 0.47%
(①+②)/2+③x0.1 64% 11% 6.6% 0.40% 5.1% 13%
H.Al-M.Ca-SG 60% 12% 6.7% 0.42% 3.7% 15%
二つのガラス塊の非破壊分析がなされ、Al2O3の含有量が極めて多く、CaOも比較的多い、名古屋市の白山藪古墳出土の小玉と成分が類似しているとしている。御堂遺跡出土のガラス塊の成分の詳細は知らないが、白山藪古墳の小玉と同じ組成であると仮定して検証してみる。これらの組成のガラスを、高アルミナ中石灰ソーダガラス(H.Al-M.Ca-SG)と表記する。
SiO2 Na2O K2O CaO MgO Al2O3
白山藪古墳小玉 60% 15% 3.7% 6.7% 0.42% 12%
ソーダガラスは、(K2O+MgO)/Na2Oの値で、原料にナトロン(天然Na2CO3)を使用したか、それとも植物灰を使用したかが分かる。ここではK2OとMgOを分けて検証してみた。高アルミナ中石灰ソーダガラスは、K2Oでは植物灰ソーダガラスに近く、MgOではナトロンに近いことが分かった。ガラスの専門学者が、縄文晩期の御堂遺跡出土のガラス塊を、近代ガラスが方含層に混入したと結論したのも、このような一般的には考えられない組成 のためであろう。
ナトロン 植物灰 H.Al-M.Ca-SG
K2O/Na2O 0.04 0.11 0.25
MgO/Na2O 0.04 0.22 0.03
話は変わるが、北海道の十勝地方は黒曜石の産地としては有名で、旭川市博物館では黒曜石の研究が盛んに行われている。その研究の一つに、縄文人は黒曜石を加熱処理する事により、黒曜石の表面に釉薬を塗ったようにコーティングを施し、表面の微細な傷を埋め、黒曜石全体の強度を高めていたと考え、その実証実験を行っている。そして、黒曜石を単に加熱しただけでは何の変化もないが、木灰の中に入れ300~400℃の温度で2~3時間加熱すれば、黒曜石の表面にコーティング層が形成されることを見つけている。
注目すべきことは、木灰を被せた黒曜石の表面は、図40に見られるように、時間と共にNa2Oの比率が高いコーティング層が形成されて行く事だ。この現象はNa2Oの成分のみに顕著に現れ、Al2O3・CaO・K2Oの成分はあまり変化していない。これらの現象は、黒曜石から選択的にNa成分が表層部に溶出し、コーティング層を形成しているとされているが、それでは滑らかなコーティング層は出来ない。私は、黒曜石が木灰にあるNa2Oを優先的に取り込み、コーティング層を形成したと考える。ただ木灰のNa2O成分はK2O
に比べて非常に少なく、どうしてこんな現象がおこるのか
不思議である。
高アルミナ中石灰ソーダガラスは、黒曜石がNa2Oを優先的に取り込む性質を利用して作られたと考える。黒曜石を細かく砕き木灰と混ぜ、300~400℃で24時間加熱し、それを水簸で分離し、10%の木灰と混ぜ、1000℃以上に加熱してガラスを作ったと考える。ただし、加熱処理した黒曜石は芯までNa2Oの拡散は行っておらず、平均すればその半分であったと仮定した。木灰の成分はオーク(コアラ・ミズナラ・カシワ)を採用した。これらから出来るガラス成分をみると、K2O/Na2Oの値は0.39、MgO/Na2Oの値は0.03とH.Al-M.Ca-SGに近い値となる。高アルミナ中石灰ソーダガラスは、黒曜石と木灰から出来たと考える。
SiO2 Al2O3 CaO MgO K2O Na2O
①黒曜石 78% 13 % 0.73% 0.15% 4.7% 3.53%
②24hr(木灰+黒曜) 60% 11% 1.10% 0.15% 3.5% 24%
③木灰(オーク) 7.0% 1.9% 63% 4.18% 15% 0.47%
(①+②)/2+③x0.1 64% 11% 6.6% 0.40% 5.1% 13%
H.Al-M.Ca-SG 60% 12% 6.7% 0.42% 3.7% 15%
29-3.響灘のガラス塊が語るもの [29.ガラスを透して古代を見る]
「27-15.戦国の鉛バリウムガラスを解く」では、中国の戦国時代に、黒曜石に白鉛鉱(PbCO3)と毒重石(BaCO3)を加えて、鉛バリウムガラスを作ったと結論付けた。黒曜石からガラスを作る発想は戦国時代に生れたと考える。御堂遺跡のガラス塊は、黒曜石と木灰から作った高アルミナ中石灰ソーダガラスであり、その製作年代は戦国時代、歴博の年代観で言えば弥生前期末から弥生中期初めのものであると考えられる。
御堂遺跡から出土したガラス塊が、後世の混入品ではなく、遺跡で人々が暮らしていた時代の物であると仮定すると、高アルミナ中石灰ソーダガラスが、製作地は別として、縄文晩期に存在したことになる。縄文晩期は歴博の年代観でいえば紀元前1200~前900年頃、中国では商(殷)の時代で、青銅器は存在するがガラスは存在していない時代であり、大きな矛盾が生じる。
御堂遺跡は縄文晩期の遺跡とされているが、その根拠は遺跡から出土した土器片の形状と、遺跡内に存在する木棺墓の形態と木組みの仕方から推定されたものである。しかし、御堂遺跡を弥生時代前期であると捉えている学者もいる。それは遺跡内にある遺構の一つの埋土から弥生式土器が出土していること、木棺墓の時期が弥生前期まで下る可能性があるからだ。
話は変わるが、大阪府立弥生文化博物館では平成23年度秋季特別展で「弥生文化のはじまりー土井ヶ浜遺跡と響灘周辺」を催し、冊子を発行している。図41がその冊子で取り上げた遺跡である。この図にガラス塊が出土した御堂遺跡を★印で加筆した。響灘周辺の遺跡からは、弥生時代ではあるがガラスに関係する遺物が出土している。
多数の渡来人系弥生人骨が出土した、①の弥生前期の土井ヶ浜遺跡からは、アルカリ石灰ガラスの小玉が出土した。②の弥生前期の沖田遺跡からは、大洞A式土器が出土している。この大洞A式土器は、土井ヶ浜と同じアルカリ石灰ガラスを出土した、青森県の亀ヶ岡遺跡で多く作られた土器である。
⑪の弥生中期初頭の栗浜遺跡からは細形銅剣と多鈕細文鏡が、④山の神遺跡からは日本最古の鋳鉄製農具とされた鋤先が、弥生中期前半の⑭甲殿遺跡からはトンボ玉の鉛バリウムガラスが出土している。韓国では細形銅剣・多鈕細文鏡・鋳造鉄器・鉛バリウムガラスの四点セットが紀元前3世紀頃から共伴して出土している。
⑬の武久浜遺跡からは、ガラス小玉と中国の半両銭が共伴している。半両銭は前漢の四銖半両銭で紀元前175~120年に鋳造されたものである。⑯の下七見遺跡からは、中期初頭の土坑からガラスの勾玉鋳型が、また別の土坑からトルコブルーの小玉が出土している。ガラスの勾玉鋳型は北部九州でも中期後半にならないと出現していない。響灘周辺の地区はガラスから見ると先進地区であったと思われる。
このようなガラスと関わりのある弥生遺跡の、真っただ中にある縄文晩期の御堂遺跡から、縄文土器と共伴してガラス塊が出土している。このガラス塊を近代ガラスが方含層に混入したと、片付けるわけにはいかない気がする。御堂遺跡の年代も推定の域を脱してないように思えるし、また17m離れた二つの土坑で同じ混入が起こったとすることにも疑問がある。
御堂遺跡が縄文晩期の遺跡か、それとも弥生前期の遺跡か、また前期のいつ頃の遺跡か、その決着が付く日まで、御堂遺跡から出土したガラス塊が語るものは聞こえてこない。
御堂遺跡から出土したガラス塊が、後世の混入品ではなく、遺跡で人々が暮らしていた時代の物であると仮定すると、高アルミナ中石灰ソーダガラスが、製作地は別として、縄文晩期に存在したことになる。縄文晩期は歴博の年代観でいえば紀元前1200~前900年頃、中国では商(殷)の時代で、青銅器は存在するがガラスは存在していない時代であり、大きな矛盾が生じる。
御堂遺跡は縄文晩期の遺跡とされているが、その根拠は遺跡から出土した土器片の形状と、遺跡内に存在する木棺墓の形態と木組みの仕方から推定されたものである。しかし、御堂遺跡を弥生時代前期であると捉えている学者もいる。それは遺跡内にある遺構の一つの埋土から弥生式土器が出土していること、木棺墓の時期が弥生前期まで下る可能性があるからだ。
話は変わるが、大阪府立弥生文化博物館では平成23年度秋季特別展で「弥生文化のはじまりー土井ヶ浜遺跡と響灘周辺」を催し、冊子を発行している。図41がその冊子で取り上げた遺跡である。この図にガラス塊が出土した御堂遺跡を★印で加筆した。響灘周辺の遺跡からは、弥生時代ではあるがガラスに関係する遺物が出土している。
多数の渡来人系弥生人骨が出土した、①の弥生前期の土井ヶ浜遺跡からは、アルカリ石灰ガラスの小玉が出土した。②の弥生前期の沖田遺跡からは、大洞A式土器が出土している。この大洞A式土器は、土井ヶ浜と同じアルカリ石灰ガラスを出土した、青森県の亀ヶ岡遺跡で多く作られた土器である。
⑪の弥生中期初頭の栗浜遺跡からは細形銅剣と多鈕細文鏡が、④山の神遺跡からは日本最古の鋳鉄製農具とされた鋤先が、弥生中期前半の⑭甲殿遺跡からはトンボ玉の鉛バリウムガラスが出土している。韓国では細形銅剣・多鈕細文鏡・鋳造鉄器・鉛バリウムガラスの四点セットが紀元前3世紀頃から共伴して出土している。
⑬の武久浜遺跡からは、ガラス小玉と中国の半両銭が共伴している。半両銭は前漢の四銖半両銭で紀元前175~120年に鋳造されたものである。⑯の下七見遺跡からは、中期初頭の土坑からガラスの勾玉鋳型が、また別の土坑からトルコブルーの小玉が出土している。ガラスの勾玉鋳型は北部九州でも中期後半にならないと出現していない。響灘周辺の地区はガラスから見ると先進地区であったと思われる。
このようなガラスと関わりのある弥生遺跡の、真っただ中にある縄文晩期の御堂遺跡から、縄文土器と共伴してガラス塊が出土している。このガラス塊を近代ガラスが方含層に混入したと、片付けるわけにはいかない気がする。御堂遺跡の年代も推定の域を脱してないように思えるし、また17m離れた二つの土坑で同じ混入が起こったとすることにも疑問がある。
御堂遺跡が縄文晩期の遺跡か、それとも弥生前期の遺跡か、また前期のいつ頃の遺跡か、その決着が付く日まで、御堂遺跡から出土したガラス塊が語るものは聞こえてこない。
29-4.ガラスは弥生中期初頭に伝わった [29.ガラスを透して古代を見る]
歴博が炭素14年代測定法に基づいて、弥生時代の始まりを紀元前900年頃と500年遡らせ、弥生時代の前期と中期を長く引き伸ばした年代観を発表したのは2003年のことであった。このことは、考古学会では大反響を呼び、喧々諤々の議論が沸騰した。それから10年近く経った現在、大阪府立弥生文化博物館の冊子にもその年代観が採用されており、歴博の弥生年代観が定着してきたと思われる。
これから述べる日本の古代ガラスについては、歴博の弥生年代観に基づいて述べていく。また、中国との関係をより分かり易くするため、弥生時代の前期は中国の春秋時代、中期前半は戦国時代、中期後半は前漢時代、後期は後漢時代として扱うことにする。ただ、参考とする資料の中には、弥生後期の後に弥生終末期を想定したものがあり、その場合は弥生[後期]と表記する。
日本の古代ガラスには、鉛ガラス・鉛バリウムガラス・カリガラス・ソーダガラスがある。図42に肥後隆保氏等が作成した「日本列島におけるガラス材質の変遷」(月刊文化財 平成22年11月号)を示す。ただし、その時代区分と暦年の関係は、筆者が従来の年代観に基づき作成したものと思われるので、歴博の年代観に基づき、弥生時代前期と中期について改変した。
日本にガラスが初めて入って来たのは、弥生時代前期末から中期初頭であり、表43のように北部九州の玄界灘沿岸と有明海に向かう内陸部、そして本州最西端部の響灘沿岸部である。ガラスの小玉が中心で色もとりどりである。写真のガラス小玉(径3㎜)は、福岡市西区にある吉武高木遺跡の弥生中期初頭の金海式甕棺から細形銅剣(1)と勾玉(1)・管玉(42)と一緒に出土したものである。吉武高木遺跡からは、歴代天皇に受け継がれた三種の神器(鏡・玉・剣)の組み合わせの、銅鏡・勾玉・銅剣がセットで出土しており、最古の王墓と言われている。
私が注目する北部九州の遺跡は、佐賀県唐津市の宇木汲田遺跡、三日月町の本告遺跡、大和町の東山田一本杉遺跡である。唐津市から東南に松浦川を遡り、標高200mの峠を越えると有明海側に入り三日月町に至る。そこから東に大和町、そして吉野ヶ里遺跡のある神崎町に達する。吉野ヶ里遺跡の弥生中期中頃の墳丘墓からはガラス管玉75個が出土している。 玄海灘から有明海に抜けるルートが弥生中期前半より存在し、舶載の文物を伝えていたことが分かる。このルートこそ、魏志倭人伝に記載された「末盧国に至る・・・東南陸行五百里にして伊都国に到る」の陸行の道であると考える。その詳細はマイカテゴリーの「3.邪馬台国を解く」に書いている。
北部九州以外では、大阪と東北からの出土例がある。大阪府守口市の八雲遺跡の住居址から出土したガラス小玉は、色彩が赤色をしており色彩が特異であることから、混入したのではないかと疑われている。八雲遺跡は弥生前期末から中期初頭の集落遺跡で、1センチ未満の極小の錐状石ノミを作っていた石器工房のある遺跡である。その石器に使われていた石材は、黄色や赤色の鉄石英やメノウで、鉄石英は新潟県佐渡市産のものであり、メノウは山陰産ではないかと言われている。遠方との交流があり、赤色の石ノミを作る八雲遺跡から出土した赤色のガラス小玉は、赤色にこだわりを持った人々が手に入れた宝物であったのであろう。
青森県つがる市の亀ヶ岡遺跡からは、淡い水色の小玉が大洞A’ 式土器と共伴している。この大洞A’ 式土器は山口県豊北町の沖田遺跡から出土している。この沖田遺跡に近い土井ヶ浜遺跡からは、表43にある青色の小玉が出土している。岩手県軽米町の大日向Ⅱ遺跡からは、青色の鉛ガラスの小玉が遠賀川式土器と共伴している。遠賀川式土器は弥生時代前期の指標となる北部九州に由来する土器である。
歴博の炭素年代測定による稲作の伝播についての報告によると、紀元前900年頃北部九州に伝わった稲作が、青森県の日本海側に伝わったのが紀元前400年頃で、太平洋側の青森県・岩手県に伝わったのが紀元前350年頃とされている。時代区分から言えば、弥生時代中期前半でこのころである。稲作は500年掛かって北九州から北東北に伝播しているが、ガラスは北九州に入ってすぐに北東北に伝わっている。物の動きは文化の伝播と違って、非常に早く伝わっていることが分かる
これから述べる日本の古代ガラスについては、歴博の弥生年代観に基づいて述べていく。また、中国との関係をより分かり易くするため、弥生時代の前期は中国の春秋時代、中期前半は戦国時代、中期後半は前漢時代、後期は後漢時代として扱うことにする。ただ、参考とする資料の中には、弥生後期の後に弥生終末期を想定したものがあり、その場合は弥生[後期]と表記する。
日本の古代ガラスには、鉛ガラス・鉛バリウムガラス・カリガラス・ソーダガラスがある。図42に肥後隆保氏等が作成した「日本列島におけるガラス材質の変遷」(月刊文化財 平成22年11月号)を示す。ただし、その時代区分と暦年の関係は、筆者が従来の年代観に基づき作成したものと思われるので、歴博の年代観に基づき、弥生時代前期と中期について改変した。
日本にガラスが初めて入って来たのは、弥生時代前期末から中期初頭であり、表43のように北部九州の玄界灘沿岸と有明海に向かう内陸部、そして本州最西端部の響灘沿岸部である。ガラスの小玉が中心で色もとりどりである。写真のガラス小玉(径3㎜)は、福岡市西区にある吉武高木遺跡の弥生中期初頭の金海式甕棺から細形銅剣(1)と勾玉(1)・管玉(42)と一緒に出土したものである。吉武高木遺跡からは、歴代天皇に受け継がれた三種の神器(鏡・玉・剣)の組み合わせの、銅鏡・勾玉・銅剣がセットで出土しており、最古の王墓と言われている。
私が注目する北部九州の遺跡は、佐賀県唐津市の宇木汲田遺跡、三日月町の本告遺跡、大和町の東山田一本杉遺跡である。唐津市から東南に松浦川を遡り、標高200mの峠を越えると有明海側に入り三日月町に至る。そこから東に大和町、そして吉野ヶ里遺跡のある神崎町に達する。吉野ヶ里遺跡の弥生中期中頃の墳丘墓からはガラス管玉75個が出土している。 玄海灘から有明海に抜けるルートが弥生中期前半より存在し、舶載の文物を伝えていたことが分かる。このルートこそ、魏志倭人伝に記載された「末盧国に至る・・・東南陸行五百里にして伊都国に到る」の陸行の道であると考える。その詳細はマイカテゴリーの「3.邪馬台国を解く」に書いている。
北部九州以外では、大阪と東北からの出土例がある。大阪府守口市の八雲遺跡の住居址から出土したガラス小玉は、色彩が赤色をしており色彩が特異であることから、混入したのではないかと疑われている。八雲遺跡は弥生前期末から中期初頭の集落遺跡で、1センチ未満の極小の錐状石ノミを作っていた石器工房のある遺跡である。その石器に使われていた石材は、黄色や赤色の鉄石英やメノウで、鉄石英は新潟県佐渡市産のものであり、メノウは山陰産ではないかと言われている。遠方との交流があり、赤色の石ノミを作る八雲遺跡から出土した赤色のガラス小玉は、赤色にこだわりを持った人々が手に入れた宝物であったのであろう。
青森県つがる市の亀ヶ岡遺跡からは、淡い水色の小玉が大洞A’ 式土器と共伴している。この大洞A’ 式土器は山口県豊北町の沖田遺跡から出土している。この沖田遺跡に近い土井ヶ浜遺跡からは、表43にある青色の小玉が出土している。岩手県軽米町の大日向Ⅱ遺跡からは、青色の鉛ガラスの小玉が遠賀川式土器と共伴している。遠賀川式土器は弥生時代前期の指標となる北部九州に由来する土器である。
歴博の炭素年代測定による稲作の伝播についての報告によると、紀元前900年頃北部九州に伝わった稲作が、青森県の日本海側に伝わったのが紀元前400年頃で、太平洋側の青森県・岩手県に伝わったのが紀元前350年頃とされている。時代区分から言えば、弥生時代中期前半でこのころである。稲作は500年掛かって北九州から北東北に伝播しているが、ガラスは北九州に入ってすぐに北東北に伝わっている。物の動きは文化の伝播と違って、非常に早く伝わっていることが分かる
29-5.鉛バリウムガラスが前漢時代に流入 [29.ガラスを透して古代を見る]
弥生時代中期後半になると北部九州地方を中心に、勾玉・管玉・棗(なつめ)玉・丸玉・小玉・塞杅(髪飾り)・璧などのガラス製品が流入している。北部九州の遺跡としては、福岡県では前原市の三雲南小路の勾玉・管玉・璧、春日市の須玖岡本遺跡の勾玉・管玉・塞杅・璧、飯塚市の立岩掘田遺跡の管玉・棗玉・丸玉・塞杅、佐賀県では唐津市の宇木汲田遺跡の管玉・小玉、呼子町の大友遺跡の管玉・丸玉、神崎郡の吉野ヶ里遺跡の管玉などがあげられる。北部九州以外では、多くはないが瀬戸内や近畿周辺から、少数であるが関東南部から出土する。
これらのガラス製品の内、組成が分析されたもののほとんどはバリウムを含む鉛ガラスである。その中で組成が測定され、明確に鉛バリウムガラスと分かっているのは、宇木汲田遺跡の管玉、吉野ヶ里井遺跡の管玉、玖岡本遺跡の管玉、立岩遺跡28号甕棺の塞杅である。これら鉛バリウムガラスの成分と、中国の前漢時代、韓国の同時代の成分を比較して見た。
SiO2 Al2O3 CaO MgO K2O Na2O PbO BaO
中国 37% 0.85% 0.48% 0.09% 0.17% 3.17% 40% 16%
韓国 42% 0.50% 1.70% 0.34% 0.08% 4.20% 39% 11%
日本 39% 0.47% 1.21% 0.39% 0.29% 4.51% 40% 12%
日本(弥生中期後半)と韓国(1世紀以前)の鉛バリウムガラスは、中国の前漢時代の鉛バリウムガラスとほぼ同じ組成である。鉛バリウムガラスは戦国時代の中国で生れたが、前漢の時代に韓国と日本にもたらされたと結論付けることが出来る。
前述の4遺跡から出土したガラス製品の鉛同位体比が測定されている。韓国では細形銅剣・多鈕細文鏡・鋳造鉄器・鉛バリウムガラスがセットで出土している。そこで、日本出土の朝鮮系青銅器(細形青銅武器と多鈕細文鏡)の鉛同位体比と、鉛バリウムガラスの同位対比を比較してみた。
「20-4.弥生の故郷は山東半島」で示したように、朝鮮系青銅器はラインD’を形成し、その鉛鉱山は山東半島の香奇鉱山であった。韓国と日本で出土した鉛バリウムガラスのプロットは、全てそのラインD’上にあり、前漢時代には鉛バリウムガラスが山東半島で作られ、韓国と日本に伝来したと考える。吉野ヶ里遺跡のガラス管玉の測定値が、ラインD'
上ではあるが右上離れた位置にある。これは香奇鉱山の鉛鉱石の測定値を増やせば、その間は埋まると考える。図47は韓国の鉛バリウムガラスの出土地である。鉛バリウムガラスが中国北部の遼寧省あたりや北朝鮮にあった楽浪郡からではなく、山東省付近からもたらされたことが理解出来る。
これらのガラス製品の内、組成が分析されたもののほとんどはバリウムを含む鉛ガラスである。その中で組成が測定され、明確に鉛バリウムガラスと分かっているのは、宇木汲田遺跡の管玉、吉野ヶ里井遺跡の管玉、玖岡本遺跡の管玉、立岩遺跡28号甕棺の塞杅である。これら鉛バリウムガラスの成分と、中国の前漢時代、韓国の同時代の成分を比較して見た。
SiO2 Al2O3 CaO MgO K2O Na2O PbO BaO
中国 37% 0.85% 0.48% 0.09% 0.17% 3.17% 40% 16%
韓国 42% 0.50% 1.70% 0.34% 0.08% 4.20% 39% 11%
日本 39% 0.47% 1.21% 0.39% 0.29% 4.51% 40% 12%
日本(弥生中期後半)と韓国(1世紀以前)の鉛バリウムガラスは、中国の前漢時代の鉛バリウムガラスとほぼ同じ組成である。鉛バリウムガラスは戦国時代の中国で生れたが、前漢の時代に韓国と日本にもたらされたと結論付けることが出来る。
前述の4遺跡から出土したガラス製品の鉛同位体比が測定されている。韓国では細形銅剣・多鈕細文鏡・鋳造鉄器・鉛バリウムガラスがセットで出土している。そこで、日本出土の朝鮮系青銅器(細形青銅武器と多鈕細文鏡)の鉛同位体比と、鉛バリウムガラスの同位対比を比較してみた。
「20-4.弥生の故郷は山東半島」で示したように、朝鮮系青銅器はラインD’を形成し、その鉛鉱山は山東半島の香奇鉱山であった。韓国と日本で出土した鉛バリウムガラスのプロットは、全てそのラインD’上にあり、前漢時代には鉛バリウムガラスが山東半島で作られ、韓国と日本に伝来したと考える。吉野ヶ里遺跡のガラス管玉の測定値が、ラインD'
上ではあるが右上離れた位置にある。これは香奇鉱山の鉛鉱石の測定値を増やせば、その間は埋まると考える。図47は韓国の鉛バリウムガラスの出土地である。鉛バリウムガラスが中国北部の遼寧省あたりや北朝鮮にあった楽浪郡からではなく、山東省付近からもたらされたことが理解出来る。
29-6.王権の象徴のガラス璧 [29.ガラスを透して古代を見る]
玉璧とは玉石で出来た直径10~20㎝の円盤で、中央に円形の孔があいている。紀元前2000~3000年の良渚文化で誕生し、西周代まで無文であったが、春秋末から戦国時代に表面に細かなつぶつぶの突起文様が掘られるようになり、前漢時代に最盛期となった。玉璧を穀璧と呼ぶのは、この文様のためである。また、戦国時代時代にはガラスの璧が登場してくる。完全無欠なことを「完璧」と言い、優劣なく優れていることを「双璧」というように、古代の中国では「璧」に特別な価値を認めている。
我が国で玉器の穀璧が出土したのは、大隅半島の宮崎県串間市から出土した1点のみである。外径33.3㎝x孔径6.5㎝x厚さ0.6㎝で、中国で出土するものに比べてもすこぶる大きい硬玉製である。文様帯が三区に分れ、それぞれ異なる繊細な文様があり、まさに「完璧」で国宝となっている。この穀璧が石棺から出土したのは江戸時代の文政元年であり、詳細は分かっていない。私は大隅半島を邪馬台国と敵対した狗奴国と考えており、魏志倭人伝にある狗奴国の男王「卑弥弓呼」が所持し、その子孫の墓に副葬されたと推測している。
ガラス璧の出土は2例、福岡県前原市の三雲南小路遺跡と福岡県春日市の須玖岡本遺跡D地点の弥生中期後半の甕棺墓からである。三雲南小路1号甕棺は江戸時代の文成年間に発見されたもので、儒学者青柳種信により詳細が書き残されている。1号甕棺からは青銅器として前漢鏡35面・銅剣1本・銅矛2本・銅戈1本・金メッキ飾金具8個が、ガラス製品として璧8個・勾玉3個・管玉100個以上が出土している。
ガラス璧は外径8.5㎝x孔径2.1㎝x厚さ0.6㎝であり、風化して白色になっているが本来の色は濃青緑色である。ガラス璧の成分は分析され、鉛が50%(バリウム0.52%)の鉛ガラスであった。三雲南小路1号甕棺墓は正に王墓であり、王権の象徴としてガラス璧が副葬されたのであろう。
須玖岡本遺跡D地点甕棺墓は明治32年に発見され、青銅製品として前漢鏡30面前後、銅剣2本・銅矛5本・銅戈1本、ガラス製品として璧3個以上・勾玉1個・管玉13個が出土している。須玖岡本遺跡D地点甕棺墓は、三雲南小路1号甕棺墓と双璧をなす王墓である。王権の象徴としてガラス璧が3個以上出土しているが、散逸して現存していない。ガラス璧の小さな破片が、出土した前漢鏡片の中から見つかり、緑色を呈したバリウムを含む鉛ガラスであることがわかった。
我が国で玉器の穀璧が出土したのは、大隅半島の宮崎県串間市から出土した1点のみである。外径33.3㎝x孔径6.5㎝x厚さ0.6㎝で、中国で出土するものに比べてもすこぶる大きい硬玉製である。文様帯が三区に分れ、それぞれ異なる繊細な文様があり、まさに「完璧」で国宝となっている。この穀璧が石棺から出土したのは江戸時代の文政元年であり、詳細は分かっていない。私は大隅半島を邪馬台国と敵対した狗奴国と考えており、魏志倭人伝にある狗奴国の男王「卑弥弓呼」が所持し、その子孫の墓に副葬されたと推測している。
ガラス璧の出土は2例、福岡県前原市の三雲南小路遺跡と福岡県春日市の須玖岡本遺跡D地点の弥生中期後半の甕棺墓からである。三雲南小路1号甕棺は江戸時代の文成年間に発見されたもので、儒学者青柳種信により詳細が書き残されている。1号甕棺からは青銅器として前漢鏡35面・銅剣1本・銅矛2本・銅戈1本・金メッキ飾金具8個が、ガラス製品として璧8個・勾玉3個・管玉100個以上が出土している。
ガラス璧は外径8.5㎝x孔径2.1㎝x厚さ0.6㎝であり、風化して白色になっているが本来の色は濃青緑色である。ガラス璧の成分は分析され、鉛が50%(バリウム0.52%)の鉛ガラスであった。三雲南小路1号甕棺墓は正に王墓であり、王権の象徴としてガラス璧が副葬されたのであろう。
須玖岡本遺跡D地点甕棺墓は明治32年に発見され、青銅製品として前漢鏡30面前後、銅剣2本・銅矛5本・銅戈1本、ガラス製品として璧3個以上・勾玉1個・管玉13個が出土している。須玖岡本遺跡D地点甕棺墓は、三雲南小路1号甕棺墓と双璧をなす王墓である。王権の象徴としてガラス璧が3個以上出土しているが、散逸して現存していない。ガラス璧の小さな破片が、出土した前漢鏡片の中から見つかり、緑色を呈したバリウムを含む鉛ガラスであることがわかった。
29-7.ガラス製勾玉は日本で製作 [29.ガラスを透して古代を見る]
29-8.弥生後期の東西ニ大王墓 [29.ガラスを透して古代を見る]
弥生後期のガラス製品が出土した、北九州の遺跡で有名なのは福岡県前原市(現:糸島市)の平原遺跡だ。この地は「魏志倭人伝」に出て来る「伊都国」に比定されている所である。ガラス璧が出土した三雲南小路遺跡を弥生中期の王墓とすれば、平原遺跡は弥生後期の王墓と言える。両者は直線距離で2㎞か離れていない。平原遺跡は昭和40年に農作業中に偶然発見された方形周溝墓で、墳丘は削平されていたが復元されたものは東西13mx南北9.5mx高さ1.8mである。その墳丘の下に約4m四方で深さ約0.5mの墓壙が掘られ、そこに長さ3mx幅0.7mの割竹木棺が置かれていた。
墓壙内と棺内には多量の副葬品が納められており、直系46cmの内行花文鏡4面、方格規矩鏡32面が出土している。平原遺跡出土の鏡は有名だが、青色の勾玉3個、青色の管玉約30個、紺色連玉886個、紺色ガラス小玉約492個のガラス玉もすばらしい。勾玉と管玉は鉛バリウムガラス、連玉はソーダガラス、小玉はカリガラス、一つの遺跡に色々な材質のガラスが存在している。ガラスから見ても、平原遺跡は弥生後期の最大の権力者の遺跡であることが分かる。
墓壙内と棺内には多量の副葬品が納められており、直系46cmの内行花文鏡4面、方格規矩鏡32面が出土している。平原遺跡出土の鏡は有名だが、青色の勾玉3個、青色の管玉約30個、紺色連玉886個、紺色ガラス小玉約492個のガラス玉もすばらしい。勾玉と管玉は鉛バリウムガラス、連玉はソーダガラス、小玉はカリガラス、一つの遺跡に色々な材質のガラスが存在している。ガラスから見ても、平原遺跡は弥生後期の最大の権力者の遺跡であることが分かる。
日本書紀の「神代」では、天照 大神が隠れた天の岩屋の前で榊の枝に八咫鏡・五百箇御統・八坂瓊曲玉を飾り祈祷したと記載している。平原遺跡からは、それらに相当する青銅鏡・ガラス首飾り・ガラス勾玉が出土している。私は「6.実在した神代の世界」で、平原遺跡の方形周溝墓を天照大神の墓に比定している。
弥生時代後期にガラスの新たな中心地となっている丹後地方は、鉄の遺跡が多いことで有名である。この地方では、方形台状墓という独特の弥生墓が築かれ、それらの方形台状墓には多くのガラス製品が副葬されている。京丹後市の三坂神社墳墓群、左坂墳墓群、大山古墳群の台状墓からは総計で勾玉13個、管玉67個、そしてガラス小玉が9.194個出土している。
これらの副葬品はガラス勾玉22個、ガラス管玉57個、碧玉管玉39点、鉄剣1点、ヤリガンナ1点であった。なお、第一埋葬の舟形木棺は未発掘だが、第四埋葬の1.5倍くらいの大きさで、王の埋葬施設と考えられている。赤坂今井墳丘墓は弥生時代の終末期、丹後を支配した王墓と考えられる。はたして、王はどのような副葬品を携えて眠っているのだろうか。
29-9.人工顔料の漢青を分散した青い管玉 [29.ガラスを透して古代を見る]
2001年5月18日奈良文化財研究所は、京都府峰山町の赤坂今井墳丘墓から出土した頭飾りのガラス製管玉に、古代中国の青色顔料「漢青」(ハンブルー)の結晶が混在していたことが分かったと発表している。管玉に混在している漢青の成分はケイ酸銅バリウム(BaCuSi4O10 )で、結晶粒子は50~100ミクロン(1000ミクロンが1ミリ)の大きさだそうだ。ガラス製品に青色顔料の漢青を混和し、ガラスを青色に着色していることを見つけたのは世界で初めてだそうだ。この漢青を分散した管玉は、赤坂今井墳丘墓の他にも、岡山県津山市の有本遺跡と鳥取県湯梨浜町の宮内第1墓から見つかっている。
エジプトには紀元前3000年ころに開発された「エジプトブルー」と呼ばれる人工顔料がある。この化学組成はケイ酸銅カルシウム(CaCuSi4O10)で漢青(ハンブルー)と極めて類似している。このことより、人工顔料やファイアンス、ガラスの製造技術がエジプトから中国に伝わって、鉛バリウムガラスが誕生したとの意見がある。
スイスのチュリヒ大学のBerke氏は、2006年10月に、この問題に関する論文を発表し、中国のハンブルーは中国独自で開発されたものであると結論付けている。そして、孔雀石・石英と毒重石の粉末を混合し、900度に加熱すれば、炭酸ガスと水が抜けだし、ハンブルーが出来る事を示した化学式を提示している。孔雀石は古代の銅の鉱石で、紀元前1300年の中国の殷墟遺跡からも出土している。
Cu2(CO3)(OH)2+8SiO2+2BaCO3 → 2BaCuSi4O10+3CO2+H2O
孔雀石 石英 毒重石 900℃ ハンブルー 炭酸ガス 水
2007年1月、アメリカのスタンフォード大学のLiu氏、Mehta氏等は、中国のハンブルーは中国独自で開発されたものであると、Berke氏と同じ結論を導き、そして、道教の道士が人工の翡翠として、屈折率の高い鉛バリウムガラスを生み出した。この鉛バリウムガラスの製造技術の中からハンブルーが生れたとしている。
私は「27-14.鉛バリウムガラスの通説を斬る」で、「中国の鉛バリウムガラスは、その原料となる鉛鉱石にバリウムが混じっていたために出来た」という通説に対して、「ガラスの屈折率を高めるために、毒重石(BaCO3)を用いた」と結論付けた。毒重石を原料としている漢青(ハンブルー)の存在が、その考えの正しいことを証明してくれた。
エジプトには紀元前3000年ころに開発された「エジプトブルー」と呼ばれる人工顔料がある。この化学組成はケイ酸銅カルシウム(CaCuSi4O10)で漢青(ハンブルー)と極めて類似している。このことより、人工顔料やファイアンス、ガラスの製造技術がエジプトから中国に伝わって、鉛バリウムガラスが誕生したとの意見がある。
スイスのチュリヒ大学のBerke氏は、2006年10月に、この問題に関する論文を発表し、中国のハンブルーは中国独自で開発されたものであると結論付けている。そして、孔雀石・石英と毒重石の粉末を混合し、900度に加熱すれば、炭酸ガスと水が抜けだし、ハンブルーが出来る事を示した化学式を提示している。孔雀石は古代の銅の鉱石で、紀元前1300年の中国の殷墟遺跡からも出土している。
Cu2(CO3)(OH)2+8SiO2+2BaCO3 → 2BaCuSi4O10+3CO2+H2O
孔雀石 石英 毒重石 900℃ ハンブルー 炭酸ガス 水
2007年1月、アメリカのスタンフォード大学のLiu氏、Mehta氏等は、中国のハンブルーは中国独自で開発されたものであると、Berke氏と同じ結論を導き、そして、道教の道士が人工の翡翠として、屈折率の高い鉛バリウムガラスを生み出した。この鉛バリウムガラスの製造技術の中からハンブルーが生れたとしている。
私は「27-14.鉛バリウムガラスの通説を斬る」で、「中国の鉛バリウムガラスは、その原料となる鉛鉱石にバリウムが混じっていたために出来た」という通説に対して、「ガラスの屈折率を高めるために、毒重石(BaCO3)を用いた」と結論付けた。毒重石を原料としている漢青(ハンブルー)の存在が、その考えの正しいことを証明してくれた。
29-10.ガラス釧を副葬した遺跡 [29.ガラスを透して古代を見る]
弥生時代後期になって、ガラス釧(くしろ:腕輪)が登場する。ガラス釧は筑前の二塚遺跡甕棺墓、出雲の西谷2号墓、丹後の比丘尼屋敷墳墓と大風呂南1号墓の4遺跡から出土している。朝鮮半島には原三国以前の出土例はなく、中国ではガラス釧と報告されているのは、湖南省長沙市(前漢)と遼寧省旅順市(時期不明)の二か所のみである。
福岡県前原市の二塚遺跡の弥生[後期]後葉とされる甕棺墓から、ガラス管玉9個、ガラス小玉39個と共に、ガラス釧の破片が22個出土している。これらの破片から2個のガラス釧であることが分かった。1個は外径8㎝x内径6㎝x厚み1.2㎝で、他の1個は一回り小さく、断面形状は両方ともD型をしている。釧は風化がひどく白色化しているが、局所の観察より、透明度の高い緑色をしていたことが分かった。ガラスの成分は、SiO25%:PbO70%の鉛ガラスであった。
島根県出雲市にある西谷2号墓からは、3個のガラス釧が出土している。西谷2号墓は南北36mx東西24mx高さ3.5mの四隅突出墳丘墓で、築造時期は弥生時代[後期]後葉である。3個のガラス釧の大きさは似かよっており、約外径7㎝x内径6㎝x厚み0.8㎝、断面形状はD型である。風化がひどく白色をしているが、元は透明度の高い緑色であったそうだ。成分分析がなされ、SiO39%:PbO60%の鉛ガラスであった。ガラス釧には引き伸ばしたと見られる痕跡と、接合したと見られる痕跡が見られ、坩堝からガラス種を引き伸ばして取り出し、円形の筒に巻き付け、端部を接合する巻き付け技法で製作されたものと考えられている。
京都府京丹後市の比丘尼屋敷墳墓は、以前古墳時代とされていたが、現在弥生時代後期後葉と考えられている。この墳墓から出土したガラス釧は、外径7.2㎝x内径6㎝x厚み1㎝、断面形状はD型で、風化が激しいが透明度の高い緑色であったと考えられている。成分は分析されていないが、接合部の痕跡が見られ、巻き付け技法で製作されたものと考えられている。
京都府与謝野町の大風呂南1号墓は、天の橋立の内海の阿蘇海を見下ろす丘陵にある、弥生時代[後期]後葉の大型台状墓である。この第1主体の船底状の木棺から、鉄剣11振り・銅釧13個、緑色凝灰岩の管玉272個、ガラス管玉10個等と共に、ガラス釧1個が出土した。ガラス釧の大きさは、外径9.7㎝x内径5.8㎝x厚み1.8㎝、断面形状は五角型で、透明度の高い青色(コバルトブルー)である。接続痕がないことから、両面鋳型で鋳造されたと考えられている。成分分析の結果、マグネシア(MgO)の少ない、カリガラス(SiO2 83%:K2O 13%:Al2O3 3%)である。
ガラス釧を出土した4遺跡とも弥生時代[後期]後葉に比定されている。弥生[後期]と[ ]を付けた場合は、弥生終末期を想定した区分であり、弥生[後期]後葉がいつ頃かというと、倭国王帥升が後漢に朝貢した107年から、卑弥呼が共立された188年の間の2世紀にあたる。卑弥呼が共立される直前の時代に、この時代のガラス製品の頂点であるガラス釧が、筑紫・出雲・丹後から出土しているのは、その地に大きな権力があったことを示しており、邪馬台国とどう関わりがあるのか興味を引くところであるである。
福岡県前原市の二塚遺跡の弥生[後期]後葉とされる甕棺墓から、ガラス管玉9個、ガラス小玉39個と共に、ガラス釧の破片が22個出土している。これらの破片から2個のガラス釧であることが分かった。1個は外径8㎝x内径6㎝x厚み1.2㎝で、他の1個は一回り小さく、断面形状は両方ともD型をしている。釧は風化がひどく白色化しているが、局所の観察より、透明度の高い緑色をしていたことが分かった。ガラスの成分は、SiO25%:PbO70%の鉛ガラスであった。
島根県出雲市にある西谷2号墓からは、3個のガラス釧が出土している。西谷2号墓は南北36mx東西24mx高さ3.5mの四隅突出墳丘墓で、築造時期は弥生時代[後期]後葉である。3個のガラス釧の大きさは似かよっており、約外径7㎝x内径6㎝x厚み0.8㎝、断面形状はD型である。風化がひどく白色をしているが、元は透明度の高い緑色であったそうだ。成分分析がなされ、SiO39%:PbO60%の鉛ガラスであった。ガラス釧には引き伸ばしたと見られる痕跡と、接合したと見られる痕跡が見られ、坩堝からガラス種を引き伸ばして取り出し、円形の筒に巻き付け、端部を接合する巻き付け技法で製作されたものと考えられている。
京都府京丹後市の比丘尼屋敷墳墓は、以前古墳時代とされていたが、現在弥生時代後期後葉と考えられている。この墳墓から出土したガラス釧は、外径7.2㎝x内径6㎝x厚み1㎝、断面形状はD型で、風化が激しいが透明度の高い緑色であったと考えられている。成分は分析されていないが、接合部の痕跡が見られ、巻き付け技法で製作されたものと考えられている。
京都府与謝野町の大風呂南1号墓は、天の橋立の内海の阿蘇海を見下ろす丘陵にある、弥生時代[後期]後葉の大型台状墓である。この第1主体の船底状の木棺から、鉄剣11振り・銅釧13個、緑色凝灰岩の管玉272個、ガラス管玉10個等と共に、ガラス釧1個が出土した。ガラス釧の大きさは、外径9.7㎝x内径5.8㎝x厚み1.8㎝、断面形状は五角型で、透明度の高い青色(コバルトブルー)である。接続痕がないことから、両面鋳型で鋳造されたと考えられている。成分分析の結果、マグネシア(MgO)の少ない、カリガラス(SiO2 83%:K2O 13%:Al2O3 3%)である。
ガラス釧を出土した4遺跡とも弥生時代[後期]後葉に比定されている。弥生[後期]と[ ]を付けた場合は、弥生終末期を想定した区分であり、弥生[後期]後葉がいつ頃かというと、倭国王帥升が後漢に朝貢した107年から、卑弥呼が共立された188年の間の2世紀にあたる。卑弥呼が共立される直前の時代に、この時代のガラス製品の頂点であるガラス釧が、筑紫・出雲・丹後から出土しているのは、その地に大きな権力があったことを示しており、邪馬台国とどう関わりがあるのか興味を引くところであるである。
29-11.弥生後期のガラス玉の分布 [29.ガラスを透して古代を見る]
弥生後期に入るとガラス小玉が爆発的に増加し、関東以西の日本各地に分布している。弥生後期のガラス玉(勾玉・管玉・小玉)のうち、数量でみると99%がガラス小玉である。1994年発行の「弥生ガラス」藤田等によると、出土したガラス小玉の総数は48,278個で、その内の96%が埋葬に伴うものであるそうだ。権力の象徴として埋葬に際しガラス小玉を副葬したのであろう。
ガラス小玉が最も多く出土したのが、長崎県(大半が対馬)で15,324個、その内の8,236個が対馬の塔ノ首3
号石棺内の小壺に収められていた。次に多いのが佐賀県の14,604個、大和町の惣座遺跡の土壙墓から3個の銀製の指輪と共に、径0.2~0.6mmのガラス小玉6,974個が出土した。吉野ヶ里遺跡近くの二塚山遺跡の土壙墓から、径1.2~9.2mmのガラス小玉が3,573個、頭・首・胸・両手首の位置から出土している。3番目が京都府(大
半が丹後半島)で10,003個、京丹後市の左坂古墳群からは6,145個出土している。そして、4番目に福岡県の4,072個となる。この4県が抜きんでて多い。
弥生後期のガラス玉(勾玉・管玉・小玉)の県別出土数を図G71に示す。北部九州と京都(北部)に二大中心があるが、関東の千葉に一つの中心が生れている感じがする。これらを見ていて、それが同時代の鉄器の分布に似ていることに気付いた。そこで、「王権誕生」寺澤薫の「県別に見た鉄器の出土数」の弥生[後期](1世紀後半から2世紀)の値をもとにして図G72を作成した。鉄器とは工具(鉄斧・ヤリガンナ・刀子・鑿)と武器(鉄鏃・鉄剣)である。近年淡路島に弥生時代(後期)の鍛冶工房跡の「垣内遺跡」が発見されており、兵庫県の数字はもう少し増えているであろう。鉄は北部九州と瀬戸内の岡山がニ大中心である。
一番驚くことは、ガラス玉においも、鉄器においても、奈良県(大和)が極めて少ないことだ。これらガラス玉や鉄器が分布した弥生時代[後期]は、倭の奴国王が後漢より金印を授かってから、卑弥呼が女王に共立されるまでの間である。邪馬台国近畿説の論者は、鉄器は錆たり腐食して無くなるから、大和に鉄器が見つからないだけだというが、ガラス玉は風化するが無くなることは少ない。鉄器はガラス玉と同じような分布をしていることからして、卑弥呼が女王に共立される前の時代、大和の地に鉄器はなかったと考えられる。邪馬台国近畿説を唱える人は、鉄器の武器を持たない邪馬台国の女王、卑弥呼がどのようにして、伊都国や奴国を従属させたと考えているのであろうか。卑弥呼の鬼道(呪術)は、大和から北部九州までの人々を幻惑する程の力があったのであろうか。
私は卑弥呼の時代、邪馬台国は日向にあったと考えている。日向の邪馬台国も鉄器の少ない、鉄器の武器を持たない国である。強国でないがゆえに、卑弥呼が女王に共立された。そして、邪馬台国は勢力の拡大を計るため、連合国以外で戦力の乏しい大和に攻め込んだと考える。伊都国や奴国は邪馬台国の宗家に当たる国であり、卑弥呼の時代には邪馬台国に従属したが、卑弥呼亡き後、これ以上邪馬台国が強国に成っては困ると考え、男王が立つのを認めなかった。邪馬台国は宇陀の「朱」を手中に入れ、それを中国の魏に献上して鏡を手に入れ、鏡を配布することで国を統一し、大和政権となったと考えている。ガラスを透して見えた邪馬台国も、やはり同じ結論である。
ガラス小玉が最も多く出土したのが、長崎県(大半が対馬)で15,324個、その内の8,236個が対馬の塔ノ首3
号石棺内の小壺に収められていた。次に多いのが佐賀県の14,604個、大和町の惣座遺跡の土壙墓から3個の銀製の指輪と共に、径0.2~0.6mmのガラス小玉6,974個が出土した。吉野ヶ里遺跡近くの二塚山遺跡の土壙墓から、径1.2~9.2mmのガラス小玉が3,573個、頭・首・胸・両手首の位置から出土している。3番目が京都府(大
半が丹後半島)で10,003個、京丹後市の左坂古墳群からは6,145個出土している。そして、4番目に福岡県の4,072個となる。この4県が抜きんでて多い。
弥生後期のガラス玉(勾玉・管玉・小玉)の県別出土数を図G71に示す。北部九州と京都(北部)に二大中心があるが、関東の千葉に一つの中心が生れている感じがする。これらを見ていて、それが同時代の鉄器の分布に似ていることに気付いた。そこで、「王権誕生」寺澤薫の「県別に見た鉄器の出土数」の弥生[後期](1世紀後半から2世紀)の値をもとにして図G72を作成した。鉄器とは工具(鉄斧・ヤリガンナ・刀子・鑿)と武器(鉄鏃・鉄剣)である。近年淡路島に弥生時代(後期)の鍛冶工房跡の「垣内遺跡」が発見されており、兵庫県の数字はもう少し増えているであろう。鉄は北部九州と瀬戸内の岡山がニ大中心である。
一番驚くことは、ガラス玉においも、鉄器においても、奈良県(大和)が極めて少ないことだ。これらガラス玉や鉄器が分布した弥生時代[後期]は、倭の奴国王が後漢より金印を授かってから、卑弥呼が女王に共立されるまでの間である。邪馬台国近畿説の論者は、鉄器は錆たり腐食して無くなるから、大和に鉄器が見つからないだけだというが、ガラス玉は風化するが無くなることは少ない。鉄器はガラス玉と同じような分布をしていることからして、卑弥呼が女王に共立される前の時代、大和の地に鉄器はなかったと考えられる。邪馬台国近畿説を唱える人は、鉄器の武器を持たない邪馬台国の女王、卑弥呼がどのようにして、伊都国や奴国を従属させたと考えているのであろうか。卑弥呼の鬼道(呪術)は、大和から北部九州までの人々を幻惑する程の力があったのであろうか。
私は卑弥呼の時代、邪馬台国は日向にあったと考えている。日向の邪馬台国も鉄器の少ない、鉄器の武器を持たない国である。強国でないがゆえに、卑弥呼が女王に共立された。そして、邪馬台国は勢力の拡大を計るため、連合国以外で戦力の乏しい大和に攻め込んだと考える。伊都国や奴国は邪馬台国の宗家に当たる国であり、卑弥呼の時代には邪馬台国に従属したが、卑弥呼亡き後、これ以上邪馬台国が強国に成っては困ると考え、男王が立つのを認めなかった。邪馬台国は宇陀の「朱」を手中に入れ、それを中国の魏に献上して鏡を手に入れ、鏡を配布することで国を統一し、大和政権となったと考えている。ガラスを透して見えた邪馬台国も、やはり同じ結論である。